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『雲脂地獄』


『雲脂地獄』


またこいつかっ、と思った。
正午すぎに歓楽街にある漫画喫茶へ行くと、受付に私の嫌いな店員の男が半笑いで突っ立っていた。
潰れたナマコみたいな顔をしたツイストパーマの男である。その男は、一重まぶたの目が虚ろで、口をぽかんと開けており、毛髪には粉チーズでもふりかけたように雲脂がついていて不潔だった。


男は私を一瞥すると、なぜだか、レジから離れて、背後にある苔色のカーテンの奥へ消えた。
その不可思議な行動に些か苛々したが、私はレジにある料金表を見るふりをしておとなしく待っていると、数秒後にカーテンの中から現れた男は、
「お席はいかがなさいますか」
とセリフの棒読みのように言いながら、手元のパソコンのキーボードをカチャカチャと操作した。
私は、「禁煙のオープン席、基本料金でお願いします」といつものように伝えると、男は雲脂だらけの頭をかきむしりながら、無言で伝票を渡してくる。
「ははん。ごゆっくりどうぞ、は言わないのね」
と思いながら、男の胸のネームプレートを一瞥すると「R・M」と書いてある。私は腹の中で舌打ちした。他の店員は、「阿久津」や「鈴木」や「藤尾」など、それぞれの名前の苗字が書いてあるのだが、この男だけはなぜだかイニシャル表記なのだ。それがものすごく癪に触るが、なぜなのか気になって仕方がない。しかし、それを男に聞くわけにもいかないし、何よりもこの男と言葉を交わすだけで、魂が腐りそうなので、私は渋面で受付を去った。

店内のリノリウムの床は、誰かが炭酸ジュースでもこぼしたらしく、妙にベトベトしており、壁に貼られている「時計じかけのオレンジ」のポスターは破れていた。のみならず、ドリンクサーバーがきれいに洗浄にされておらず、その隣にある高濃度水素水を飲もうとしたら、サーバーに故障中の貼り紙がある。仕方なく、私はドリンクサーバーのカルピスを紙コップに注いで飲んでみたのだが、それが米のとぎ汁みたいな変な味がしたので、床に吐いた。


苛々しながら、席につくと、今度はパソコンの電源が入らない。おかしいなと思いながら、受付に行くと、「R・M」が鼻水をすすりながらレジのお札を数えており、パソコンの不具合を訴えると、
「オッケーっす。じゃあ、席、かえます」
と言うので、ぶん殴ってやろうかと思った。
しかし、ここでそんなことをしたら、犯罪者になってしまうので、何とかこらえて、作り笑顔で、「あ、お願いします」と言うと、「オッケーっす」とにこりともせずに言うので、悶絶しかけた。
私は一年前まで、他の漫画喫茶で働いていた。
だから、よけいに「R・M」の接客態度を看過することができず、腹を立てているのである。


私は早々に店を出ることにした。すると、受付に「R・M」の姿がない。阿久津さんという女性店員が立っている。大学生と思しき阿久津さんは、たまにしか見かけないが、接客が丁寧であり、愛想もよかった。何より、てきぱきと仕事をしている。


私はほっとして、阿久津さんを注視しながら、伝票を持っていこうとしたら、レジの右手にあるエレベーターが開いて、ショルダーバック風の頭陀袋を肩にかけているうすらハゲの中年男が出てきた。
うすらハゲは酩酊しており、阿久津さんになれなれしく声をかけると、「わし、アダルトサイトが観たいんだけど、閲覧方法がわからないから教えてくれませんかへ?」などと野蛮なことを言っている。
次の瞬間、苔色のカーテンから、「R・M」が緩慢な動きで現れて、こちらどうぞ、とぶっきらぼうに言うので、私は白目をむいて操狂しそうになった。
「おめーじゃねーよ、阿久津さんなんだよっ!」
「R・M」は、28時間くらいぶっ通しで働いているような死んだ魚の目をしながら、梵鐘みたいな声で、
「220円になります」
と言うので、私は250円を出すと、「R・M」は無言でお釣りを渡す。そして、「ありがとうございました。またおこしくださいませー」は言わない。
隣のレジでは、阿久津さんが顔を赤らめながら、うすらハゲにアダルトサイトの閲覧方法を懇切丁寧に説明している。私は阿久津さんがかわいそうになった。困っている阿久津さんを助けてやれよ、と思いながら、「R・M」をにらみつけると、彼の頭がさっきよりも白くなっているので、ぎょっとした。
ラインパウダーを頭から被ったかのように、彼の毛髪がおびただしい量の雲脂にまみれており、それがレジの真上にあるエアコンの風向きの加減で、私と阿久津さんとうすらハゲの方へ飛んでくる。
雲脂が鼻と口に入ると、私は咽喉と肺がやられて、げはげはという苦しい咳が止まらなくなった。

レジの周りは、草刈り後の野焼きのように「R・M」から放出される雲脂で視界が一面真っ白になった。私はしょぼしょぼした目をして、嗚咽をあげて泣きながら、這う這うの体で店の外へ飛び出した。


そして、清澄な空気を吸うために、近くにある公園に入った。公園はひとけがなく、猫しかいない。
公園の真ん中には、大きな岩を掘り出した跡に雨水が溜まってできたような小さな池があり、そのなかを四匹の緋鯉が窮屈そうにぐるぐると泳いでいた。
私はそれを無心で眺めながら深呼吸をした。
無職の私は、これからハローワークへ行かなければならない。「R・M」のような男でも仕事があるというのに、私には仕事がないというこの世の中の理不尽さに心の底から絶望しながら、池を離れた。
おそらく、二十分後くらいに、私は神妙な顔をして求人情報検索機の前に座っているはずだ。


          〜了〜




愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。

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