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桂小五郎青雲伝 ー炊煙と楠ー       第一章 初雪に笑う



                           火山竜一 
 目次リンクの次に、第一章が掲載されております。

         目  次

各章のリンクを以下に貼りました。お楽しみください。 

   第一章   初雪に笑う

    第二章   朝餉騒動       

    第三章   人さらい始末     

    第四章   その名は吉田大次郎   

    第五章   関ケ原を忘れるな   

    第六章   桂家の御曹司    

    第七章   弥之助の稽古が始まる 

   第八章   早苗、嫁になれ    

    第九章   額の傷は、名誉の傷か 

    第十章   大次郎、壁にぶつかる 

   第十一章  明倫館の朝がくる    

    第十二章  小五郎と大次郎    

    第十三章  殿がはたと膝を打つ   

   第十四章  闇に光を       

    第十五章  けじめの時は今    

    第十六章  濁流を越えよ    

    第十七章  最後の鼾(いびき)        

   第十八章  飛翔と転落と

   第十九章  撃剣、終わらず 

    第二十章  対決の炎  

    第二十一章  お豊を救え      

    第二十二章  炊烟と楠    

 第一章  初雪に笑う

  お清は、小五郎の全身から発する熱に飛び起きた。
 闇の中で寝床から抜け出ると行燈に火を灯した。
 冷え切った四畳半の茶の間を、弱々しい行燈の明かりが揺れている。

「どうしたの」

 お清は掛布団の掻い巻きを羽織ると、小五郎を包むようにして抱き上げた。
 弱々しい明かりが小五郎の顔を照らし出した。顔はお清の手のひらに収まりそうで、髪は柔らかくささやかだった。
 お清にとっては、このような夜が、もう何回も続いていた。
 体の疲れが取れない。
 お清は夫である和田昌景に小五郎を押し付け、朝までぐっすり眠りたいと思った。
 お清には、目を閉じた小五郎の顔が、赤らんでいるように思った。
 小五郎の発する熱が、夜の凍える冷気の中で、母であるお清の胸元を温めている。
 お清は小五郎の顔を覗き込んだ。
 小五郎の目がうっすらと開いた。

「小五郎や、どこを見ているのですか」

 小五郎の焦点の定まらぬ目は、お清の上の真っ暗な天井に向けられている。
 朝の弾けるような小五郎の笑顔は、どこにもない。昼時には、小五郎の口はお清の乳房に吸い付いていたのに、今はかすれた息が漏れているだけだ。
 お清の小五郎を抱きしめる腕に、ふと力がこもった。

「母より先に死んではなりませぬ。わかりましたか」

 お清の耳に、小五郎の吐く息がかすれて、うめき声のように聞こえてきた。
 小五郎(後の桂小五郎)は、天保四年六月二十六日(一八三三年八月十一日)に萩藩呉服町通称江戸屋横丁の和田家に生まれて、初めての冬を迎えていた。
 お清に、襖の向こうから虎の吠えるような鼾(いびき)が聞こえてきた。鼾の主は、夫の和田昌景(まさかげ)である。
 今、昌景は六畳間に、きっと大の字に寝ていることだろう。
 お清は昌景が口を半開きにして、お清の苦労も知らずに、夢と戯れているように思えてならない。
 少し忌々しくなってきた。
 お清は襖を睨(にら)んだ。
 五十四歳になる昌景は、毛利家の御典医で、外科医と眼科医をしている。藩に許されて、武士以外の治療もしていた。
 昌景は朝から遠方に往診に出て、夜に疲れ切って帰ってきた。ひと風呂浴びて、夕餉の後は、隣の六畳間にお清が敷いた布団に潜り込み、すぐに寝入ってしまった。
 お清が小五郎を産んだのは、昌景に周防大島から嫁いで六年目である。和田家にはすでに先妻の娘のお捨とお八重がいた。
 お清は昌景より三十歳近く年下である。お清にとって、昌景は夫のようでいて、父のようにも思えこともある。
 長女のお捨には、周防宮市で町医者の兄について医術の修行をしていた文譲(ぶんじょう)という夫がいる。和田家に養子に入った跡継ぎであった。
 文譲とお捨には、なかなか子ができず、先に父である昌景とお清に子ができた。小五郎である。
 お清は小五郎に話しかけた。

「お捨さんにも、子ができるといいのにね」

 文譲は、小五郎にとっては二十四歳も年上だが、義理の兄ということになる。
 昌景の鼾が襖を揺するように響いて、死んだように止まった。
 四畳半の茶の間は、静まり返った。
 昌景の息が止まって、六畳間に気配がなくなった。
 小五郎が小さく咳(せき)をした。お清の胸元で震えるように身を揺すった。
 とたんに、激しい鼾が破裂して、襖を蹴破るように吹き返した。
 お清は堪えきれず、つい襖に声をかけた。

「旦那様、旦那様、小五郎が熱を出しました」

 奥の部屋から歯ぎしりの耳障りな音がした。
 昌景が何か寝言をいっている。
 お清が耳を澄ましたとたんに昌景が叫んだ。

「いかん。止血(しけつ)せよ」

 またしても鼾がぶり返した。
 お清は二年ほど前から昌景の寝言を聞くことがあった。飢饉で萩藩とその支藩全域にわたり、百姓一揆と打ちこわしが次々と発生していた。
 昌景に、騒動のたびに怪我人が出ては往診の依頼がきた。
 お清が手を小五郎の額に当てると、突然小五郎は激しく首を振った。
 お清は思わず、もう一度昌景を呼んだ。

「旦那様、旦那様、起きてくださいませ」

 お清が襖を開けようとすると、外で木戸門を激しく叩く音がした。

「和田先生、和田先生、お願いします。夜分、すみません」

 和田家の門は、大人二人も立てば狭く感じるような木戸門である。
 鼾は止まった。
 襖越しに布団から跳ね起きる気配がした。
 お清と小五郎の部屋に、襖を通して畳を踏みしめていく重い足音が響いた。
 足音は診察の脇の玄関で止まった。
 和田家の玄関は二つあり、台所に近い玄関が木戸門の正面、診察室や奥座敷の前の玄関は木戸門の右脇にある。
 お清は寂しそうな顔をして小五郎を見下ろした。

「また、往診よ」

 お清はため息をついた。
 玄関の戸が引かれて、表の門が開く音が聞こえてきた。
 昌景の低い声がした。

「ご苦労さん。おや、結構な雪じゃなあ。初雪か。さあ、こっちの玄関に入りなさい」

 玄関で戸の閉まる音がして、診察室脇で使者が昌景に早口で何事かを告げている。

「また、強訴か。一揆はどこじゃ」

 お清は顔を上げて、耳を澄ました。
 昌景が大きな声で確認している。
 使者は息が苦しいのか、呻(うめ)くように答えている。

「奥阿武の吉部(きべ)か」

 萩近郊の山間(やまあい)の村であった。

「足軽と百姓たちが、押し合いまして、重なって石垣から落ちやした」
「勘場(代官の役所)の石垣は、高くないはずだが……」

 体が壁にぶつかるような音がした。

「しっかりせい。吉部から休まず走ってきたな。さっ、ここに座りなさい」

 小五郎が眉間に皺(しわ)をよせて気難しげな顔をした。
 お清は小五郎の耳元に口を近づけた。

「そんな顔をしては、いけませぬ」

 使者は昌景に足軽と百姓の双方にかなりの怪我人がでたと訴えているらしい。
 昌景の相槌が何度も聞こえた。
 お清は小五郎を見つめた。

「小五郎や、お前の治療はまた後回し。我慢なさい」

 昌景の声が響いた。

「あい、わかった。急ごう」

 玄関から廊下を足音が渡ってくる。
 足音はお清と小五郎がいる四畳半の茶の間の前で止まった。
 脇に階段がある。
 昌景が二階に声をかけた。

「文譲、起きろ。仕事だ」
「あんた、起きて。父上が、お呼びよ」

 二階からお捨の声が聞こえた。
 二階の庭側の四畳半から、文譲のくぐもった声が応えた。

「父上……ただ今、参ります」

 二階から文譲の足音が、足元を探るようにして恐る恐る一歩また一歩と、狭い階段を下りてくる。
 廊下で昌景が文譲に手短に用件を伝えている。
 二人の足音が診察室に向かい、玄関に薬箱など往診の道具箱を置く音がした。
 二人の足音が改めてお清と小五郎のいる四畳半の前で止まった。

「父上、母上を起こして、大丈夫でしょうか」

 お清に文譲の声が聞こえた。

「文譲、あとで、お清が『なぜ知らせぬ』と口を尖(とが)らすであろうが」

 お清と小五郎の寝ている四畳半の廊下側の襖が、少しだけ開いた。
 昌景の肉付きのよい顔が覗いた。
   昌景は行燈の明かりに驚くと、一気に襖を押し開いた。
 入口をふさぐように肥えた昌景が立ち、その後ろに頭一つ高い文譲が覗(のぞ)いている。
 昌景は頭を剃っているが、文譲は総髪のまま束髪にしていた。
    二人とも、すでに往診用の長合羽を着ていた。
 昌景と文譲は、顔を見合わせた。
 二人は急いで部屋に入ると、昌景は小五郎を抱くお清の脇に座った。
 お清には、一気に部屋が狭くなったように感じた。

「どうした。なぜ、わしを起こさぬ」

 お清は小五郎を抱えたまま、昌景に背中を向けた。

「呼びました。何度も、何度も。ねえ、小五郎や」

 昌景はにじり寄り、すぐに小五郎の首筋や手首の脈を取った。

「許せ。わしは夢でも見ていたのであろう。ちょっと診(み)せなさい」

 昌景の脇に文譲も座った。
 昌景は小五郎の口を開けて、舌を調べる。瞼を開いては、目の様子を診た。

「流行りの風邪か。このままでは、引きつけるかもしれぬな」

 文譲が昌景の肩の上から首を伸ばして、小五郎の顔色を窺(うかが)っている。文譲は細く長い手をひょぃと伸ばすと、小五郎の額に手のひらと手の甲を当てた。

「父上。解熱の薬を処方いたしましょうか」

 文譲の小唄でもやりそうなよく通る声が響いた。
 小五郎は嫌がって、文譲の手を振り払おうとした。
 お清が強く抱きしめて、小五郎を抑える。
 昌景が首を軽く振った。

「我らでは匙(さじ)加減がわからぬ。薬が強すぎると危ういことになる」

 文譲の後ろから、声変わり中のかすれた声がした。

「昌景様、昌景様」

 開いた襖から、使用人の友藏が顔を出した。
 友藏は昌景と同郷で、まだ十三歳である。
 昔、昌景が縁者に不幸があり故郷に帰った際に、赤子を抱いて連れ帰った。以来、昌景は、粗末な産着の赤子を友藏と呼んで、家族同様に育ててきた。
 お清が昌景に友藏の経緯を尋ねると、昌景は珍しく陰気な顔をして「拾ってきただけだ」としか語らなかった。
 友藏は大きくなるにつれて、文句も言わずに家族の手伝いをした。
 膳を出す。皿を洗う。力がつくと井戸水を汲み、薪を割。風呂を沸かし、台所の手伝いをした。最近は算盤も覚え始めている。
 友藏は勝手口の脇の小部屋で、寝起きしていた。
 昌景が振り返った。

「友藏、起きていたのかい」
「へえ。門の音で、びっくりいたしました。また急患でございましょう」

 友藏はお任せくださいと、頬を膨(ふく)らませ目を細くして笑った。
 目が落ちくぼんで、顎(あご)が少ししゃくれている。笑うと愛嬌のよい猿のような顔になる。
 友藏は、学問にはとんと関心を示さないのに、家事全般は驚くほど覚えが早い。

「小五郎様のお熱は、いつものこと。稚児医(小児科医)の吉田良庵先生のところに、ひとっ走り行ってきます。朝までには、来ていただけるかと思いまする」

「良庵殿の家は、ちと遠いが、すまんな、友藏。ついでに、この雪だ。我らの雨笠と蓑を、玄関に出しといてくれ」
「へい。承知いたしました」

 友藏の顔は引っ込んだ。
 小走りで遠ざかる足音が聞こえた。
 昌景は改めてお清に向き直った。

「お清、今出ないと、夕方までには現場に着けぬ」

 お清は顔を上げて、昌景を見つめた。

「行ってくださいませ。小五郎は乳でも飲ませば、落ち着きまする」

 お清は胸をはだけると、小五郎に乳首を含ませた。
 乳房が行燈の明かりの中に浮き上がった。
 小五郎は乳首を口に咥(くわ)えると、すぐに外した。
 昌景は、優しく教え諭すように小五郎に声をかけた。

「小五郎。わしは早く帰ってくるゆえ、辛抱しなさい。良庵先生は『七歳まで生きれるかわからん』と申していたが、わしはそうは思わん。お前の体は必ず強くなる。大丈夫、大丈夫」

 文譲が割って入った。

「私は父上が心配です。父上は一揆の騒動が起こると、いつも丸腰のまま、お役人と百姓たちが刀と竹槍や鎌を構えてにらみ合ってる真ん中に入って行かれます。あまりにも、危のうございます」

 文譲は己の掻い巻きの胸を押さえながら口を尖らせた。早口だった。

「父上、先ほどの話では、此度(こたび)は結構な人数だとか。これでは護衛の者をつけてもらわねば、何が起こるかわかりませぬ」

 文譲は先ほど玄関で薬箱の用意をしていたときに、手短に現場の様子を使者に尋ねていた。
 昌景は笑みを浮かべて、静かに首を振った。

「文譲よ。そのほうが危うい。我らに用があるのは、怪我人のみ。怪我の痛みに武士や百姓の区別はあるまいが。よいか、気の立った者に、われらの立場を知らすことが肝要なんじゃ」

 昌景はお清ににじり寄った。
 お清は昌景を見つめ、昌景に小五郎を近づけた。
 昌景は両掌(りょうてのひら)で小五郎の頬を包みこんだ。
 お清は小五郎が薄目を開けて昌景を見上げているのが、何かを訴えているように思えてならなかった。
 お清の声がきつくなった。

「小五郎が熱を出すときは、いつも往診」

 お清の声を意に介さず、昌景は小五郎に微笑んだ。

「小五郎よ。留守を頼むぞ。母上を守ってくれ。よいな」

 お清の頬が膨れた。
 立ち上がる昌景に、お清の声が追いかけた。

「また、戯言(ざれごと)を。小五郎に分かるはずが、ありませんでしょ」「戯言ではない。わしの望みじゃ。さてと」

 昌景と文譲は、奥の部屋で着替えると、使者が待つ玄関に出た。

「村まで足は大丈夫かい。では参ろうか。行くぞ、文譲」

 昌景と文譲は使者を促し、雪降る中を山間の村に向かって行った。
 四畳半の隅で、行燈(あんどん)の灯芯が震(ふる)えていた。
 お清は小五郎の足をさすった。
 さすり続けた。

「小五郎や。大丈夫、大丈夫」

 お清は昌景の言葉を呪文のように繰り返した。
 小半時(約三十分)ほどしたであろうか。
 鈍い行燈の光の中で、お清も急に眠くなってきた。お清は瞼(まぶた)を閉じて、深く頭を垂れた。
 お清の胸元で、いつの間にか小五郎も、寝息を立てていた。
 行燈も灯が力なく消えていく。
 どれだけ経ったであろうか。
 お清は頬に何かが触れるているのに気が付いた。小さな指である。
 指先の柔らかい感触がお清には心地がよかった。
 お清は目を開けた。
 障子の外がぼんやりと明るみ始めていた。
 お清は見下ろすと、小五郎が笑顔を向けている。
 小五郎の小さな体の熱は、すでに下がっていた。
 小五郎の手が、お清のすべすべした頬を何度も掴(つか)もうとしている。
 お清は小五郎の指に、そっと口づけをして微笑んだ。

「父上様のお言いつけ通り、母を守ってくれるのね」

 小五郎の苦し気な顔は、どこにもなかった。
 お清は目を細めては、小五郎の指先の戯れに合わせて頬を膨らませた。
 あたりが、さらに明るくなってきた。
 お清は小五郎の瞳に語り始めた。

「旦那様が『雪だ』って、いっていたわね。お前は萩の雪景色を見たことがなかったね。お城も、菊ケ浜も、町も、真っ白になっているんだよ。ずっとずっと遠くの雪国のようにね。大きな川が二つ、雪の中でも凍らずに流れているの。川は怒ると、とっても怖いけど、いつも萩の街とお城を守っているの」

 山合から流れ出る阿武川(あぶがわ)が、両手を開くように東に松本川、西に橋本川となって、萩の城下町の外を包むようにして、蛇行しながら広がって海に流れ込んでいる。
 萩を守ってきたとも、氾濫(はんらん)して人々を苦しめて、三角州を作ってきたともいえる。
 庭に朝日が差し込んで、障子越しに四畳半に光が満ちてきた。
 お清は小五郎を抱えたまま、少しだけ障子を開けた。
 雪が止んでいる。
 入って来る冷気の向こうに初雪が光っていた。
 お清は小五郎を抱き直して、さらに障子を開いた。
 狭い庭は雪に覆われていた。
 石灯籠も松の木も、純白の衣装に包まれていた。
 雪は軒先から差し込む朝日に照り映えて輝いている。
 お清は雪が眩しくて目を細めた。
 昨日の庭と今日の庭は、別の世界であった。
 庭の向かいには、直目付の佐伯丹下の家がある。佐伯家の前の影に、小さな楠が植えられていた。

「小五郎や。産まれた時に、円政寺の和尚様から、もらった楠ですよ」

 小五郎はじっと見ている。
 楠の背丈はまだ小さい。
 枝が積もった雪の重みで撓(しな)って、老婆の背のように曲がっている。枝は今にも折れそうだった。
 楠の枝から雪が滑り落ちた。
 枝が勢いよく跳ね上がった。
 小五郎が弾けた。
 小五郎はお清の胸元から身を乗り出すようにして笑い声を上げた。
 お清は咄嗟(とっさ)に小五郎を強く抱きしめた。

「どうしたの。何がそんなに、おかしいの」

 小五郎は、万歳するように両手を振り上げる。
 枝から次々と雪が落ちて、楠が大きく揺れた。
 小五郎はお清の膝を押し返すように蹴る。
 何度も弾けるように笑っては、お清の胸で仰(の)け反(ぞ)った。



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