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【分野別音楽史】#11-1「ヒップホップ史」(前編)

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)
#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)
#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)
#05-4「ラテン音楽史」(ブラジル編)
#06-1「ジャズ史」(草創期)
#06-2「ジャズ史」(1920~1930年代)
#06-3「ジャズ史」(1940~1950年代)
#06-4「ジャズ史」(1960年代)
#06-5「ジャズ史」(1970年代)
#06-6「ジャズ史」(1980年代)
#06-7「ジャズ史」(1990年代)
#06-8「ジャズ史」(21世紀~)
#07-1 ヨーロッパ大衆歌謡➀カンツォーネ(イタリア)
#07-2 ヨーロッパ大衆歌謡②シャンソン(フランス)
#08-1 ロックへと繋がるルーツ音楽の系譜(ブルース、カントリー)
#08-2 「ロック史」(1950年代後半~1960年代初頭)
#08-3 「ロック史」(1960年代)
#08-4 「ロック史」(1970年代)
#08-5 「ロック史」(1980年代)
#08-6 「ロック史」(1990年代)
#08-7 「ロック史」(21世紀~)
#09-1 ブラックミュージックのルーツとしてのゴスペルの系譜
#09-2 ドゥーワップ、ソウル、ファンク
#09-3 (コンテンポラリー)R&B の系譜
#10 ジャマイカ音楽とレゲエの歴史

今回はヒップホップ史です。ヒップホップは現在、アメリカ音楽の中核を成す一大ジャンルとなっています。また、ここまで触れてきたジャズ史やロック史、ソウルやファンク、さらにレゲエとも関わりの深い分野です。ここまでの記事での各分野の視点も頭の片隅に置きつつ、引き続き見ていきましょう。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。



◉1970年代 ヒップホップのはじまり

ニューヨークブロンクス地区では、ユダヤ系、イタリア系、アイルランド系の移民が多く暮らしており、「人種のるつぼ」と化していました。

1950年代~1960年代にかけてブロンクス横断高速道路の建設が進められるようになると、上流~中流階級の白人の人々が郊外に移り住むようになったのと入れ替わるように、アフリカ系アメリカ人やプエルトリコなどラテン系の移民が、そしてジャマイカからの移民も流入し、ブロンクス地区に住み始めました。

高速道路建設などの都市開発によって従来の工場や事業は撤退し、さらに1970年代になると不況によってこの地区の失業率が60%を超えるほどとなり、治安が非常に悪化してしまいます。家賃収入が入らなくなった大家が保険金のためにギャングに放火させるなど、劣悪なスラム街と化してしまったのでした。貧困でドラッグにおぼれる人や、ストリート・ギャングが溢れかえりました。1970年代のニューヨークは過去最悪の治安だったとされます。

貧困なアフリカ系アメリカ人の若者達は、ソウルやファンクが花開いていた当時のブラックミュージックを楽しもうとしても、クラブやディスコに遊びに行くお金がありませんでした。そこで、彼らは公園に集まりパーティーをするようになります。ここに、ジャマイカで発生したサウンドシステム文化が持ち込まれましたのです。

ジャマイカのサウンドシステムと同じように、家から運んできたターン・テーブル(レコード・プレーヤー)を外灯のコンセントに差込み、DJがレコードを回すなかでダンサーが踊り、グラフティー・アーティストは建物や列車に絵を描き、MCはラップを披露したのでした。

こうしたパーティーは、ブロック・パーティーと呼ばれ、地区ごとの若者たちが小さなコミュニティを形成して、音楽を楽しんだのでした。これがヒップホップの始まりとされます。こういった最初期のヒップホップは現在、オールドスクール・ヒップホップと呼ばれています。

地区ごとのコミュニティは、縄張り的な意味合いを持つようになり、決まったDJが棲み分かれるようになりました。そういった中でこの時期に台頭した代表的なカリスマ的DJが3人挙げられます。

クール・ハークアフリカ・バンバータグランド・マスター・フラッシュの3人が、ヒップホップの歴史で「元祖」と称されています。


①DJクール・ハーク

DJクール・ハークは、「ブレイクビーツ」を誕生させたことで有名です。

オールドスクールの時代のDJやラッパーは、ソウル、ファンク、ディスコミュージックの音源を使用していました。そんな中、DJクールハークは、集まった人々が曲の途中のドラムだけになる部分(ブレイク部分)でやたらと盛り上がることに気が付きます。そこで、同じレコードをもう一枚買い足し、2台のターンテーブルをつなぐことで、ブレイク部分を延長させて再生したのです。これが、こんにちのDJの基本となりました。

このようにして抜き出されたブレイク部分で再構築したビートを「ブレイクビーツ」と呼び、ヒップホップの制作方法として広まり、現在では様々なエレクトロミュージックにまで広く用いられる重要な手法となります。

ブレイク部分でダンサーたちが踊ったダンスは「ブレイクダンス」と呼ばれました。さらにブレイクをバックにMCがボースティングと呼ばれる語りを入れたのがラップの始まりともされています。



②アフリカ・バンバータ

アフリカ・バンバータは、地元ギャングのボスでした。当時、殺し合いが起こるほどの縄張り争いが勃発する中、人望の厚かったバンバータは、次々とギャングを配下に取り込んでいきました。そして、ヒップホップを用いて地域を平和にしたいと考え、ズールー・ネイションというものを組織します。暴力的なケンカをやめ、非暴力のバトルへとシフトさせたのです。

DJダンスグラフィティラップ(MC)ヒップホップの4大要素と言われていますが、ストリートギャング文化において抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりとしてこのようなブレイクダンスやラップの優劣が争われていくようになっていきました。こうして、ゲットーの人々の更生プログラムとしてヒップホップが役割を担うようになったのでした。



③グランド・マスター・フラッシュ

グランド・マスター・フラッシュは、スクラッチをはじめとした様々なDJ技術を発明したことで知られています。再生しているレコードを手で動かして効果音的なものを発生させる技法がスクラッチであり、他にもスムーズにブレイクを再生できるようにバックスピンカッティングフェージングといった様々なDJ技術が発達していきました。


◎ファブ・ファイブ・フレディ

ヒップホップの元祖となる3人のDJを紹介しましたが、加えて、グラフィティ・アーティストの重要人物として、ファブ・ファイブ・フレディも挙げられます。ストリートアート運動の先駆者として知られ、ヒップホップの歴史で忘れてはならない存在です。



◉1980年代前半~ オールドスクールの伝播

ニューヨーク・ブロンクス地区のブロック・パーティにて始まったヒップホップですが、初期はまだブロンクスの中だけで発展していたカルチャーでした。1970年中頃から後半にかけて、貧困な黒人の若者達が公園に集まっては、DJが回すレコードの中でダンスやラップ、グラフティー・アートを楽しんでいたのです。

そんな中で突如、ブロンクスからではなく、ニュージャージー出身の3人組ユニット「シュガー・ヒル・ギャング」が、1979年「ラッパーズ・ディライト」というラップの楽曲をリリースします。

これは、ソウルシンガーのシルヴィア・ロビンソンという女性が、NYのヒップホップ文化に目を付け、商業的な成功を目論んで結成させたものでした。当時、ディスコブームがピークを迎え、下火に差し掛かってきた頃であり、次にブレイクさせたい音楽として彼女はヒップホップに注目したのです。

ロビンソンは早速、ブロンクスのラッパーをスカウトしに出向きましたが、ブロンクスの若者たちにとって、既存のファンクやディスコ音源を使ったパーティの文化であったヒップホップを楽曲作品としてリリースする発想は無く、実現しませんでした。

そんなときロビンソンは、クラブの警備員をしていたニュージャージーの若者が、ブロンクスのユニット「コールド・クラッシュ・ブラザーズ」のラップの真似をしているのを見つけます。そこで、彼とその友人をつかまえてそれをレコーディングさせたのでした。

シルヴィア・ロビンソンは、夫のジョー・ロビンソンとともに、ヒップホップ専門レーベル<シュガーヒルレコーズ>を設立し、ユニットはシュガー・ヒル・ギャングと名付けられ、「ラッパーズ・ディライト」が発売されたのでした。

ただこの楽曲は、ディスコの最後のヒット曲といわれているシック「Good Times」という曲のトラック(カラオケバージョン)に、コールド・クラッシュ・ブラザーズの歌詞そのままのラップを乗せただけなのでした。

盗作の塊であるこの楽曲が、あろうことかアメリカで大ヒットしてしまいます。幅広い層にヒップホップ を知らしめ、ヒップホップ・ミュージックを初めて商業的に成功させた楽曲となりました。当時ブロンクスでヒップホップに親しんでいた若者は、突然現れた無名のよそ者が自分たちのパクリをヒットさせてしまったことに対し、皮肉に思い、拒否反応を示します。

ただ、それまではヒップホップは既存の音楽をサンプリングして楽しむパフォーマンス文化であり、それをレコードにすることなんて不可能だと思われていたので、ここからヒップホップ楽曲のリリースの門戸が開かれた形となったのでした。ヒップホップ文化が世間に知られたことで、ストリートで有名だったDJやラッパーたちにとって、本場の実力を見せ付けるチャンスの到来となったのです。こうして多くのラッパーたちが次々とレコードをリリースしはじめ、ヒップホップが音楽レコード作品として世に放たれる時代を迎えます。

最初期の3大DJのうち、クールハークは目立ったアクションをとりませんでしたが、グランドマスター・フラッシュやアフリカン・バンバータはヒット作をリリースしていきました。加えて、トリーチャラス・スリースーパー・ウルフカーティス・ブロウなどがこの時期に音源をリリースしたオールドスクールヒップホップの代表的なアーティストです。




◉1980年代後半~ ゴールデンエイジ

80年代中盤にオールドスクール・ヒップホップが飽きられたころ、ランDMC、UTFO、LLクールJ、フーディニといった新しい世代のラップ・アーティストが登場しました。これらは日本ではミドルスクールと呼ばれますが、世界的にはこの呼び方は一般的ではないそうです。

一般には、ここから90年代初頭までをまとめてゴールデンエイジ・ヒップホップと呼び、オールドスクールに続くヒップホップの全盛期とされています。ランDMCは、エアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」にてコラボレーションしたことで、ロックとヒップホップの融合の先駆けにもなりました。

チャックDによる1987年にデビューのグループのパブリック・エネミーや、ブギ・ダウン・プロダクションズ、クール・モー・ディーXクランらは過激な政治的なメッセージをラップに乗せ、新しい潮流をつくりました。

サウンド的にも、オールドスクール時代のソウルやファンク色がそのまま残るサウンドから脱し、スクラッチやサンプラー、リズムマシンが多用されるなど、ヒップホップ独自のサウンドカラーとなっていきました。



◉1990年代~ ニュースクール/ブーンバップ

80年代中盤から始まったヒップホップの黄金期「ゴールデンエイジヒップホップ」は、90年代に入ってさらに発展していました。特に90年代前半に流行したスタイルは、ニュースクール・ヒップホップと呼ばれます。この時代のヒップホップには、黒人の誇り・団結・自覚を促す動きが見られ、黒人コミュニティに大きな影響を与えました。

デ・ラ・ソウルをはじめとして、ア・トライブ・コールド・クエストや、そのメンバーのQティップ、さらにブラックシープ、ジャングル・ブラザーズ、ラキム、ビッグ・ダディ・ケイン、スリック・リック、ステッツァソニック、ケアレスワン、ビートナッツらが活躍。

一方で、トーン・ロック、ヤングMC、MCハマー といったラッパー達はポップラップでヒットを放ちました。さらに、ビズ・マーキークール・G・ラップらが所属したチームのジュースクルーが人気となったほか、クィーン・ラティファ、モニー・ラヴら女性ラッパーの登場も重要です。

このニュースクール期に中心となった、太いドラムループを主体としたサンプリングビートのスタイルは、現在ブーンバップと呼ばれています。




◉ギャングスタ・ラップと東西抗争

ここまでニューヨークを拠点に発達していたヒップホップですが、この時期にロサンゼルスなどの西海岸からもヒップホップが台頭してきます。ジャズトラックを使用したものが多かった東海岸のサウンドに対し、西海岸では、Pファンクなどをサンプリングし、生楽器やシンセサイザーなどの電子音を取り入れたトラックが使用され、Gファンクというサブジャンルで呼ばれました。ラップは、ギャング出身者がそのライフスタイルを歌詞にし乗せることが多く、ギャングスタ・ラップと呼ばれました。ギャングスタ・ラップの源流となったアーティストはアイスT だとされ、N.W.A.などが続きました。

さらに、N.W.A.からドクター・ドレーアイス・キューブイージーEがソロで活躍したほか、スヌープ・ドッグ、2パック、ウォーレンG らが西海岸のギャングスタ・ラップの代表的なアーティストとして台頭し、Gファンクのサウンドを確立しました。

一方、東海岸でもこの影響を受け、攻撃的で激しい内容のヒップホップへとなっていきました。ノトーリアスB.I.G.リル・キム、ウータン・クラン、ジェイZ、ナズ などが注目され、東海岸のサウンドが再浮上した形となりました。

両海岸のレーベルやアーティストたちは深く対立し、お互いを威嚇、中傷し合いました。この東西抗争はラップの歌詞にも現れ、やがてギャングやマフィアを巻き込んだ暴行、襲撃、発砲事件などに発展してしまいます。結果、2パック、ノトーリアス・B.I.G.という両海岸を代表する有名ラッパーを、ともに銃撃事件で失うという、悲惨な結末を招いてしまいました。抗争はその後ある程度沈静化し、個人間の中傷合戦へと変化していきました。


◉サウス・ラップの萌芽

このように、西海岸と東海岸がヒップホップのメインの時代でしたが、その水面下で南部のヒップホップが産声を上げていました。N.W.Aやパブリックエネミーの活躍によって、黒人貧困層のコミュニティ(ゲットー)の悲惨な状況は知られるようになっていましたが、歴史的にまさに奴隷制が行われていた南部はさらに悲惨なものであり、ギャングスタ・ラップが伝わることで南部からもヒップホップアーティストが登場していきました。たとえば、「19歳まで生き延びられれば良いほう」といわれていたニューオーリンズのゲットーからマスターPが登場しています。

一方フロリダ州マイアミでは、Rolandのリズムマシン808のサウンドが特徴的なマイアミ・ベースというジャンルが誕生しました。2ライヴ・クルーDJマジック・マイクが代表的なアーティストで、彼らはリリックが卑猥なポルノラップの先駆者でした。物議をかもしたポルノラップですが、サウンドとしての「マイアミ・ベース」は南部のヒップホップに多大な影響を及ぼし、南部ラップの各サブジャンルの基礎となっていきました。

後にヒップホップの新たな本拠地となるのがアトランタです。アトランタにはニューヨークからMCシャイDがやってきて、ヒップホップを広めていましたが、生粋のアトランタ・ラッパーとしてはキロ・アリが登場し、そこからラヒーム・ザ・ドリーム、ヒットマン・サミー・サムなどが、マイアミベースを参考にしたサウスのラップを手探りで開発していき、その後TLCクリスクロス、ダンジョン・ファミリー、オーガナイズ・ノイズ、グッデイ・モブ、アウトキャストらがアトランタを盛り上げていき、徐々にサウスにも注目がいくようになっていきました。

ニューオーリンズには「バウンス・ミュージック」というジャンルが登場し、喘ぎ声をサンプリングするなど性的な要素が強調されました。「トゥワーキング」というお尻を振るダンスが重要な要素とし、MC.T.タッカーが初期に注目を集めました。そこから、ジュブナイル、リル・ウェイン、パートナー・N・クライム、UNLV、マグノリア・ショーティー、ホット・ボーイ・ローランドなどが初期のバウンスサウンドとして知られました。

メンフィスには、マイアミ・ベースのテンポを落としてダークにし、高速のハイハットや808から生成したベース音などを特徴とした「クランク」というサブジャンルが登場し、後にヒップホップの主流のビートとなるトラップの原型に一番近いスタイルとされています。クランクは、スリー・シックス・マフィアによって発展していきました。

テキサス州のヒューストンからはゲトー・ボーイズが登場し、「HiphopがNYから始まったのはわかったから、その自惚れを終わらせてやる!」と、LAロサンゼルスやNYニューヨーク以外の声を代弁して人気となりました。マイク・ディーンのプロデュースによる、シンセサイザーに特徴のあるサウンドは「ダーティーサウス」と呼ばれました。

同じくテキサスからはカントリーラップの先駆者UGKが登場し、田舎ならではのスタイルを見せました。

その後さらにヒューストンではDJスクリューによってチョップド・アンド・スクリューという手法が出現します。これは、一度完成したミックスをスロー再生させることでサイケデリックな印象に変身させる手法で、当時南部に蔓延していたダウナー系のドラッグと相性が良く、ブームになりました。このサウンドはマイク・ジョーンズ、チャミリオネア、リル・ケケといったラッパーによって広がっていきました。


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