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桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠―      第八章 早苗、嫁になれ

                            火山 竜一  

第八章 向南塾の早苗

 天保十三年(一八四二年)の夏。
 小五郎は十歳になった。
 小五郎は萩の江向(えむかい)にある向南塾にかよい始めた。橋本川の近くである。少し行けば橋がある。
 向南塾は毛利家家臣の岡本権九郎の私塾である。岡本権九郎は、萩城下では教え方がうまいと評判がよかった。
 小五郎の仲間たちも、向南塾に通っていた。
 小五郎は向南塾で四書五経の素読や読み書きを習った。
 だが、一番感動したのは、権九郎の『逆さまに字を書く』倒書という技だった。
 倒書とは、例えば小五郎が権九郎の天神机の正面に座り、お手本を真似して書いた半紙を自分に向けたそのままに置く。
 権九郎からは、逆さまになる。だが、権九郎は半紙を、ひっくり返さない。
 子供が置いたままに、半紙に逆さまで朱筆を入れていく。
 昌景が小五郎に語った話では、権九郎のこの技は、寺子屋でしばしば見られるものだそうだ。ただし権九郎の技は格別で、なんと子供たちのお手本すらも、逆さまのままで書いてしまう。
 権九郎のこの技は、書を習い始めた幼い子供たちが見やすいようにと、ひたすら磨いた技だという。
 今日も、権九郎は、羽織袴で自分の文机にどっしりと座っている。
 小五郎の半紙に、権九郎は逆さまのままに朱筆を走らせ直しを入れていく。

「ようし。いいぞ。ここもよし」

 始めは、どんどん赤の〇をつけてくれる。
 声は塾の皆に聞こえる。よく通る大きな声だった。
 乙熊が小五郎の後ろで腰を上げ、小五郎の横から丸い顔で権九郎の鮮やかな直しをのぞき込んでいる。
 乙熊は我慢できなくなったのか、権九郎に催促した。 

「先生、早く私のを見てください。小五郎より一生懸命書きました」 

 権九郎が乙熊に笑顔を返す。
 もう五十は超えた年齢であろうか。目じりにしわを寄せた。 

「乙熊、もう少し、辛抱しなさい。これは順番だぞ」 

 細面で髪に少し白髪が混じっている権九郎の笑顔が、小五郎は大好きだった。
 権九郎が手直しの仕上げに入った。 

「さて、ここは、もう一息」

  一か所だけ指摘する。
 この「もう一息」の拍子は、絶妙だった。
 小五郎は半紙を手に取った。 

「ありがとうございました。乙熊、どけったら」 

 小五郎は一声すると、乙熊を乱暴に押しのけた。
 乙熊は尻餅をつきそうになった。
 乙熊の右手に掴んでいる半紙が泳いだ。 

「こいつ」 

 乙熊が小五郎に胸を張って迫ると、権九郎がいい拍子で乙熊を呼んだ。 

「乙熊。待たせたな。さあ、出しなさい」 

 小五郎は、乙熊と入れ替わりに、さっそく自分の天神机に戻る。すぐに筆をとった。
 小五郎は、先生の手直しの稽古はそこそこに、天神机に権九郎の手本を反対に置いた。
 なんと小五郎は逆さ字の稽古を始めた。
 繰り返し権九郎の倒書の真似(まね)をした。
 権九郎の大きな机の左端には、黒い重そうな線香立てが置いてある。線香立てに、一本の長い線香が立っている。燃え尽きれば習字の時間は終わりで、素読の時間になる。
 向南塾の稽古は、線香の時間割で進む。 

―― この線香の長さなら、もう一回、先生に見てもらえるぞ。 

 小五郎は逆さ字で直しを終わると、権九郎の机に座った。
 ちょうど乙熊は戻り、指導を受けたがっている生徒はいなかった。
 小五郎は逆さ字の稽古で書いた半紙を、素知らぬ顔で、自分に向けたまま権九郎の文机に置いた。
 権九郎は一目見て、ため息をついた。ゆっくりと、筆を脇に置いた。
 直しを入れずに、権九郎は小五郎に目を向けた。笑顔はなかった。 

「小五郎。先ほどはよい字であったが、これはダメだ。逆さ字ではないか」 

 右衛門が叫んだ。 

「小五郎の奴、逆さ字を、出しやがった」 

 みんな権九郎の周りに集まる。
 権九郎は身を乗り出すようにして、小五郎に顔を近づけた。 

「小五郎、寺子屋の師匠は、まだ早いぞ」 

 どっと、塾の中で笑いが起こった。
 右衛門がひっくり返って、手足をばたつかせて笑い転げた。右衛門が寝転がったまま、天井に叫んだ。 

「誰が小五郎塾に行くかい。なあ、みんな」 

 塾は沸騰した。
 権九郎はため息をついた。 

「今は、まず書を幅広く読みなさい。お前には、いずれ大組士としての務めがあるであろうが」 

 小五郎は首を縮めて小さくなった。 

「先生、大組士の務めとは、なんでしょうか」 

 権九郎が肩をすくめた。 

「いずれわかるさ。もっとも、お前が何に向いとるか、わしには、さっぱりわからんがな」 

 またしても、皆して、笑い転げた。
 乙熊が「大組士なんか、向いとらん、向いとらん」と、端座した袴の膝を何度も叩いている。
 振り返る小五郎。
 ふと権九郎は脇から新しく半紙を取り出して置いた。半紙に目を落とし、筆を取った。
 権九郎は『明日』と半紙に書いて、小五郎に回して置いた。 

「精進せよ、小五郎」 

 権九郎は、この手本を逆さ字では書かなかった。
 権九郎の小五郎を見る目が笑った。 

「逆さの逆さは正面なり。はい、次」 

 皆がわっと騒ぐ。
 すかさず後ろから、半紙を掴んで、右衛門が小五郎を押しのけた。 

「先生、見てください。線香が終わっちゃいますよお」 

 小五郎の逆さ字の稽古は終わった。

 ある日、女の子が一人、向南塾に入門してきた。
 塾の隅に座ると、わき目もふらずに、一生懸命書いている。
 肩上げした格子柄の小袖に、高島田。地味な小袖なのに、紅色の髪の摘み細工が鮮やかだった。
 乙熊はその娘について妙に詳しかった。

「御用商人の万吉屋の娘だよ。小五郎より、いくつか年上だ。たぶん三つくらいだろう。早苗っていうんだよ。御成道の通りにでかい看板を出している店だよ」 

 小五郎は御成道に面した店に、こんな娘がいるとは知らなかった。
 乙熊の話では、本人の希望で万吉屋から岡本先生に頼み込んだらしい。
 娘が通う女師匠の寺子屋では飽き足らないという。もう四書五経も諳んじているというから驚きだ。 

「岡本先生もな、それはそれは感心して、束(そく)脩(しゅう)を受け取ったらしい」 

 小五郎には、早苗の目は涼やかで、唇をぎゅっと結んでいるのが愛らしかった。大人びているところもあった。周りの落ち着かない子供たちとは大違いだった。
 頬から首筋にかけて、お八重姉さんのように、ふっくらとしている。
 小五郎は、早苗が塾の誰よりも、半紙に真剣に向き合っていると思った。
 小五郎はつい筆を持ったまま、用もないのに後ろを振り返る。早苗に見とれては、目が釘付けとなる。
 小五郎は早苗と目が合うと慌てて正面を向く。早苗の着物が鮮やかに目に残った。
 小五郎は、落ち着かず、筆は止まったままだった。
 文字より早苗の顔を描きたくなった。
 こんなことが一週間ほど続いた。
 小五郎は斜め後ろの早苗を盗み見ては、何度も目が合いそうになって慌てて前を向く。
 いつの間にか、机の小五郎の半紙に『さなえ すき』と書かれてしまった。
 ウナギが、からんだような下手な字が、半紙いっぱいに泳いでいる。
 小五郎の横で、くくっと笑い声がした。
 乙熊だ。
 小五郎は乙熊に飛びかかった。
 二人はつかみ合い、転がり、周りの天神机や文箱をひっくり返した。
 小五郎と乙熊の取っ組み合いで、塾の中は大騒ぎとなった。
 半紙が散乱して、いくつかの机がひっくり返った。
 古い文机の足が折れた。
 権九郎が制止した。

「やめんかい。静まれえ。おい、ふたりとも、離れんかい」 

 だが止まらない。
 止まらないどころか、周りの生徒も肩がぶつかっては互いに反撃し、至る所で取っ組みになってしまった。 

「やめて、やめてったら」 

 耳を貫くような声だ。高く、激しい叫びだった。
 びっくりして、全員、一瞬で止まった。
 小五郎は声の方を見た。

―― 早苗だ。

 早苗は筆を取ると、目を半紙に落とし平然と書の稽古を始めた。 

「すっげえ」 

 乙熊が小五郎の脇で、口を開けている。
 結局、小五郎と乙熊は、権九郎の腕組みをしている前で、生徒の机をもとに戻しては一人一人に謝って、最後に早苗に頭を下げた。
 いつの間にか早苗は筆をおき、『さなえ すき』と書かれた半紙を二人に掲げた。
 早苗は半紙を小五郎に突きだした。 

「これ、ちょうだい。いいでしょ」 

 小五郎と乙熊は罰として線香を持って、権九郎の横に立たされた。
 塾で生徒は態度が悪いと、時々立たされる。
 線香をもって、手が熱くなる頃には終わるのだ。その間、皆から、くすくす笑われることになる。
 権九郎は小五郎と乙熊に説いた。 

「よいか、小五郎、乙熊。皆の稽古を見ることも、大切な学びであるぞ」 

 小五郎は線香の煙で、何度もくしゃみが出そうになった。早苗はその度に口元を押さえて、笑いをこらえている。
 小五郎は権九郎に見つからないように、線香に息を細くして吹きかけた。立たされるのを早く終わらすには、線香の燃え方を早めるしかない。
 小五郎は線香吹きながら乙熊の方を見た。
 乙熊にそっと促す。
 片方だけ線香が短くなったら、権九郎に露見してしまう。
 乙熊は前を向いたまま、口をへの字にして相撲に負けた時のように顔をしかめている。
 さらに小五郎が口を細くして、線香に吹きかけようとする。
 ふと見上げると、早苗と目が合ってしまった。
 早苗が唇(くちびる)をすぼめて、小五郎の真似をした。 

―― 早苗の唇。 

 小五郎は思わず息を飲み込む。
 乙熊が、横でくしゃみをした。
 この事件以来、小五郎と乙熊は、早苗と寄り道や道草をしながら帰るようになった。
 小五郎の家は近いものの、乙熊はずっと遠回りになる。
 でも乙熊は気にしない。
 そんな三人の楽しい帰り道は、長くは続かなかった。
 秋になり、三人が菊ケ浜に出たとき、突然、早苗がぽっくり下駄の足を止めた。
 二人に、もうすぐ萩を出て、馬関(下関)に行くと告げた。
 小五郎と乙熊もびっくりして立ち止った。
 小五郎が口をとがらした。 

「なぜじゃ。馬関って、山のずっと向こうじゃないか。遠いぞ」 

 乙熊が泣きべそのような顔になった。

「嘘だろう。嘘だって言ってくれよ。頼むよお」 

 早苗の話では、馬関に年上の許嫁(いいなずけ)がいて、そこへ行くらしい。羽振りのよい商人で、親同士が決めたことだという。
 相手は万吉屋の取引先の跡継ぎらしい。
 早苗自身は相手を知らないそうだ。
 小五郎は大きく首を振った。 

「顔も知らぬ相手のところに嫁(とつ)ぐんか」 

 小五郎は早苗の前に両手を広げて、塞ぐように立った。 

「わかった。ならば、こうしよう。俺の嫁になれ」 

 これには、早苗も乙熊も目を見開いて、口をあんぐりと開けた。
 乙熊と早苗は、顔を見合わせた。
 乙熊も慌てて、小五郎の脇に立った。
 小五郎より一回り大きい乙熊は、早苗から目をそらして空を見上げた。空に聞こえるように叫んだ。 

「み、右に同じ。俺の嫁になれ。小五郎よりましだ」 

 早苗の白い頬に涙が流れた。 

「うれしい。でもずっと前から決まっていたの。馬関で、家柄に相応しいようにって、お稽古事をするんですって」 

 小五郎は遮(さえぎ)った。 

「だめじゃ。そんなのおかしいよ」 

 小五郎は足元の石を思いっ切り蹴った。
 激痛に小五郎は足を抱えて、しゃがみこんだ。
 呻いて、石ころを見た。 

「なんだ、これ」 

 蹴ったのは石ではなく砂地に頭をだした岩だった。 

 よく晴れた朝。
 早苗は万吉屋の店先で駕籠(かご)に乗ろうとした。
 周りに主人やおかみさん、番頭や手代が立っている。
 駕籠は二台。後ろに下女と下男がついて行く。
 駕籠かきが、それぞれ三人ついて、生(いき)杖(づえ)を持って待っている。
 小五郎と乙熊は走り込み、早苗の脇に近寄ろうとした。
 早苗の声が聞こえた。

「いや。海を周ってちょうだい」

 早苗は番頭の言うことを聞かない。
 主人が仕方がないなと、首をすくめた。
 萩と馬関を結ぶ街道は、内陸部の中筋道を行くのが近い。
 どうやら、駕籠は山に向かわず海に出るらしい。
 早苗は日本海側の入り組んだ海岸をまわる北浦筋道を行きたいようだ。
 乙熊は、小声で小五郎に訊いた。

「わざわざ、遠まわりして行くんかい」

 小五郎は早苗を見つめたまま呟いた。

「本当は馬関に行くのが嫌なのさ。少しでも、遅く着きたいんだよ」

 早苗が小五郎と乙熊に気が付いて振り返った。
 早苗は入りかけた足を止めて、駕籠から出た。
 小五郎と乙熊が前に立った。
 早苗が二人を見つめた。

「これで、お別れね。もっと向南塾に行きたかった。そしたら、いっしょに学べるのにね」

 目が赤くなっている。

「ちょっとだけ、待ってくれ」

 小五郎は懐に手を突っ込んだ。
 乙熊がすかさず櫛(くし)を早苗に手渡した。
 先を取られた小五郎は、懐の奥をあちこちさぐる。
 乙熊の櫛は、小五郎には見覚えがあった。

「乙熊、その櫛、姉上のもんだろ。いいのか。あとできつく叱られるぞ」

 乙熊は平然としている。

「かまうもんか。早苗なら、ぜったい似合う」

 小五郎は懐から一枚の半紙を取り出した。
 『明日』と書いてある。
 小五郎が権九郎の手本を正しく置いて、書いたものだ。まだ、権九郎の朱筆は入っていない。
 小五郎は半紙の皺(しわ)を伸ばして、早苗に手渡した。 

「俺は『明日』には、立派な武士になる。だから、『明日』萩に帰ってこい」 

 乙熊が小五郎より前に出た。 

「俺もだ。えーと、右に同じ」
「うん、忘れないからね」 

 早苗は小五郎と乙熊に頷くと、駕籠に乗った。
 駕籠舁(かごかき)は、、早苗を乗せると、駕籠を軽々と担ぎ上げた。駕籠は斜めのまま、ゆっくりと小さく揺れながら遠ざかっていく。
 小五郎の横で乙熊が急に泣きだした。
 駕籠は網代で囲ってある。さすが万吉屋らしい立派なものだった。
 駕籠の窓から早苗も泣きながら手を振っている。
 小五郎は自分の肩を乙熊の肩にぶつけた。 

「なんだ、泣き虫め。めそめそしやがって」
「何が悪い。お前の分も泣いてやる」 

 乙熊は叫んだ。 

「おおい、小五郎のことなんか、忘れていいぞ。俺はずっと待ってるぞ」 

 やっと乙熊は胸に詰まった思いを叫んだ。
 小五郎も両手を口に当てた。 

「早苗、俺もだ。右に同じ」 

 早苗は両手で、二人分手を振った。 

「うん、待っててね。きっとよ」 

 駕籠は御成道から橋本川にかかる大橋に向かっていく。
 見送る乙熊が小五郎を誘った。 

「小五郎、俺の家に寄らないか。母上の握り飯、食ってけよ」 

 小五郎は頷いて、乙熊の肩を叩いた。 

「早苗はきっと海岸をまわって、岬から、見えるかどうかわからないけど、萩の方を見たいのさ。俺たちのいる萩をね」

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