見出し画像

指導者と精神医学(6): カルト教団人民寺院の教祖"ジム・ジョーンズ"の精神医学的診断とカルトを見破る方法(前編)

こんにちは!鹿冶梟介(かやほうすけ)です。

皆様は“指導者”と聞くと政治家や経営者を思い浮かべるかと思いますが、もう一つ語るべき指導者たちがおります。

それは宗教指導者あるいは教祖です。

今の世界情勢を見ると宗教が良い意味でも悪い意味でも大きく関わっており、宗教指導者(教祖)たちの影響力は政治家以上と言えましょう。

宗教指導者と言えば、世界三大宗教の開祖イエス、ブッダ、ムハンマドが有名であり、彼らについて精神医学的に解説したい…、という強い欲求はあるのですが、如何せん彼らにまつわるエピソードは話が盛られすぎて、もはや神話レベルに信憑性がありません(三大開祖の病跡学的アプローチをする精神医学者もいるようですが、漫画のキャラクターを診断するのと同様のネタ研究ですね😅)。

一方、三大宗教ほどではありませんが人々に多大な影響を与える宗教は世の中に数多あります。

そして、その中でも社会的に悪い意味で影響を与えるがいわゆる「カルト」です。

カルトとは、「崇拝」「礼拝」を意味するラテン語”cultus"から派生した言葉であり、現在では特定の指導者(教祖)を熱狂的に信じる新興宗教集団のことを意味します。

カルト教団の指導者の多くは強力な指導力揺るぎない理念、蠱惑的なカリスマ性を備えておりますが、中には明らかに”精神疾患”と診断できるケースもございます。

今回のnote記事では、カルト教団の代名詞とも言える「人民寺院」の教祖、”ジム・ジョーンズ”を精神医学的に解説したいと思います!


【人民寺院とは】

人民寺院(Peoples Temple)とは1955年に米国インディアナポリスで設立されたキリスト教系宗教教祖はジェームス・ウォーレン・ジム・ジョーンズ。人種平等を掲げ、キリスト教と共産主義を融合させたイデオロギーを持つ。

【ジム・ジョーンズとは】

Jim Jones at an anti-eviction rally Sunday, January 16, 1977 in front of the International Hotel, Kearny and Jackson Streets, San Francisco Photo by Nancy Wong

米国出身。1931年生まれ。

人民寺院の教祖。

南米ガイアナジョーンズタウンという街を作り、信者918名と移住。

カリスマと恐怖で信者を支配し、ジョーンズタウンでは悪逆非道を繰り返した末、信者918名と共に集団自殺した(1978年: 人民寺院事件(後述))。

尚、この数字は米国同時多発テロ(2001年)が発生するまで米国民最多の被害者数を記録した事件であった。

【ジム・ジョーンズの生涯】

1000人近い殉教者を出した人民寺院事件…。

この事件の首謀者ジム・ジョーンズは一体どのような人物であったのでしょうか?

ジムの人物像を俯瞰するために、まずは彼の生涯を見てみましょう。

1931年(0才): 米国インディアナ州クレテにて出生。父親のジェームズは第一次世界大戦で負傷して働けなかったため、母親のリネッタが家計を支えた(父親はアルコール依存症だった)。

幼少期: 幼少のころは無口で社交性に乏しかった。ジムは幼少から変わった子供で動物の死体を集めては「葬式ごっこ」をしていた。
また動物虐待もおこなっており、猫を刺殺したことがあった。
少年時代は、スターリン、マルクス、毛沢東、ガンジー、ヒトラーに関する書物を熱心に読んだ。粗暴な面もあり友人をモデルガン(BB弾)で撃つことがあった。

10代の頃ジムは町の黒人居住区に行き、路上で人種平等について説いた。

1947年(16才): 父親ジェームズが死去。しかし葬儀には参列しなかった。父親の死後、母親の収入を補うため、病院で看護助手として働いた。この頃、病院の高齢者たちからとても好かれるようになった。この病院で看護学生であったマルセリーヌ・ボールドウィンと出会う。

1949年(18才): マルセリーヌと結婚。同時期にインディアナ州のブルーミントンに移住し、インディアナ大学に進学。

1951年(20才):インディアナポリスに移住し、バトラー大学の夜間学生になる。 ジムはこの頃からアメリカ共産党の集会に参加するようになる。

1952年(21才): メソジスト協会に所属し、学生牧師となる。この時ジムは黒人たちも集会に参加できるよう訴えるが、協会のリーダーが禁止したため牧師を辞することになる。なお、この時ジムは教会で行われていた心霊療法によって教会が信者たちから多額の財産を得ていることを知る。

1954年(23才): ネイティブアメリカンの血を引くアグネスを養子に迎える。

1956年(25才): 人民寺院(Peoples Temple)を設立。同年6月に大規模な宗教集会を開催。当初人民寺院は「人種間融和」を掲げた伝道団体であった。
ジムは積極的人種間融和を当時のテレビやラジオ番組を使い教団の思想を広めようとする。ジムは黒人の入店を拒否するレストランを炙り出すため囮捜査的なことをしたり、病院に入院した際には黒人病棟のトイレを清掃したりした。このほかにも高齢者や精神障害者のための炊き出しや職にあぶれた人々の就労支援なども積極的に行った。

1959年(28才): 韓国系のスザンヌを子に迎える。同年、唯一の実子スティファンが生まれる。

1961年(30才): ジェームズという黒人の子供を養子とした。また同年、ティムという白人も養子に迎えた。この頃、「シカゴが核攻撃を受ける」というビジョンを見る。

1962年〜1963年(31-32才): 核戦争による世界終末を懸念。ブラジルを訪問し、自らが安全と思い込んだリオディジャネイロに移住

1966年(35才): 人民寺院をカリフォルニア州のレッドウッドバレーに移転(140名の信者)。カリフォルニアへの移転により信者数はさらに増えていった。この頃からジムはキリスト教に対して侮辱的な態度をとるようになり、自分自身をガンジー、キリスト、ブッダの生まれ変わりと説教するようになる。

1970年頃(39才): サンフランシスコ、ロサンゼルスに支部を作る。最終的に本部をサンフランシスコへ移転させる。

1975年(44才): サンフランシスコ市長選でジョージ・モスコーニを応援し、その結果モスコーニは市長に当選する。この頃には3000名以上の信者を従えていた。
1976年(45才): 米国副大統領候補者のモンデールと面会。この頃から米国大統領夫人ロザリン・カーターとし的に何度も会うようになる。

1977年(46才): ジムは信者数百人と共にガイアナで開拓・設立された「ジョーンズタウン」に移住。

1978年(47才): 11月17日ジョーンズタウンを訪れたレオ・ライアンを殺害。翌日、ジムは集会を開き、ブドウ味のフレーバーエイドとシアン化合物の混合物を信者に飲ませた。その結果、914名が死亡した(人民寺院事件)。ジムはシアン化合物ではなく、信者に自分の頭部を銃で撃たせ死亡した。

【人民寺院事件とは】

さてジム・ジョーンズの生涯では詳細は述べませんでしたが、彼が引き起こした世紀の大事件があります。

それは、「人民寺院事件」という集団自殺事件です。

前述のように人民寺院は1970年代から政治と深く関わるようになりますが、キリスト教の否定や共産主義への傾倒から次第に周囲から白眼視されるようになります。

そこでジムは南米ガイアナの北部に1500ヘクタールを超える土地を借り、楽園「ジョーンズタウンを設立します。

米国での活動が困難になった信者たちは希望を求めてジムとともに「ジョーンズタウン」に移住を決意します。

ところが、そこは理想郷とは程遠い恐怖と暴力が支配する「偽りの楽園」だったのです…。

ここから先は

3,803字

偉大な指導者の栄光の影に、苦悩や悲しみあり?歴史上の指導者のメンタルヘルスについて解説!

記事作成のために、書籍や論文を購入しております。 これからもより良い記事を執筆するために、サポート頂ければ幸いです☺️