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桂小五郎青雲伝 ー炊煙と楠ー        第二章 朝餉騒動

                            火山 竜一 

第二章 朝餉騒動

 六歳になったばかりの小五郎は、ふくれっ面をして昌景をにらんだ。
 真夏の暑苦しい朝のことである。
 茶の間と座敷の間を仕切る襖は開かれて、すでに朝餉の膳が並んでいた。
 佐伯家の影が庭に落ちているが、縁側は陽光に照らされている。
 朝とはいえ風が暑苦しかった。
 昌景は端座したまま小五郎を正視した。

「今日からは、自分の膳で食べなさい」

 断固とした言い方だった。
 小五郎は、毎朝朝餉の時は上座の昌景の膝に座っていた。昌景の膝は、小五郎にとっては皆が見渡せる特別な場所だった。
 小五郎には、昌景の膝は暖かくて弾力があって、とても座り心地がよかった。
 この膝頭に腰をおろせば、昌景のお箸がごはんや漬物を口に運んでくれる。小五郎は座ったまま口を開いているだけでよい。こんな楽なことはなかった。
 小五郎は昌景の言葉を無視した。
 いつものように昌景とお清の膳の間を通って、くるりと体を回して尻を昌景に向けて腰を昌景の膝に乗せようとした。
 単衣の下から、小五郎のふくらはぎがのぞいた。
 昌景の手が小五郎の尻を止めた。
 ぐいと尻を押し返した。
 小五郎は振り返った。

「なんで。なんでだよう」

 小五郎はお清の脇に置かれた自分の膳を見て、手を振り上げると昌景の膝を叩いた。

「ここがいい。あっちは嫌じゃ。ここがいいんじゃ」

 小五郎は畳を踏みつけて激しく首を振った。

「あそこは、きらいじゃ」

 昌景は端座したまま身じろぎもしない。強い調子で小五郎に教え諭した。

「お前は昔から熱を出すと、食べたものをもどす。治り始めると、今度はたくさん食べようとして、また腹をこわす。だから、今までわしがお前を膝にのせて、少しずつ食べさせた。だがな、小五郎。父が食べ物を運んでくれるのを待っておっては、お前の体は大きくならん。こんなことをいつまでも続けては、お前の体は強くならんぞ」

 小五郎の眉間に深い皺が寄っていく。
 立っている小五郎の顔は、昌景とちょうど同じ高さになる。

――なぜ昨日まではよくて、今日はだめなの。そんなの、おかしいや。

 小五郎は納得できない。
 すでにお清は小五郎の妹お治を生み、お捨は文譲の跡継ぎである卯一郎を生んでいた。
 赤子二人が生まれるまでは、小五郎を和田家のみんなが可愛がってくれた。小五郎には、自分を中心に和田家が回っているように思えていた。
 でも二人の赤子が生まれてからは、すべてが変わった。
 皆、卯一郎とお治の面倒を見ては、二人の赤子に話しかけてばかり。小五郎に声をかけてくれることは少なくなった。
 小五郎も妹と弟が可愛いと思うことはある。
 でも小五郎には面白くなかった。
 横からお清がお治を抱いたまま手を伸ばして、小五郎の手を取った。

「こっちに来なさい。いつまで、ここに立っているのですか」

 お清に小五郎は引っぱられる。
 抵抗できないような力がこもっていた。

「母と一緒に食べましょ。みんなが、待っているではありませぬか」

 お治はというと、お清の胸元で眠っている。
 丸い顔でふっくらした餅のような頬をしている。顎が張り気味で目尻の下がり、昌景によく似ていた。
 お清は小五郎を横の膳に引き寄せた。
 小五郎は引きずられるままに、自分の膳に座らされてしまった。
 昌景は小五郎から目を離すと、さあと両手を広げてお清とお捨を見た。

「卯一郎とお治を、ここへ」

 昌景は右手にお捨から卯一郎を、左手にお清からお治を渡されると、胸に抱き寄せた。
 家族皆も、昌景の胸に抱かれた二人の赤子に目を向けた。
 もう誰も小五郎を見てはいない。
 小五郎は唇を噛んで、自分の膳に目を落とした。唇を噛み切るように顎が震えた。
 胸のうちに暗い怒りがこみ上げてくる。
 昌景は上機嫌でお治と卯一郎を気持ちよさそうに頬ずりをした。

「孫と娘が生まれようとは、萩にこんな果報者がいようか。わしは幸せ者じゃ。おお、卯一郎が笑ったぞ。目を覚ましたな。いい顔ではないか」

 昌景は満面の笑みを浮かべて、卯一郎をよいしょと抱えなおし文譲を見た。

「文譲。和田家もこれで安泰ぞ。文譲とお捨の大手柄じゃ」

 昌景は卯一郎を笑わそうと、ほれほれとゆすった。

「よく見よ、よく見よ。跡継ぎ殿が、笑っておるぞ」

 跡継ぎが生まれた文譲は、様々な思いがこみ上げてきたのか目尻の雫(しずく)をぬぐった。夜泣きに疲れて、すっかりやつれたお捨の手をそっと握った。
 昌景は両腕の赤子を皆に見せると、口を半開きにした。

「お清、飯」

 お清は促されれるままに、右袖を左手で押さえ右手の箸を昌景の口に運んだ。
 昌景はうまそうに飯を頬張った。
 小五郎には、鳥の雛(ひな)が餌(えさ)を咥(くわ)えているように見えた。

――なんだい、父上だって、母上に食べさせてもらっているじゃないか。俺と同じじゃ。

 小五郎は、口を開けた昌景の顔を見たくなかった。
 こんな顔より、さっきの『座ってはならん』と断言した時の昌景の顔が好きだった。
 昌景は顎を突き出し、二人の赤子を抱えたまま「漬物」とお清に催促した。
 突然小五郎は立ち上がった。
 自分の膳を思い切り蹴り上げた。膳は激しい音を立ててひっくり返った。味噌汁も漬物も飯も、畳の上にぶちまかれた。
 小五郎は周りの膳も片端から蹴飛ばしていく。
 もう自分でも、何をしでかしているのか、わからない。

――ひどいや、ひどいや。

 お八重が、お捨が、悲鳴を上げた。
 昌景の怒声が茶の間に響いた。

「小五郎、何をする。皆して、小五郎を取り押さえよ」

 お捨が味噌汁で火傷をしたのか、指を二三度振ってしゃぶっている。
 文譲は口を半開きにして呆然としている。
 友藏だけが、ネズミのように忙しく茶碗やみそ汁の御椀をかき集めていた。
 小五郎は庭に飛び降りた。
 正面の楠に駆け寄り、伸びた枝をへし折った。
 ぶら下がるように引っ張ると、枝は簡単に折れた。
 昌景はひっくり返った膳を見回した。
 昌景の怒りは一瞬であった。
 小五郎の暴れっぷりに、くすりと笑った。
 昌景は散らかった茶の間を見回しては、お治と卯一郎に話しかけた。

「派手にやりおったなあ。なかなか猛々しいではないか。お前たち、兄の真似をしてはならんぞ。お前たちの兄上はな、どうしようもない暴れん坊ぞ」

 お清の鋭い声が小五郎の背中を刺した。

「許しませぬ。小五郎、待ちなさい」

 お清は裾を翻し、裸足のまま庭に駆け下りた。
 小五郎は「畜生、畜生」と叫びながら、楠の枝で石灯籠や松の木を叩きまわった。
 お清は右に左に小五郎を追いかけた。
 茶の間では、昌景が二人の赤子に走り回る小五郎を見せながら、小五郎とお清のどちらを応援しているのか「いけ、いけ」と面白がっている。
 小五郎に迫るお清のまっ白な足は音も立てない。
 小五郎はお清の身の軽さに庭の隅に追い詰められた。
 掴まれる寸前、小五郎はお清の袖の下を掻(か)い潜(くぐ)った。縁台に飛び乗り、奥座敷に逃げ込む。
 お清も駆けあがってくる。
 小五郎は座敷の隅に追い詰められた。
 小五郎はお清の足元に転がり、お清をそらして斜め後ろに立ち上がった。
 おうっと、昌景の声。

「見たか、文譲。あの身の軽さ」

 小五郎はというと、昌景の感嘆の声を背に一気に廊下に飛び出した。
 裸足のまま診察室の横の玄関に飛び降りた。
 小五郎は玄関前の柘榴(ざくろ)の脇を抜けると、楠の枝を振り回しながら木戸門から江戸屋横丁に飛び出した。

――海だ。菊ケ浜だ。こんな家、大っ嫌いじゃ。

 突然、小五郎は門前で襟(えり)を引っ張られた。
 首根っこをお清の白い腕に鷲掴み(わしつかみ)にされ、押さえこまれてしまった。
 小五郎の頭上でお清の激しい声が響いた。

「こう見えても故郷の大島じゃ、足で負けたことなんか、ないんだからね。逃げようたって、そうはいかないよ」

 お清の熱い息が小五郎にかかった。
 いつも涼やかな母の顔が、怒りで真っ赤だった。
 小五郎は体を左右に振って、腕を引き抜こうとした。

「放せ、放せ。手が痛いよう。折れちゃうよう。もげちゃうよう」

 お清は小五郎を力任せに引き寄せた。

「折れたら、父上に治してもらいなさい。戻って、皆に手をついて謝るのです」

 お清の瞬きしない目が小五郎を射すくめる。いつも、横丁を行き交う人に、にこやかに会釈をするお清の顔ではなかった。
 小五郎には、眉を剃りお歯黒をしたお清の顔が恐かった。
 小五郎はお清の腕を振り切ろうとした。
 もがきながら、右手の枝を思い切り振り上げた。

「放さなければ、これだ」

 お清は楠の枝を見た。

「打ちなされ。母を打てるものなら、やってみなさい」

 横丁に男の怒声が轟いた。

「馬鹿者。小五郎、やめんかい」

 隣家の佐伯丹下だ。
 佐伯は、何事かと、着流しのまま家から走り出ていた。
 三十近い歳なのに、直目付とかいう大切なお役に就いていると、小五郎は昌景からよく聞かされていた。
 小五郎には、佐伯の細く鋭い目が威厳がありすぎて恐い。

「小五郎、手を下ろせ。下ろさんかい。わしのいうことがきけぬか。おい」

 小五郎は、ほとんど笑わない佐伯が苦手だった。見つめられると息が詰まる。横丁で遊んでいると、よく佐伯から声をかけられる。こんなときは、佐伯から「親に心配かけるな。孝を尽くせ」といつも説教をされる。
 お清のつかむ力が強くて、小五郎には痛くて仕方がない。指がめり込んでいた。

「何をする」

 佐伯の叱責に、小五郎は思わず振り上げた枝を打ち下ろした。
 お清の左腕で激しい音がした。
 お清が手を放し、小五郎は横丁にひっくり返った。
 お清は打たれた左腕を、信じられない面持ちで瞬きもせずに見つめている。
 地面から見上げる小五郎を、もう、お清は捕まえようとはしなかった。
 小五郎は、お清の腕に赤い傷跡が斜めに走っているのを認めると、激しく震え始めた。
 佐伯はお清に駆け寄り、傷ついた手を取った。

「たわけ者。母を打つとは何事か」

 小五郎はお清の目に涙があふれてくるのを見た。跳ね起きると言葉にならぬ叫びをあげて、横丁を駆け抜ける。

「待て。待たんかい」

 佐伯の声が小五郎の背中を叩いた。
 小五郎は一瞬振り返った。
 お清の腕を抱えた姿が見えた。
 小五郎は表通りの御成道に飛び込んだ。
 魚を売り歩いている俸手振りが、悲鳴を上げてひっくり返った。魚が逃げ出すように、道に散乱した。
 小五郎は走り続けた。
 御成道から呉服店の脇の小道に飛び込んだ。ひたすら、菊ケ浜に向かった。
 小五郎は畑を抜けて小五郎は菊ケ浜に着くと、黒松の防風林の中を駆けまわった。
 楠の枝でひたすら松を叩きまくった。枝はすぐに折れて飛び散った。
 小五郎は息が苦しくなってしゃがみ込むと、斜めに伸びる黒松の幹を見あげた。

――なんてことを、してしまったんだ。

 頭上の枝の間に青空が広がっていた。
 小五郎は立ち上がり黒松の幹をつかむと、青空に向かってよじ登り始めた。
 幹の中段まで登ると、振り返り地面を見下ろした。砂地と土の一面に、落ち葉や小枝や雑草が覆っていた。
 胸の中をやり場のない怒りと悔いの炎が燃え盛っている。

「やー」 

 小五郎は大地に身を投げた。
 両足が大地にぶつかり、膝が激しく胸を打った。
 体が地面に跳ね返され転がった。

――罰だ。罰だ。罰だ。

 小五郎は黒松の大きさを全身で感じながら、前よりも高く登っていく。
 登り切っては泣きながら空中を跳んだ。
 何度も大地に弾(はじ)き返された。
 小五郎はとっさに転がった。何も考えてはいない。地面を転がりながら、いつの間にか受け身を覚えていた。

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