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小説 桜ノ宮 ㉔

タクシーは5分もしない間にやってきた。
スマホをいじっていた紗雪を先に乗せ、広季はあとに続いた。
「桜ノ宮のホテルブルームまで」
「はい」
金髪をひっつめにした初老の女性運転手は、紗雪の注文に甲高い声で答えた。
少し無邪気で幼女のような明るい声だった。
車は静かに動き出した。
「お客さん、ちょっと寒いかもしれませんけど、コロナ対策でちょっと窓開けさしてもらってますんで」
広季は車内の窓を一つ一つ見た。
どれも1センチくらい開いていた。
紗雪は黙ってスマホをいじっている。
「大丈夫ですよ」
「ありがとうございますー」
広季が返事をすると、その語尾に重ねて運転手は礼を言い、最後にヒヒッと笑った。
ポケットに入れていたスマホが振動するので取り出してみると、紗雪からメールが来ていた。

―あまり時間がないので、手短に書いておきます。奥様は売春も不倫もしていません。
 真美さんに肉体および精神的に搾取され、復讐をされています。―

広季は、紗雪から次々に送られてくるメールに目を通し驚愕した。そのたびに、紗雪の顔を見たが、何の反応も見えなかった。

―奥様を救えるのは、芦田さんだけです。そこで私が考えたお芝居があるのでそれを試してほしいんです。私はもちろん友人であり警察官でもある、この間芦田さんが私へのメモを託したあのホテルマンも協力します。ー

あのホテルマンは警察官だったのか。どおりで体格がいいわけだ。
そのまま読み進め、自分が打つ芝居の一部始終を頭に染みこませた。
演技をした経験はないが、元・営業マンだったので小芝居程度なら打てるはずだ。
おおまかなロールプレイを頭の中で組み立ててみる。

「ますますえらいことになったな」
紗雪と広季の間に突如スリムが現れた。
広季はスリムをにらんだ。
「ま、がんばって。俳優さん」
それだけ言うと、スリムは姿を消した。
「お客さん、着きましたよー」
運転手の声が朗らかに響いた。
「ありがとうございましたー。お金はこの人が払いますんで」
広季を一瞥することもなく、紗雪は車を降りた。

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