「自分らしさ」なんて、自分のなかにはなかった。
他人の目をきにせず、自分らしく。
なんていう言葉をまにうけて、「よし、自分らしく生きるなら他人との関係を断てばいいのだ!」と思ってずっと一人でいると、むしろ自分がなんなのかわからなくなる。
っていうことを、32年の人生で1000回くらい経験してる。いやもっとか。
つくづく、「自分らしさ」って逃げ水みたいなものだ。追いかけてみると、消えてしまう。
そんな「自分らしさ」について、哲学者の鷲田清一さんはこんなふうに書いていた。
〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこになにかじぶんだけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。
じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、だれかある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そのありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ。
問題なのはつねに具体的な「だれか」としての他者、つまりわたしの他者であり、したがって〈わたしはだれ?〉という問いには一般的な解は存在しないということである。ひとはそれぞれ、じぶんの道で特定の他者に出会うしかない。
『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一
どうやら、僕らは「自分らしさ」を追いかける方向をまちがっているのかもしれない。追いかけるのは、自分のうちがわじゃなく、だれかのほうへ、なのだ。
コロナ禍でつらいのは、「だれか」とのかかわりが希薄になってしまうこと。それだと、自分の存在を見出すことがむずかしくなってしまう。
だからペットを飼いたいっていう気持ちが湧いてくる。わんわんと尻尾を振ってくっついてくるわんこがいたら、自分の存在をちょっとは見出せるかもなー、とか、思うわけです。
あれ、なんの話だっけか。
サポートがきましたって通知、ドキドキします。