小説 桜ノ宮 ㉘

紗雪は広季が滞在する部屋に美里を無事送り届けると、ゆっくりと廊下を歩きだした。
鼓動がいまさらになって早くなる。右耳の後ろから汗が流れた。
エレベーターを待っている間に肩を上下させて体をほぐすことを意識する。
間で大きく深呼吸をしてみた。
肩甲骨をぐるぐると回したあと、広季と美里のいる部屋を遠目に伺う。
ドアは閉じられたまま。
何の異変も感じられなかった。
エレベーターが到着し、ドアが開く。
なだれ込むようにエレベーターへ入った。
ホテルから少し距離があったが、高層階だったため造幣局の桜を見下ろせた。
毎年たくさんの人が桜の花びらを浴びながら歩くあの道には、今、人は歩いているのだろうか。
遠くから見れば、すべては例年通りの春に見える。
地上が近づくことを感じ、紗雪は風景に背を向けた。
エレベーターが1階に着きドアが開くとすぐにフロントへと向かった。
修はフロントのカウンターに飾られている白いバラの花びらを触っていた。
「あ、お帰り」
紗雪は修の顔を見た途端に、緊張から解き放たれた。
「あー、疲れた」
カウンターに肘をついて、両手を修のほうに向けひらひらと手指を動かした。
「お疲れさん」
「無事、部屋に送り届けたわ」
「そう」
「私、芦田さんから連絡あるまでここで待たなあかんのよ。おっていい?」
伸ばした腕を枕にして、修を見上げる。
「ええけど」
「ありがとう。なんやったら仕事手伝うで」
「この通り、暇やからやることないよ」
「そうなん。あ、お昼ご飯買ってこようか」
紗雪はフロントの壁にかかっている時計を見ながら言った。
午前11時45分をすぎたところだった。
「そら、頼めるんやったら」
「何がいい?」
「そうやなあ。ホテル出て右側のほうにある定食屋が最近テイクアウトで日替わり弁当売ってるから、そこで買ってきて」
「わかった」
「紗雪ちゃんのぶんもこうてきて。俺がおごるから」
「わーい。ほな行ってくるわ」
紗雪は、足取り軽くホテルを出た。
言われた通りに道を歩き、定食屋へと出向いた。
最近は、コロナのせいで営業に規制がかかっており、テイクアウトを商売の手段にする飲食店が増えた。
中で食べられないので不自由さを感じるが、入ったことのない店の料理を手軽にテイクアウトで楽しめるという利点もあるので、紗雪もよく利用していた。
定食屋で日替わり弁当を二つ買ってホテルへ戻ると、修がティールームでペットボトルのお茶を並べていた。
「ただいまー」
弁当の入った袋を持ち上げてみせると、修は微笑んで出迎えてくれた。
「お疲れさん。なんぼやった?」
「ふたつで千円」
紗雪はレシートを差し出し、修は財布から千円を抜き取った。
お互い受け取るものを収めると、それぞれ袋から弁当を取り出した。
「いただきます」
二人は食事を始めた。
「こんなところで食べて大丈夫なん?」
「ここからやったら、フロントも自動ドアも見えるから」
紗雪は振り返って見まわした。
「ふーん。なるほどね」
首を前に戻すと、修が真剣な眼差しで見つめていた。
「なあ。この間、なにが『やけくそ』やったん?」
そう言うと、修はハンバーグを口に放り込んだ。
「やけくそ?」
「この間、自分の家に行った時、そう言うて誘ってきたやんか」
修は拗ねた子供のようにぶつぶつと言った。
「あーあーあ。あれな。芦田さんの奥さんの気持ちがわからんかったから。そういうことを彼氏とか夫とかいう定義のない相手とするってどんな精神状態なんやろって思って、知りたくなったんよ」
「仕事の為?」
「予定していた仕事がコロナのせいで無くなったり、両親のことで悩んだりして『やけくそ』になっていたところもある。ごめんな」
修はすぐに返答しなかった。
「紗雪ちゃんてそんな人やったっけ」
少し寂しそうに修は言った。
紗雪は胸が苦しくなった。
目に映るのは、遠い記憶にあるひどく傷ついた時に修が見せる表情。
「昔の私はそうでは無かったよね。ごめん。気にせんと、はよ食べて」
出来るだけ歯切れよく話した。

これ以上この話をしてはいけないと紗雪は思った。
話題を変えようと思ったが、何も出てこず、二人は黙々と弁当を食べた。
バッグのなかのスマホが震える。
手に取ってみると、広季からメールが届いていた。

―お疲れ様です。今日はもう帰っていいです。明日のことは、改めてメールします。芦田―

「修君。私、今日の仕事終わったみたい。お弁当食べたら帰るわ」
「あ、うん」
二人は再び下を向いて弁当を食べ始めた。

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