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桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠―    第十五章 けじめの時は今

                             火山 竜一 第十五章   けじめの時は今 

 小五郎は連日和田家を出た。
 知っている萩の街を、隅々まで歩き回った。
 旅人のように、何もかもが珍しげに見えて仕方がなかった。
 小五郎は萩を一巡りすると、山縣武之(やまがたたけの)進(しん)の家に寄った。武之進を引っぱるように連れ出して、菊ケ浜の岩場に立った。
 武之進は小五郎より二つほど年下である。
 幼い頃、菊ケ浜で合戦をした仲間である。『関が原』の合戦では、年上の小五郎たちの後ろを、ニコニコしながらついて回るばかりだった。
 そんな武之進も元服が近くなると、明倫館を休みがちになっていた。大人の世界に関心が強い。小五郎とも親に隠れて、山縣家の蔵で、お酒を舐めたこともある。
 菊ケ浜の岩場で、武之進は江戸から帰ってきた叔父上の土産話をした。
 武之進の背が伸び始めた細すぎる体は、髭(ひげ)も生え始め、声も変わり始めている。
 小五郎は大小の刀を差しているが、武之進の腰の脇差は、緩み気味の帯にずれ落ちそうだった。
 武之進の袴が、忙しく海風にたなびいている。

「桂さん、叔父上がね、江戸といえば吉原だってさ。知ってるかい、吉原だよ」

 小五郎は「いや」と首を振った。足下の石をとりあげて、つまらなそうに波に狙って投げた。
 小石は小波に飲み込まれて消えた。
 小五郎は袴の汚れをはたいた。
 武之進は小五郎の二の腕を強くつかんだ。

「桂さん、聞いてよ。とにかく凄いらしいんだよ。叔父上が、吉原ってとこは、この世のものじゃないっていうんだ」
「だから、何が、どう凄いんだよ。もちっと、詳しく話してくれなきゃ、わからん」

 小五郎は投げやりな言い方をして、白波に突き抜けるように石をぶつけた。

「もう一息だな」

 小五郎はもう少し大きい石を取り上げた。

「そんなこと……俺に、わかるかい。とにかく、あの生真面目な叔父上の顔が、吉原の話になると、面白い顔になるんだよ」

 武之進は叔父上の顔を思い浮かべたらしく、一人で勝手に噴き出した。
 小五郎は武之進の話を聞き流し、石を振りかぶり思い切り遠くに投げた。
 石は白波を越えて、波の後ろで飛沫を上げた。 

 菊ケ浜の帰り道、武之進は渋る小五郎を遊里に誘った。
 遊里は、松本川の河口に近い東浜崎の一角にあった。
 通りに並んでいる妓楼の格子越しに、女郎たちが、小五郎と武之進に声をかけてくる。
 武之進は誘いを振り払い、気がのらない小五郎を先へと先へと引っ張っていく。

「どこへ行くんだよ。帰ろうぜ。俺、金、持ってないぜ」
「桂さん、大丈夫だって。まかせとけ」

 早熟な小僧の武之進は、何事も大人たちに禁じられると、やりたくなる年頃だ。
   武之進は遊里のはずれまで、小五郎を引っぱった。

「面白いだろ」

 武之進は、川端の妓楼に掲げられた大き目の看板を指さした。看板には『吉原屋』と書いてあった。
 吉原屋は土手の脇にあり、遊里で一番小さい女郎屋だった。
 近くに松本川の橋がある。
 遊里はゆったりと流れる川に沿って、数軒店を出していた。その中でも最も橋に近いのが吉原屋だった。
 ところが結局二人は、入ることが出来なかった。
 武之進の足が店の前で動かなくなってしまった。
 逆に小五郎は、華やかな店構えに、好奇心が湧いてきた。

「武、どうしたんだ。中を覗いてみるか」

 武之進は口をへの字にして、急に小五郎に「帰ろうよ」といい出した。

「行こうといったのは、お前じゃないか」

 武之進の足が震えているようだった。
 小五郎がおかしそうに武之進の肩を抱いた。

「武、臆したか。意気地がないぞ」
「出直しさ。日が悪いよ」

 小五郎には訳の分からない言い訳をして、武之進は走り出した。

――早く元服しろや。武。

 小五郎には、武之進の小さな背中が愛おしかった。 

 翌日、日が傾き始めたころに、小五郎は一人で吉原屋に向かった。
 和田家の二階から下りて江戸屋横丁に出ても、まだ明倫館に行く気にはなれなかった。
 小五郎は、萩で知らない世界といえば、遊里だけになっていた。未知の世界がそこにあった。
 小五郎は吉原屋の前に立つと、意を決して土間に入った。土間の真ん中で、何度もまわりを見回した。
 帳場で算盤をはじいていた妓楼の主人が、小五郎の姿に気が付くと、店の奥に声をかけた。まだ、時間が早いのかと思った。

「お千や、お客様だよ」

 奥から、藤の柄の前垂れをした、お千という小柄な女が出てきた。化粧の厚い年かさの女であった。
 小五郎は思い出した。
 武之進が遣手(やて)婆(ばば)なる女がいるといっていた。
 お千は小五郎を一目見て、愛想の良い顔をして、さあさあと小五郎を奥の階段に通した。
 お千は階段の前で立ち止まった。

「お侍様、ちょっとお刀を」

 小五郎は一瞬帰ろうかと思った。刀を渡すことに抵抗感があった。すぐ仕方がないと覚悟を決めて、大小の刀を抜いた。
 お千が袖を撒くようにして手に乗せた。
 小五郎はお千の袖に刀を置いた。
 お千は神棚の脇の刀掛けに、小五郎の刀をそっと掛けた。
 お千は小五郎に腰低く、妙に慇懃である。小五郎が、初めて遊里に遊びに来たことを見抜いている。
 小五郎は小柄なお千に愛想よく導かれて、周りを見回しながら階段をのぼり、とある女郎の部屋に入った。
 三つ指をついた少し小太りな女が出迎えた。
 小五郎より一回り年上であろうか。島田髷に簪(かんざし)の飾りが華やかで、首筋のお白いが目に飛び込んだ。
 狭い部屋の左手には、箪笥と黒漆の衣桁(いこう)(衣類をかける台)が並び、右手の窓辺近くに鏡台と長火鉢があった。
 窓辺のすぐ外に、松本川が流れている。
 お千はお豊なる女郎に目配せをし、小声で耳打ちをした。

「お豊、わかっているね。では、ごゆっくり」

 お千は言い残して、そっと襖を締めた。
 足音が階段を下りて、遠ざかっていった。
 顔を上げたお豊は、小五郎に、まるで子供に対するように、にこやかであった。
 どこか底抜けな明るさがある。
 小五郎は口をへの字にして、胸を張った。

「おぬし、どこの生まれかな」
「当ててみて、くださいまし」

 お豊はあけっぴろげに笑った。

――だめだ。歳がばれている。俺のような客のあしらいは、手慣れているようだ。

 小五郎はお豊はきっと馬関近くの漁師町あたりから、来たのかと思った。
 小五郎は、自分で袴を脱ごうとして、腰に手を伸ばした。
 お豊は座ったままにじりより、小五郎の帯に手を伸ばした。

「ご自分で、しなくてもいいの。まかせてね」

 お豊は小五郎の袴の帯を手際よく解いていく。
 なんだか、小五郎は子供扱いされているような気がしてきた。
 お豊が小五郎の袴を持ったまま、下から見上げた。

「背が大っきいのねえ」

 小五郎は気やすくなった。
 でも何を話したらいいのかはわからない。

「俺は初めてだ」

 小五郎はあっさりと白状した。
 お豊は頷いている。

「お好きなようになさっていいのよ。ここではね」

 お豊は色白でふっくらとしているが、顔立ちは小五郎にはさほど美しいとは思わなかった。気さくな飾らない女であった。
 お豊も立ち上がると、襦袢を脱いだ。
 簪(かんざし)も櫛(くし)も抜いた。
 小五郎には、お豊がかなり年上に見えた。背丈は小五郎の肩ほどもない。

――亡くなった姉さん二人と、あまり年は変わるまい。

 お豊は窓の障子を閉めた。
 障子に夕焼けが、かかっていた。

 床の中で、小五郎は自分の未熟なままをさらけ出した。

「俺は何も知らんぞ」

 お豊はそんな小五郎のすべてを、受け入れてくれた。
 床の中で、お豊は「いいのよ、いいのよ」と、慌てる小五郎を、赤子でもおもりするように合わせる。
 ことが終わって、二人して添い寝をした。
 小五郎は天井を見上げた。
 お豊は小五郎の横に添い寝したまま、小五郎を見つめている。
 お豊の暖かい息が、小五郎の肩にかかった。
 小五郎は誰にも語ったことのない胸のうちを、一人ごとのように話し始めた。亡くなったお清と、二人の姉であるお捨とお八重のことを語る。養父の九郎兵衛に続き、養母のお良が「亀や、亀や」と亡き子の名を呼んで、息を引き取ったことも。
 ふと横の添い寝しているお豊を見ると、泣いていた。
 お豊は、小五郎の寂しさを癒すように、身を寄せてきた。
 小五郎は、いつの間にか、お豊を包むように抱き締めていた。
 夕日が落ちて、部屋は夜になった。
 闇の中で、ひたすら自分を責めている小五郎を、お豊は許し続けてくれた。
 小五郎の傷ついた心の痛みが、お豊のお陰で川に流されていくように思えた。小五郎は松本川の先に広がる日本海の小波を思う。
 心地よい響きが聞こえてくるようであった。 

 それからというもの、小五郎は何回か吉原屋に通った。
 お豊はかけがえのない女になった。
 日が落ちて、松本川に爽やかな風が吹き渡っている夜。
 吉原屋の二階で、小五郎は窓べりで涼んでいた。
 小五郎は、お豊に振り返った。

「武者修行で来た剣術使いの話を、もっと聞かせてくれぬか」

 お豊は長襦袢の胸元を押さえて、窓際で小五郎に寄り沿うようにして膝を崩している。ふっくらした白い胸元が艶めかしい。
 お豊の髪が、ほつれて風に流れていた。

「小柄で背中も丸くて、おどおどした気の弱そうなお侍さんだったとか」「裏がありそうだな。仮の姿であろう」
「立ち合いになると、お侍さん、始めは身を縮めて、怖がっているように見えたんですって。お弟子さん、『大先生を呼ぶほどのこともあるまい』と、軽い気持ちで立ち合ったそうでございます。そうしたら、小柄なお侍さんに、お弟子さんたちみんな、次々と打ちのめされて、中には気を失った者もいたとか」

 お豊が袖をまくり、白い腕を振って再現した。
 小五郎には下手な踊りにしか見えなかった。

「こんな風に、こんな風に、立ち会った方、皆、打たれたんですって」

 小五郎が大笑いをすると、お豊は膨れて丸顔になった。
 明倫館には、ときどき諸国武者修行の剣術使いが立ち寄ることがある。
 小五郎はほとんど稽古場に行っていないので、他国の者とまず立ち合うことはない。稽古場で、時には腕試しと、激しい打ち合いになることもあるらしい。
 廊下できしむ音がした。
 小五郎は、手を伸ばして、そっとお豊を制した。
 気が付かないお豊は、どうしたのと口を尖らした。
 小五郎は廊下側の襖を見た。

「誰だ。耳を澄ましているのは」
「桂さん、山縣です」

 聞きなれた声が、申し訳なさそうに襖越しに応えた。
 あれほど女郎屋に入るのをためらって、怖がっていた武之進である。

「やっばり、ここにいましたか。お取込み中、誠にすみませんが、ほんのちょっとだけ、いいでしょうか。時間はとりませぬ。すぐ帰ります」

 武之進の気まずそうな声に、小五郎は吹き出した。

「武かあ、入れよ。今退屈していたところだ」

 お豊が小五郎を軽くつねった。

「まあ、退屈だなんて、怒りますよ。話せっておっしゃったのは、桂様ではありませぬか」

 恐る恐る襖が開いて、緊張しきった武之進の顔が覗いた。言伝(ことづて)を伝えに来た少年の顔である。店の者に断って店の階段を上がった来たのであろう。
 武之進は窓際のお豊に会釈をして、体を縮めるようにして入ってきた。
 小五郎は改めてみると、武之進は羽織袴で明倫館の帰りのようだった。
 武之進は、場違いなところに迷い込んだよう顔をして、前にそうっと座った。

「桂さん、えーっと」

 武之進はどう説明しようかと、口ごもっている。申し訳なさそうな顔をした。
 小五郎は待ちきれず、どうせたいした話ではあるまいと、お豊に続きを促した。
 お豊が小五郎に目を向けた。

「竹刀を取り落とした門弟の方が、そのお侍さんの腰に抱きついたら、稽古場の壁に放り投げられたそうでございます。もう明倫館で一番のお方が酷(ひど)いことに」

 お豊の身振り手振りに、小五郎は待ったをかけた。

「誰だい。明倫館で一番とは。知らんぞ。武、お前、聞いたことがあるか」

 武之進は、つられて首を横に振った。
 お豊は思わず口元に手を当てた。

「お名前は勘弁して。あとで叱られてしまいますもの」

 小五郎は、少し考えてみても心当たりがない。

「うちにそんな強い人がおるかなあ。どうせ口先だけだろう。たいした奴ではあるまい。まあいいや」

 小五郎はお豊に続きを促した。

「その門弟のお方、私のところに来て、悔しいと悔しいと泣いて、もう子供みたい」

 小五郎は今まで稽古場で、稽古仲間と互いに雌雄を決するような打ち合いをしたことがない。たまに稽古場に行っても、冷めた目で見ていた。いつも相手に合わせるだけだ。
 小五郎は、ふと困り切った顔をしている武之進を見た。

「お前、何しに来たんだ」

 武之進は、右手で、思わず膝を叩いた。

「そうだ。桂さん、明倫館に行こう。急ぎの話なんです」

 武之進の話では、本を忘れて明倫館の教場に寄ったら、なんと教場に佐々木源吾をはじめ漢学と兵学の先生方が集まっていたという。

「佐々木先生に、つかまってしまいました」

 武之進は佐々木に、小五郎の居場所を問い詰められたという。
 小五郎は怪訝(けげん)な顔をした。

「俺は病気療養中じゃ。重い病に臥(ふ)せっておる。御覧の通りだ。な、お豊」

 小五郎は、足元のお盆からスルメを取り上げ、口に放り込んだ。噛みこんでは、実にうまそうな顔をした。
「腹が減ったぞ」
 小五郎がお豊の耳に息を吹きかけると、お豊はくすぐったそうにしている。
 武之進は小五郎に膝行(しっこう)して、にじり寄った。

「たのむよ。桂さん。佐々木先生が、かんかんなんじゃ」

 小五郎が首を傾(かし)げた。

「どうして。寝込んでいると、俺の様子を伝えればよかろうが。あ」

 小五郎が武之進の顔を覗き込んだ。
 武之進が、慌てて目を伏せた。

「武、しゃべったな。ここを。そうだろう」

 突然武之進は、額をぴたりと畳に着けた。
 平伏したまま叫んだ。

「申し訳ない。不覚じゃ。口が滑った」
「こまった奴じゃなあ。ほかに理由があろう」

 武之進は顔を上げると、気の毒そうに小五郎を見た。

「親試です。殿が七月にやると。日は忘れたけど、殿のご指名じゃ、桂さん」
「なにい。なんでそれを先に言わんかい」

 小五郎は溜息をついた。

「そりゃあ、無理じゃあ。俺は全然講義にでておらん。佐々木先生も困っておろう。殿に、『桂は病が重く無理でございます』と、申し上げればよいではないか」

 武之進は大きく身を乗り出した。
 邪魔なほど、小五郎ににじり寄った。

「さすが、桂さん。佐々木先生も、まったく同じことを、お考えでした」「そうであろう。こういうときだけ、俺と佐々木先生は話が合うのじゃ」「佐々木先生が『学頭から殿に桂の病を伝えて、親試の取りやめをお願いしてはどうか』とおっしゃると、各先生も妙案なりとおっしゃたのです」

 小五郎は大いに頷く。

「さすが、佐々木先生である。いいではないか。これで解決だ。万事終わり。一件落着なり」

 武之進は、小五郎の軽口に、首を振って否定した。
 気の毒そうな顔をした。

「ところが、一人だけ、反対された先生がおりまして」

 小五郎は嫌な予感がした。

「誰だ。佐々木先生に逆らうような先生がおるのか。剛毅ではないか」
「吉田先生ですよ」

 小五郎は、あっ、まずいという顔をした。

「吉田先生が、『桂君は大丈夫です』と断言されたのです。佐々木先生が『根拠は何か』と詰め寄ると、吉田先生は『私は会ってまいりました』と、おっしゃるのです」

 小五郎は、なんて余計なことをと思った。
 武之進の話では、大次郎が小五郎の現状を、「今や知識の大海に船出している」と情熱的に語ったらしい。

「吉田先生が『今、桂君に目標を持たせることは、立ち直りのきっかけになりまする』と申されると、佐々木先生はいたく感激されて、ころっと風向きが変わってしまいました」

 小五郎は頭を掻(か)いた。

――佐々木先生は、体は重くても、腰は軽い。

「俺は知識の海底に、沈みっぱなしだ。あの本は父上と兄上のものだ。吉田先生が家に来た時、たまたま部屋に積み上げていただけさ。武。明倫館に帰って、こう述べよ。『桂の病、未だ癒(い)えず。この武之進が、代わりに親試をやりまする』とな」

 武之進は、大げさに泣きそうな顔をした。

「そんなあ、勘弁してくださいよう。桂さん、往生際が悪いよう」
「お豊、膝。それにしても、吉田先生には、困ったもんだなあ」

 小五郎は寝っ転がると、お豊の膝を枕にして目を閉じた。

「小五郎は心の病重く、悲しみの底で、もがいております。己が道をみつけるべく、人生勉強中であります」

 この理由でどうだと、小五郎はくすっと笑った。
 お豊が小五郎の頬(ほほ)を軽くつねった。

「武之進様が可愛そう。行ってあげなされ。どうせ、本当は、そのおつもりなんでしょ」

 武之進が、額を畳につけるように深く頭を下げた。

「お願いします。明倫館にこのまま手ぶらで帰るわけには、いかんのです。佐々木先生に叱られるのは、勘弁してください」

 武之進は必死だ。
 小五郎は薄目を開けて、武之進の顔を面白がって見ている。

「ではこうしよう。俺は桂の家に一度帰る。武もついてこい。着替えてから、策を練るぞ」

 小五郎は起き上がった。

――腹は決まった。此度の親試は、好きなようにやらせてもらおう。佐々木先生の指示には従わぬ。 

 夜半、小五郎と武之進が明倫館に着いた。
 二人は教場の戸の前に立ち止まった。
 かねての打ち合わせ通り、小五郎は、武之進に行けと目配せをした。
 武之進がそっと戸を開けて、檻(おり)にでも入るように教場に足を踏み入れた。
 教場に行燈が灯っている。こんなことは、めったにないことである。

「遅いぞ、山縣」

 佐々木の怒声が飛んできた。

「お待たせして、申し訳ありませぬ。桂を連れてまいりました」

 武之進が奥に入り、先生方の前に座ったようだ。
 小五郎は大刀を鞘(さや)ごと引き抜き、右手に持った。脇差の柄をぐっと下げて、腹に力を込めた。
 先生方に会うのは、大次郎を除いて久しぶりである。
 小五郎は髭も剃り、月代も整えて、大きくなった体に合わせて新調した羽織袴を着ていた。
 武之進の呼ぶ声に、小五郎は悠然と髷(まげ)が鴨居に引っかからぬよう頭を下げて、教場に足を踏み入れた。
 教場で待ちくたびれた先生方が、二つの行燈の間で、いっせいに小五郎に目を向けた。
 佐々木が、集まった先生の真ん中で口をあんぐりと開けて、小五郎を見上げている。
 小五郎は武之進を横目に、殿中に入る家臣のようにゆったりと歩を進め、大刀を右に置いて佐々木の真正面に袴をはたいて端座した。
 先生方の右に座る大次郎が、佐々木に小声で耳打ちした。

「桂小五郎ですよ」

 思わず佐々木が瞬きして、唾(つば)を飲み込んだ。
「か、桂か。久しぶりじゃなあ。……随分、でっかくなったなあ」

 小五郎はすでに五尺八寸近くなっている。(百七十四センチ)
 小五郎はすっと両手をついた。

「先生も、お変わりなく、お元気そうで、なによりでございます。大変ご無沙汰しております」

 小五郎は江戸参勤からもどった、若き家臣のような調子である。
 小五郎の大袈裟で不敵な言い方に、大次郎が噴き出して慌てて口元を抑えた。
 小五郎は声変わりも終わり、大人の低い声だった。髭の剃り跡も青々としていた。
 佐々木は本題に入った。

「武之進から聞いておるか。殿の親試じゃ。日は七月の十九日じゃ。あと二週間しかない。殿がな、お前の詩を久しぶりに聞きたいそうじゃ。わしは聞きとうないがな」

 佐々木が吐き捨てる。赤ら顔が不機嫌そうであった。
 小五郎の声が教場に響いた。

「かしこまりました。おまかせください」

 武之進は小五郎と佐々木の間を忙しく交互に見ている。

「稽古についてだが」

 佐々木がさらに準備の手順を話そうとすると、急に小五郎は胸が苦しいのか咳こんだ。 
 咳の間から、小五郎は佐々木に打って変わって懇願するように、弱々しく声を絞り出した。

「一つ、お願いがございまする」

 佐々木は身を乗り出した。

「不服か。無理をせんでよいぞ。殿に寝込んでおりますと伝えてやる。申してみよ」

 小五郎は咳が収まったのか、深呼吸をした。

「滅相もない。私の後、次の親試は武、いや山縣武之進殿をご推薦願いまする」

 佐々木は小五郎の提案につられてしまった。

「わかった。武……じゃなかった山縣、桂の次はお前だ。此度の親試を後ろで見ておれ。手本にせよ。いや、参考にするな。とりあえず、座っておれ」

 慌てて、だめだめと手を振る武之進が、小五郎を「話が違う」と睨んだ。
 小五郎は犬が風邪をひいたような妙な咳をした。

「ちと風邪をこじらせまして、親試の直前に寝込んで宇津木の二の舞になってはなりませぬ。ではこれにて、失礼いたしまする。先生に風邪をうつしては、それこそ一大事」

 佐々木が許す前に、小五郎は勝手に一礼をして腰を上げた。
 小五郎は先生方に背を向けると、背中を大袈裟に丸めて咳き込みながら部屋を出ていく。
 武之進が小走りで追いかけ、小五郎の背中をしきりにさすっている。
 小五郎と武之進が、顔を見合わせた。笑いをこらえていた。
 佐々木が我に返った。

「待たんかい。遊郭は許さんぞ。稽古せえ」 

 毛利慶親の親試は、予定通り嘉永元年(一八四八年)七月十九日に行われた。
 小五郎は、ほかの家臣たちと比べても、背丈があり堂々としていた。大広間に入室した時から臆することもなかった。
 慶親は別人のような小五郎に目を細め、家老たちも唸(うな)った。
 もう小五郎には少年の面影はなく、殿の御前で落ち着きはらって詩を吟じた。役者のように鮮やかだった。
 慶親は小五郎の即興の詩が、前回より深みが増したと大いに褒めた。
 こうして、小五郎の親試は無事に終わった。
 佐々木は小五郎の後ろで、一人憮然としていた。
 何しろ小五郎は体調不良を理由に、一度も佐々木のところ稽古に来なかった。打ち合わせなしの、ぶっつけ本番だった。
 佐々木の背中の真後ろでは、武之進は青ざめて俯(うつむ)いていた。 

 小五郎は親試の後、武之進と別れると、家に帰らず東浜崎の吉原屋に向かった。
 小五郎はお豊に無性に会いたかった。
 お豊に対する気持ちは、自分でもよくわからない。早苗への熱い思いとは違う。愛というものでもあるまい。最初の女だからだろうか。
 小五郎は吉原屋の二階に上がった。
 足取りは軽い。
 小五郎は親試のことをお豊に話したかった。自分が堂々としていたことを、お豊なら一緒に喜んでくれるだろう。

「お豊、俺だ」

 小五郎は勢いよく襖を開けた。
 いつもの部屋で、お豊は一人、窓の外を見ていた。
 お豊のふっくらした頬を後ろから小五郎の暖かい掌(てのひら)が包んだ。
 小五郎は、お豊の耳元に声を吹きこむ。

「お豊、何を見ている。川か、海か」

 お豊は嫌っと首を振り、小五郎の手を振り払った。小五郎を避けて窓に身を寄せた。

「川は来た道、海は行く道」

 小五郎は立ち上がった。
 お豊の後ろから、土手の外に広がる松本川を見下ろした。

「お前の見ているのは、どっちだ。川か、海か」

 お豊は川から先の海を見つめているようだ。

「どっちも。どこまでが川で、どこから海なのでしょう。私には、どちらでもよいこと。ただどこまでも、流されていくだけ」

 小五郎には、初めて部屋に入った時と違い、自分の部屋にいるような気やすさがあった。

「今日のお豊は変だぞ」

 お豊は向き直って、眩(まぶ)しそうに小五郎を見つめた。すぐに外に目を向けて、涙を隠した。

「結婚の夢を捨てたら終わり。私はおしまい。でも長生き、できないかもね」

 お豊は寂しそうに笑った。
 小五郎は横に腰を下ろし、お豊を抱き寄せた。

「今日は何を教えてくれる。先生」

 お豊はきっと睨んだ。

「その言い方は、やめて」

 小五郎も川からその先の海を見た。
 風に目を細めて海原の白波を眺めた。

「今日はな、自分で自分に、けじめをつける日なのさ」

 小五郎は水平線を見つめていた。

「元服の時は俺は何とも思わなかった。元服なんて誰でもやっていることだ。でも今日は違う。大人として、殿の家臣として、俺が一歩踏みだしたことを、ここでお前と祝いたい」 

 夜、小五郎は吉原屋を出て、前の土手の上で、しばらく涼んだ。
 松本川は穏やかに流れて、その先の海も静かだった。
 小五郎は土手を下りると、軒を連ねた遊郭の間を歩む。
 妓楼の脇の路地から、男が一人出て来てきた。
 小五郎に近づき、声をかけてきた。
 他の者には聞こえないように、そっと耳打ちした。

「旦那、いい女がはいりましたよ。お安くしときますぜ」

 小五郎は立ち止まった。
 聞き覚えのある声だ。小五郎は記憶の底を探った。
 男は腰を低くして、脇にすり寄った。

「店はすぐそこですぜ。この界隈では、ちょっと見られねえ別嬪(べっぴん)でして。お武家様に、とっても、お似合いでござんすよ」

 薄闇の中で、小五郎は男を見おろした。
 記憶の糸がつながった。お城近くの土塀の上で、心細かった時のことを思い出した。焼失した屋敷の奥から出てきた男だ。
 小五郎は、鼻先に笑みを浮かべた。

「佐吉、久しぶりだな」

 男は眉を吊り上げ、小五郎に鋭い視線を送った。

「稼業を変えたのかい。右腕の傷は、大丈夫か。その塩っぱい腕だよ」

 佐吉と呼んだその男は、険悪な顔になった。
 佐吉は懐に手を入れた。

「昔、腕に噛みつきやがった気味の悪い小僧か。随分、大きくなりやがったな」

 あの時のように、懐の中で匕首を握っているのであろう。
 小五郎は刀の柄頭を佐吉に向けた。

「相変わらずだな。俺の腕を試してみるかい。桂家の居合をな」

 小五郎は亡き桂九郎兵衛と同じ構えをした。
 九郎兵衛が、道に迷った幼い小五郎を救ったときの居合の構えだった。
 小五郎の正中線を向けた自然な立ち姿に、佐吉はひるんだ。

「佐吉、お前には、わかるまい。俺はお豊で十分さ」

 佐吉は舌打ちをした。

「あんな年増のどこがいい。あの女は稼げねえ。すぐ惚れちまう奴は、商売にならねえんだよ。どうしようもねえ女だ」

 小五郎はふと、闇の中で佐吉ともつれ合った友藏のことを思いだした。

「佐吉。友藏をなぜ知っていた。あの夜、お前は月明かりの中で、腰に抱き着いた者を友藏と見抜いた。なぜなんだい」

 友藏の声は冷たかった。

「お前には関係ねえことだ。俺と友藏との間には入るな。忘れやがれ」

 佐吉は後ずさりした。
 小五郎に怒鳴った。

「帰れ。さっさと、帰れ」

 佐吉は踵を返すと、路地裏に飛び込んだ。
 まわりの行き交う客が、振り返った。
 小五郎は暗闇の中を駆けていく佐吉の丸い背中を見送った。 

 

関連リンク 

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