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ジャニー喜多川と「米国史上最悪」のシリアルキラー こうして犯行は見逃された

「米国史上最悪のシリアルキラー」とは、約400人を殺したと言われる「殺人看護師」チャールズ・カレンのことだが、それとジャニー喜多川の問題が、犯罪として等価だと言いたいわけではない。

ここで言いたいのは、長年にわたって疑惑をかけられながら、犯行が見逃され続けた、その構造やメカニズムが似ているということである。


「疑問だらけです。なぜこんなにも長い間、彼の犯行は明るみに出なかったのか?」

これは、チャールズ・カレンが逮捕されたとき、マスコミが発した疑問だ(Netflix「キラーナース」より)。

ご承知のとおり、同じことが、ジャニー喜多川の疑惑と、日本のマスコミにも当てはまる。


「殺人看護師」チャールズ・カレン事件


チャールズ・カレンは、1960年、アメリカのニュージャージー州生まれ。私と同世代の人である。

労働者階級出身で、高校を出て軍隊に勤めたあと、看護師として働き始める。

彼については日本語のWikiもあるので、詳しくはご参照ください。


「優秀で献身的な看護師(グッド・ナース)」として病院の宣伝物の「顔」になったこともある。病院の同僚たちは、彼を信頼できる仲間だと感じていた。

既婚者で、娘がおり、子煩悩な父親でもあった。

しかし、彼は、結婚して子供ができた1988年あたりから、病院で患者を殺し始める。日本で言えば、ちょうど昭和が終わるころだ。

その手口は、致死量の毒物を、点滴や注射などで病者に注入するというものだった。

「苦しんでいる病人を見ていられなかった」と「慈悲殺人(マーシーキリング)」だったような供述もしているが、実際には回復に向かっている病人が多く、備品置き場の点滴袋に毒物を入れることもあったから、事実上無差別殺人だった。

その点滴袋を使った看護師たちは、心ならずも彼の共犯者となった。毒物は全身の麻痺を引き起こし、苦しくても声を出せない拷問のような苦しみを与えただろうという。

2003年に逮捕されるまでの約16年間、9つの病院で、彼も覚えていないほどの入院患者を殺した。

裁判では、立件できた29人の殺害によって18回分の終身刑を言い渡されたが、証言から約400人を殺害した疑いがあり、米国史上最悪のシリアルキラーだと言われている。


この事件のドキュメンタリー「キラーナース」と、事件を映画化した「グッド・ナース」がNetflixで公開されている。


どちらも、事件のルポ「グッド・ナース」という本を元にしていて、どちらも優れた内容だ。

(2015年にデンマークで起こった殺人看護婦の実話を元にした連続ドラマ「ザ・ナース」とともに、このNetflixの「殺人ナース3部作」は、「コンプリート」する価値のある作品群です。)


「ひ弱」な連続犯


私はチャールズ・カレンにもジャニー喜多川にも直接会ったことがないから、主観的な印象ではあるが、2人の外見やパーソナリティは似ている気がする。

まず、外見だが、チャールズ・カレンは、アメリカ人としては小柄で、ひ弱で、繊細な感じの人物だ。

病院の同僚の女性は「いじめられっ子」タイプだと直感し、彼を守らなければならない、と感じたそうだ。

つまり、「暴力的な悪人」とは対極の印象なのである。

逮捕前のチャールズ・カレン



実際、多くの人にとっては、彼は優しい善人にしか見えなかった。

それは、ジャニー喜多川も同じなのではないだろうか。


彼らの「犯行」は、凶悪とはいえ、表面上、暴力的要素は少ない。

ターゲットは、そこに無防備に横たわっている。

一方は集中治療室の病人であり、一方はタレント志望の少年だった。

虚弱な大人よりも、さらに脆弱な存在だ。

チャールズ・カレンは、そうした状況下で、殺人を止められなかった。殺人を「せざるを得なかった」と感じた。ジャニー喜多川の性加害も同様だったかもしれない。

なぜなら、それが「できた」からだ。


カレンの事件では、検察は立件前から、ともかくカレンを医療現場から遠ざけようとした。カレンの履歴書の不備を病院に通報して、彼を解雇に追い込んだりしている。

その手段の当否はともかく、カレンを患者に近づけると、犠牲者が増えつづけるだけだとわかっていたからだ。

ジャニー喜多川についても、少なくとも誰かが、何らかの手段で、少年たちと接触できないようにすべきだった。


カレンは、「誰かに止めてもらいたかった」とも言っている。本心かどうかはともかく。いずれにせよ、止める者はいなかった。ジャニー喜多川も同様だった。人から止められない限り、自分では止められなかった。


チャールズ・カレンの事件も、ジャニー喜多川の疑惑も、立証するのが難しい。証拠が乏しく、証言の信憑性が焦点となり、被害の因果関係を物証で明らかにしにくい。

カレンの事件では結局、病院の親しい同僚から「このままでは、あなたのせいで私も同罪になる」と訴えられ、自白する。


チャールズ・カレンは、逮捕されたときも、裁判の最中でも、「モンスター」のようには見えなかった。その姿だけを見れば「虫も殺さぬ」感じなのだ。

無感動に、淡々と、そこにいる。ある人は、その印象を「エンプティネス(空虚)」「ナッシングネス(虚無)」と表現した。

逮捕されたチャールズ・カレン



裁判で、被害者の遺族が彼をなじっても、無表情だった。

ジャニー喜多川が、仮につかまって裁きについていたら、たぶんそんな感じだったと思う。

サイコパスなのかソシオバスなのか、専門的なことはわからないが、そういう異常な人間がいる、ということを、我々はまず知らなければならない。


揉み消された疑惑


このチャールズ・カレンの事件で、最もショッキングなのは、病院は彼の犯行に薄々気づきながら、16年間も見逃されつづけたことだ。

カレン自身も、自分が疑われていることに、早い段階で気づいていた。

ドキュメンタリーの中で、

「病院はなぜ君を放置したのか」

と聞かれて、カレンは、

「彼らが世間体を気にしたからだ」

と答えている。


「世間体 reputation」を守るとは、もっと専門的な言葉で言えば「危機管理」だ。

カレンの疑惑が浮上するたび、病院の危機管理担当マネージャー(リスクマネージャー)が動いた。

疑惑が本当だとすると、病院の評判が地に堕ち、医療訴訟で多額の損害を受ける。

事実がどうかは彼らに関係ない。「疑惑」そのものが迷惑だ。そういう噂だけで、病院に来る人が減るだろう。

だから、そうした疑惑が浮上するたび、リスクマネージャーを中心に病院は疑惑を揉み消した。

病院内では、

「チャールズ・カレンの嫌疑は晴れた。何もなかった」

とスタッフたちに宣言した上で、カレンに「因果をふくめ」、別の病院に転職させた。推薦状を添えて。

ドキュメンタリーの中で、事件を追及したジャーナリストが言っている。

「病院で働く人間が人を殺すなんてことが、どうやったら可能なのか。なぜ16年も続けられたのか? なぜ9カ所もの病院でバレなかったのか? それは、犯行に気づいたり、疑わしいと思った者たちが、彼を他の病院に押し付けたからだ。推薦状をつけて彼に次の仕事を与えた。だからこそ彼は何度も犯行を繰り返した」


裏切られた信頼


ジャニー喜多川問題でも、同じようなことが起こった。

疑惑は何度も浮上したが、マスコミ各社は「危機管理」意識で見て見ぬふりをした。

自分たちの大事な「商品」の価値を毀損するわけにいかなかったのだ。

NHKは、ジャニーズのタレントを、「国民的アイドル」として、大河ドラマの主役や紅白のトリに据えた。

民放、映画社は、新年度が始まるたびに、ジャニーズのタレントの出演に新作の視聴率と動員を託した。

朝日・毎日などの新聞社は、ジャニーズタレントに、売れない「アエラ」「週刊朝日」「サンデー毎日」の表紙に出てもらって売り上げを支えてもらった。

業界あげて、ジャニーズの歌手やタレントは素晴らしい、と競うように音楽賞や演技賞を与えた。

ジャニーズの利害と、マスコミ全体の「世間体」並びに利害は、一体化していたのだ。

「危機管理」上、マスコミがそのスキャンダルに目をつぶるのは、合理的選択だった。それどころか、ジャニーズ事務所と親密なほど(つまり事務所に味方するほど)出世する、とマスコミ内では言われていた。

だが、こうしたマスコミの幹部たちは、子供たちの被害を思って、良心が痛まないのだろうか? 声にならない悲鳴を上げつづけた子供たちがいたのだ。


病院にとっては、人の命が最も大切なはずだ。そう思うから、我々は病院に行き、信頼して横たわる。

しかし、チャールズ・カレンにかかわった病院にとっては、人の命よりも、リスク管理ーー自分たちの評判と利益を守るほうが重要だった。

同じように、マスコミにとっても、真実の報道が最も大切なはずだ。「自分たちの情報は確かだ」と、マスコミはことあるごとに、自分たちを売り込んでいる。

しかし、実際には、やはりリスク管理ーー自分たちの面目や利益のほうが重要だった。


いまだに日本のマスコミ幹部は、「ジャニー喜多川の疑惑は証明されなかった」と言い訳しているそうだ。

それは、疑惑をそのままに、カレンの責任を他の病院に押し付けて知らぬ顔を決め込んだ病院と同じだ。

疑惑を追及し、真実を明らかにすることこそ、彼らに期待された役割であったのに。


責任を負わない「責任者」


ドキュメンタリー「キラーナース」の最後で、事件を追及したジャーナリストがこう結論している。


「チャールズ・カレンの犯行には、彼以外にも責任を負うべき者がいる。病院だ」

「チャールズ・カレンは生涯を刑務所で過ごす。だが、彼を放置した者たちは、今も責任ある地位に居座り、高い報酬を受け取る。何の責任も取らずに」

「彼らはいい仕事をしたのだろう。利益を追求する民間医療機関にとっては」

「しかし、一方で、医療機関の本来の目的に反する行いをした。彼らがすべきなのは、患者を守り、治療を提供することだ。その義務を果たさずに、それによって見返りさえ得ている。なぜなら、患者よりも組織を守ることに成功したからだ」


そっくり同じことが、ジャニー喜多川事件における、日本のマスコミの振る舞いについて言えるだろう。

日本のマスコミは、50年以上、ジャニーズ事務所のスキャンダルを隠し通すことに成功した。「危機管理」は成功したのだ。

チャールズ・カレン事件では、病院の「放置」の結果、約400人が殺された。

マスコミの「放置」による、ジャニー喜多川の50年以上にわたる犠牲者数は、どれほどになるのだろう。それが解明される日は来るのだろうか。


組織の倫理は個人の道徳に劣る


この事件で鍵となったのは、警察とともに、彼を自白に追い込んだ同僚看護婦、エイミー・ローガンだ。

彼女が、映画でも、ドキュメンタリーでも、主役となる。

彼女はシングルマザーで、病院には秘密の持病(心臓病)を抱えていた。しかし、生活のために、病院での仕事を失うわけにいかなかった。

チャールズ・カレンは、彼女の持病を知って、彼女を職場でかばい続ける。だから彼女は、カレンに好意を持ち、頼りにしていた。

しかし、彼女は、カレンの行動に疑惑を抱く。そのあたりの葛藤や人間ドラマが映画では見所になる。


エイミーは、チャールズ・カレンの犯行に気づき、警察に協力しようとするが、そこで彼女の前に立ちふさがるのが病院のリスクマネージャーだ。

警察に協力するなら、まずいことになるぞ、と彼女は脅される。上記のとおり、彼女には弱みがあり、生活のために仕事を失うわけにいかなかった。


エイミーは、11歳の娘に打ち明ける。お母さんはクビになるかもしれない、と。

そのときのことを振り返り、ドキュメンタリーの中で、彼女は苦渋の表情でこう言っている。

「そのとき、娘は言いました。殺人を止められるなら、止めるのが当たり前でしょう、と。危機管理の責任をとっている大人より、11歳の子供のほうがよほど道徳的でした」


日本のマスコミ内には、

「それを止めるのが当たり前でしょう」

と言える者がほとんどいなかった。

いたとしても、組織の中でその声が封殺された。

私もマスコミにいたから、それが実感としてよくわかるのだ。

今、マスコミ幹部たちは、ジャニー喜多川問題を、リスクマネジメント上どう決着すべきか、試算中だろう。

私はマスコミの中にいて、この件に限らず、自分の道徳観に照らして、幹部たちは間違っていると思うことが多く、それを表明もした。

結果、私は(ほかのことも加わって)出世しなかったし、力がなかったので何も変えられなかったが、少なくとも、それに積極的に加担せずに済んだ。いわゆる「大マスコミ」幹部より私の良心のほうが正しかったと今でも思う。それを小さな誇りにできるのは幸いだ。


教訓として、人びとは知るべきだと思う。

マスコミの「倫理」は、子供の道徳以下なのだ、と。

あなたが個人として、マスコミがおかしいと思えば、その「おかしい」と思うあなたの道徳感のほうが、たいがいマスコミよりも正しいのだ。

ジョニー喜多川事件で確認できたのは、その事実だと思う。


<参考>


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