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うしなわれたホームを求めて。

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家とはなにか、家族とはなにか、ホームとはなにかについて考えるマガジンです。
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記事一覧

弱い自分を抱きしめるように、強い自分も抱きしめたい。

弱い自分を抱きしめるように、強い自分も抱きしめたい。

弱い自分を抱きしめてあげよう、みたいな言葉をよく耳にする。

たしかに、「自分なんて…」って思っちゃうのはくるしい。弱い自分は、もう抱きしめてなでなでしてハーゲンダッツをおごってねぎらってあげるくらいの気持ちでいる。

だけど、今日ふと思った。弱い自分を抱きしめるあまり、強い自分を抱きしめられてないんじゃいのか?と。

もうちょっとひらたくいえば、弱さをうけとめて、それを誰かに伝えることは積極的に

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「自分らしさ」なんて、自分のなかにはなかった。

「自分らしさ」なんて、自分のなかにはなかった。

他人の目をきにせず、自分らしく。

なんていう言葉をまにうけて、「よし、自分らしく生きるなら他人との関係を断てばいいのだ!」と思ってずっと一人でいると、むしろ自分がなんなのかわからなくなる。

っていうことを、32年の人生で1000回くらい経験してる。いやもっとか。

つくづく、「自分らしさ」って逃げ水みたいなものだ。追いかけてみると、消えてしまう。

そんな「自分らしさ」について、哲学者の鷲田清

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コロナの反動で「会う」が飽和することの、楽しみと不安。

コロナの反動で「会う」が飽和することの、楽しみと不安。

ちょっと気がはやいけど、コロナ禍がおちついて、気兼ねなく人と会うことができるようになったときを想像してみる。すると、「飲みいける!」「旅行に行ける!」ということが楽しみな反面、ちょっと不安もわいてくる。

それはいまの自粛の反動で、「会う」が飽和すること。端的に言えば、飲み会とかイベントとかの誘いがブワーと増えること。それをなんとなくホイホイカレンダーに入れてしまって、気づいたら疲れてしまっている

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他者と会わないと気持ちが落ち込む…とわかっちゃいるけど会いたくない、というジレンマ。

他者と会わないと気持ちが落ち込む…とわかっちゃいるけど会いたくない、というジレンマ。

このところ気持ちがへたって、乾燥機のなかでよれよれになったシャツみたいになってる。

五月病、といってしまえばそれまでなのだけど、今回の「へたり」はたんに気候のせいじゃない気がしてる。コロナ禍で他人と会うことが減ったことが、大きい要因としてありそうなのだ。

精神科医の斎藤環さんが、以前「一人では自分の欲望を維持することができない」と書いていた。

“他者との出会いがないままで過ごしていると、しだ

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「わたあめ的な関係性」と、「布的な関係性」。

「わたあめ的な関係性」と、「布的な関係性」。

よくみかけるけど、なんかひっかかる言葉ってある。僕の場合、そのひとつが「人を巻き込む」っていう言葉。「巻き込み力」みたいなビジネス本を見つけると、肩がきゅっ、ってなるのを感じる。もともと肩こり持ちなのである。

先日、高円寺の銭湯「小杉湯」の平松さんが、こんなツイートをしていた、

「人を巻き込む」ではなく、「関係性を編む」という言葉が、いい。肩こりがじんわりほぐれていくような感じがする。

「人

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「関心の宛先になる」ことが、誰かの孤独をいやす、ということ。

「関心の宛先になる」ことが、誰かの孤独をいやす、ということ。

キャリアコンサルタントの国家資格をとるとき、労働法規やらカウンセリングの技法やらをたくさん勉強する。そのなかでも一番「学んでよかった!」と思っていることが「相手に好意的関心を持つこと」、だったりする。

資格の勉強では実技がある。先生や他の生徒の前で、10分とか15分とか、模擬カウンセリングをおこなうのだ。当然だけど、緊張して問いかけが出てこない。僕だけでなく多くの生徒がそうだった。

どうしたら

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「他者のまなざし」は地獄にもなり、救いにもなる。映画『朝が来る』を観てかんがえたこと。

「他者のまなざし」は地獄にもなり、救いにもなる。映画『朝が来る』を観てかんがえたこと。

ここのところ「帰る場所とはなにか」ってことを考えていたのだけど、僕にとってその問いは、言いかえれば「他者とともに生きるとはどういうことか」っていうものになる、と気づいた。

「問い」はいい出会いをひきよせる。この前の日曜日に何気なくみた河瀬直美監督の映画『朝が来る』が、「他者とともに生きるとは」ということを考えるうえで、すこぶる刺さる作品だったのだ。

ちなみに『朝が来る』は、こんな映画です。

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孤独でなくなる1分をもとめて文章を書く。

孤独でなくなる1分をもとめて文章を書く。

自分が書いたブログのリストを眺めていて、気づいた。僕はずっと「他者とどうしたらつながれるか」を考えてるんだな。

「コミュ障み」を抱えたまま、じたばたもがきながら、そこから見える景色を書いてる。その「コミュ障み」は距離が遠い人からしたらわかりやすいものじゃないから、「えー、ぜんぜんそんなことないじゃん!」と言われやすい。

でもそれは、映画『シザーハンズ』みたいに、ある程度の距離をとっていたらいい

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家族とも親友ともパートナーともわかりあえない、という希望。

家族とも親友ともパートナーともわかりあえない、という希望。

現代ではネットでは気の合う人とだけ接することがきるし、特に今はコロナ禍で自分と異なる存在と出会うことも減ったから、余計に「他者」が不在になる。

と、前のnoteで書いた。「南極観測隊として南極に2年間住んでいて、今は小学校の用務員をやっているおじさん」みたいな「他者」とは、なかなか出会えないよなーって話。

そしてそういう、価値観も生きてきた背景も支持政党も応援してる球団も唐揚げにレモンを絞るか

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「傷つくよ」と指摘されることより、指摘してくれる誰かがいないことがこわい。

「傷つくよ」と指摘されることより、指摘してくれる誰かがいないことがこわい。

自分が持ってる「無意識の加害性」がこわい。

僕も加害者になりうる。というどころか、すでに加害者なのだと思う。加害者というのがおおげさなら、すでに誰かを傷つけている。「虫もころしたことないんです」と言う人だって、気づかないうちに蟻をふみつぶしてるわけだし。かならず、どこかで。

学生時代にイベントで飲食店のブースを出店したとき、一緒にお店に立っていた女の子が、お店が混んでいるにもかかわらず何度もお

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編集者として、「バズ」ではなく「ケア」の感受性を持つこと。

編集者として、「バズ」ではなく「ケア」の感受性を持つこと。

「耳を傾けたいのは「メディアからは消されてしまう声」であるし、ロードサイドから聞こえてくる声である」

なんてことをこの前書いた。

それは編集者として、情報の伝え手としての態度のことをさしていたけれど、都市開発やまちづくりの文脈でも「聞こえない声に耳を傾ける」という実践があるらしい。

そのことを知ったのは、この記事を通して。

記事では、「Community of Care(気遣いあうコミュニ

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「写ルンですを渡すので、あなたにとっての“ホーム”を写真に撮ってください」

「写ルンですを渡すので、あなたにとっての“ホーム”を写真に撮ってください」

ちょっと聞いてくださいよ。今たくらんでることがありまして。

何度かnoteで書いてるように、僕が探究してるのが「ホーム(帰る場所)とはなにか」ということだ。

なので、会う人に「あなたにとってのホームは?」なんて聞いてみたりしてる。

あるとき、友人の三好大助くん(だいちゃん)とそんな話をしていたら、あるたくらみが生まれた。それは、「写ルンですを渡して、『あなたにとっての“ホーム”を写真に撮って

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老人ホームは、民俗学的な「語りの森」らしい。-『驚きの介護民俗学』六車由実-

老人ホーム。

中学生のときに職場体験で行ったとき、おそらく認知症でコミュニケーションもままならないおじいちゃんおばあちゃんたちがいて、どう接していいか戸惑った記憶がある。

それ以来、老人ホームには行けてない。それどころか、なんとなくあまり行きたくない(というか、行ってもどうしていいかわからない)という気持ちがあるのだった。

さいきん、『驚きの介護民俗学』を読んだ。

大学をやめ、老人ホームで

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「自分を満たすために、誰かを助けたい」という、メサイアコンプレックスの落とし穴

「自分を満たすために、誰かを助けたい」という、メサイアコンプレックスの落とし穴

「自分が人生に悩んだ経験があるから、同じように苦しむ人の力になりたい」

キャリアコンサルタントの資格取得のための講座で、そう口にした僕に対して、講師の先生は「メサイアコンプレックスにならないようにね」と釘をさした。

メサイアコンプレックス? 

そのときはあまりピンと来なかったのだけど、後で調べてみたら、こういうことのようだ。

「メサイアコンプレックス」ーーメサイアは「メシア(救世主)」のこ

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