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小説 桜ノ宮 ㉒

紗雪はおもむろにマスクを下げ、意を決して紫色の飲み物を口に入れた。
甘くてやたら舌や歯にまとわりついた。
紗雪の推理が確かならば、この飲み物は、かき氷のブルーハワイといちごのシロップを掛け合わせたものではないだろうか。
コップを盆に戻すと、マスクの位置を上げた。
これをどうしてお茶と思えるのだろう。
教祖がお茶だといえば、それはお茶だということなのだろうか。
お茶への疑問はまだあったが、紗雪はひとまず、美里のことを考えた。
「美里さん、よくお話ししてくださいました」
そう言っただけで、美里は涙ぐんだ。
そのまなざしは、目の前にいる紗雪にしがみついているようだった。
見た目はよくいる中年女性だが、中身は少女の頃と何も変わっていないのだろう。
裕福な家庭で大事に育てられ、学校ではしっかり者の友達に守ってもらい、結婚したら夫の庇護のもとで何も考えずに生きてきた。
自己というものを考えず、向き合うことさえせずに生きてきたのだ。
いや、必要がなかったのだ。
「私はね、もう禊は終わったと思いますよ」
「え?」
美里の目に光が差し込んだ。
「お友達の真美さんが何か言うかもしれませんけど、あなたはがんばられました。もう、自由になっていいんです」
「そうなんですか?」
「ただし、ひとつだけ条件があります」
「はい」
紗雪は正座を整えた。
「あなた自身、どうやって生きていきたいですか」
美里の表情は途端に暗くなった。
紗雪の予想した通りだった。
自分のことを自分で決められないし、すでに壊れているのだ。
それをもう一度確かめたくて、聞いてみたのだった。
「何も考えておられませんか」
「はい。私、自分に自信がなくて。また、失敗するのが怖いんです」
「美里さん、あなた、失敗なんかしていませんよ」
「でも、結婚に失敗してしもたんです」
「それを決めたのは、真美さんであってあなたではないでしょ」
美里は押し黙ってしまった。
紗雪はだんだん苛立ってきた。
広季が浮気したとかしないとかはどうでもいい。
美里と話せば話すほど、会ったこともない真美という人間の陰湿さに腹が立ってくるのだ。

双子のように成長した親友に結婚されて、寂しかったのだろう。
頼りない親友が不安定になって自分を頼ってきたのが嬉しかったのだろう。
友情を取り戻して嬉しい反面、自分を裏切った親友に罰を受けさせたかったのだろう。
自分が孤独をうめるために入った宗教で、心身ともに壊されたあのやり方で。

「わかりました。美里さん。それでは、あなたをこの教義から離れさせるわけにはまだいきません」
美里の顔から絶望の色が見えた。
「そうですね。今から1時間後に、いつも利用しているホテルのロビーで待ち合わせしましょう。あなたの未来について話してくれる人を紹介します。いいですね。絶対来てください。真美さんに連絡したら、あなたはさらなる地獄を味わいますよ」
そう言い残すと、紗雪は立ち上がり、部屋を出ていった。

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