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小説 桜ノ宮 ㉛ 終

夕方が近づいて風が強くなってきた。
横なぐりの桜吹雪を春子は空虚な気持ちで眺めていた。
ふいに、肩回りが温かく感じられた。
背後に誰かがいる。
そう思った途端に後ろから抱きしめられた。
「春子さん。何考えてるの」
「“願わくは 花の下にて 春死なん”」
「西行だね」
腕の中にいながら、春子は振り返った。
スリムは春子の前髪を整えた。
「春子さん、僕と行こうか。おなかの赤ちゃんと幸せに暮らせるところへ。今度こそ」
 春子の目は揺れ動き、大粒の涙がシワを辿りながら落ちていった。
「広季さん。あなたがそう言ってくれることを、私、ずっと待っていたのよ」
春子はスリムの胸に頬を寄せた。
スリムは春子を強く抱いて、大きく息をついた。
掃除の行き届いた窓には、春子の姿だけが映っている。
「この世はもう、春子さんには危なすぎる。君を安全なところへ連れ去りたい」
「嬉しい」
「思い残すことは、無いね」
「まったく」
窓の外に吹き荒れていた桜吹雪はいつの間にか止んでいた。
空には暗い雲が忍び、夕暮れを抱きこもうとしている。
窓にはもう、何も映っていなかった。


紗雪は、初めての探偵稼業を終えて一週間ほど、ほとんど自宅のベッドで泥のように眠ったりだらけたりしていた。
その日も昼過ぎまでぐうたらとベッドで横になっていたら、枕元に置いていたスマホが光った。
母からの電話だった。
ため息をつき、覚悟を決める。
「あんた、ぜんっぜん、電話してきいひんな!」
開口一番に怒鳴りつけられた。
「こっちもいろいろ忙しかってん」
「何が忙しいや、世の中全体止まってんねんから忙しいはずないやろ」
早口でまくしたてるあたり、コロナにもかからずすこぶる元気なようだ。
「だったら、お母さんが電話してきたらええねん」
「嫌や」
「こっちも嫌や」
「あ、それはええけど、この間、ひとり、施設の中で女の人が死んでん」
自分の都合で話題をまったく違う方向へ変えるのも相変わらずだった。
「へー」
「上品できれいな人なんやけどな。病気も何もないのに突然」
「でも、それだったら楽に死ねたかもな」
「何やその人ボケとって、もうおばあさんやのに自分が妊娠してるって思ってたんやて」
そう言ったあと、母は下卑た笑い方をした。
「へえ。そんな人おんねんな。まあ、続きはまた施設行った時に聞くわ」
「何で」
「だって、お母さんの携帯の無料通話時間って5分やもん」
本当は10分だった。
「いや、ほなもう切るわ」
「はーい」
ほんの数分話しただけなのに、どっと疲れた。
手にしたままのスマホの画面から銀行のアプリを操作する。
「アシダ ヒロキ」から30万円が振り込まれていた。
紗雪は起き上がり、急いで修に電話した。
「もしもし修君、今、大丈夫?」
「大丈夫やけど」
「なあ、焼肉行かへん?探偵やった給料入ったんよ!」
「おごってくれるん?」
「当たり前やん」
「ほな、仕事終わったら連絡するわ」
「わかった。店予約しておくわ」
電話を切ると、紗雪は思いっきり両手を伸ばした。
リビングへ行きテレビをつける。
緊急事態宣言が明日解除されるのではないかと、若い女性アナウンサーが伝えていた。

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