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桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠―    第二十二章  炊煙と楠

『 小五郎伝 ― 萩の青雲 ―  第二十二章  炊煙と楠 』 

                           火山 竜一  

第二十二章   炊烟と楠 

 嘉永五年(一八五二年)九月三十日(晦日)。
 よく晴れた早朝、文譲が江戸屋横丁で見まわしている。

「小五郎、弥之助は。友藏もおらん。どうしたんだ」

 小五郎が、苛立つ文譲をなだめた。

「私が弥之助と友藏に用を言いつけました。ご心配なく。途中で、弥之助と友藏に会いまする」

 小五郎は、野袴に脚絆を巻いて腕に手甲(てっこう)を付けている。打裂(ぶっさき)羽織(ばおり)から大小の刀の柄(つか)袋(ぶくろ)が突き出ている。荷物を入れた旅嚢(袋)を背中に襷(たすき)がけにして、他に防具袋と竹刀を肩からかけていた。

「兄上、しばしの間、勝三郎をよろしくお願いいたします」

 文譲は総髪をすっかり剃って、昌景のように剃髪にしている。体が細身なため、小さめの頭が、余計に小さく見える。剃ったばかりの頭が、秋の風に冷え冷えとしていた。
 文譲は小五郎を見送ってから、往診先に寄って登城する予定だった。着流しに、十徳の羽織を着ていた。
 文譲は小声でいった。

「やっばり、江戸に行ってしまうのか。頭ではわかっていても、いざとなると寂しいな」

 文譲は木戸門に目を向けた。
 奥で、お治と勝三郎の声が聞こえてくる。

「小五郎、勝三郎のことはまかせとけ。勝三郎は私の息子だよ。たとえ養子に出ても、変わらない。父上だって、お前のことを、同じようにいっていた」

 小五郎は文譲を見つめた。
 文譲は、家人が出てこないうちにと、声を落として昔の話をした。

「幼い頃に、父上が、楠をお城に献上しただろ。あの時、父上が『お前は桂家の人間、和田家に口出し無用』と口走った。小五郎、覚えているかな」

 小五郎は急な話しで少し驚いた。

――楠の移転を、嫌がったな。

 文譲は続けた。

「私も母上も、障子の陰から聞いていた。あの後、ずっとな、父上は『口がすべった』と、悔いていた」

 文譲の目尻に、優し気な皺が寄った。

「父上が遺言状を作成していたときに、診察室で、一度だけだが、つくづくと楠のことを口にして、『小五郎が、わしの息子であることに変わりはないんじゃ』とおっしゃった」

 文譲は空を見上げた。
 昌景の姿を見ているようであった。

「小五郎、父上が亡くなった夜のことを覚えておるだろ。寝る前に、父上はお前に、何かいいたそうであった。きっと楠のことを、話したかったのであろう」

 小五郎も、空を見上げた。
 うっすらと白雲が浮かんでいた。

「兄上。それだけで十分でございます。小五郎は嬉しくてなりませぬ。勝三郎も、二人の父と、思ってくれればいいのですが」

 文譲が笑った。

「勝三郎は、大丈夫だよ。ついでに、和田家には母代わりもいるしな」

 えっと、小五郎は文譲を見た。
 文譲が和田家の木戸門を指さした。お治の後ろ姿が見えた。
 お治は、卯一郎、直次郎、勝三郎を「早くしなさい」と急がせている。
 子供たちとお治が、木戸門から走り出てきた。
 隣家の佐伯丹下と家の奉公人たちも、小五郎の見送りに集まって来た。江戸屋横丁は、にぎやかになった。
 勝三郎は、いつもの鬼の面を、しっかりと握っている。
 お治が「ダメですよ」と注意した。

「勝三郎。鬼の面を置いてきなさい。なんでこんなときに、もってくんのよ」

 勝三郎が首を振る。

「嫌だ。嫌だ」

 文譲は楽しそうだった。

「お治は、ちと口うるさいのが難点じゃ。誰に似たんだろう。お治も、もう十五歳じゃ。そういえば、昔お治がお八重にいい過ぎて、えらく怒らせたことがあったな」

 小五郎も面白げに笑いだした。
 あの時は、小五郎がお治のかわりにお八重に謝った。
 小五郎は、和田家で一緒に住んでいるのに、わざわざ文譲に手紙を書いた。手紙の最後に、小五郎は、文譲と小五郎を三国志の関羽張飛、曽我兄弟に例えて、和田家の平和を守りましょうと締めくくっていた。
 実は父昌景も、お治が口が正直で達者すぎるので、これで嫁に行けるのかと危惧していた。遺言に一項目、お治が結婚できなくても暮らしていけるようにと、借家などの資産分けを記していた。
 お治の早口が飛んだ。

「勝三郎。縁起でもない。やめなさい」

 小五郎は、まあまあと、お治を抑えた。

「いいよ。お治。勝はこのお面が大好きなのさ。一緒に抱きしめて、寝ているくらいじゃ」

 小五郎は刀の柄頭を下げて水平にすると、荷物を担いだまま、勝三郎の前にしゃがみこんだ。五歳になる勝三郎と目が同じ高さになった。
 小五郎は、お治のことを、お治姉さんと呼んだ。

「勝、よくお治姉さんのいうことを聞くんだよ。父はな、これから江戸に鬼退治に行くんだ」

 勝三郎は、目を丸くした。お治を見上げた。

「お治姉さん、父上が鬼をやっつけるんだって」

 小五郎は、そうだと頷いた。

「鬼勧といってな、とても強い剣士が江戸にいるのさ」

 勝三郎が、首を大きく縦に振った。
 小さな拳を突き上げた。

「鬼の首を取れえ。えい、えい、おう」

 勝三郎と小五郎は、一緒に拳を上げた。
 後ろで佐伯の声がした。

「勇ましいなあ。勝殿も、頼もしい限りじゃ」

 小五郎は立ち上がった。
 着流しの佐伯丹下がいた。今日は非番のようだった。
 小五郎は佐伯の前に立って、頭を下げた。

「お世話になりました」

 小五郎の手に、佐伯は紙片を手渡した。

「これは、お守りだ」

 江戸屋敷の挨拶まわりの順を記した紙片であった。

「荷物袋の隅にでも、入れておけ。江戸の屋敷で役に立つ」

 お留守居役をはじめとする組織のあり様が一目でわかる。桜田邸(上屋敷)や麻布邸(下屋敷)の役職と名前が記されていた。

「挨拶のまわる順番を間違えるな。つい性分で、書いてしまった」

 想像以上の人材が、江戸詰めとなっている。
 小五郎は練兵館に住み込んで塾生となる身だ。勤番侍ではない。
  小五郎は、朝夕に剣術の稽古と兵学の勉強に明け暮れるつもりだった。
 渡された紙片には、几帳面な小さい字が隙間なく並んでいる。まるで小五郎が大組士として、役職に就くかのようであった。
 小五郎には大袈裟に思われた。
 小五郎は、紙にある一人一人に目を走らせた。
 並べ方に、佐伯なりの独特なものがあった。

「これを誰にも見せてはならぬ。毎年役職の変更もあるであろう。その際はよく新旧を見比べよ。さすれば、見えてくるものがあろう」

 佐伯の声は抑揚もなく事務的である。詰所の執務室で、決済を澄ますときの声であった。
 小五郎は食い入るように見つめた。
 周布正之助がまず目に入った。江戸で活躍しているとは聞いていた。

「江戸の毛利家の様子が、手に取るように見えまする。将軍家のお膝元、わが毛利家のすべてが、ここにあるかと思いまする」

 佐伯は、口元を少し緩めた。

「小五郎、なぜこの順にしたのか、挨拶回りの裏を考えよ。さすれば力関係が見えてくる」
「心得ました。頭に叩き込みまする」

 佐伯は小五郎に念を押した。

「此度の江戸行で、井上壯太郎も同行する。吉田大次郎が亡命したときの関りで、処分を待っている。あちこちから働きかけるものがあり、井上も自費で此度の遊学と相成った。小五郎、よいか、道中あの男の言い分を、まともに聞いてはならぬ」

 佐伯の厳しい言い方に、小五郎は驚いた。

「吉田大次郎の亡命の一件で、関わった者たちは、皆処分を受ける。井上は、この件で、そもそも反省がない。江戸にいる明倫館仲間の來原良蔵も、大次郎の亡命に加担しておる。こうした何人もが、吉田大次郎の一派となっている」

 佐伯は、小五郎と詰所で対峙していた時のように、厳しい顔に戻っていた。

「小五郎よ、お前は、いずれ大組士として働く時が来る。あ奴らと付き合っても益はない。奴らは、わが藩の決めごとを無視し、大言壮語して、勝手にふるまう輩である。御法の大切さが分からぬ輩だ」

 小五郎には、佐伯に、深夜大次郎の自宅に寄ったり万国全図をもらったことを、話すつもりはない。
 佐伯には佐伯の見方がある。
 小五郎も自分なりの考えを持ちたいと、思い定めている。

「お前は、自分の立場をわきまえよ。江戸遊学組でしっかしているのは、財満新三郎であろう。よく相談せよ。わしのいいたいことは、それだけだ」「はい、かしこまりました」

 小五郎は大きく頷いた。
 佐伯が急におどけた。

「おっと、お治殿が、何かな」

 佐伯の顔が笑顔に戻ると、お治に場所を譲った。
 お治も、佐伯には幼いころから可愛がられてきた。
 お治が、勝三郎と卯一郎の手を握りしめて、小五郎の前に割り込んだ。卯一郎の手を直次郎が握っている。

「兄上、道中、無理をしてはいけませぬよ。それに笠はどこ、雨が降ったらどうするの。勝三郎、父上に手を振りなさい」

 勝三郎がつまらなそうな顔をした。顔が白っぽかった。勝三郎は、仕方なく、小さく手を振った。
 小五郎は可笑しかった。

――お治の立ち居振る舞いが、母に似てきた。

 文譲が、笠をもってきて、小五郎に手渡した。
 小五郎は勝三郎の頭を荒っぽく撫でた。
 小五郎は別れを告げて、江戸屋横丁を御成道に向けて歩き始めた。
 耳をつんざくような声がした。

「父上」

 小五郎は振り返った。
 鬼の面が見上げていた。
 鬼の面の下に、幾筋か涙が流れていた。

「勝三郎。弥之助から日々学べ。では、鬼の首を取って来る」

 小五郎は江戸屋横丁から御成道に出た。

 

 小五郎は、お城の本丸御殿の役所で、通行手形を受け取るなどの手続きを終えた。
 その足で、東側の内堀に寄った。

――武は、まだ来ていないな。

 庭に植えていた楠が、今はお堀の脇に大きな影を落としていた。
 楠は見違えるような巨木になっている。小五郎の頭上で、枝を大空に広げていた。根は大地に力強く張り巡らされ、周囲の地面が盛り上がっていた。
 太い幹は、押しても微動だにしない。
 頭上の枝の間に、いくつかの綿雲が浮かんでいる。お堀の上を、微風が水面を撫でながら渡ってきた。
 小五郎を呼ぶ声がした。
 武之進が北の総門から走ってくる。
 小五郎は、こっちだよと、手を振った。
 武之進が、大小の刀を押さえながら、袴を蹴立てて駆けこんできた。

「そんなに、急がんでもよい。俺は逃げるわけではないぞ」

――何でも一生懸命な奴だな。

 小五郎は、武之進のそんな生(き)真面目(まじめ)さが好きだった。

「桂さん。遅れてすみません」

 武之進は、息を切らしている。

「よかったなあ、桂さん。ついに、江戸じゃ」

 武之進が小五郎の肩を叩いた。
 小五郎は、武之進を見つめた。

「武、次はお前だよ」

 武之進は、もう目が赤くなっている。うんうんと頷きながら、目尻を何度もこすった。

「武、俺は江戸で待っている。必ず来いよ」

 武之進こそ、小五郎に負けぬほど江戸への思いが強い。
 痛いほどわかる小五郎だった。

「萩とも当分お別れだ。武、三本松までつきあってくれ。江戸行の皆が待っている」

 三本松は、郊外の山の中腹にある。
 萩の高札場から、一里ほどのところだった。
 橋本大橋を越えた先の番所から坂を上り続ける。江戸に遊学する一行の待ち合わせ場所だった。
 武之進は、羽織の襟(えり)を正した。

「もちろんです。もちろんですとも」

 小五郎と武之進は、楠の足元に広がる葉影から歩み出た。
 風に袴がはためいた。
 小五郎は楠を見上げた。
 無数の枝葉(えだは)が、ゆったりとざわめきながら揺れている。
 小五郎には、楠が一斉に手を振っているように思えた。

「武、この楠はな、和田家の庭にあったんだ。父上が献上したのさ。父上はいつも正しいことをおっしゃる。俺はそんな父上に、腹が立って仕方がなかったよ」

 竈(かまど)の前の土間は、お清やお捨子にお八重、それに友藏と、いつもにぎやかだった。

「桂さんもですか。俺もです。父上は俺の顔を見ると、叱りたくなるんですよ。『そこに座れ』と、いつも説教だ。もうたまりません」

 小五郎と武之進は、噴き出すように笑い合った。
 二人は城の北の総門を出て、高札場から橋本川に向かった。

 

「武、ちょっと待て」

 小五郎は橋の手前で立ち止まった。

「どうしたんです、桂さん」

 小五郎は脇を見た。
 欄干の近くに、弥之助と友藏、その後ろに隠れるようにして佐吉が立っていた。

「待たせたな」

 友藏が小五郎に駆け寄った。

「佐吉さんを連れてまいりました」

 友藏の後ろで、弥之助が「おい」と佐吉の袖を引いた。
 武之進がびっくりして、三人を見回している。

「お豊さんに、何かあったんですか」

 小五郎は防具袋を肩に背負ったまま、佐吉に声をかけた。

「佐吉、久しぶりだな」

 弥之助が横から、お豊の容態を告げた。

「青木先生の見立てでは、お豊さんが助かるかどうかは『五分五分』とおっしゃっておりやす。でも行燈部屋よりは、ましなところに移りやして、今までよりは、飯もいいものを口にしております」

 小五郎は佐吉から目を離さず「それはよかった」と頷いた。お豊の予断を許さぬ病状は、小五郎も実際に見ているからよく分かる。

「弥之助、例の件はどうじゃ」 

 弥之助が思い出して、もみ上げの辺りを、照れ臭そうに爪でかいた。

「読み書きのことでございやすね。青木先生は『それこそ良薬』と、お豊さんに手を取るように、お教えくださってます」

 小五郎は、今度は友藏を見た。

「こっちのほうは、どうだい。進んだか」

 友藏が佐吉の背中を押した。佐吉は薄汚れた着流しを着ていた。

「佐吉さん。さっきの話をして」

 佐吉は友藏を下目遣いに見た。
 足元の土塊を草履で擦った。地面に目を落としたまま、佐吉は、ぽつりぽつりと話し始めた。

「お豊さんの具合が、よくなったらなんですが、奥阿武の村に、なんとか帰れると思いやす。店の主人も(女衒の)親方も、仕方があるまいねと、へい、これもみんな、桂様のお陰で」

 小五郎は、意外に思う。
 佐吉の話に、ほうっという顔をした。

「お豊の生まれは、奥阿武なのか。それで、お前たちは、要は、稼げない女だから自由にするということかい。俺から多少の金も入るしな」 

 小五郎のいい方は、冷たかった。
 お豊を放っておけば、あの行燈部屋から生きては出られないであろう。
 佐吉や妓楼の主人が、どこまでお豊のことを、真剣に考えているのだろう。
 佐吉は地面に目を落としながら、お豊のことを口にした。

「お豊は、本当は馬関(下関)の遊廓にいたんでございますよ。奥阿武の村から出て、馬関近くの伊崎新地におりました」

 佐吉はつぶやくような声で続けた。

「店は五軒、ありましてね。吉原屋、江戸屋、紀伊国屋、泉屋、それに、あと宝来屋だったかな。あちこちの船乗りを相手にしていたわけで。お豊も、そこの『吉原屋』にいたわけでさ。まあ、江戸の吉原にちなんだ名ですが、もちろん、ただの港の妓楼でさ」

 小五郎は、ほうっと口を開けた。

「馬関にも、吉原屋があったのか」
「へい。吉原屋の主人の弟が、萩に店を出すってんで、お豊は、それなら奥阿武に少しでも近いところで奉公したいと騒ぎましてね、萩の吉原屋ができたときに、移った次第でさ」

――お豊は郷里に近いところで、ひたすら金を貯めていた。それが、嵐ですっかり流されてしまったということか。

 弥之助と友藏が、佐吉を挟むようにして立った。佐吉の一言一言に頷いている。

「お豊は、桂様のお陰でなんとか村に帰れそうだと思うと、涙を流して喜びまして、へい」
「それはよかった。なあ、武」

 武之進は、感心しきっている。

「さすが、桂さんだ」

 友藏が佐吉の脇をつついた。

「佐吉さん、あれを」

 佐吉は懐から一枚の紙を取り出して、小五郎に手渡した。
 小五郎は紙片を広げた。

「なんだ、これは」

 ウナギが横たわっているような字である。
 弥之助が、手紙の経緯(いきさつ)を説明し始めた。。

「お豊さんの手紙でして」
「手紙か。これが」

 小五郎と武之進が、覗き込んだ。
 弥之助の声は沈んでいた。

「これは、『いろは』と書いたもので、お豊さんが青木先生に教えられながら、初めて書いた字でございます。これをぜひ桂様に渡してくれと、たのまれまして」
「なんだって」 

――お豊は絶望の淵から這い出そうとしている。

 小五郎は、改めて『いろは』を見つめた。

「俺は『いろは』をしまって江戸に行く。次の手紙を楽しみにしていると、伝えてくれ」

 小五郎は、そっと『いろは』を折りたたむと、懐深く入れた。

「お前たちのお陰だ。これからも、お豊をよろしく頼む。お前たちも体をいたわってな」

 弥之助がおいおいと泣き始めた。
 友藏も目頭の涙をぬぐった。
 佐吉はうなだれている。

「では、参る」

 小五郎は武之進を促した。
 弥之助と友藏と佐吉は頭を下げて、小五郎を橋本大橋の欄干の脇から見送っている。
 武之進は小五郎と並んで大橋を歩く。

「桂さん。私もお豊さんに会ってみます。様子を手紙に書きますよ」
「ああ、頼む」

 小五郎の胸に、嫌な予感が溢れてきた。
 お豊の弱々しい文を見て、『いろは』が絶筆になるのではないかと思い始めていた。
 小五郎は、長さが四十八間(87メートル)ある橋本大橋の真ん中で、急に立ち止まった。
 自分に関わった者たちが、次と次と死んでいく。もう、いてもたってもいられなかった。

「どうしたんです。桂さん」

 小五郎は欄干を両手で押さえた。
 浜崎の吉原屋の方を遠望した。街並みの遥か先で、もちろん吉原屋は見えやしない。
 小五郎は叫んだ。

「お豊、達者でな。達者で暮らすんだぞ」

 橋を往来する商人や武士が振り返った。
 小五郎は、弥之助と友藏と佐吉に、さらばと手を挙げた。

「武、行こうか。三本松へ」

 

 小五郎と武之進は大橋を渡った。
 番所を通り、萩往還の街道を行く。
 いくつかの寺や神社の前を過ぎて、山の中腹の大きな三本の黒松を目指した。
 小五郎は練兵館で対戦するであろう『鬼勧』の突きを考えていた。喉に『鬼勧』の突きをまともに受けると、何日も飯が喉を通らぬという。

――見切ることができない突きとは、一体どんな技であろうか。

 小五郎は、山道を登った。
 ようやく昼頃に、小五郎と武之進は、三本松に着いた。
 遊学する面々と、斎藤新太郎と練兵館の門人に、見送りの者たちが集まっていた。
 乙熊が大きな体を揺すって出迎えた。分厚い胸に、羽織が窮屈そうだった。

「小五郎、遅いぞ、寄り道か」

 仲間たちが、小五郎と武之進の周りに集まってきた。
 小五郎は、荷物がやたらと多い乙熊を見て、おかしかった。

「お前といっしょにするな。俺は何を江戸で学ぶのか、考えながら登ってきたのさ」

 井上壯太郎が、後ろから割り込んできた。
 小五郎は佐伯のことを思い出した。

「小五郎、夜中に吉田先生のところに寄っただろ。俺はな、先生から『桂君の面倒を見てくれ』と頼まれた。もちろん、『御免蒙ります』と、お断りしたさ」

 井上は偏屈なところがある。素直な言い方などはしない。
 小五郎も、井上に合わせた。

「ありがたい。こっちも、気が楽になった」

 壮太郎は萩を見ながら腕を組んだ。早口で、一方的にまくしたてる。

「俺はな、吉田先生が今回の亡命の件で、どんな処分を受けるのか、心配でならん。一体先生の何が悪いんだ。先生は殿の命を受け、海防調査に出発しただけだ。津軽どころか、蝦夷まで行こうと、お考えであった。物見遊山ではないぞ」

 井上は自分の声に興奮していく。

「そもそも、過書(通行手形)の手続きが遅れたのは、先生が原因ではない。役人どもである。殿が萩に戻ったからだというが、いくら殿の決済が必要といっても、手続きの遅れを殿のせいにしているだけではないか」

 壮太郎の声が、高くなった。
 小五郎は、井上に捕まってしまった。

――井上殿は、熱くなったら止まらない。

 はしゃいでいた皆は押し黙り、壮太郎を緊迫した面持ちで見ている。
 財満新三郎が、小五郎と井上壮太郎の間に入って来た。

「もうやめよ。井上殿、口を慎まれよ。それ以上はまずい」

 井上が怒鳴った。

「何がまずいか」

 だが、井上は一瞬で冷める。
 小声になった。

「これだけは、いわせてくれ。吉田先生自身は、きちんとしかるべきときに申請をした。七月にだぞ。つまり、定めを守ったわけだ」

 井上は演説するように見回した。

「ところが、過書の手続きは、五カ月たっても見通しがつかぬ。早馬、早駕籠、早飛脚を出さなかった役人のために、ずるずると待たされた。吉田先生の海防調査はいつできるのか、わからなくなってしまった。すべて、役人どもの怠慢のせいだ。そんな先生が、今罪人として処分をまっておられる」

 止まらぬ井上に、財満は腹を立てた。財満にしては珍しいことだ。

「もう、いい加減にせんかい」

 財満が壮太郎の胸を鷲づかみにした。
 壮太郎も押し返した。
 小五郎がすかさず割って入って、二人を引き離した。

「落ちつけよ。もうよかろう。いったい、江戸に行く気があるのか、ないのか、どっちだ。ここで、ことを荒げてどうするんじゃ」

 小五郎は財満と壮太郎をさらに離した。
 井上が軽く頭を下げた。

「すまぬ、財満。酒が入っていないのに、ついかっとなっしまった」

 財満が深呼吸をした。

「人騒がせなやつだ」

 壮太郎は萩に目を向けた。

「小五郎、俺はね、先生のために江戸に行く。蟄居の身で家から出れぬ先生のために、目となり耳となる。江戸で学んだことを、仕入れたことを、先生にお伝えするんだ。俺の処分なんか、どうでもいいのさ」

 壮太郎の地声は大きい。
 大次郎の東北行の後押しで自分も処分を待っているのに、まるで陰りがなかった。
 井上は萩に目を向けながら胸を張った。

「俺はな、一度、酒で処分を受けた身だ。もう恐いものなしさ」

 壮太郎は、うそぶいた。
 乙熊が横の大きな岩の上に、旅(りょ)嚢(のう)を開いた。乙熊は、小五郎に声をかけた。

「小五郎、握り飯を食わないか。母上が握ってくれた。重くてかなわん。武もどうだ」

 乙熊が握り飯を突き出した。
 財満と井上が、思わず握り飯を見た。
 小五郎は握り飯を手に取った。

「いいなあ。かたじけない」

 小五郎は握り飯を、壮太郎と財満の前で、わざと旨(うま)そうに頬張った。

「うまい。たまらぬ」

 小五郎は握り飯を、萩にささげるように掲げた。

「乙熊、この世で、握り飯が一番うまいと思わぬか」

 乙熊が嬉しそうな顔をした。
 乙熊は、門人と立ち話をしている斎藤新太郎に声をかけた。

「斎藤先生も、お一つどうです。皆も来いよ」

 新太郎は門人たちと旅の途中でどこに寄るのかを、確認をしているようだった。
 新太郎の門人や小五郎の仲間たちが、押し合うようにして乙熊の周りに集まった。袖を引いては、次々とお握りに手を伸ばす。
 節くれだった鍛えた腕ばかりだった。
 斎藤新太郎が、輪の中に入ってきた。

「いいなあ。では、一ついただこうか」

 新太郎はお握りを一つ取り上げると、近くの低い岩に腰かけた。
 財満も壮太郎も、後から遅れて輪に入った。
 皆も食べかけのお握りを持ちながら、遠く萩の城下町を見入っている。
 何軒かの家々から、うっすらと白い煙が昇っていた。
 昼時だ。
 きっと炊飯の煙であろう。
 小五郎は目を細めた。

「乙熊、煙が目に染みるなあ」

 隣に立つ乙熊も、遠方を瞬きもせずに見ている。目に涙が滲んでいた。
 乙熊はいつものように小五郎に合わせた。

「右に同じ。煙を見ていると、また腹が減る」
「乙熊。握り飯を分けたことを、悔いているのであろう」
「御意。いや、嘘だよ、嘘」

 小五郎と周りの仲間たちは「もう食っちまったよ」と、どっと湧いた。
 幾筋ものささやかな煙が、青空の中で微風に身を任せている。
 小五郎には、お城も萩の街も、どこの煙も同じ色に見えた。和田家も桂家も、きっと吉原屋も。
 煙はうっすらと、ゆるやかに空に立ち昇り、青空に吸い込まれていく。
 岩に腰かけていた新太郎が、袴の尻をはたいて、立ち上がった。
 一同を見回した。
 大きな声が響き渡った。

「よいか。江戸に行く途中、各城下の稽古場で、立ち合いをする」

 全員が新太郎の周りに集まった。
 小五郎も新太郎の脇に立った。
 新太郎は、一人一人の顔を見まわした。

「稽古は、今から始まっていると思え。心せよ」

 新太郎は萩に背を向けると、街道の続く山を見上げた。

「一同、行くぞ」
「はい」

 小五郎たちは力強く応えて、緩やかな坂道に踏み出した。
 武之進や見送りの仲間たちが、三本松から見送っている。
 小五郎は、武之進や見送りの仲間たちに右手を振った。
 小五郎たち一行は、山間(やまあい)の街道を登る。一行は、まず中国山脈を越える。
 周防(山口県)三田尻まで十一里、瀬戸内の海に沿って大坂へ、京へ上って江戸へと、小五郎の旅は始まった。
               

           

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