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桂小五郎青雲伝 ー炊煙と楠ー 第二十一章 お豊を救え
『 小五郎伝 ―萩の青雲― 第二十一章 お豊を救え 』
火山竜一
第二十一章 お豊を救え
三日後の早朝。
「江戸行きのお祝いをいたしましょう」
桂家の庭で、弥之助が小五郎に声をかけてきた。
弥之助は、着流しを端折った姿で、二本の木刀を持っている。鷲づかみした木刀を小五郎の前に突き出した。
「久しぶりに、汗を流しましょう」
小五郎はというと、ここのところ、旅立ちの用意や挨拶回りで落ち着かない。
だが小五郎にとって、弥之助との稽古は特別である。
「よし。やるか、弥之助。なめるなよ」
小五郎が座敷から下りてきた。
弥之助は二本の木刀のうち、小五郎用の古い傷だらけの一本を、小五郎の手に乗せた。
小五郎は右手一本で、軽く素振りをした。
九郎兵衛の使った木刀は、よく手に馴染む。軽くて気持ちの良い振り心地であった。
弥之助は頭を傾けて、首の骨を鳴らしている。肩をもんでは、悠然と小五郎の前に歩を進めた。
「江戸行で、すっかり浮わついているようでございますな。足が地についておりませぬ。ちと、活を入れて差し上げましょう」
小五郎は鼻先で笑って、弥之助の前に立った。
小五郎は弥之助の立ち姿を観察した。弥之助に隙はなかった。
「弥之助、その老体に鞭をくれてやる。お前こそ、稽古不足であろうが」
少し涼しい日和であった。
弥之助も素振りをした。風格があった。
「江戸で恥をかいては、この弥之助が許しませぬぞ」
弥之助の木刀から発する風切り音が、鋭く力強い。
体が温まると、弥之助と小五郎は、庭の中央で向かい合った。
――弥之助との稽古も、これが最後か。
小五郎は、頑固一徹、桂家一筋の弥之助を見て、つくづくと思う。父桂九郎兵衛が弥之助の人柄を見込んで頼りにしてきたことを。
弥之助も、よく桂家に尽くしてくれている。
中間の中には、奉公先を頻繁に変える者はいくらでもいる。嫌になり、百姓に戻ってしまう者もいる。弥之助はというと、昔から変わらない。
中間で、この剣術の腕前は、そうはいない。弥之助もまた、一人で剣術の腕を磨いてきたと、いえるだろう。
――弥之助こそは、萩一番の奉公人じゃ。
小五郎は、江戸行のために、弥之助としばし別れるのが寂しかった。
弥之助の一撃こそ、小五郎にとっては、よき餞別である。
弥之助と小五郎は離れて立ち、ゆっくりと礼をした。
弥之助は木刀を青眼に構えると、小五郎に一声した。
「さあ、こい」
小五郎は自然体で立っている。
右手に木刀を持って、ぶらりと下げたまま動かない。
小五郎の無構えに、弥之助はひるんだ。苛立った弥之助の声が響く。
「さあ、どうした。臆したか」
弥之助の挑発に、小五郎はにやりと笑った。
「その手は食わぬ。昔の俺じゃないぞ」
弥之助の誘いに乗って打ち込むなど、愚の骨頂。何度痛い目にあったことか。
小五郎は構えていないようで、弥之助のいかなる動きにも備えている。
内藤作兵衛直伝の無刀取りの気構えで、木刀を限りなく軽く握っていた。指先の一点で、木刀の重みの中心を感じ取っていた。
弥之助は、足元をずらすようにして、じわじわと間合いをつめてくる。
小五郎に、動くつもりはない。小五郎には、弥之助の気迫をすり抜けていく風のように感じるだけだ。
小五郎の心は、波のない凪(なぎ)の海のように鎮まっていた。
弥之助の額に汗が浮いてきた。息が少しずつ荒くなる。
小五郎は両腕をたらした隙だらけの構えである。ただ、漠然と弥之助の全体を感じ、弥之助の心の底に意識を集中しているだけである。
小五郎から事を起こすつもりはない。いつまでも待つだけだ。
弥之助の苛立ちが、小五郎の心の鏡に反射する。
弥之助は気合を発し、一気に踏み込み、上段から打ち込んできだ。
小五郎が雨をさけるように体を捌(さば)くと、木刀が弥之助の首筋で止まった。
「感じたら、打つ」
小五郎は、昔教わった弥之助の言葉を口にした。
弥之助の額に、汗が一気に噴き出した。
小五郎と弥之助は離れて、互いに木刀を左手に収めると頭を下げた。
弥之助が、おいおいと泣き始めた。
「よう、ここまで、なられました。もう、弥之助に、教えられる技はございませぬ」
涙と汗をぬぐう弥之助の左肩を、小五郎は優しく右手で握った。
「すべて、お前のおかげだよ」
内藤作兵衛の教えや五人との立ち合いで、小五郎は何かが変わったように思えた。相手がよく見える。体が勝手に反応する。余計なことを考えない。欲も消えている。
小五郎には、弥之助が庭で教えてくれたことが、あの立ち合いがきっかけで、芽を吹いたと思っている。
弥之助は小五郎から木刀を受け取ると、濡れ縁に、そっと置いた。
いつもの稽古のように、二人して濡れ縁に腰を下ろした。
「これほどの腕ならば、江戸行きは心配ござらん。いかような相手にも、臆することはありませぬ。九郎兵衛様も、きっとお喜びでございましょう」
小五郎は、弥之助に勝三郎のことを頼んだ。
「江戸に行ったら、仕送りを頼む。勝三郎には、色々と教えてくれ。俺にしてくれたようにな」
弥之助は嬉し気に頷き、鼻をすすった。嗄れ声(しゃがれごえ)が震えている。
「承知いたしました。こちらのことは心配せず、江戸での修行に精進してくだされ」
小五郎は庭に目をもどし、急に襟を正し袴の埃をはたいた。
落ち着きがなくなり、弥之助と対峙した時とは大違いだ。
「さてと、では、挨拶回りにでも、行ってくるかな」
弥之助は、にやりと笑った。
「吉原屋でございますか。嵐の後で、すぐに建て直しましたからな。たいしたもんでございますよ」
吉原屋の復活は、小五郎も武之進から聞いていた。
倒壊したのは吉原屋だけではない。どの店も、雑草のように生え変わり、新築したり改築した妓楼が並んでいるという。
今まで、洪水の度に生き残って来た店である。おそらく、いざというときの備えはあるのだろう。
ただ、遊女の多くが犠牲になった。
嵐の晩は、妓楼の主人は、自分が逃げるので精いっぱいだったという。まさか全壊するとまでは、思っていなかったらしい。吉原屋の女郎たちも亡くなった。
吉原屋の女たちは入れ替わったが、ただお豊だけが、一人、吉原屋に残っていると武之進はいっていた。
小五郎は、弥之助にとぼけた。
「なに。どうしてわかる」
「隙ありでござる。どうせ、お豊さんでしょう。ちょっと、お待ちを」
弥之助は木刀をかたずけに座敷に上がり、床の間の奥から何やら手にしてもどって来た。
小五郎の手を取ると、ちょいと遊べる程度の金子(きんす)を握らした。
「これじゃ、足りますまい」
さらに多めに、巾着袋から金子を取り出して押し付けた。
小五郎は口を尖らせた。
「遊びに行くのではないぞ。お別れの挨拶に行くだけだ。まだ時間が早いではないか」
弥之助は目を閉じて、いいやと、首を振った。
「勘でございますよ。何かと入用になるかもしれませぬ」
こうして小五郎は、まだ日が昇りきっていない朝のうちに、吉原屋に向かった。
小五郎は、菊ケ浜から川に沿って、浜崎の蔵の前を通り遊郭の通りに入ると、周りの様子を見回しながら吉原屋の前に立った。
吉原屋は変わっていなかった。
拍子抜けするほど、嵐の前の店構えと、さして違いはなかった。
余計な装飾もなく、資金を極力かけずに早く開業することを優先したようだ。おそらく、大工を急がせたのであろう。
頑丈に作るよりも、洪水で崩れたら、また建てかえればよいと、考えたのかもしれない。
周りの妓楼によっては、店構えが華やかで昼見ても目立つ店もあった。
吉原屋の二階で、見慣れぬ女郎が乱れた髪をかき上げていた。欠伸をすると、小五郎を見下ろした。
小五郎は後悔した。
時間が早すぎたかもしれない。
とはいえ、帰る気はない。小五郎は店に入り、土間に立った。
周りの壁は傷一つもない。
主人が帳場で算盤をはじき、忙しく帳面をくくっている。遊女の聞きなれぬ名前を口走っては、稼ぎを記している。
遣手(やりて)婆のお千は、横から帳面を覗いていた。
しばし、小五郎は二人の様子を見ていた。
新しい遊女の稼ぎが足らないのだろう。
主人が渋面をつくっている。
――この二人だけは、変わらぬな。
お千の化粧は厚く、歳を隠しているようであった。格子の小袖を着ていた。
お千が、小五郎に気が付いた。
「こんなに朝早く、どうなされました。ほんに、お久しぶりでございますねえ」
お客など、予期していなかったようだ。
小五郎は二階を指さした。いつもの部屋の辺(あた)りだ。
「お豊はいるかな」
お千は困ったような顔をした。ため息をついて、軽く首を振った。
「お豊はねえ、今は客をとりませぬ」
小五郎は意外な思いで、お千に近づいた。
お千のいった意味がよく分からなかった。
「どういうことだ。俺は少し顔を見たくて、寄っただけだ」
お千は瞬きしない目で、小五郎を見上げた。お千は手元に目を落として、右手で左の掌をなでた。
「お客様、ほかの子では、いかがでしょう」
誰かを押し付けるつもりらしい。
小五郎は首を振った。
「いや、お豊を出してくれ。お豊に会いに来ただけじゃ。ちと、話しておきたいことがあってな。それだけだ」
小柄なお千は、あきれたような顔をした。
「そうそう、お豊をお救いいただいたのは、お客様でございましょう。その節は、大変お世話になりました」
お千は小五郎に腰を折り、帳場の主人に目配せした。
主人も少し腰だけ上げて、「嵐の節は」と頭を下げた。
お千は振り返ると、小五郎に申し訳なさそうな顔をした
「お豊は、今はもう無理なんでございますよ。どうか、お引き取りくださいませ」
早口の割り切った声だった。お千は、もう打ち切りたいという嫌な顔をした。
小五郎は納得できない。
小五郎は詰め寄った。
「俺はな、江戸に行く。もうすぐ出発する。今日は別れの挨拶に来た。お豊に会えぬわけがあるのなら、教えてくれ。もしかして、もう、この店にはいないのか」
小五郎は眉間にしわを寄せた。
お千はふんと鼻で笑った。小五郎を、金のない若侍だと見ているようだ。朝、安く遊んで、さっさと帰る気だと。
お千は、まじまじと小五郎を下から上まで見ている。
「おお恐(こわ)。そんな思いつめたお顔をされると、女はみんな腰が引けてしまうもの。出直しなされませ」
お千は、厄介払いをしたいのであろう。
「今、お豊は、お取り込み中でございます。江戸に向かわれるとのこと、後でお豊にお伝えしておきますから」
化粧っ気のない朝の女たちが脇を通っていく。これから朝風呂にでも入って、一寝入りするのであろう。
女たちは、初めてみる小五郎を値踏みするように見ては、暖簾(のれん)をくぐって外に出て行く。中には、小五郎とお千とのやりとりを、避けるようにして急ぎ足になる女もいた。
小五郎の声の調子は強くなる。
「どうして会えない。訳をいえ。俺に会えぬ理由でもあるのか」
やれやれと、お千は肩をすくめて困った顔をした。
「無理なんでございますよ」
投げやりなお千の声だった。
小五郎は、大刀の鞘に左手を添えた。
「ここまで来て、引き下がるわけにはいかん。お豊を出せ」
お千はまったく動じない。
切れるものなら、切ってごらんなさい。損をするのは、あなた様ですよ。江戸行きどころか、将来も失うだけでございますと、肝を据えているようだ。
お千は上目遣いに、瞬きもしない。
――さすがに、妓楼を取り仕切っているだけのことはあるな。たいしたもんだ。
度胸のよいお千に、小五郎は妙に感心してしまった。
小五郎は、弥之助が金子を押し付けた意味が、よく分かった。
ここは、金がすべてだ。
「なるほど。では、こうしよう」
小五郎は、あっさり刀から手を離した。
弥之助のくれた金子を半分懐から取り出して、お千の手に握らした。
「あら、まあ」
小五郎の変わり身の早さに、お千は眉を上げて戸惑っている。
「どうしましょう。こんなに、ありがとうございまする。今、お店は火の車でしてね。嵐の後は、お金が出て行くばかりで、ずっと大変なんでございますよ」
お千はするりと金子を袖に入れた。
急に態度が柔らかくなった。
「申し訳ございませぬ。お豊は、ここのところ具合が悪くて、寝込んでおりますの」
小五郎は、さらに押し付けるようにして、残りの金子を掴ませた。
お千は、大げさに腰を振り、金子の重さによろめくような仕草をして笑みを浮かべた。
「本当か。ならばなおのこと、お豊に会わせてくれ。見舞いたい。何とか、たのむよ」
お千の顔が目尻に皺を寄せて、すっかり愛想がよくなった。このお侍、意外と話が分かる、問題は起こすまいと思ったようだ。
お千は小五郎に近づき、奥の部屋を指さして、そっと耳打ちした。
「お侍さん、だけですよ。お豊の部屋は階段の先の突き当たり、奥の右側でございます。行燈部屋で、今は寝ておりますの」
小五郎は廊下の奥を覗き、怪訝(けげん)な顔をした。
「二階ではないのか。奥の部屋といっても、狭くないか」
お千の舌が妙に軽い。
「病の娘を、お客様にお見せするわけには、いきませんでしょ。ささ、奥へ奥へ」
小五郎は草履を脱いで土間からあがり、階段の前を通って奥に入った。
真っ暗な廊下の突き当たりまでくると、右の脇に板戸が閉じられた部屋があった。
二階の華やかな座敷とは大違いだった。
小五郎は、お千に振り返った。
「ここか。ただの物置ではないか。本当に、お豊がいるのかい」
廊下の奥は、光が入らない。窓といっても、小さなもので、外は土手である。しまうつもりの行燈が、隅の壁際に二つ並んでいた。
お千は小五郎に、当たり前のことですよ、という顔をした。
「うちの子は具合が悪くなると、皆ここに入りますの。なにしろ部屋が足りませんのでね」
お千は、それではごゆっくりと、袖の中の金子を上から押さえて抱えるようにして、さっさと離れていった。
「あんた、これ」
帳場の主人のところで嬉しげな声が聞こえた。
小五郎は板戸に耳を着けた。中の気配が感じられない。
そっと板戸に、声をかけた。
「お豊。いるか。俺だ。桂だ」
返事はなかった。
小五郎は板戸の四隅を見回した。もう少し声を高くした。
「お豊、具合が悪いのか。大丈夫かい。声を聞きたい。俺はもうすぐ江戸に行く。お前の顔が見たいんじゃ」
小五郎は、拳を上げて、軽く戸を叩いた。
板戸は静かなままだった。
小五郎は胸騒ぎがしてきた。
――死んでいるのではないか。
急に板戸の陰で、激しく咳き込み、うっと吐き出す音が聞こえた。
――労咳(ろうがい)(結核)だ。
小五郎は力任せに戸を開けようとした。
声を張り上げた。
「お豊。開けろ。お前、薬はあるのか」
お豊の弱々しい声が、途切れ途切れに聞こえた。
「開けては……いけませぬ。私のことなど、お忘れくださいな」
戸を叩こうとして、小五郎の拳は止まった。
小五郎は戸に、もう一度、耳を付けた。
戸の奥を耳で探りながら、そっと声をかけた。
「お豊、お前に会わずに、江戸に行けるかい。俺の気持ちを分かってくれ」
小五郎はこの部屋の意味を悟った。
病を得た女郎は稼げない。引き取り手もない女郎は、ここで治療も受けずに死ぬのを待っている。遊郭が働けない女のために余計な金を払うはずがない。仮に体が持ち直して回復しても、また客を取るだけだ。
もうお豊はいい歳だ。
病が治ったとしても、弱った体で再び稼ぐのは、とても無理であろう。
お豊は戸の向こうで、力なく呻くように答えた。
「さあ、江戸へ、お行きください。来てくだされただけで……とても、うれしゅうございます。でも桂様に病をうつすくらいなら、死んだほうがましでございます」
お豊が、また激しく咳き込んだ。うめき声も聞こえた。
小五郎は、何としても背中をさすってやりたかった。戸の前で、何もできない自分が辛かった。目に見えぬ遊郭の仕組みの中で、小五郎はやりきれぬ思いであった。
もがくように、両手で戸の桟(さん)を掴(つか)んだ。
「では、俺は土手の上に行く。顔だけでも見せてくれ」
声はなかった。
小五郎は戸から離れようとして、立ち止まった。
殿の親試の後で、吉原屋の二階から、お豊と二人で松本川とその先の海を眺めた時のことを思いだした。
小五郎は、あの時のお豊の言葉を口にした。
「お豊、夢を捨てるな」
この言葉は、今のお豊を、辛くするだけかもしれない。
小五郎は、しばし唇をかみしめて板戸を睨んだ。
小五郎は遊郭を出ると、吉原屋の表を回って川べりの土手の上に登った。
松本川も海も一望に見えた。
小五郎は土手の上から、吉原屋の一階を見下ろした。
お豊の寝ている部屋は一階のため、前が土手の壁で塞がれて川も海も見えない。風通しも悪そうだった。
土手の日陰の底で、お豊の寝ている部屋の戸が、わずかに開いた。
真っ暗な部屋の奥に、やせ細ったお豊らしい白い顔が、ぼんやりと浮かんでいた。
小五郎とお豊は、無言で見つめ合った。
小五郎の声が響き渡った。
「お豊、聞けい」
何軒か、妓楼の二階の障子が開いた。何事かと遊女たちが顔を出した。
小五郎は、かまわず叫んだ。
「江戸に行っても、けっしてお前のことは忘れまい。お豊、諦めてはならんぞ。俺が、医者を手配するから、待っておれ。よいな」
小五郎は土手を駆け下りた。
死神の足音が、行燈部屋の外に迫っているように思えた。お豊を何としても暗闇から救い出したかった。
小五郎には、江戸行きまで時の余裕はなかった。仕度に入らねばならない。手続きごとも残っている。
小五郎は桂家に速足で帰り、玄関で弥之助を呼んだ。
弥之助が走り出てきた。
「すまぬが、青木先生と吉原屋に行ってくれ」
小五郎は弥之助に事情を話し、遣手婆のお千にさらに金をつかまして、お豊を明るい部屋に移すよう頼んだ。
「青木先生に、内々に往診をお願いしてくれ。お豊が口にできるかわからぬが、ついでに精のつくものでも吉原屋に届けてくれぬか」
御典医の青木に遊女の診察は難しいかもしれないと、小五郎は思った。でも青木ならばやってくれるであろう。父昌景が天下第一と誇りにしていた医者だ。
弥之助の声は力強かった。
「お任せあれ。その手のことは、得意でございます」
弥之助はさっそく玄関を降りて草履を履いた。
だが、青木の往診だけでは、あのお豊の絶望的な様子では、どうしようもない。
小五郎は、ほかに何かできないかと考え続けた。思い付きを口にした。
「弥之助、お豊に、読み書きを教えてくれないか」
弥之助は、仰天した。
急に弱々しい声になった。
「そんなあ、いくらなんでも、無理ですよお。読み書きは、苦手でございまする。なんだか眩暈(めまい)がしてきた。寝込みそう」
弥之助の顔は、泣きそうだった。
「確かに。弥之助では無理か。お豊の気が紛れるかと思ったんだがな」
小五郎は、ふと妙案に手を打った。
「弥之助、青木先生に、ついでに読み書きをお願いしてくれぬか。体の病を治すだけが、医者の仕事ではあるまい」
弥之助は「おお」と雄叫びを上げた。がってんと手を打った。
弥之助が、横丁に走り出そうとすると、またしても、小五郎が呼び止めた。
またですかと、弥之助が振り返った。
「友藏を呼んでくれ。ちと頼みたいことがある」
弥之助は意外な顔をして、横丁に出て行った。
しばらくして、玄関で聞き慣れた声がした。
「お呼びでしょうか」
友藏が入ってきた。
小五郎は「上がれ」と友藏を座敷に入れた。
桂家の座敷で、友藏と二人だけになるのは初めてだった。
実は小五郎の胸に、お豊を救う、さらなる策があった。その策のためには、友藏がどうしても必要だった。
小五郎には、策を話す前に友藏に訊きたいことがあった。
友藏は小五郎の前で、怪訝(けげん)な顔をした。
「弥之助さんと相談して、旅の路銀は、もう御用意いたしましたよ。案ずることはありませぬ」
優しい友藏の声だった。痩せてはいるが背も高く、顔は浅黒い。落ちくぼんだ眼を瞬かせている。
座敷で、友藏は、和田家にいる時のように、背中を丸めて座っている。
そんな友藏を、小五郎は頷きながら見つめた。
「友藏、俺は困ったことに、昔の辛かったことが忘れられない質でな。江戸に発つ前に、ちと、お前に教えてほしいことがあるんだよ」
友藏は首を傾げた。
「はあ。私のような者でよろしかったら、なんなりと、おっしゃってくださいまし」
「俺が六つの時、『百曲がり』のややこしい通りで、佐吉なる人さらいに連れていかれそうになっただろ。夜のことだよ。あの時、友藏は佐吉とぶつかり、佐吉の腰にしがみついたっけ。覚えておるか」
友藏は微笑みを浮かべて、懐かしそうな顔をした。
「そんなことが、ありましたねえ。お城の近くで……あれは、大変な一日でございました」
佐吉と友藏のやり取りは、文譲も知らない。友藏と小五郎だけの出来事だ。
「あの時、佐吉は、友藏のことをよく知っているようだった。友藏も『あんたは、そんな人じゃない』と叫んだろ」
友藏は驚いた顔をした。
「よくまあ、お覚えておいでで」
友藏は、急に陰鬱な顔になった。
「友藏よ、佐吉とは前から、何かあったのかい」
小五郎は、あえて佐吉の暴言を口には出さなかった。友藏を『間引きの友藏、死にぞこないめ』と怒鳴ったことを。
「すまぬ。お前の辛い思い出に、触れてしまったかもしれぬ。答えたくなかったら、答えなくてもよいぞ。たまたま、さるところで、佐吉とまた会っちまったのさ。ちと前のことだが」
友藏の目が細くなった。含み笑いを浮かべた。
「吉原屋の前で、ございましょう」
――弥之助から聞いたな。
小五郎は、弥之助に、いつも何でも話してしまう。
友藏は軽く頷いた。
それではと、友藏は懐に手を差し込み、そっと薄汚れた数珠袋を出した。
中から古い数珠を取りだして、小五郎に見せてくれた。数珠の球は小さくて女物のようであった。
「このお数珠は、馬関で亡くなった姉(あね)様(さん)の形見でございます。いつも私を守ってくれているお数珠です」
「えっ、姉上がいたのか」
友藏は遠くを見た。
「水呑百姓でろくに食うものもなくて、乳飲み子だった私が危うく口減らしというときに、通りかかった旦那様(昌景)に救われたのでございます。旦那様は『預かる』とおっしゃって、私を萩に連れて来てくださいました。その後で、姉様は佐吉さんに連れられて、馬関の揚屋(あげや)に、奉公に出たそうでございます。お豊さんと同じでございますよ」
友藏は続けた。
「まだ客をとれる年ではありませぬが、体の弱かった姉様は、何年か経つと体がもたず、臥(ふ)せってしまいました。起き上がれなくなると、立ち寄った佐吉さんに、このお数珠を『弟に渡して』と預けたそうでございます」
友藏は唇を噛んだ。
畳の一角を見つめている。
「私がどこにいるのかも、姉様にはわかりませぬ。きっと私が辛い思いをしているのだろうと、佐吉さんにお数珠を託して、姉様は亡くなったのでございます」
友藏は、和田家ではけっして話すことのなかった過去を語った。
「佐吉さんは、私を方々さがして、ようやく萩の和田家にいることを知ったのでございます。私が少し大きくなって、お使いに和田家の門を出たときのことでございます。外で佐吉さんに呼び止められました。佐吉さんは、私の手に『姉さんの形見だよ』と、このお数珠をのせてくれたのです」
友藏は数珠に目を落とした。
「私は初めて、姉様や兄様がいることを知りました。呼坂村のお父つぁん、おっかさんの様子も、みんな佐吉さんが教えてくれました」
友藏は目を上げた。
「私は何度も、村に帰って、お父つぁん、おっかさんに、会おうと思いました。佐吉さんからも『行け』といわれておりました。ただ会えば、けっして喜んで、くれないのではないか。かえって苦しませることになるのではと、あの頃は思い悩んでおりました」
小五郎は、ようやく合点がいった。
「そうだったのか。すまなかった。胸のうちを無理やり聞いてしまった。許せ」
「とんでもない。私のような者のことを案じてくださり、嬉しゅうございます。昔は、両親を恨んだこともありました。今、三十を過ぎて、ようやく、両親をありがたく思えるようになったのでございます」
小五郎には意外であった。
――間引きを恨んでいないのか。見捨てられたことを。
「危ういことがあったからこそ、ご縁で、私は和田家に来れたのです」
友藏は小五郎に熱い思いを口にした。
「実は佐吉さんも、生まれた頃のいきさつは、私と同じだったのでございます。ただ、私はお医者様に、佐吉さんは女衒に引き取られたことが、巡り合わせなのでございます」
友藏の落ちくぼんだ目が見開かれた。
「私は巡り合わせというものを、ありがたく思うようになりました。患者様のために薬箱を担いだり、竈(かまど)で飯炊きのお手伝いをするくらいしかできない私ですが、少しでも困っている患者様のお役に立てるのなら果報者ではないか。毎日が、嬉しくて仕方がないのでございます」
小五郎は、友藏の目尻に光るものを見た。
友藏は数珠を持つ右手の拳を左手で包む。
小五郎は頭を下げた。
「友藏。和田家の竃の火を守り続けてくれたのは、お前だよ。俺からも礼をいいたい。俺は江戸に向かうが、これからも和田家を支えてくれ。頼む」
友藏が驚いて、にじり寄る。
「そんな、やめてくださいませ」
友藏は小五郎の肩を押さえるような仕草をした。使用人に頭を下げるなんて、あってはならないことだと。
小五郎なりに、友藏への思いがすっきりした。友藏の手元の数珠を見た。数珠を持つ友藏の手が震えている。
小五郎は、しばし、どうしようか迷っていたが、気持ちをふっきった。
吉原屋の一件を話し始めた。
「友藏。お前に、一つ頼みたいことがある。女を一人、救いたいのじゃ。江戸行の前に、なんとかしたい」
友藏が、えっと、顔を上げて小五郎を見た。思い当たることがあったようだ。
「嵐の時の」
「そうだ。吉原屋のお豊だ」
「まさか、見受けするとか」
小五郎は両手を振った。
「違う違う。無理だって」
「でしょうなあ。ああ驚いた」
友藏が胸をなでおろした。
小五郎はにじり寄った。
「まあ聞いてくれ。なじみのお豊も、お前の姉様と同じ運命の女だ。おそらく、佐吉に連れられてきたのであろう」
友藏は小五郎を、ほとんど瞬きもせずに見つめている。
「お前の姉様が、なんの病で亡くなったのかわからぬが、お豊は今労咳で臥せっておる」
友藏は大きく頷いた。
「先ほどの弥之助さんは」
「お豊の件で、青木先生のところに走ったのさ」
友藏は成程と、合点がいったようだった。
「そこでだ。友藏」
小五郎は友藏を見つめた
「佐吉を動かせぬか」
友藏は、目をむいた。
「佐吉さんをですか。この私が」
「そうだ。俺の考えはこうだ。佐吉ならば、お豊を国に帰してやれる。いくばくかの金は、必要であろう。父の俺への遺産の一部を、まわしても構わぬ。その佐吉とつながっているのは、友藏、お前だ」
友藏は数珠を袋にしまって懐に入れた。日頃、和田家の財産管理をしている友藏は、左手で顎をさすりながら、何事かを計算しているようだった。
「あの嵐の夜に、私はさておき、佐吉さんの命を救ったのは若旦那様ですものね。佐吉さんにとっては、大きな借りがあるというもので。これは……確かに、断れぬかもしれませぬ」
「友藏、お豊の気持ち次第だが、もしお豊の労咳が回復したら、生まれ故郷に帰してやりたい。お前なら、わかるであろう。佐吉から、吉原屋の主人に話をつけられないかな。このままでは、お豊は体が治っても、お先真っ暗じゃ」
友藏の声は力強い。
「かしこまりました。佐吉さんに話してみましょう」
小五郎は付け加えた。
「佐吉と会うときは、弥之助を連れていけ。佐吉は何をしでかすか、わからぬところがある。弥之助が力になろう」
友藏が立ち上がろうとしたとき、小五郎は呼び止めた。
「懐の数珠だが」
友藏は自分の胸を指した。
「これが、何か」
「ひょっとしたら、おっかさんのものではないか」
友藏の顔色が変わった。
「考えてもみよ。その古い数珠を、姉様が馬関に向かうときに、おっかさんが持たせることはありうるであろう。姉様はな、だからこそ、死に際に、そのお数珠をお前に渡したかったのではないか」
友藏の頬に鳥肌が走った。
関連リンク
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