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小説 桜ノ宮 ㉕

修はフロントで書類整理をしながら、紗雪を待っていた。
最初に届いたメールを見た時には度肝を抜かれた。
―私、芦田さんとホテルに行くから。-
読むなり修の顔が真っ赤になったのは言うまでもない。
嫉妬はもちろん、この間自分と関係を持ったばかりだというのに相手がほかにいるのか、しかもこのホテルへ一緒に来るのかと、紗雪の神経を疑った。
―あ、今、変なこと書いたかも。誤解せんといて。これには事情があってやな。-
それに続く内容を読んで、修は少しずつ溜飲を下げた。
熱くなった頬もゆっくりと冷めていく。
そもそも付き合っているわけでもないのに激しく嫉妬にかられてしまった自分に気づきひどく恥じた。

今、ホテルに客はほとんど来ない。
時折、日帰りプランで部屋をネット予約した中年の男がふらりとやってくる。
鍵をフロントで受け取ると、そのまま部屋へ行く。
しばらくしてからデリヘル嬢と思われる女性がフロントを素通りしてエレベーターへと消える。
コロナウイルスが蔓延して、人と人との距離を取れ、ソーシャルディスタンスだと政府やマスコミが訴えても、命をかけた性欲の需要と供給という経済活動は無くならない。
今回の騒ぎによって、差別やヒステリーが列島を跋扈したことからわかるように、日本人しかりこの国に住む人間というのは、大昔から何も変わっていないのだ。
みんな気づかぬうちに性根を露わにしてしまう。
何が恥の文化だ。
紗雪のやけくそに付き合うふりをして、心の奥底に滾っていた恋情を解き放った自分は、ホテルを訪れる客を憐憫するには値しないと修は自戒していた。

そもそも紗雪は何に対してやけくそになっていたのだろうか。
本当はやけくそになんかなっていなかったのではないか。
昔のモンタージュ写真のようにあの日見た紗雪の淫らな顔が瞼の奥で切り替わる。

「お待たせ!」
自動ドアが開き、紗雪が入ってきた。
「一人?」
「いや、芦田さんも来るよ」
しばらくしてから、広季が現れた。
「あのタクシーぼったくりやで。高かったわ」
広季は鼻息荒く肩を怒らせた。
「こんな時期やから、お客さん少ないんでしょう。私らもスマホばかり見てたから知らん間に遠回りされてたんかもしれへん」
紗雪に諭されても、広季は首を傾げ納得がいかないようだった。
「もうええから、芦田さん、はよ手続きして」
広季は紗雪に背中を押されてフロントへ行った。
宿泊者登録の用紙に必要事項を書き、修を見上げた。
「警察官なんですってね」
修は息を飲んだ。
「紗雪ちゃん、何で言うの」
「ごめん。そのほうが芦田さんも安心するかと思ったから」
「もう」
ため息交じりに用紙を回収し、部屋の鍵を広季に渡した。
「潜入捜査中なんです。僕が警察であることは、奥様はもちろん誰にも言わないでください」
「わかりました」
鍵を受けとると広季はうなずいた。
「芦田さん、打ち合わせしましょう」
紗雪は広季を手招きし、殺風景なティールームへと向かった。
「ちょっと場所借りるでー」
「うん。誰もおらへんからええよ」
ティールームは緊急事態宣言が出てから営業をしていない。
ティールームだけではない。二つあるレストランも閉まっている。
ホテルブルームは現在、素泊まりだけの営業だ。
限られた職員と清掃員だけで回っている。
紗雪と広季の後ろ姿を見送ってから、修はそろえた書類の内容をパソコンに打ち込んでいった。

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