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桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠―    第十七章 最後の鼾(いびき)

『 小五郎伝 ― 萩の青雲 ― 第十七章 最後の鼾(いびき) 』 

                            火山 竜一 第十七章   最後の鼾(いびき) 

 翌、嘉永二年(一八四八年)二月十八日。
 明倫館は萩城下の江向(えむかい)に移転再築して、毛利慶親の御臨席のもと、盛大に落成式が挙行された。
 生まれ変わった明倫館は、従来の九百四十坪の広さに対して、約十六倍の一万五千百八十四坪の規模になった。
 南門の正面に聖廟と講堂、その前の観徳門の左右に東塾と西塾が置かれている。
 大砲の広い習練場に二つの馬場。泉湧く水練池に武芸の各師範ごとの専用の稽古場。
 合同稽古や諸国武者修行者との稽古に使用する剣槍稽古場など、文武両面にわたって目を見張る充実ぶりだった。
――殿は凄い。これほどの規模になるとは。
 小五郎にとって、新しい明倫館のすべてが驚きだった。 
 このころ、昌景は七十歳の大台にのったことに、感慨深いものがあったらしい。
「もう、わしも七十歳じゃ」
 というのが、昌景の口癖になった。
 小五郎たちとの夕餉の時には、世間話の間に、この口癖がひょいと出た。

 四月になると、昌景は友藏と文譲に、和田家の資産を調べるよう命じた。
 文譲が小五郎に語ったところでは、資産は武士の禄高に例えるなら、八百石を楽に超えているだろうという。
 二十石の御典医としては、破格の資産であった。
 昌景の倹約の徹底と、身分にこだわらない幅広い診療、いくつもの土地や建物を貸して運用してきた賜物であった。
 小五郎は、資産内容を文譲から聞くにつれて、昌景への見方を変えた。

――父上はただの医者ではない。世が世なら、わが毛利家の家臣として、国を富ますことだって、できたかもしれぬ。 

 昌景は、資産の調べが一段落して文譲と友藏から台帳を受け取ると、書斎に引きこもった。終日、何か書き物をしている。
 ある日、小五郎が和田家の二階にいると、文譲が上がってきた。
 文譲は小五郎と膝を突き合わせるようにして座った。小五郎に、小声で昌景の様子を教えてくれた。

「小五郎。父上はな、どうやら遺言状を書き始めたらしい」

 小五郎は驚いた。えっと口を開け、眉をしかめた。

「早すぎるではありませぬか。父上には、八十歳でも九十歳でも、長生きしてもらわねば困りまする」

 文譲は胸の前で腕を組んだ。

「父上は、台帳をめくっては、何か呟きながら筆を走らせておる。今のうちに、何もかも、始末をつけたいらしい」

 階下から、昌景が文譲を呼んだ。

「文譲、ちょっと来てくれ」

 文譲は振り返った。

「はい、ただいま参ります」

 文譲は小五郎にそっと囁いた。

「小五郎、後でな」

 文譲は、階段を下りて行った。
 診察室で、昌景と文譲の低く抑えた声が、それとなく聞こえてくる。
 小五郎が一階に下りると、昌景が文譲に念を押し、文譲がその一つ一つに几帳面に返事をしていた。 

 秋になり、肌寒い日のこと。
 友藏が、桂家にいる小五郎を呼びに来た。

「旦那様が、何か、相談したいことがあるそうでございます」

 小五郎は急いで和田家に入った。
 茶の間にいる昌景の前に座った。
 昌景の脇に、文譲も端座していた。
 昌景の目じりの皺が深くなって、頬もやつれているように見えた。小五郎には、衰えが目立ち始めているように思えた。文譲と小五郎を見て、目を細めた。

「ちと寒いな」

 昌景は風を避けるため、障子を半分ほど締めて、小五郎に振り返った。

「わしはな、長生きしすぎたよ。随分と嬉しい思いもしたが、悲しい思いもした。もう十分じゃ」

 昌景の声は、しみじみとしている。
 小五郎はたまらない思いになり、昌景に膝を寄せた。

「何をおっしゃるのです。父上らしくないではありませぬか」

 昌景は笑みを浮かべた。

「小五郎や、わしはな、家のために先々のことを考えて、一通りの整理はつけたつもりだ。もう、いつお迎えが来てもよい。ただ一つだけ、心配な事がある」

 昌景は小五郎を見つめた。
 小五郎は、今まで昌景が文譲ばかりと話し合っているのが、少し寂しかった。自分だってもう大人だ。昌景の前で、少しは胸を張りたかった。

「なんでしょう。父上」

 昌景は続けた。

「人は、いつ死ぬかわからぬ。九郎兵衛殿のことを思うと、お前一人では、どうにも桂家の行く末が心配での」

 小五郎は言葉につまった。

――父上は、あの嵐の一件をいっているのだろうか。

 なにしろ、友藏が、昌景に全部しゃべってしまった。お豊を救いはしても、あの夜のことを昌景は一言も誉めてはくれなかった。

「わしの目の黒いうちに、桂家を盤石のものとしたい。九郎兵衛殿に『もう心配はござらん』と、報告したいのじゃ」

 昌景は、小五郎にいい切った。

「小五郎の跡継ぎを、決めたい。桂家の跡継ぎをな」

 これには、小五郎も文譲も驚いた。
 小五郎は思わず目をむいて、首を傾げた。

「跡継ぎでございますか。私目の」
「そうじゃ。お前の跡継ぎじゃ」

 昌景が念を押した。

――俺は嫁もいないのに、この年で父になるのか。

「お前はな、わしが年をとってから、できた子じゃ。わしも、桂家の跡を継ぐ孫の顔を見たいと思っておる。だが、もう年だ。とても待てぬ」

 昌景は、小五郎と文譲の顔色を伺うように見た。

「どうだろう、小五郎、直次郎をお前の跡継ぎにせぬか。のう文譲。お前には跡継ぎである卯一郎がいる。小五郎が跡継ぎを作ってくれるのは、どうせ、まだずっと先のことであろう。今のところは、お先は真っ暗じゃ」

 お八重は、文譲の後妻となってから、直次郎と勝三郎を次々と生んだ。先妻であるお捨との間には、和田家の跡継ぎとなる卯一郎もいる。
 小五郎は直感した。
 小五郎は、お清と体質が似ている。
 昌景が小五郎の健康に不安を抱いていることは分かっている。
 しかも、小五郎が命知らずなところがあることも、心配の種であろう。
 昌景は、小五郎が倒れた時のことを考えているのだ。もう桂家と和田家で、五人も亡くなっている。和田家の一瞬先には、死が口を開けて待っている。

――父上は、正しい。

 小五郎は、家を守るためには、仕方がないと思った。

「わかりました。では、そのように、いたしましょう」

 小五郎は直次郎を仮養子にすることにした。
 ただし、心にひっかかるものがあった。
 順番では、確かに次男の直次郎であるが、直次郎はやはり病弱であった。
 小五郎は、本当に直次郎でよいのか、一晩考え続けた。
 翌日、今度は小五郎から昌景に相談したいことがあると、昌景がくつろいでいる茶の間に入って行った。
 小五郎はあらかじめ文譲に自分の考えを伝えていた。
 文譲も小五郎の後から付いてきた。

「父上、直次郎の件ですが」

 昌景は、さてはと、にやりと笑った。

「好きな娘でもいるのかい。どこの娘だ。お前の好みは、さっぱりわからんが」

 小五郎はとんでもないと首を振り、昨夜考えたことを話し始めた。

「父上、どうでしょう、養子は勝三郎にしていただけませぬか。兄上とも先ほど相談いたしました。直次郎も、ちと病気がちでございます。勝三郎は病も避けて通るほど体が強うございます」

 昌景は小五郎と文譲を見た。

「文譲。これはお前の考えか。それとも、小五郎の考えか」

 文譲はすぐに否定した。

「小五郎から、申し出てまいりました」

 小五郎は胸の奥の思いを吐きだした。

「勝三郎を、お八重姉さんの形見として、手元で育てとうございます」

 小五郎はお八重の死のことで、心に重荷を背負っている。

――病弱な直次郎が、自分より先に亡くなることもありえる。そうなったら、あの世のお八重姉さんに、どうお詫びしたらいいのか。

 昌景は小五郎の胸のうちを察してくれたようだ。
 ゆっくりと頷いた。
 嬉しそうな微笑みを浮かべた。

「よかろう。これで桂家も安泰だ。直次郎は直次郎で、また別の道があろう」

 小五郎は昌景に念を押した。

「では、さっそく勝三郎で、役所に届けを出しまする」

 こうして、小五郎の跡継ぎは、勝三郎になった。
 小五郎が部屋を出ようとすると、昌景が呼び止めた。
 振り返る小五郎に、昌景は力づけるように声をかけた。

「勝三郎をよろしくたのむぞ。お前の息子だ」

 小五郎は結婚をしてもいないのに、跡継ぎとして勝三郎をお城の政庁に届け出た。
 十一月のことであった。
 小五郎はまだ十七歳である。 

 さらに一年がたち、嘉永三年の年末に、昌景は体調を崩した。
 昌景は酒を一切断って、臥(ふ)せっていた。
 往診は文譲に任せるようになった。
 文譲は薬箱を担ぐ友藏を連れて、御典医としての仕事をこなした。
 十八歳になる小五郎は寝込んでいる昌景の様子を見て、不吉な思いが胸をふさいでいた。
 小五郎は母の時のように、毎日近くの寺や神社にお参りに行った。
 昌景は正月を過ぎて少し容態が回復してきた。なんと小五郎と文譲と友藏を呼んで、茶の間でお酒を飲み始めた。

「新年のお祝い事の続きだ」

 小五郎が心配して昌景を止めた。

「父上、お控えください。体に障りまする」

 昌景は徳利をおちょこに傾けた。
 文譲も小五郎に合わせた。

「父上、もう少し、体のご様子を見定めてからにしては、いかかでしょう」

 昌景は、まるで飴でもなめるように、酒を口に含む。
 坊主頭の天辺まで、真っ赤になっている。
 今まで、こんなに赤らんだことはなかった。顔は少しどす黒いようで、血色はよくなかった。
 小五郎には、昌景の身体の弱まりが著しいように思えた。
 昌景は、首が見えぬほどに、肥えてきていた。
 文譲が困った顔をした。

「父上、まだ病み上がりでは、ございませぬか。酒は青木先生のお許しが出てからにしては、いかがでしょう」

 昌景は鼻で笑った。

「文譲、わしだって医者だぞ。自分のことは自分が一番よく知っておる。酒好きが我慢すると、かえって体に良くない」

 昌景は手酌で、おちょこに酒を注いでは口に運ぶ。
 友藏に、さらに熱燗を持ってくるよう促した。
 友藏は、ちらっと文譲を見て台所に向かった。台所にはお治がいる。煮物を作っていた。
 昌景は、相変わらず口を細めて酒を吸い、舌で味わいながら喉を潤している。

「今日の酒ほど、うまいと思ったことはないぞ」

 昌景は、酒のせいか、舌がなめらかになっていく。昌景は思い出話に花を咲かせた。
 江戸の修業時代に、土生玄碩(はぶげんせき)という高名な医者のもとに弟子入りをした。昌景は、よく江戸の町を酔っ払って徘徊したらしい。

「どんなに酔ってもな、屋敷の門限を破ったことはないわい」

 昌景は高笑いすると、江戸で覚えたという端唄(はうた)を披露し始めた。
 色恋の歌を三味線を弾く素振りをしながら、気持ちよさそうに歌った。
 小五郎は、昌景にこんな一面があるのかと驚いた。
 昌景の歌は底抜けで、即興の替え歌までも披露した。
 友藏が盆に熱燗と煮物を乗せてもどってきた。
 小五郎も文譲も、昌景に調子を合わせた。
 友藏も空いた盆を脇に置き、横で拍子をとっている。
 昌景が楽し気に声を張り上げた。

「お釈迦様あ、どうして、いつもまっぱだか。大きな木魚に蹴つまずき、お寺の池に落っこちた。それ、どこじゃ、ここじゃ、あっちじゃと、……」

 小五郎は、昌景の若かりし頃の姿を垣間見(かいまみ)た。
 夜も更けてくると、昌景は欠伸(あくび)をした。

「いかん。眠くなってきた。さてと、そろそろお開きにいたそうか」

 昌景は、急に真顔に戻った。
 文譲と小五郎に、落ち着いた声で、おちょこを空けるよう促した。
 小五郎は、酒はまだ慣れていない。

「下手な歌を聞かして、すまなかったな。これからのことは、お前たちに任す。しっかり力を合わせよ。わしのすべきことは終わった」

 穏やかな昌景の声だった。笑みを浮かべ、目を細めた。
 文譲が膝を詰めた。

「父上、何をおっしゃるのです」

 昌景は、よっこらしょっと腰を上げた。
 急によろめき、小五郎がとっさに支えた。腹もすっかり肥えていた。着流しの帯がきつそうだった。
 昌景は大丈夫だよと、小五郎の手をゆっくりと放した。手が熱かった。
 昌景は、背が高い小五郎に、嬉し気に頷いた。

「小五郎。お前とじっくり話したかったが、わしは、こんな為体(ていたらく)じゃ。すまんな。許せ。またにしよう」

 昌景は鼻歌を歌いつつ、奥に入ると布団にもぐりこんだ。

「では、おやすみ。そうそう、襖を閉めてくれ。わしは音に弱くてな」

 締めた襖の向こうで、昌景はさっそく高鼾(たかいびき)を立て始めた。
いつもの虎の吠えるような鼾だった。
 鼾は止まり、また吹き返す。襖を揺するような騒々しさだった。
 残された小五郎と文譲と友藏の三人も、床につくことにした。
 友藏は膳や徳利を片付けて、勝手口隣の部屋に戻っていった。
 小五郎と文譲は、茶の間に布団を二つ敷いて、潜り込んだ。考えてみると、小五郎と文譲が、こうして一緒に川の字に寝ることは初めてだった。
 文譲が横になったまま、昌景の鼾の聞こえる襖をじっと見ている。
 寝返って、文譲は枕辺で首を回して、小五郎に向いた。

「小五郎、昔のことを思いだしたよ。お前が赤子の頃は、夜泣きがひどくってな」

 文譲の顔も、酔いが回って赤らんでいる。

「往生した父上は、母上だけでなく私とお捨に『面倒を見よ』とおしつけて、こうして襖を閉めて、さっさと寝てしまわれた。あの夜泣きは、つらかったな。夜泣きと父上の鼾が、うるさいのなんの。私はいつも眠れなかったよ」

 小五郎は文譲見て、とぼけた。

「すみませぬ。覚えていないことで」

 文譲が声を上げた。
 声に酔った勢いがあった。

「あったり前だよ。お前は赤ん坊なんだからな。それにしても、父上は。昔と変わらぬなあ」

 小五郎は、文譲に頷いた。

「父上だけは、変わってほしくないもので」

 文譲が真剣な目を小五郎に向けた。

「小五郎、われらは父上に頼りすぎている。父上の肩の荷を軽くしてさし上げねばな」

 文譲が欠伸をした。

「今日は、ちと、飲みすぎた。お前は結構いける口だな。父上よりも、酒だけは強くなれるかもしれぬ」
「何をおっしゃるのです」

 小五郎も眠くなってきた。
 昌景のよろめいたときの言葉を思い出した。
 しばらくして、小五郎は文譲にそっと声をかけた。

「父上は、何をお話ししたかったのでしょうね」

 文譲の返事はなかった。
 文譲の寝息が聞こえてきた。
 小五郎は掻い巻き布団に深く潜った。
 静かな夜だった。
 襖の奥の鼾は、真夜中に止まった。
 昌景は二度と眠りから覚めることはなかった。
 嘉永四年(一八五一年)一月十二日。
 和田昌景、七十二歳。

 

関連リンク 

次の章を以下にリンクを貼りましたので、ご利用ください。

第十八章   飛翔と転落と 
            

目次に各章のリンクを貼ってあります。全体で22章となります。お楽しみください。

 


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