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桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠―    第十六章 濁流を越えよ

                           火山 竜一  

 第十六章 濁流を越えよ 

 九月のこと。
 小五郎が久しぶりに明倫館で剣術の稽古をして帰って来た。
 江戸屋横丁に入ると、弥之助と友藏が空を見上げている。
 空を、昼だというのに重苦しい雲が幾重にも垂れ籠めて、猛烈な速さで流れていく。
 湿気がひどく、風が強まり始めて、はらりと小雨が降り始めた。
 小五郎は竹刀と剣術の道具袋を肩に担いだまま、弥之助と友藏の脇に立ち止まった。 

「どうした、二人して」

 弥之助は上空を指さして、自信ありげだ。

「そろそろ、大雨が、きそうでございます」

 友藏も小さく頷いた。

「間違いなく、大嵐になりまする」

 弥之助と友藏は顔を見合わせた。
 友藏が弥之助に声かけた。

「急ぎましょう」
「おう」

 友藏は和田家に駆け込み、弥之助は小五郎を促して桂家に戻った。
 和田家から金槌の音が聞こえ始めた。
 弥之助も雨戸を締めて、板で補強していく。
 小五郎は武具を高い棚の上に乗せたり、床の間の掛け軸をしまったりして、走り回る。
 庭で雨音が断続的に激しさを増していく。

「ほかにやることはないか」
「いくらでも、ありまする」

 小五郎は弥之助の指示のままに、戸を閉めたり蔵を確認したりしていく。
 雨と風が板戸を叩く。
 強風に家全体が揺れた。
 外で木々はざわめき、鳥たちはどこかに潜んでしまいっている。
 小五郎が、それとなく戸の間から外を覗くと、暗い大空が暴れ始めていた。
 夜になって、小五郎と弥之助は、家の中から激しくなる風雨の音に耳を澄ましている。

「まだまだ強まるじゃろうな。どれほどになるか。弥之助、どう思う」

 雨漏りの補修までしたのだから、もう一段落だ。
 茶をすすっては、小五郎は弥之助にきいた。
 弥之助は、強張った肩をもんでいる。

「どこかの土手が、崩れるかもしれませぬ」
「水浸しか。たいへんじゃなあ。お茶をもう一杯たのむ」
「ここは大丈夫でしょうが、土手の近くに住む者は危のうござる」

 突然、小五郎は目をむいた。

「いかん。まずいぞ」

 叫んだ。

「どうしました。急に」
「お豊があぶない」

 いい捨てると、小五郎は跳ねるように立ち上がった。小五郎は玄関に走った。

「ちょ、ちょっとお待ちを。どこに行きなさる」

 弥之助が慌てて走り寄った。

「決まっている。吉原屋だ」
「外はいけませぬ。やめなされ」
「すぐ帰る。待っとれ」

 小五郎は、玄関で止めようとする弥之助の手を、振り払った。着流し一枚草履をひっかけ、丸腰のままだ。
 小五郎は玄関の戸のつっかえ棒を外して、勢いよく開けた。戸の外は、激しい轟音があふれていた。雨の飛沫が足元に跳ね返ってくる。
 小五郎は猛烈な雨の中に踏み出した。
 小五郎の後で、弥之助の戸を閉める音がした。
 弥之助が小五郎の背中に叫んだ。

「いけませぬ、もどってくだされ」

 横丁に出た小五郎を、弥之助が「お待ちくだされ」と必死に追いすがる。
 和田家の木戸門から、友藏が声をかけてきた。

「どうしました、どこにいくのです」

 弥之助がびっくりして友藏に応える。

「友藏さん、なんでここに」
「旦那様と若旦那様が、往診に出たままなんですう」

 友藏は、往診に出た昌景と文譲が心配で門に出ていた。ずぶ濡れになりながらも、ひたすら待っていたようだ。
 弥之助が友藏に、小五郎が遊郭に行くことを告げた。
 友藏は仰天して声を上げた。

「あそこは最悪じゃ。なんで、こんなときに。気はたしかでございますか」

 弥之助が友藏に助けを求める。

「友藏さん。止めてくだされ。足なら、友藏さんの方が、ずんと速い」

 友藏が和田家の中に声かけた。

「後をよろしくお願いします。旦那様はお城から、もうすぐ、帰ってきまする」

 小五郎は御成道に出た。
 真後ろを弥之助と友藏が、泥水を蹴散らしながら追ってくる。
 御成道には、人影はなかった。
 避難を促す鐘が、あちらこちらで、途切れ途切れに鳴り響いている。
 小五郎の背中に、弥之助と友藏が「戻ってくだされ」と必死に声をかけてきた。
 雨は滝のようだ。どしゃぶりなどという、ものではない。
 小五郎には、前がほとんど見えなかった。目を開けるのが、やっとであった。小五郎は滝の中を家の影を頼りに進む。
 まるで空の上で巨大な瓶(かめ)がひっくり返されて、膨大な水の塊が大地に叩きつけられているようだった。
 小五郎は何度も転びそうになった。
 よろめき、倒れるようにしては、走り続けた。
 小五郎の胸に、嫌な予感が溢れていた。
 雨の壁の向こうから、轟音が聞こえた。何かが崩れるような音だ。
 小五郎は自分の進む道が正しいのかわからない。勘だけが頼りだった。両手を額にかざして、目を凝らしながら進む。
 後ろで小五郎を呼ぶ声がしても、もはや雨音にさえぎられて言葉にはならない。
 雨の中で木も家も、ゆれる黒い亡霊でしかなかった。
 川の轟音と荒れ狂う海の咆哮が、小五郎を迎えた。
 とうやら、遊郭の街並みに入ったようだ。

「吉原屋はどこじゃ。誰かいるか」

 小五郎の叫びは、どこにも届かない。
 小五郎は、暴風雨に、のたうち回りながら進んだ。足元を激しい水流が洗い始めた。
 妓楼の黒いたたずまいが、揺れているようだった。
 女たちの甲高い悲鳴が聞こえた。ここの女たちには、逃げる術もない。

「俺は馬鹿だ。阿保だ」 

 小五郎は自分を笑うしかなかった。
 お豊が危険なところに住んでいると思った時に、足が勝手に遊郭に向かってしまった。小五郎に、嵐の恐ろしさを考える余裕はなかった。
 小五郎は、近くの妓楼の壁に雨を避けようと身をつけた。
 一軒、また一軒と渡っていく。
 妓楼が揺れるたびに、奥で叫びと悲鳴が聞こえた。
 小五郎は、軒下で風雨を避けながら、飛び石で店から店へと渡っていく。
 ついに端の一軒に到達した。
 吉原屋だ。
 川の向こうで何かが崩れた。橋が崩壊したのだろう。白い飛沫が土手を超えてくる。土手の壁のいたるところから、水が吹きだしている。
 周りの木々が大きく揺れて、今にも倒れそうであった。
 松の木らしい巨木の枝が、強風に打ち倒されては何度も枝を跳ね上げている。
 周りの木々の太い枝や幹が裂け、折れては轟音が炸裂した。
 小五郎は吉原屋の二階を見上げた。手を額に添えて、目を絞った。
 頭上の二階から、女たちの声が聞こえた。

「お豊はいるか」

 聞き覚えのある声がした。

「お豊ちゃん、あがってこないの」

 足元の奔流の水かさが、膝から腰に上がってくる。道は大河となり激流となっていく。
 小五郎は吉原屋の戸を開けると、土間に踏み入れた。日ごろは、女郎たちは一階の奥に暮らしている。客の相手をするのは二階だ。水が土間と会談と部屋の間で、渦巻いている。
 小五郎は足先で底をさぐり、土間をあがると、階段の奥に進んだ。水面にはいくつもの箪笥が横倒しになって、小五郎の行く手を遮った。

――布団部屋は右手か。

 家財道具のすべてが、水面に犇めいている。
 小五郎は水面に蠢いている薪(まき)や箪笥や鏡台、鍋や蓋をかき分ける。

「お豊、お豊はいるか」

 小五郎は呼びかけながら、水流の中を奥へと進んだ。先の仕度部屋らしき部屋の奥に、人影が見えた。

「着物、着物、どこなの」

 お豊だ。
 小五郎は、奥の部屋に足を踏み入れた。
 もはや胸から首元に、水かさが増してきている。

「私の巾着袋、入れた瓶(かめ)はどこよ。瓶がないよお。でできてよお」

 小五郎は、折り重なる箪笥の奥に呼びかけた。

「お豊か。俺だ。死んだら終わりじゃ。早く出てこい」

 返事がない。お豊の独り言が、聞こえてくるだけだ。
 お豊は、ただひたすらに着物を探して、巾着袋を求めている。
 以前、お豊は小五郎に、瓶の中に銭を小分けして入れた巾着袋を、いくつも折りたたんで入れているといった。この時は、お豊はだいぶ貯まったのが嬉しかったのであろう。小五郎に自慢したものである。それがお豊の全財産であった。
 小五郎が何度呼んでも、お豊は出て来ない。
 同じ言葉を小五郎は繰り返した。

「着物よりも命じゃ、巾着よりも命じゃ。後で探せ。水がひいてから探せ」

 しばらくして、ようやく箪笥の上に、お豊の腕が這い出した。
 その腕を小五郎は両腕でつかんだ。
 全力で引っぱりだす。
 小五郎は、ようやくお豊を箪笥の上から引き寄せると、よいしょと背負った。

「いいか。手を放すなよ。しっかりつかまれ」
「なんできたの」

 背中で、弱々しいお豊の声だった。
 小五郎は答えずに階段まで来ると、家全体が大きく揺れて柱が傾き、天井の梁が割れ始めた。

「みんな、逃げろ」

 小五郎の声をかき消すように、二階で一斉に悲鳴が上がった。
 この家の主は、とっくに逃げいるにちがいない。遣りて婆も、どこにも見当たらなかった。
 階段の前に幾重にも家具が折り重なって揺れ動き、小五郎とお豊の行く手をはばんだ。
 家全体がきしんで、壁に亀裂が走り、柱の裂ける音が聞こえた。

「ここは危(あやう)い。外へ出るぞ」

 小五郎は家具を、力まかせにかき分けた。
 お豊はひたすらにしがみついて、小五郎の背中で震えている。
 小五郎は土間から這い出し、戸の外に出た。
 激しい濁流に、小五郎は巻き込まれてよろめいた。
 お豊を抱えながら全身に水圧を受けては、海に向かって押し流されていく。
 小五郎は、右に左に倒れるようにしては、激流と戦い続けた。

「わたしを捨てて、さっさと捨てて」

 小五郎はお豊の泣き声を叱りつけた。小五郎は背負ったお豊に力をこめる。

「馬鹿、ここまできて、手ぶらで帰れるかい」
「どこ、いくの」
「とにかく、土手から離れるんじゃ」

 前方は真っ暗である。
 妓楼らしき影の横を通り過ぎる。
 もうどこにいるのかわからない。遊里の外れに来たのかもしれない。

「だいじょうぶか」

 小五郎が背中を揺すっても、お豊の返事はなかった。
 小五郎は激しい水の流れをかわすために、左右に蛇行しながら進んだ。
 漁師の船小屋の柱に肩がぶつかった。
 船屋根の下には、壁はなく柱しかない。飛沫を上げる水流の中で、小屋の四本の柱が足を踏ん張って、微動だにしない。
 突然、上から小五郎の着流しの襟を、太い腕がとらえた。
 小五郎は苦しくて息ができない。
 襟を押さえる。
 闇の中で、その恐るべき剛力の腕は、小五郎とお豊を引き上げ始めた。万力のようで、人力とは到底思えない。
 何者かが小五郎の脇に飛び込んだ。下からお豊と小五郎を屋根の上にと押し上げる。
 小五郎とお豊は船小屋の屋根に引き上げられると、寝ころがった。息が苦しかった。
 弥之助が小五郎を抱き起こした。
 小五郎の耳元で叫んだ。

「しっかりしてくだされ」

 小屋の下から友藏が顔を出して、這いあがってきた。
 小五郎は弥之助に激しく肩をゆすられて、首が振り回された。
 小五郎はやっと声が出た。

「お豊は、どうした」

 小五郎の横で、友藏がお豊を抱き起している。

「気を失ってございます」 

 船小屋の下を、とっくに舟は流されてしまったのか、激しく水が流れ続けていた。
 遊郭の一つが斜めになると崩れ始めた。

「お豊。吉原屋じゃ」

 あたりに、板壁の割れる凄まじい音が響き渡った。
 女たちの悲鳴と叫びが、崩れていく妓楼の轟音に掻き消えていく。
 小五郎はお豊を激しく揺すった。

「お豊。あれを見よ」

 お豊が薄目を開けたとき、吉原屋は崩れ落ちた。
 弥之助は小五郎の脇で首を振った。

「なんという無茶を。二度とこんなことをしてはいけませぬ。命がいくつあっても足りませんぞ」

 弥之助のあきれ返った声である。
 小五郎は振り返った。

「ゆるせ。俺は大事ない。お豊は大丈夫か」

 友藏がお豊の頬を軽く叩いた。
 お豊がようやく肩で息をした。
 その肩を小五郎はつかんだ。

「大丈夫か。しっかりしろ。俺がわかるか」

 お豊はゆすられるままに首をふらつかせては、吉原屋のあたりに目を向けた。

「おさねちゃん、おしまちゃん、おたえちゃん・・・・・・」

 お豊は女郎たちの本名を呼び続けた。
 もはや妓楼から悲鳴は聞こえない。
 次々と並びの妓楼が崩れていく。
 お豊は目を閉じて、薄れる意識の中で、うわ言のようにいった。

「着物は母の形見なの。巾着の中に、お店を出るために貯めた稼ぎ、みんな入っているの」

 お豊は顔を覆って、急に泣き崩れた。
 お豊の背中を雨が激しく叩き続けていた。
 突然、友藏が激流に身を乗り出した。

「手を出せ、佐吉さん。もう少しだ」

 目前の渦巻く白波の中を、佐吉が浮き沈みしながら流されてくる。
 友藏は屋根から思い切り手を伸ばした。
 その前を、佐吉が離れていく。
 先には決壊した土手が口を開けている。
 その向こうで爆発するように海が荒れ狂っていた。

「佐吉さん、掴め」

 友藏は流れ来る木の棒をつかむと放った。なんでもいいから、しがみつけと。しかし、届かない。
 佐吉の叫び声が聞こえた。

「かあちゃーん、かあちゃーん」

 友藏が殴られたように首を振った。
 急に立ち上がった。

「待ってろ、佐吉さん」

 友藏が頭から思い切り激流に飛び込んだ。

「友藏」

 お豊を抱えた小五郎は、叫んだときは遅かった。
 激流の中で、佐吉と友藏はもつれあいながら、浮き沈みして流れていく。
 佐吉は友藏に抱き着き、水の上に身を乗り出そうとする。友藏は佐吉に抱き着かれたまま、水底に沈み込む。

「いかん。弥之助、お豊を頼む」

 小五郎は、水の中へと身をひるがえし、飛び込んだ。
 もつれ合う佐吉と友藏を追いかける。
 小五郎は足で水を蹴り、腕を回して、濁流に翻弄されながら近づいた。
 明倫館の水練で身に着けたというより、幼いころからの川や海で鍛えた自己流の泳ぎかもしれない。小五郎は腕を水車のように回した。
 小五郎の目に、先に逆巻く海の白波が見えた。
 左手の前方に、横に傾いた巨大な黒松が見えた。水圧に抵抗して揺れている。
 小五郎は佐吉の真後ろから迫った。
 小五郎は佐吉の背中から、脇の下に腕を差し込んで、佐吉の胸を後ろから抱え込んだ。水底を挟むようにして蹴っては、佐吉と友藏を浮かそうとする。

「友藏、松を掴め」

 小五郎は一声するのがやっとだった。
 倒れた松を友藏がしがみつく。
 友藏の首にかじりついている佐吉が、友藏越しに太い枝を掴んだ。
 小五郎が右腕で二人を支えながら押し上げて、自分は松の枝に左腕を引っ掛けた。
 松の巨木は、斜めに傾いている。
 友藏と佐吉と、後ろから押している小五郎が、幹をよじ登る。
 小五郎は振り返り、枝の間から船小屋の辺りに目を凝らした。
 声を振り絞った。

「弥之助。お豊」

 小五郎は必死に呼び続けた。
 友藏も声を合わせた。
 佐吉だけは、松の木の奥で、震えていた。

 嵐は明け方に去っていった。
 朝の光の中に、遊郭の半分が決壊した荒れ果てた光景が広がっていた。
 小五郎はお豊を抱えながら、吉原屋の前に佇んだ。友藏は佐吉を支え、弥之助は足もとの材木を脇にどけている。
 瓦礫(がれき)の中に、女郎たちの何人もの手足が見えた。 

 

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