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小説

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短編/中編小説をまとめました。。長くないのでサッと読めます。
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2020年9月の記事一覧

静かな夜は、なお愛しい

静かな夜は、なお愛しい

 薄暗い部屋のなか、耳を澄ませば聴こえる、時計の針が規則正しく回る音。その動きを脳内に浮かべてみれば、短針を嘲笑うかのように踊り狂う長針の、意地悪い性格を遠くに思った。昼間に見る風景、夕方に見る風景、この円盤にかき乱される軟派な環境は、良くも悪くも退屈な日々に彩りを与えるようでもあるな......。
 あぁ、この時の流れというものに、いくら助けられてきたのだろう。乗り越えるべき災難や困難というのは

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そして、風となる

 八月を過ぎた頃からどうも彼女の歩みは回復傾向にあるように思えた。普段であれば校門を抜けたあたり、スロープの手摺りにまるで齧りつくような執念を以て一歩一歩着実に足を踏み出す彼女だったが、この秋の肌寒い空気においては、その頼りない右脚も引き締まるらしい。歪なリズムを生みながら真っ直ぐ校舎へ進んでいく姿を見て、どこか残念に感じてしまう自らの心は、不謹慎と言われても仕方がなかった。「僕の肩なしでも、教室

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大背徳時代

大背徳時代

 兄の義之とは、長らく疎遠であった。彼が兼ねてより心の拠り所としていた相馬先生の娘、雪子との交際を終えた後、私がその可憐な少女をもてあそぶが如くの扱いをしたことも、原因の一つだと思う。
 決して名前負けをしていないあの色白の肌、声を噛み殺していながら、時折耳に触れる生暖かい吐息、振動に合わせて感じる背中に立てられた爪の痛み......男の独占欲とはいつの世も争いの源となり得るが、それを以てでしか彼

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ベースボール

ベースボール

 生まれつき右手の指を、上手く開けない男。僕の兄は、自らの特徴を説明する際、必ずこの言葉を用いた。誰かを妬む訳もない、また自嘲する訳でもなく語る彼の表情は、ユニフォームのストライプと同様、白い柔らかさと闇の顔が同居しているような、なんとも歪な印象を人に与えたものだった。

 僕がまだ小学生の頃だろうか。嬉しそうにグラブを選ぶ兄と母の姿、そんな光景をつまらなく感じた記憶がある。兄は余程のことがない限

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