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桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠― 第十四章 闇に光を
火山 竜一
第14章 闇に光を
嘉永元年(一八四八年)の正月。
昌景は毛利慶親の参勤に随行して江戸にいた。和田家は、珍しく昌景のいない新年を迎えた。
小五郎はもう十六歳になる。
青竹のように背丈が伸び始めている。小五郎は刺々しい年頃になった。昌景がいないことで、かえって清々(せいせい)した顔をしている。
正月が過ぎたころ、お清が激しく咳き込み始めた。萩の流行(はや)りの風邪かもしれない。
小五郎はお清の咳が気にかかって仕方がなかった。
自分の具合が悪くなるときと同じだ。
お捨が亡くなり、残された長男卯一郎もまだ幼い。小五郎の妹であるお治も手がかかる。そこに文譲の後妻となったお八重が直次郎を生んで、今また次の子を宿していた。
お八重は直次郎を出産する前は、何度も出血して流産しかかった。やっと生まれた直次郎は体が弱くて、お八重も産後の肥立ちが悪かった。
お清は、そんなお八重を支えた。
子供たちの面倒を見ては、着古した袖無羽織を着て家事をこなした。
お清は咳き込みながらも、無理をし続けた。過労で風邪をこじらせて、家事どころか、かえって横になることが多くなった。
お清はついに寝込んでしまった。
小五郎が生まれた四畳半で、終日横になっている。
やつれた顔を向けて、楠のなくなった庭をぼんやりと見つめていた。
小五郎は、連日、青木周弼に往診をお願いしに走った。家では、お清に白湯をはこび、額に濡れ手拭をそっと額に乗せた。お清のために、お寺や神社に寄っては、一心に病が癒えることを祈り続けた。
小五郎の胸に、焦りと無力感が募っていく。
小五郎は、お清が布団から起き上がるたびに、袖無羽織を肩にかけた。
お清の髪は乱れて、頬はこけ青白かった。熱も出て食事も喉(のど)を通らず、背を丸くして咳き込んでいるのが痛々しかった。
お清の体は、枯れ枝のように痩せ細っていった。
和田家に最大の危機が訪れようとしていた。
死の影がお清を包み込んでいく。
小五郎は、昌景が帰ってくれば何もかも解決してくれると思い、必死に手紙を認(したた)めた。
嘉永元年の三月のある晩、お清は脇に小五郎とお治を呼んだ。
お清には、もはや寝床から起き上がる力はなかった。
お清は小五郎に、布団の間から細い手をのばした。
お清の手を、小五郎とお治は両手で強く握り締めた。小五郎の膝には、折り畳んだお清の袖無羽織があった。
お清は、一言、一言、静かに二人に語りかけた。
「小五郎や、お前の行く末が心配なの」
お清の透き通るような声が、小五郎の心の底にしみとおっていく。
「いいですか。生き急いでは、なりませぬよ。死に急いでも、なりませぬよ」
小五郎はお清の声を、なんと美しく悲しい声だろうと思った。
小五郎は死の影を振り払うように激しく首を振った。
「母上……もう、小五郎は、心配をかけませぬ」
お清の声が弱々しく遠くなっていく。
「きっと、お前にしか、できぬことがある。お前が産まれた明け方に、庭に植えられた小さな楠を見た時に思ったの。楠をお城に献上した時、母もちょっと寂しかったのよ」
お清はうっすらと頬笑みを浮かべて、小五郎とお治の指をそっと握り返した。
「小五郎や、お治をよろしく頼みますよ」
お治は、お清の掌に突っ伏して、泣きじゃくった。
お清は中空を見上げた。
口元が動いた。『旦那様、ごめんなさい』と江戸の昌景に語り掛けている。
お清は、そっと目を閉じた。
頬(ほほ)がささやかな息で、軽く膨(ふく)らみ萎(しぼ)み、徐々に弱まっていく。
表玄関の戸を荒々しく開く音がした。
文譲と青木の声が聞こえた。
友藏が玄関で迎えて、「早く早く」と急かせている。
三人が四畳半に入って来ると、青木がすぐにお清の脈をとった。
お八重も壁伝いに二階から下りてきた。お八重は吐き気をおさえるように口に手をあて、柱に寄りかかっている。そのまま、ずるずると腰を下ろした。
小五郎は、お清の息が、静かに口元から去っていくのを見守り続けた。
握り締めているお清の手から、力が抜けていく。温もりだけが残っていた。
小五郎はお清の袖無羽織を掻き寄せると叫んだ。
「母上、羽織を着てください。目を開けて、なんとかおっしゃってください。母上」
お清はもはや目覚めることのない静かな眠りについた。
昌景が江戸に向かってから一年後の嘉永元年(一八四八年)三月二十八日。
お清は短い生涯を閉じた。
和田家の悲劇は、さらに続いた。
お八重が二番目の子である勝三郎を産んで、産後の肥立ちが悪く出血がとまらず、高熱を発して亡くなった。
お清が亡くなってから、わずか一月半後のことであった。
小五郎は、文譲の後妻になったお八重と、庭で語ったことを思いだした。
――「母になればいい」なんて口にしなければよかった。姉さんが死んだのは俺のせいだ。
小五郎は際限もなく自分を責めて寝込んだ。
「死にたい」と口走るようになった。
小五郎は明倫館にも行かず、和田家の二階の締め切った部屋に閉じこもった。
窓を閉めて、終日薄暗い中で、頭を抱えてじっとしている。
小五郎の髪は乱れて、髭(ひげ)は不揃(ふぞろ)いに伸び、目つきは鋭くなった。髪は乱れたままだった。外は春でも、小五郎の心は冬のままだ。
小五郎は、時々部屋の隅に吊り下げられた袖無羽織を見上げた。
――俺は母上に、心配ばかりかけた親不孝者だ。一つも、孝行をできなんだ。
小五郎は風邪をひいても、けっして青木先生がくれた薬を飲もうとはしなかった。水もあまり口にせず、食事も喉(のど)を通らなかった。
――こんな俺に、桂家を継ぐ資格なんかない。和田家の人間でもない。俺は一体何者なんだ。俺が死んでも、誰も困りはしない。死ねば生まれる前に戻るだけ。一体、何しにこの世に生まれてきたんだ。
小五郎は文譲が空けてくれた二階から、出ることはほとんどなかった。部屋を閉め切って、終日、うす暗闇の底に寝ていた。
小五郎は和田家の二階の部屋に、何日こもっているのかわからなくなった。
食事は襖の外に置かれるだけだ。
家族とも、ほとんど顔を合わすこともない。
小五郎は、無言で風呂に入り、厠へ行き、二階にもどる。腕白したり、明倫館でにぎやかに騒いでいた頃とは、別人のようであった。
ある日、寝転がって天井を見上げている小五郎の耳に、階段を軽々と上ってくる足音が聞こえた。
襖が開いた。
友藏が小五郎の前に入ってくる。
友藏は小五郎を見下ろすと、溜息をついた。
小五郎は大の字のまま、気だるそうに薄目を開けた。
「友藏、俺はな、出家することにした。寺はどこでもいい。髪を切ってしまえば、生臭坊主になれる。この世はな、死ぬまでの暇つぶしだ」
友藏は懐から数珠を取り出して握りしめ、小五郎の前に膝を折って座った。
小五郎は煩(わずら)わしそうに顔を背けた。
友藏は、情けなやと首を振った。
「何を考えているやら。こんな若い生臭坊主は萩にはおりませぬよ。やけを起こしては、なりませぬ。悲しみから逃げてはなりませぬ」
友藏の低い声には、いい加減にしろという苛立(いらだ)ちがこもっていた。
小五郎は、今まで、こんな友藏の声を聞いたことがなかった。
友藏は押し殺した声で、小五郎を諭(さと)した。怒鳴りたい己を抑えているようだった。
「すべては、定めでございます。生まれるのも定め、死ぬのも定め。起こったことを受け入れて、前に進むしか道はありませぬ。旦那様は、もうすぐ江戸から帰ってまいります」
友藏は急に弱々しい声で呻いた。
「母の死に目に会えただけでも、幸せではございませぬか。私などは……母も父も、顔すら知りませぬ」
小五郎は友藏の数珠をちらっと見た。
友藏の数珠を握りこんだ手の甲が、真っ白くなっている。
小五郎が投げやりに、言葉を返す。
「親の顔なんか、なまじ知らない方がいい。悲しまなくて、すむだろうが」
友藏は憮然として、畳を思いっ切り叩いた。勢いよく立ち上がった。友藏は襖も締めずに、階段を踏みつけるようにして下りて行った。
小半時(三十分)ほどして、友藏は弥之助を連れて二階に上がってきた。 弥之助の仁王のような太い足が、畳を踏みしめて、薄眼を開けた小五郎の脇を抜けていく。弥之助は窓の障子を、右に左に、弾くように開け放した。
弥之助の左手には、木刀が握られている。
強い日差しに、小五郎は眉間に皺を寄せた。
「やめろ、まぶしい。閉めろ、弥之助」
弥之助は聞こえないふりをして、窓の外を見まわしては友藏を呼んだ。
「いやあ、和田家のお二階に、初めて上がりましたぞ。なんという眺めの良さ。周りは平屋ばかりではありませぬか。空は雲一つない。抜けるような青さでござるな」
弥之助と友藏は、小五郎を無視して、大袈裟に窓の外の眺めに、感嘆の声をあげた。二人して身を乗り出して、空を見上げている。
陽光が部屋にあふれて、一気に風が流れ込んだ。
小五郎は不快な顔をして、目を閉じた。
「風がきつい。さっさと帰れ。ほっといてくれ」
弥之助が足元の小五郎に、始めて気が付いたようなふりをした。
「おや、こんなところに、転がっておりましたか。うちの若君が居候しているとは、ここでござったか。ささ、若君、窓の外をご覧なさい。外は、結構な日和でございますよ」
弥之助は小五郎の横に立つと、脇に木刀を置いて、小五郎の前にどっかと腰を下ろした。
濃いすね毛をむき出しにして、平然と胡坐(あぐら)をかいた。
中間の奉公人の態度ではなかった。
弥之助の横で、友藏が算盤を懐から出して、手際よく振った。
指が忙しく走る。算盤の球を弾く音が子気味よい。
「二階に居着いておりましてね、困っておりまする。家賃も払わず、只(ただ)飯(めし)を食ってばかり。洗濯のお代も入れて、ざっとこのくらいのお代になりまする」
日頃から友藏は和田家の財産管理をしている。土地や家も貸し付けて、賃料回収も友藏の仕事だ。
友藏は算盤を弥之助に示した。
弥之助は、できもしないのに、算盤を成程という顔で覗いた。
「友藏さん。利息もたっぷり、つけてくだされ。お代はさっそく後でまとめて払いまする。よろしいな、若君。世の中、只のものは、ございませんぞ」
小五郎は寝返りをうち、弥之助に背を向けた。
頭がかゆくて何度も掻(か)いた。
「金のことなんか知るかよ。勝手にしろ」
小五郎の言い草を、弥之助は鼻でせせら笑った。
「そうはいきませぬ。自分勝手は、ゆるされませぬ。棺桶に片足入れても、支払いは支払いでございます」
小五郎は寝そべったまま、窓を一瞥した。小五郎は再度体を転がして弥之助に向き直り、肘枕で弥之助を見上げた。
「弥之助、お前、何しに来た。何の用だ。俺はここを動かんぞ」
弥之助は、脇の木刀を小五郎の前に置いた。いつも小五郎が手にする木刀だった。
「若君と稽古をしたいと思うておりましたが、どうせ腕は鈍っておりましょうな。桂家の稽古は、なまくらな腕では怪我をするだけ。やめておきましょう。下手糞と稽古をすると、この弥之助に下手がうつりまする」
弥之助は、いいたい放題である。
横で友藏が大いに相槌(あいづち)を打っている。
「和田家の庭で、たまには素振りでもしなされ。この弥之助と稽古をするのは、十年早い。内藤先生も、あまりの軟弱に、お見限りでございましょうよ」
弥之助は友藏を見た。
「今夜、桂家で一杯やりますか。ちょうど、いい酒が入ったところでしてね。一人で手酌じゃ寂しい限り。静かな庭でも見ながら、大いに騒ぎましょうぞ」
友藏がうれしそうな声を上げた。
「私のような者でもよろしいので。酒の肴(さかな)でも、みつくろって伺いますか」
弥之助も友藏も、小五郎が酒に関心をもつ年頃なのをよく知っている。
弥之助がわざと差しつ差されつ飲む仕草をすると、友藏が「肴は何にしましょうか、やはりイカでしょう」などと盛り上がる。
弥之助と友藏は、小五郎を置いて、階段を降りて行った。
小五郎は横になったまま唾を飲み込み、木刀を眺めた。
「下手な芝居をしやがって」
小五郎には弥之助と友藏の気持ちがうれしかった。
小五郎は寝たまま木刀をつかんだ。
青空の遥か先を突き上げるように、剣先を天井に向けた。
数日後、どしゃぶりの雨の日に、小五郎は本を取りに階段を下りた。
玄関の外に、昌景が佇んでいた。
昌景は木戸門をくぐったところで、笠もかぶらず番傘もささず、濡れたままであった。
小五郎には、昌景が別人のようにやつれて見えた。
小五郎は玄関を下りると、雨の中、昌景の前に立った。
雨は止みそうになかった。
朝のこと、和田家の玄関から、聞き覚えのある声がした。
吉田大次郎の声だ。
小五郎は和田家の二階で、寝転がって本を読みふけっていた。
「桂君が、こちらにいると、聞いたのですが」
表玄関で、大次郎は昌景と話している。
小五郎は窓の障子を開けた。
周りに散らばっている本を片付けた。
昌景の本は読み飽きた。兵学書、史書、医学書、その他、小五郎はあらかた関心の持てた本は目を通してしまった。
今は文譲の本を片端から読んでいる。
階段の下から、昌景が小五郎を呼んだ。
「小五郎、吉田先生だぞ。たまには出てこい。下りてこんかい」
大次郎が昌景を遮(さえぎ)った。
「和田先生。具合の悪い桂君に私の方から行かねば、お見舞いになりませんよ」
大次郎は昌景にことわって、「では、失礼」と、階段を速足で上ってくる。
小五郎は慌てて起き直り、姿勢を正した。小五郎の髭(ひげ)は伸び放題で、元服したのに髪は乱れて髷(まげ)も曲がったままである。吉田先生を迎える支度は、できていなかった。
大次郎が階段を上がって来る足音は軽い。
大次郎は四畳半に入ってきた。大刀を抜いて右に置き、いきなり大きな声だ。
「桂君。皆、寂しがってるよ」
小五郎には、大次郎の小さな体が眩しかった。
「お久しぶりです。ご無沙汰しております」
生徒なのに、小五郎には、ほかに挨拶の言葉がみつからなかい。
大次郎は周りに積み上げた本を手に取った。次々とめくって、しきりと感心している。
「ほお、いろいろ、読んでるねえ」
小五郎は教場の時のように、両手を膝に置いた。
大次郎は本を興味深く読み始めた。
「いいではないか。蔵書の数々、さすが、昌景先生である。皆読んだのかな」
小五郎は肩をすくめた。
「だいたいです。他にやることは、ありませんので」
小五郎は、なんともぶっきらぼうな、言い方をした。
「なるほど。そうそう、具合はどうだ。佐々木源吾先生も、心配しておるぞ」
大次郎はにじり寄り、穴のあくほど、小五郎を見つめている。
小五郎は佐々木先生の顔を思い浮かべた。どうせ、「小五郎がいなくて、講義がよく進む」と、いっているに違いない。
小五郎は小さく両手を広げた。
「ごらんのとおりです。死んでおりまする」
大次郎は構わず、忙しく本を整理している。まるで自分の本のようだ。一冊一冊、埃を払い、分けては積み上げる。
大次郎は一段落すると、小五郎に向き直った。
唐突に尋ねた。
「桂君。自分の未来に、絶望したことがあるかね」
小五郎は未来のことなど考えていない。
今の自分に絶望している。
「未来のことは、明日考えまする」
小五郎は教場の時と違い、大次郎と自宅で一対一になると、どう話してよいのかわからなかった。
大次郎も同じようだった。
大次郎は言葉が詰まると、今度は顔を上げて小五郎の額を見た。
「一度聞きたいと思っていたことがある。桂君、君の額の傷は、どうしたんだ」
小五郎は、えっと、びっくりした。
大次郎は細い目を大きくして、小五郎の額を穴のあくほど、まじまじと見つめている。
小五郎の額の傷跡は、額から眉毛の近くまでのびている。
小五郎は額を指さした。
「あ、これですか」
大次郎は当たり前ではないかと、大きく首を縦に振る。
「ちと、深いわけがありまして」
大次郎は、小五郎にならば無理して語らなくてもよいと、両手で制した。
「桂君。君にも人に話せぬことが、あったのであろうなあ」
大次郎の声は限りなく優しかった。
「つらかったであろう。気持ちは、よう分かる」
小五郎は大次郎と初めて会った時のことを思いだした。
他に誰もいない教場で、小五郎が向南塾のことを口にしたとき、大次郎が殴られたり蹴られたりしながら学んだことを口にした。
――まいったな。吉田先生は俺が同じ経験をしていると、思っている。
小五郎は、まさか船頭にひっぱたかれたと白状するわけにもいかず、頭を掻(か)いた。
大次郎は自分の胸に手を当てた。
「私の体の傷は目立たぬが、桂君の額の傷は隠しようもない」
小五郎は、今まで額の傷のことなど、すっかり忘れていた。
考えたこともなかった。
「いやあ、自分では見えませんので」
小五郎は照れた。
大次郎は首を振った。
「目に見える傷より、心の傷だ」
大次郎は、ふと壁を見た。
「私の体の傷は治ったとしても、君の傷は消えないであろう。私には治してあげることが出来ぬ。今日会って、その思いを強くした」
大次郎はいったい何をいおうとしているのか。
――まてよ。先生は俺の額の傷のことを、いっているのではない。
大次郎の優しすぎる声が、小五郎の胸の痛みに触れたように思った。
大次郎は小五郎を見つめながら、話を広げていく。
「私はね、何事もやりすぎる。剣術を平岡弥三兵衛先生に習ったが、つい強く握って振れなくなる。先生が『そんなに、力むな』とおっしゃるので、力を抜いたら竹刀を取り落としてしまった。平岡先生は、今度は『しっかり握れ』と、結局『先生、いったい、どっちなんですか』と、喧嘩になってしまったよ」
大次郎の困った様子が、小五郎には目に浮かんだ。
「私の身につけているのは、知識だけだ。戦になったら、最初に切られるかもしれぬ。明倫館で最も弱いのが私だ。この大小の刀を差す度に、何のために差しているのかと思わぬ日はない」
大次郎は小五郎を眩しげに見た。
「桂君は『剣の筋がいい』と内藤先生が褒めていた。馬術は仙波先生が『上出来』と、水練は副島先生が『河童のごとし』とね。うらやましいかぎりだ」
小五郎は、そんなと謙遜したが、まんざらでもない。うかつにも、嬉しそうな顔をしてしまった。
「いや、すまぬ。つい話し込んでしまった。そうだ、ちょっと桂君に見せたいものがある」
大次郎は懐を探り、一枚の紙を取り出して、小五郎の前に広げた。
小五郎は首を傾(かし)げた。
何の絵だか、わからない。
小五郎は仕方なく、見たままを口にした。
「馬と牛が寝そべっているようですが……お昼寝でしょうか」
大次郎は肩を落とした。しょげている。
「なんと……私は絵心が、ないからなあ」
大次郎は悲しそうに絵を見た。
「万国全図といってね、世界の地図だよ。山田宇右衛門先生からいただいたものを、私なりに書き写した。いつも、これを持ち歩いている」
小五郎は万国全図を覗き込んだ。
さっそく、大次郎先生の講義が始まった。
「桂君、さあ当ててごらん。わが国は、どれか」
こんな絵で、わかるわけがない。小五郎は適当に指をさした。
大次郎は首を振った。
「ちがう。オロシャ(ロシア、露西亜)。残念。メリケン(アメリカ、米利堅)」
小五郎は、清国と朝鮮がわかってくると、我が国はその先であろうと、中央の小島を指した。
大次郎は小五郎の指先に、よしと頷いた。
「そのとおり。わが国の周囲は海である。実は途方もなく大きな国に囲まれている」
大次郎は地図の両端をもって、ぴんと張った。
「しかも、すでにわが国に、イゲレス(イギリス、英吉利)やオロシャが渡来している。桂君、わかるかね。そのことを知って、無性に私は旅に出たいと思うようになった」
大次郎は窓の外を見た。
独り言のように語り始める。
「私の学問は、私のものではない。父上と玉木叔父のものだ。私は、ただ幼いころから、父上に教わり、玉木叔父に仕込まれた、それだけのものだ。己が手を伸ばして、掴んだものがどれだけあるであろうか。何もない。明倫館の教場で、兵学の講義をするうちに、つくづくと己が情けなくなった」
小五郎は大次郎の苦悩がよくわからない。自分とは違う。だが、苦悩の深いことだけは、わかった。
「私に教場で教える資格があるのか。それともないのか。一体、私は何を伝えようとしているのか。そう思うと、ここのところ、焼けつくような思いになることがある。私はね、山田宇右衛門先生の教えで、つくづく広い世界を知って、己の進む道を見つけねばならぬと思うようになった」
大次郎には、話を遮らない小五郎の相槌が心地よいようだった。
「今は九州から江戸、東北、蝦夷と、己の足で、すべてを見ていきたい。とくに、江戸だ」
佐伯家の屋根の向こうで、寺の時を知らせる鐘が、ゆったりと鳴った。
大次郎が地図を折りたたんで懐にしまう。
「すまぬ。講義の刻限になってしまった」
大次郎は腰の脇差に手をかけて、窓の外を見た。
「隣は」
「佐伯丹下殿の家です」
大次郎にしては、珍しく不機嫌な顔をした。
「佐伯丹下殿の家は、こちらであったか」
佐伯家の屋根を見た。
「どうも、能吏は好かん。大義より立場を重んじる輩(やから)に思えてならぬ。役人の中には、真の道理より、殿ばかり見ている者がいる」
小五郎には、佐伯に厳しい大次郎を意外に思えた。
大次郎は軽く膝を打った。
「さてと、私は明倫館に戻らねばならん」
大次郎は大刀を手に立ち上がる。
小五郎も見送ろうと続いた。
大次郎は階段に足を下ろして立ち止まり振り返ると、小五郎を見上げた。
「世の中には、たくさんの母がいる。桂君、そのことを考えたことがあるかな」
大次郎は「では」と手を上げた。軽い足取りで階段に足を下ろす。
小五郎も見送りに部屋を出ようとした。
頭が引っ張られた。
小五郎の髷(まげ)が、鴨居に引っかかってしまった。こんなことは初めてだった。
大次郎が階段の途中から、振り返った。
小五郎は鴨居を掴(つか)み、なんでこんなに鴨居が低いのかと思った。いや、己の背が見違えるほどに高くなっている。
――いったい、いつの間に伸びたんだ。
小五郎が部屋にこもっている間に、体は勝手に伸び続けていたらしい。
大次郎は、小五郎を眩しそうに見上げてから足早に階段を下り、玄関を出て行った。
大次郎の最後の言葉が、小五郎の胸に突き刺さった。
部屋に戻りながら、小五郎は大次郎の言葉の意味を考え続けた。
憑(つ)き物が落ちたような気がした。
「そろそろ、家を出るか」
小五郎は窓の外を眺めた。
大きく伸びをした。
窓辺の日差しが眩しかった。
小五郎には、日頃見慣れている何もかもが新鮮に見えた。
風が吹き込んでくる。
部屋の隅に吊るした袖無羽織が揺れた。
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