いらすとや_トロフィー_undoukai_trophy

随筆(2021/11/21):「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」という、色恋沙汰における呪われた賢者の石の話(1_5)(色恋ロマンティック特大感情)

1_5.色恋ロマンティック特大感情

1_5_1.他人と何らかの形でつながると、めくるめくキラキラがある

ここでは、性欲ロマンティックでドリーミーな恋愛感情を、激情という形で関連づけます。
その上で、その手の括りの激情の話、言うなれば「色恋ロマンティック特大感情」の話をします。
「他人と何らかの形でつながると、めくるめくキラキラがある」というやつです。

(ちなみにこの一連の記事では、色恋ロマンティック特大感情と、後々どうしても触れることになる性行為の話は、分けて扱うことになります。
かなり後で説明しますが、とあるえげつない理由によるものです。
まあ、性行為、えげつない話ばっかりだよ。それはそう)

ここからようやく、人は色恋沙汰のために駆動され、実際の色恋沙汰の話に踏み込んでいきます。

1_5_2.「めくるめくキラキラ」そのものが「トロフィー扱い」の産物だったりする

あんまり言いたくないことですが、色恋ロマンティック特大感情に何で憧れるかというと、たいていはそれそのものが「キラキラした背の高いカッコイイトロフィー」だからです。
恋に恋する人。そういうの、よくある話でしょう。あれを否定はしないが、それは実際には恋や恋人や色恋沙汰をトロフィーとして欲しがっているという場合がかなり多い。
ぶっちゃけ、キラキラした背の高いカッコイイトロフィーとしての値打ちのないものに、憧れる人、あまりいない。
あとは、ホルモンの都合です(最悪の発言がどんどん出て来る)

これは、もちろん、少し離れて見れば、あの忌々しい「人間のモノ扱い」以外の何物でもありません。
「自分が、自分のめくるめくキラキラのために、相手をトロフィーとして扱っている」
これを、人間のモノ扱いでなく、人間扱いの文脈で、ちゃんと正当化するのは限りなく難しいと思います。

1_5_3.色恋ロマンティック特大感情は、「目の前の存在の素晴らしさ」の話に過ぎない。「相手を対象ではなく主体だと認識する」能力は、また別に必要となる

1_5_3_1. 「相手を対象ではなく主体だと認識する」、しかも「他人の主体性を真剣に捉えて侵害しないようにする」能力は、かなり高度な発達の賜物である。ないこともありうるし、そんなことは当たり前だ

他者について考える時に、
「自分じゃない、周囲の一部である、何らかの存在」
という話と、
「自分じゃない自由意志に従い、自分や周囲にとって迷惑な不正規行動を起こす、困った不安材料のリスク」
という話と、
「自分と同じ自由意志を持ち、同等に偉い。自分の自由意志が誰かに侵害される謂れはないのと同じ理屈で、他者の自由意志も誰かに侵害される謂れはない」
という話と、
「自由意志同士の、出鱈目でない約束、契約を行う義務を負っている主体たちのうち、自分以外の誰かである。彼らは自由意志の名の下に、契約を破ってはならない立場であり、そこで破るような奴の自由意志、何やねん」
という話が、混ざっています。

***

もちろん、かなり初期の段階では、他者とは
「自分じゃない、周囲の一部である、何らかの存在」
という意味合いしか持ちません。

ここで、「存在」という言葉には、
「他者の自由意志まで考慮されている保証はない。コトやモノと同水準に思われている可能性がある」
という含意を込めています。
上に書いた、「人間のモノ扱い」の、一類型だと思って下さい。

***

もうちょっと周囲と合わせる社交や処世が発達したとしても、
「自分じゃない自由意志に従い、自分や周囲にとって迷惑な不正規行動を起こす、困った不安材料のリスク」
という話までしか到達できていません。
学校時代、たくさん目にしてきたでしょう。
(ちなみにこれはしばしば
「いじめられっ子を不快に思い、いじめをせずとも、傍観はした」
ということと同じ意味になります。
どこが違うのか、赤の他人を前にした時に、おそらくうまく説明出来ないでしょう)

これでは、「人間のモノ扱い」と言われても、まあしょうがない。
しかも、今言ったように、それはモノ扱いする人の社交処世能力とは関係ない。
むしろ、社交処世が理由であるモノ扱いというのがある。
「こいつは周囲にとって迷惑な不安材料だ」
というの、だいぶ高度な社交処世の賜物ですし、それはそれとして、「不安材料」呼ばわりは、一般に「人間扱い」からは極めて遠い、そういう振る舞いでしょう。

***

要するに、「人間のモノ扱い」は、他者性の根底にあるものです。
それだけではもちろん後々有害だし、分別のない状態なのです。
が、あるかないかで言えば、あることです。
完全に忘却の彼方で、なかったことになっているかも知れませんが、誰しもかつてはそういうことをしていたのです。
これは、発達の問題です。最初から一足飛び出来る、などという話はない。そういうものだ。
(そう言いたくないの、レヴィナス的な美意識に過ぎない)


***

ひどく恐ろしく哀しいことを言いますが、己を率直に振り返ると、「人間のモノ扱い」、何なら今もしているのではないでしょうか。
今のステージでそれをやっているとマズイ。トラブルになっている。ということが、冷静に振り返ると、今正にあるかもしれません。だったら改善した方がいいですね。

(どうするかは後で書きます。今回のこれは、そういう記事です)

1_5_3_2.「他者の主体性の尊重」が出来ている人は素晴らしい。だが、宣教師みたいな説教をしなければ、なおさら素晴らしいと思いますよ

あるいは。
たまたま、「目の前の存在の素晴らしさ」に加えて、「相手を対象ではなく主体だと認識する」ことが出来ている人、非常にラッキーです。
これによってやる色恋沙汰、かなり政治的に正しい。
色恋沙汰のタイミングで、このレベルまで、そこまで努力して達成出来ていて。
そしてそもそもそういう運にたまたま恵まれていて、本当に良かったと言えるでしょう。

だが、すっかり忘れているかもしれませんがが、はるか昔は出来ていなかった訳です。
というか、一般に、出来てなくて当たり前な訳です。

だからこそ、今、色恋沙汰のタイミングで、出来ていない人がいても、嗤うな。来た道なんだぞ。それに、そんなのは当たり前なんだ。
これは、偉いインテリ殿の、宣教師的なただしさのマウンティングに過ぎない。
解決する気もないし、責任も負えない癖に、己の脳の痒みを掻くために他人を動員したり利用したりするな。
偉いインテリ殿であり、宣教師である、などという類いの、空虚な優越感を慰めるな。
それは、そういう、劣情である。

ということを、決して忘れないようにしましょう。

1_5_3_3.「他者の主体性の尊重」と、色恋ロマンティック特大感情は、それぞれ独立のものである。「いい人だからモテる」というの、無知(ナイーヴ)が過ぎる

また、これもよく誤魔化されるところですが、色恋ロマンティック特大感情は、「目の前の存在の素晴らしさ」によって駆動されるものです。「相手を対象ではなく主体だと認識する」ことで駆動されるものではない。

後者、「ものすごくいい人」であることを保証するかもしれないが、別にそれで色恋ロマンティック特大感情が、ズギューンと生えてくる訳がないだろう。
「いい人だからモテる」というの、一般にもかなり無知(ナイーヴ)が過ぎる。単なる盲信的信念(ドグマ)でしょう。

後者は、あくまで、色恋ロマンティック特大感情を、対人関係上適正な形式に整える機能しか持たない。それはもちろん大事な話だが、前者と違い、特段ロマンティック特大感情生成したりはしない。ということには気を付けなければならない。

そこを誤魔化してはならない。それで「人に対して自分の主張の正しさを示そう」としても、まるでお話にならないのではないでしょうか。
「誤魔化している」
のに、「正しい」? 「何言ってんだコイツ」。
という話にしかならないもの。

1_5_3_4.「この素晴らしい相手のためになるように、何かして差し上げられないのか?」

そして、そうした認識から生じる謙虚さ、本当に大事ですよ。
「この色恋ロマンティック特大感情は、要するに自分の脳内だけのエゴイスティックなものである。
これに、相手が知ってか知らずかは自分は知らないが、勝手に巻き込んでいる。ということ自体は、他人という主体を自分の道具扱いしているということであり、本質的に盗人猛々しい。
相手は主体だ。人間関係の「相手」なんだ。せめて、そんな相手のためになるように、何かして差し上げられないのか?
という気持ちが大事です。
それは、色恋ロマンティック特大感情のエゴイスティックな失礼さを、ある程度は失礼でなくしてくれるでしょう。

***

あと、
「自分が相手を好きなだけでなく、自分が相手に好かれたい」
というのも、極めて自然に生えてくる感情です。
これは、不安をもたらします。
「相手に鬱陶しく思われたり嫌われたり断られたりしたらどうしよう」
これは当然、非常に強い不安です。恋の悩みの核心の一つでしょう。
ひどいことを言うようですが、これは実は
「自分じゃない自由意志に従い、自分や周囲にとって迷惑な不正規行動を起こす、困った不安材料のリスク」
の延長上にあるもの
です。(最悪なこと言ってんなコイツ)

大抵、これは
「相手に好かれるために、相手のために何かしてあげたい。感謝くらいはしてくれるだろう。そう言うことの積み重ねを貼り集めていけば、好意にまで到達するのではないか」
と言う(セオリーとしては部分的にはちゃんと正しい)ところに帰着します。
形としては上と同じですね。
ただ、この場合も、
「本当の意味で、主体としての相手が、ためになった、有難い、嬉しい、と感じるようにしたい」
という敬意には、最終的には到達しているべきです。(なぜか、の話は、この記事の中でちゃんとします)

出来れば、早く、本当の意味で、失礼でないようにしなきゃならん。
だが、失礼でならなくなるための発達段階は、当然はるか高みの話になります。(先にヒントを言うと、献身とか、公正取引とか、信頼とか、心を開くとか、そういう段階が出てきます)
でも、安心して下さい。そうした面倒な高みには、「せめて、何かしてあげられないのか?」という気持ちが、ちゃんと高速モードで導いてくれます。
だって、これを実践したら、それは、曲がりなりにも、まずは「献身」なのだから。ちゃんとではないが、出来てる。それが一番大事。

だから、そういう発想を、少しは頭の片隅に置いておいた方がよいでしょう。後でものすごく効いてくるから。

1_5_3_5.「相手を対象ではなく主体だと認識する」能力を持たない多くの人を、要するにシバキ倒すの、世俗世間では正当な罰としては別に容認されていない

「そんなことも分からないガキが、実際には人間関係である色恋沙汰に、くちばしを突っ込んでくるな」
と言いたくなる気持ち、まあ、あるだろうさ。そこは、そうだろうね。

だが、一個気を付けて欲しいことがあるんです。
「色恋沙汰にくちばしを突っ込んでくるガキは、野良犬と同じように、シバキ倒せ」
というの、違うよね。
ということだ。

そういう人たちは単に、
「シバいていい誰かをシバける地位が保証されてるの、自信と自尊心が揺るぎなくなるから、それを噛み締めて確かめるように、シバいていい誰かをシバきたい」
だけだ。
これ、彼らが未だに、「おとなこども」であることしか意味しないからな。分かるでしょう。
この時期に、
「ザコだったら暴行陵虐してよい」というのはおかしい」
という大人の理屈を蹴っ飛ばしている時点で、
「大人じゃないおとなこどもに過ぎない」
ということの、かなり言い逃れの利かない明確な証ですよ。
気を付けねばならない。

ということで、他人のこれを、マズさも改善案も示さず、ただ非難してはなりません。
「先輩上司親教師気取りがガキをイキイキとシバく」
以外の何物でもないですし、そんな人は「気取り」であって、決して先輩上司親教師として適格とは思い難いので…

1_5_4.世俗世間では、差別的不利益取扱いは、たいてい揉め事の元になる

1_5_4_1.陽キャと陽キャになった人と陰キャの相互不理解

ここから、また地獄めいた話をします。

陽気で面白い人が、自らを「陽キャ」と呼び、陰気でつまらない人「陰キャ」と呼んで、バカにするじゃないですか。あれ、ある意味当たり前なんですよね。

最初から陽気で面白い人にとっては、そりゃあそれとは違う、陽気でも面白くもない人なんか、ただのよそものに決まってる。まして劣っているように見えたんなら、劣ったよそものに対する態度、そんなもんふつうは虫けら扱いになる。

別の立ち位置に目を向けると、陽気で面白いキャラであるために頑張って来た人には、その努力が出来ない人は、そりゃあやり方の見えていないバカやる気のない怠け者にしか見えないだろう。
まして、それでもなお色恋沙汰に憧れる陰キャのことなんか、曖昧に「棚から牡丹餅(色恋沙汰)が落ちて来たらいいなあ」と言っている盗人猛々しい盗人にしか見えてないだろう。

陰キャとしては「でも棚から牡丹餅は落ちて来ないんだよなあ」というのも当然百も承知だし、「でもでも、牡丹餅は落ちて来て欲しいし、恋に落ちたいんだよなあ」という願望もなくせない。そんなことは当たり前だ。
だが、頑張って陽キャになった人たちからすれば、何ら当たり前ではない。だって彼らは「牡丹餅を手に入れられるように頑張って、牡丹餅を手に入れた」勝利者たちなのだから。「手に入れればいいのに何をもたもたしているんだ怠け者め」以外のことがもう考えられなくなっている。だからこそ、熱血指導教官顔で「じゃあ努力しろよ。それが出来ないなら諦めろよ。バァカ」と安易に言っちゃうんですよ。
そういう観点からすると、陽キャになった人陰キャに対する虫けら扱いのメカニズム、非常に明快だ。陽キャになった人も、陰キャも、身に覚えがあるのではないでしょうか。

もちろん、陰キャからすれば、陽キャになった人が熱血指導教官顔で何か言えば言うほど、「新規参入出来ないようにしておいて、何ドヤ顔で説教してんだ。盗人猛々しいんだよバァカ。説教強盗のくせに」という気持ちしか湧いて来ない。
当たり前だろう。陰キャと、陽キャになった人と、陽キャが、並んだら、まあ陰キャが選ばれる可能性はまずない。
平たく言うと、陰キャが戦わなければならないのは、陽キャと、他ならぬ陽キャになった人だ。
じゃあ、そいつらから説教を受けたら、「お前が言うな」以外、基本有り得なくないですか。シンプル。

***

それに、別の話もある。
陰キャは、陽キャになった人や陽キャと戦わなくても、自分が陽キャデビューすればよい訳だ。
だが、陰キャが陽キャになる方法は未だに確立されておらず、労力やコストもデタラメに高く、そのくせ成功率は低い。
そうして陽キャデビューのために注がれる努力、人によっては、ギャンブルと同じくらいバカバカしいものに映る。コストが高くて、成功率は低く、勝利への道筋などというものはないんだからな。
何なら、手間がかかる分、ギャンブルより苦痛が大きいまである。そんなの、到底やってられない。
そもそも、努力しても報われてない人に、「ギャンブルよりも苦痛を伴う呪術で、いつかは報われる」という話、するか? どういう神経でそんな話を口に出来るのか、まるで理解できない。それでは「そいつを破滅させたい」という悪党外形的に区別出来ない。

最悪の場合、陽キャになった人や、陽キャが、親切めかして吹き込む陽キャデビューのやり方は、全部デタラメであることすらありうる。というか、しょっちゅうそうだ。
自分がアドバイスして、誰かが失敗した時に、連帯責任、負いたくないじゃん?
 それはそうだが、じゃあそのアドバイスは、水が低きに流れるように、どんどん果てしなく無責任なものになる。
当然、こんなことをされたら、新規参入の障壁は、そりゃあ爆上がりになるに決まってる。
陽キャになった人や、陽キャは、陰キャの陽キャデビュー、新規参入に対して、「誰」がハードルを設けて高さを爆上げしているのか、少し冷静に考えた方がいいですよ。そういうことをしているし、私はそういう話を今しているのです。

「何でああいう意地悪をするのかな」と常々思ってはいた。
だが、そもそも彼らも
「こうしたからうまくいった」
という何らかの固定観念を全く疑っておらず、
「なぜ自分がそうなれたか。何らかの条件がなければ、こうはうまくは運ばなかったのでは?」
などと冷静に振り返ってなどいないのだ。

つまり、
「分かってないことを分かってないままに説教している」
のだ。
そりゃあ責任なんか取れっこないに決まってる。アドバイス罪の、それも極めて悪質なやつだ。
まあ、そりゃあそうなるよね。疑って振り返る訳がない。
成功したらその時点で
「達成された。めでたしめでたし。終わり」
なんだし、そこであえて
「今回の恋が破綻したら、次うまくやるためにどうするか」
という、色恋ロマンティック特大感情をドブの味にするようなことを考えている成功者、あんまりいない。

(成功のさなかにありながらこれが考えられるようになったら、一国一城の主、経営者たる社長さんにもなれるのだろうが、社長さんになることと、色恋沙汰との間に、互換性はそれほどないように思う)

そうなると、そういう人が語る成功例には、生存バイアスがそのまんま詰まっており、それを真に受けるとふつうに火だるまになる。
そんな失敗者を見て、成功者は
「ああ、自分と同じ事をしたのに、あいつは失敗した。才能がないから失敗するんだ。あいつ、才能ないなあ」
とふつうにナメるんですよね。

そうじゃないし、
「自分の成功は運であり、才能の寄与しているところは少なく、自分が偉い、という話も別に成り立たない。
まして、自分が成功しておきながら、他人を間違った方向に導いたんなら、何ならもうその時点で卑しいまである」

という可能性について、少しは真面目に考えた方がいいですよ。

そうなると、「結果的には」、陽キャになった人や陽キャ「が」、陰キャの成功を、様々な形で妨害している。という話でしかなくなる。
だから、彼らが成功体験を盾に陰キャを煽れば煽るほど、それは傍目からは極めて盗人猛々しくなる。

「要は、勇気がないんでしょ」
というフレーズが、昔あった。
ぶっちゃけ、
「生存者バイアスと勝ち筋の区別がつかないようなアホが、人前でせんずりぶっこいて、人様の顔面にきたねー汁をぶっかけて、他人を自分の言いなりにさせようとしてんじゃねえぞ。他人にやらせたことの責任も取れないくせに。この男根主義者が」
という気持ちしかないですね…

1_5_4_2.陰キャに対する、「劣った人をスナック感覚でおもちゃやみせものとして扱ってよい」という未発達、後々大きな問題になってきますよ

あんまり言いたくないけど、人間、色恋沙汰の時点では、そこまで発達してないんだろうが、
「劣った人をスナック感覚でおもちゃやみせものとして扱ってよい」
というの、後々大きな問題になってきますよ。
それではもちろん対等な人間関係出来ないし、対等な人間関係を維持するための努力もっと出来なくなる。(この辺の話については後で細かくしていきます)

「自分は他人のおもちゃやみせものではない」
という発達は非常に早くからあるものだが、
「他人も自分のおもちゃやみせものではない」
というのは、かなり後になってからの発達だ。
おそらく、色恋沙汰より、遅い。


もちろん、他人をおもちゃやみせもの扱いしちゃう人は、「そこ」までの発達が出来ていない訳です。

それはまあそういうものだし、そこでバカにすることもしない(しちゃいけない)んだが、俺はそういう人と対等な人間関係を結びたくない。不干渉でありたい。
だって、その人は、そういう対等な人間関係を結ぶ能力も、それ以上にその意図もないんだからね。
というか、不平等な対人関係であろうが(であるからこそ)結びたくないんですよ。
端的に、関わり合いになりたくない。お引き取り下さい。

1_5_4_3.トロフィーとして見栄えの良くない、色恋ロマンティック特大感情を駆動しない相手を、ガラクタ扱いするの、後々の社交や処世に、悪く効いてきますよ

色恋ロマンティック特大感情は、(外形的に、ではなく、体質的、内分泌的な意味含め)思春期から成り立ちうるものだ。
なので、たいていはどうしても、大人なら自制するレベルの、ある種の「差別」の問題と切り離せないし、区別が出来ない。

それはそうだろう。「キラキラしていない人を、むしろキラキラの価値観に反する人を、だからってガラクタのように見たり扱ったりするな」というのが、出来ない人は、かなりたくさんいる。
何なら「それらのガラクタ扱いは許されており、だから悪いものではない」と信じ込んでいることすらある。

これは「その文化圏のその社会が、低位者への差別的不利益取扱いや、それを容認するというポーズを容認すると、文化がバグったり社会に有害になるから、しない」文化圏や社会だと、後で猛烈に揉める元となる。
ついでに言うと、そういう規範意識は、教わって、慣れるか納得するかして、内面化しないと、そうはならない。ということだ。なので、その手のプロセス、大人と子供で、どうしてもものすごく差がある。

「低位者への差別的不利益取扱いや、それを容認するというポーズを容認する」というのは、例えば侮辱とは一般にそういうものです。
だからそこが見えている人がキレるのであり、足利貞氏のように「ナメられたら殺す」になる訳です。

別に、これは彼らが単に野蛮(?)だからという訳ではない。
むしろ、彼らを怒らせる人たちの方こそ、侮辱に鈍感な上に、相手を野蛮(?)と称して、「彼らが悪いのであって自分は悪くない」と悪者扱い&自己正当化するんだから、かなりヤバイと言えます。気を付けましょう。

***

「最低限度の人間としての地位」を与えたくない。
「地位に寄与する類いの評価」を認めたくない。
だから「評価に値せず、最低限度の人間としての地位も認められないので、のびのびと気を遣わず、ガラクタのように扱ってよい」。

というの、良くないですよ。少なくとも、21世紀の日本の多くの局面で、ものすごーく揉めるから。

広義のヒトと呼べる前の、類人猿初期の大昔は、偉いアルファ個体のいる、地位がある社会だったかもしれない。
しかし、いったんヒトは、かなり後になって、バンド社会部族社会をやっているかなり長い間、地位を人工的に「ならして」平等主義を志向して、そのような社会体制を築いていた。

類人猿初期の何らかの本能しかないのならまだしも、バンド社会や部族社会の価値観や文化が残滓として残っている。我々はこれらを排除出来ていない。している訳がない。する謂れがないんだから。
例えば、バンド社会以降、平等主義は、バラバラにしてもミミズのように数世紀スパンで生えてくる。だから地位の転覆ということはしょっちゅう起きる。地位に胡座をかいていられるような生き方、出来ないんだ。

んで、類人猿初期の何らかの本能の話だけして、バンド社会や部族社会の価値観や文化の話だけ都合よく無視するの、今の社会での社交処世を、何かにつけて妨げますよ。平たく言えば、社交処世出来ない。ということになってしまう。
これ、「蔑んでよいし人間扱いしなくてよい」文化圏や社会にいるなら、かなり破滅的であると言える。だって、これ、自分が食らうかも知れないんだぜ。ものすごーく不利益になりますよ。
それが嫌なら、やはり面倒でも、「蔑まず人間扱いする」ことを実践して、それを対外的なシグナルとして、「蔑まず人間扱いする」文化圏や社会に移り住むしかない。
もちろん、これは、面倒ですよ。文化の習得が要る。訓練がなくても出来る性質のものではない。
そっちの方がより嫌だというのなら、あくまでそれらの訓練なしでも成り立つ「蔑んでよいし人間扱いしなくてよい」文化圏や社会にいてもいいんだ。やはり、自分がその弊害をモロに食らう可能性は排除できないが…

1_5_4_4.集まり(クラス)や場(テーブル)における最低限の参入障壁は、どうしても避けられないし、成員になるならそこは守らねばならない(がそれ以上を要求したりされたりしてはならない)

とはいえ。
社会はしばしば「これをやれない人はここではやっていけない」という類いの、最低限度の参入障壁の資格を、暗黙の前提として設けている。
変な話だが、先進国では、最低限度の参入障壁の資格そのものは、万人に平等に与えられていて、それは基本的には人によって増えたり減ったりしない。これは、法の下の平等ある種の趣旨の一つとも言える。(法の下の平等はもっと高度な要件を求めて来るけど、それはそれとして上の話に何ら変わるところはない)
これは、機会の平等、機会均等へとつながる。(後には結果の不平等もたらすとはいえ)努力したら報酬がある、大事な公平のための、大事な条件だ。

で、ここで「私はコストを払わず、周囲にコストを払わせて、便利と利益だけ得る」なんてこと言い出したら、まあえらいことですよ。
そういうのを野放しにすると、かなり多くの場合、ただ乗りを横行させ、場を荒廃させ枯渇させる。
だから、かなり多くの社会においては、最低限度の参入障壁の資格を無視して土足で上がり込むする行為を許していない。
思い知らせる「訓戒」や、場に立ち入らせない「追放」を含む、何らかの「制裁」、「罰」がセットになっている。

んで、ここで要求されているコストが、「他人を侮辱しない」だったら、それはやらなきゃならない訳さ。これはもう避けられない。

***

話を戻すと、色恋ロマンティック特大感情を抱くような皆が皆、低位者への侮辱をしないことが出来ている、カタギの大人ばかりじゃない。
というか、前者が出来ていて後者が出来ていない人、かなりいる。これには、何らかの発達段階の都合もあるのだろう。前者は適齢期が比較的早く、後者は適齢期が比較的遅いのだろうと推測される。
で、そういう状況下だと、色恋ロマンティック特大感情に反する人は、一般にガラクタ扱いになる。
それは、「人様をガラクタ扱いしないこと」が大事になる界隈での社交処世で、ものすごく揉める。
出来るだけ早いうちに、脱した方がいいですよ。ここはちゃんと解決しておいた方がいい案件です。

1_5_4_5.だから、「相手の主体性への敬意」を、きちんと示す

「あなたは素晴らしい」
ということは、非常に重要です。
「他人から評価を受ける」
ということは非常に嬉しいことで、これをする人は、しない人より、もちろん大幅に好印象を持たれやすくなる。
(場合にもよる。「こんなやつに好印象を持たれても脅威でしかない、こっちは逆に悪印象を持った」ということだってざらにある)

でも、
「あなたは素晴らしい」
という話をする時に、
「あなたは素晴らしさの機能を『保有する』『主体(オーナー)』だ」
ということなら良いが、
「あなたが素晴らしさの機能を『備える』『対象(オブジェ)』だ」
ということだと、これは揉めることがある。
少なくとも、言われた側は、これをしばしばかなり敏感に察知し、ものすごく気にするんです。
「こんな素晴らしさを『備えている』なんて、『これ』は素晴らしいなあ」
というトロフィー扱い嬉しがる人はあまりいない。
あくまで、
「こんな素晴らしさを『持っている』なんて、『あなた』は素晴らしいなあ」
でなければならない訳です。
微妙なニュアンスだし、感情の内容は何ら変わるところはないだろうが、外形的には(というか、相手に示されたメッセージとしては)決定的なところだ。

というか、この手の「LESSON4 敬意を払え」というの、礼儀として出来ておいた方がいい。
色恋ロマンティック特大感情そのものは、このような礼儀としての敬意がなくても、出来る。
だが、そこから先、「何かしてあげたい」時に、「敬意がない」ようでは、一歩も先に進めない。そんなんではお話にならない。その「何かしてあげたい」っての、結局はエゴイスティックなものに留まる。
敬意がないんだから、相手が喜ぶかどうか、実は考えていない。
だから、当然、
「そんなものは要らねえんだよ。どこに目付けてんだコイツ。クソが」
ということも多々ある。
つまりは、その献身は空振りになる可能性が大幅に上がる。
これでは、労力コストやその他リソースをドブに捨てるためにやってるのと同じ。
それじゃダメでしょう。

***

キラキラした魅力レベルでの「目の前の存在の素晴らしさ」と、まともな社交処世レベルでの「相手を対象ではなく主体だと認識すること」は、こうして統合される。そして、これが出来てからが始まりなのだ。
色恋ロマンティック特大感情の始まりの在り方はともかく、実際に相手に示す時点では、是非この形式でやっていきましょう。

1_5_5.図式的な矢印。発達段階は人によってはジャンプできる。が、丁寧に全部踏みしめた方が、私はいいと思う

ちなみに、前回書いた

そもそも安全安心でありたい
→仲間内での自分の立ち位置の確保
→承認されるだけの外形的即物的な才能を研ぐ
→承認されるだけの風格
→キラキラしたもの・隠された輝き
→色恋ロマンティック特大感情

という矢印は、このようには流れません。
というか、一つ二つまたいでジャンプすることの方が多いでしょう。
立ち位置か、才能か、風格か、魅力があれば、それで色恋ロマンティック特大感情に直結する人も多い。
これは、その人の思考回路とか適性とかの話です。だから、ケースバイケースになります。
この矢印は、あくまで一番迂遠な成り行きになった場合、とお考えください。

もちろん、丁寧にやると丁寧な効き目があるでしょう。
というか、やらないと、微妙な漏れがあるので、刺さった棘のようにずーっと後を引いて、後で揉めるんですよ。
しかも、解決が難しい。本人たちは「うまく行ってる得意なジャンル」と思っているだろうが、実際には放置している訳だし、しかも本人たちはその放置状態を「は? 俺は詳しいんだ」と否定までし出すからな…

***

ちなみにこれは今回

色恋ロマンティック特大感情
→自分が相手から好かれたい
→相手の不正規行動への不安
→何かしてあげたい
→相手の主体性への敬意

まで伸びます。
後は、また、次回に続きます。
次は「相手のために何かをする、即ち、実際に献身をするには、どうすると良いものか」と言う、今までと比べて、かなりクリーンな話になると思います。乞うご期待。

(続く)(そもそもの全体の記事の題名からして、ろくでもない続編になりそう…)

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