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桂小五郎青雲伝 ー炊煙と楠ー    第三章 人さらい始末

                           火山 竜一 

 第三章 人さらい始末

 夕日が落ちて辺りが暗くなってきた。
 小五郎は、まだ萩の城下を彷徨(さまよ)い続けていた。
 体は泥だらけで単衣は乱れ、髪が前に垂れて目に入りそうだった。
 浮浪児のような姿になっていた。

――もう、家には帰れない。帰っちゃ、いけないんだ。俺なんか死んじまえばいい。

 胸の奥から、とりとめのない混乱した感情が溢れてくる。

――父上も母上も……嫌いじゃ。皆、嫌いじゃ。

 小五郎の汗と涙で濡れた顔にも、べっとりと砂と泥がついていた。
 いつの間にか、同じ姿の土塀と曲がり角が入り組んでいる一角に入り込んでいた。
 薄闇の中で、土塀の奥から巨木や屋敷が小五郎を見降ろしている。
 小五郎はどちらに向かって歩いているのか、分からなくなってきた。
 足が疲れ切っている。
 小五郎の脇に古い土塀があった。土塀の土の間から、藁(わら)が乱れた白髪のように露出している。
 小五郎は土塀を這い上ると、小さな腰を下ろした。
 足も尻もむき出しだった。単衣なんか脱いで裸になりたいくらいだった。
 月が出ていた。
 お城の近くだろうか。
 かすかに川の音も聞こえてくる。
 振り返って、土塀から奥をを覗いてみた。
 奥の屋敷が、半分崩れかかっている。暗闇の中で屋根は半ばなくなり、骨のような柱が屹立していた。
 火災の跡だった。

――そうだ。一週間ぐらい前に、火事があったっけ。

 どこ、どこって、小五郎が見に行こうとしたら、文譲兄さんに止められた。

『あそこは百曲がりだから、帰れなくなるぞ』って、文譲兄さんにきつく叱られたっけ。
 そういえば、お城の近くは敵が近づけないように、迷路のようになっているともいっていた。

――そんなこと、どうでもいいや。

 小五郎は、お清の姿を思い出す。
 横丁で枝に打たれた腕を押さえ、じっと佇む母の姿を。
 あれほど悲し気で、寂しそうなお清の姿を見たことはなかった。
 小五郎は土塀の上で膝を抱えて頭を垂れた。
 土塀の土塊(つちくれ)を爪でひっかいては抜いて、前の道に投げつけた。
 佐伯の怒声がいまだに小五郎の耳を打っている。
 小五郎は、佐伯が和田家の門前に、恐ろしい形相で仁王立ちしているように思えた。
 背後の半壊した屋敷の奥で物音がした。
 何か、蠢く気配がする。
 小五郎は振り返った。
 屋敷跡の壁の奥を人影が横切った。
 人影が月明かりの下に顔を出した。小五郎の横の土塀に近づいてくる。
 土塀の上によじ登ると、ひょいと乗り越えて道に飛び降りた。
 小五郎が足をぶらつかせると、驚いて男は立ち止まり振り返った。
 男は小五郎を上から下まで見回した。
 ふと、合点したのか軽くうなずいて、そっと辺りの通りに目を走らせた。
 男は小五郎に近づいてきた。
 小五郎は闇の中で男の白い歯が見えた。笑っているらしい。
 馴れ馴れしい男の声が聞こえた。

「小僧、家は、どこかな」
「ない」

 小五郎はイラついたように横を向いた。

「父ちゃん、母ちゃんは、いるのかい」
「いない」

 小五郎はつい口走り、急に悲しくなった。
 また涙がこみあげてきた。
 男は優しく穏やかな声で、小五郎に尋ねてきた。

「小僧、何をしている。火事場で食い物でも、探そうというのかい。ここは、もう何もないぞ」

 小五郎は男を上目遣いで見た。
 暗闇の中ではあるが、背の高い男だった。
 男はさらに近づいてきた。
 煙管(きせる)でも出そうとしているのか、右手を懐に入れた。
 小五郎には男が文譲兄より若いように見えた。
 男は月光の中で、目を細めて笑っている。
 小五郎は男に抜け目のない視線を感じた。

「こんなところで、寂しかろうに。腹もすいておろう。さあてと、菓子があったかな」

 小五郎は垂れる前髪越しに男を見つめた。
 男の白い歯は歯並びが悪かった。異様なほど細い顎だった。
 男の舌は滑らかだ。

「食えなくて、父ちゃん、母ちゃんに、見捨てられたか。そうだろ、図星か。それとも、とんでもない悪さをしたか。俺も子供の頃、そんなことがあったさ。あまりいいたくはないがね。一人、遠くまで来ちまってよ、あんときほど心細かったことはなかった。たまたま通りがかった商人(あきんど)に、助けてもらった。嬉しかったな。泣きそうになったよ」

 もう男は小五郎に手が届くところに来ていた。

「いい人でな。『ちょっと、うちに寄りなさい』なんて声かけてくれて、家で馳走(ちそう)をしてくれた」

 男は小五郎の脇の土塀に寄りかかった。
 なめ回すような、なれなれしさだった。
 近くで見ると、男の着流しは酷(ひど)く薄汚れて、髭(ひげ)も剃っていない。腹を掻(か)いているのか、右手を懐にいれたままだった。

「商人の顔は覚えているんだが、今どこにいるのやら……小僧、どうかな、わしの家にいかぬか」

 男は小五郎を顔を近づけてきた。
 すえた匂いがした。
 小五郎の眉間に皺が寄った。

―― 何者だい。

 小五郎は目まぐるしく考え始めた。

「小僧、年はいくつだい。この体つきだと、三つかな」

 小五郎は、男の顔をじっと見つめた。
 どす黒い疑念が胸の内に湧いてくる。
 そうっと、三本の指を立てた。薬指だけが、たどたどしく伸びきらない。

「みっちゅ。もうすぐ、よっちゅ」

 小五郎は口をへの字にして、わざと泣きべそをかいた。

「おう、そうか。さっ、おいで。うちに、ちょうど同じくらいの子がいるんだよ。友になったらよい。一緒に飯でも食べて、風呂にでも入ったらどうかな」

 男は、小五郎を抱えて下ろすと、しゃがんでさらに顔を近づけた。
 男の息が、小五郎に顔にかかった。
 男は小五郎の肩に手をかけて、肉の付き具合を確かめるように何度も肩や腰を握り返した。

「うん。いい面(つら)構(がま)えだ。うちの子とよく似ている。どうじゃ、浜崎まで歩いてみぬか」

 小五郎は浜崎が遠いことを知っている。
 笠山の近くで、松本川の脇である。仲間と近くで遊んだことがある。
 橋の近くに華やかな店が並び、夜でも提灯で明るい。姉上くらいの年頃の女たちが、道行く人に声をかけていた。小五郎が住んでいる江戸屋横丁とは別の世界だった。
 男は小五郎の手をとり、引っ張ろうとして、ふと止まった。真後ろを振り返った。
 いつの間にか、一人の肩衣半(かたぎぬはん)袴(はかま)の髪の薄い老武士が立っていた。落ちくぼんだ目が、瞬きもしない。
 男は老武士を見ながら、腰をかがめて小五郎を引き寄せた。

「何か、御用でございますか」

 男は腰を低くしたまま、老武士の脇を抜けようとした。
 老武士の冷ややかな声が遮(さえぎ)った。

「どこへ連れて行く。小僧から手を離せ」

 男は止まり後ずさりした。

「どうやら迷っているようなので、家まで案内(あない)しようと思いまして。へい」

 小五郎は二人の顔を交互に見た。
 老武士は、静かに間合いをつめた。

「家までなら、わしが連れて行こう。それとも、手を離せぬ訳でもあるのかい」

 老武士は左手を刀の鯉口(こいくち)に柔らかくかけた。
 男は土塀に沿って後ずさりした。

「あっしは、ただもう可愛そうで。何とかしてやりたいだけでございます」

 老武士は鯉口(こいくち)を切った。
 小五郎にささやかな音が聞こえた。
 抱える男の腕に力が入った。
 小五郎には、男の掌がひどく熱く感じた。

「なんのことやら存じませぬが、どうか、ご勘弁くださいませ」

 突然、男は左腕で小五郎を抱え込むと、右手で懐から短刀を抜いた。
 男は刃先を小五郎の喉元に当てると、老武士を睨みながら不気味に笑った。

「斬るおつもりで。ならばこの子も道ずれに」

 小五郎は喉元に突き付けられた短刀に身動きが取れない。
 小五郎を抱える男の手が、べっとりと汗をかいている。
 ひどい汗臭さが鼻を突いた。
 頭上で男が叫んだ。

「何、しやんでい。小僧の命が惜しくねえのかい」

 男の声に小五郎は仰天した。
 短刀がこのままでは、喉元に食い込むだろう。
 だが老武士はまったく動じない。やせ細っているようでも肩が張り骨太である。

「試すかい。わしの居合とそちの短刀、どちらが早いか」

 男と老武士が睨み合った。
 小五郎がそうっと男の腕を両手でつかんだ。
 口を開くと、思いっきり噛みついた。男の腕は汗で塩っぽかった。
 男の悲鳴があがった。

「こ、この野郎。なにすんでい」

 小五郎は、肉を食い千切るように、歯を食い込ませていく。
 男は悲鳴を上げて小五郎を振り回し、腕を小五郎の口から引き抜こうとした。

「小僧、首をへし折るぞ。放せ」

 めり込んだ小五郎の歯から鮮血が滴った。
 男は短刀を口に咥えると、小五郎の鼻を強くつまんだ。
 小五郎は息が苦しくなって、思わず口を開いた。
 口の周りは血だらけになった。
 男は小五郎の口から腕を引きはがし、小五郎の体を右腕で抱き上げると老武士に投げつけた。小五郎は足をばたつかせたまま老武士に受け止められた。
 男はその横を一気に駆け抜けた。
 老武士の気合とともに男の肋骨から鈍い音がした。
 小五郎の目に、老武士の刀の柄頭が男の右の脇腹に打ち込まれたのが見えた。
 男は、もんどりうって転がった。
 腹を押さえ、地べたを四つん這いで獣のように這いずった。激痛に吠えては右に左にのたうちまわり、土塀の先の角に走り込もうとした。
 小五郎は土塀の角から走り出る人影を見た。
 男は四つん這いのまま、その人影の腹に突っ込んだ。
 鈍い音がして二つの影はもつれて倒れ込んだ。
 男は人影を押し退けて立ち上がると、地面に呻いている人影を踏みつぶした。

「どけぇ、ぶっ殺すぞ。邪魔すんじゃねえ」

 男は腹を押さえながら、うずくまる人影を激しく何度も蹴とばした。その度に人影はのたうち回り、たまらず男の腰にしがみついた。
 老武士が一喝した。

「やめんかい」

 どこから声が出るのかというほど、激しい声だった。
 男は人景を振り解(ほど)こうとして、腕を力任せにねじ込んで腰の者の顎(あご)を押し上げた。
 腰の者の顔を、月光の中で覗き込む。
 顔を右から左から確かめている。

「おめえ……友藏じゃねえか。なんで、こんなとこに来た」

 腰の者が首が折れ曲がるほど顎を上げ、息を荒げている。目を見開き男を見上げた。しゃくりあげた顎が、小五郎にも見えた。

「佐吉さん。稼業から足洗うんだ。あんたは、そんな人じゃない。おらには、わかる」

――友藏だ。友藏だあ。

 小五郎は叫びそうになった。
 男は腕を振り上げると、友藏の額に肘を何度も打ちつけた。

 鈍い音がした。

「手をはなしやがれ」

 小五郎には、なんともいえぬ気味の悪い音だった。
 友藏は打たれるたびに、つぶされて男の腰下にしゃがみこむ。
 ついに地面に這いつくばってしまった。
 佐吉と呼ばれた男は、血だらけの腕を押さえて、友藏を見下ろした。
 男の足元で、友藏は頭を抱えて呻いている。

「友藏、手前(てめえ)、医者の家で毎日うまい飯食って、銭を一銭も、民藏によこさねえらしいな。民藏たあ、おめえの兄貴だよ」

 佐吉は友藏を引き起こして、さらに膝を蹴り込んだ。
 友藏は沈んだ。

「いいか、お前の父上ちゃん母ちゃん、飢え死にしたぜ。間引きの友藏、死にぞこないめ」

 佐吉は友藏に唾を吐きかけると、脇腹を押さえながら、土塀の角に寄りかかった。
 佐吉は、ふと小五郎に振り返り凝視した。
 激しい息遣いで、佐吉が小五郎に声を張り上げた。

「小僧、お前、本当の歳は……いくつなんだ」

 小五郎は老武士の胸元を押し返すと、老武士は慌てて小五郎を下ろした。
 小五郎は、袖で口のまわりの血糊をぬぐい、勢いよく唾を吐いた。

 にっと笑った。

 目は笑っていなかった。

 薬指をわざと伸びきらないようにして、小五郎はまたしても三本の指を立てた。

「みっちゅ、もうすぐ、よっちゅ。ほんとだよ」

 佐吉の目が大きく見開かれ、急に震えだした。

「お前は……物(もの)の怪(け)かあ」

 佐吉は叫ぶと角を廻った。
 けたたましい足音が去っていく。
 友藏が腹を抱えたまま、地べたに膝をついている。
 老武士が小五郎の手を引き、友藏に走り寄った。

「大丈夫か。息を整えよ」

 友藏が必死に背を伸ばそうとした。額から血が滴った。

「ありがとうございまする。なんとか息は、もう、大丈夫でございます」

 友藏は、佐吉に膝を打ち込まれた懐から、小さな数珠を取り出した。
 自分の血の滴る額よりも、数珠を月光の下でかざしている。

「よかった。傷んでいない。お数珠が、守ってくれました」

 小五郎は老武士の顔を見た。
 引き締まってはいるが、髪も白くて昌景よりも年が上であろう。
 小五郎は老武士の高い鼻と白髪混じりの太い眉毛、大きな耳ばかりを見た。
 老武士はしゃがむと、小五郎を覗いた。
 そっと優しく肩を包むように握って引き寄せた。

「小僧、危うく売り飛ばされるところじゃった。あの者は人買い、女衒のたぐいか、その使いっ走りであろう。日々の食いぶちのためなら、何でもやる輩だ。火事場泥棒で獲物がなくて、人さらいに手を染めるところじゃった。こんなお城の足元で、御法度とはな」

 小五郎は急に激しく震え始めた。
 恐怖か、怒りか、自分でもわからない。
 老武士は大きな手で、小五郎の頭を荒っぽく撫でた。

「おお、武者震いか。剛毅だな。大した者ぞ」

 老武士の手は暖かく骨太で力強かった。
 やっと落ち着いた友藏は立ち上がり、老武士に深く腰を折って頭をさげた。

「お主は……昌景殿の友藏か。大きくなったなあ。わしは今江戸から帰ったところでの、殿に報告して、ついでに挨拶回りをしての帰りだよ。すると、小僧は文譲殿の跡継ぎか。なかなかの気性ではないか」

 友藏は十九歳になっている。
 背は伸びても、いつも腰低く背中を丸めている。ひょっとすると、和田家では最も背が高いかもしれない。しゃくれた顎が、がっちりしていた。

「桂様。昌景様の子で、小五郎と申します」
「昌景殿の、何、あの年でか……すると、文譲殿にとっては、弟になるのか。ほう」

 老武士の名は桂九郎兵衛。百五十石の大組士(おおぐみし)で、関ヶ原以来九代目、毛利家に長年仕えてきた家柄である。
 家は和田家と同じ江戸屋横丁で、斜め向かいにあった。
 後継ぎのいない九郎兵衛が、勤番で江戸に勤めている間に、和田家に次々と子が生まれていた。

「友藏、友藏」

 友藏の腰に、小五郎は激しく抱きついた。
 九郎兵衛は頷いた。

「和田殿も心配していよう。友藏、よくここがわかったな」

 友藏は腰の小五郎を抱きしめながら、額の激痛に苦しそうに顔を顰(しか)めている。

「方々探しているうちに、以前、若旦那様が『ここに行ってはいけないよ』と、きつくおっしゃっていたのを思いだした次第でございます」

 九郎兵衛は噴き出した。

「行くなといわれると、行きたくなるか。小僧は、へそ曲り殿か」

 九郎兵衛の後ろから、足音が聞こえた。
 小五郎が振り返ると、しわがれた声がした。

「申し訳ございませぬう」

 半被(はっぴ)を着た奉公人の中間が走ってくる。
 槍を軽々とかついで、裸足に草履で岩のような体を揺すって、息を弾ませている。

「用足しに、時間がかかってしまいましたあ。申し訳ありませぬ」
「弥之助、お前が厠をお借りしたまま出てこぬから、先に来てしまったぞ。お陰で。ひと合戦してしもうた」

 九郎兵衛は底抜けな笑い声をあげると、ふと小五郎を見つめた。

「お主、本当は、いくつなんじゃ。『みっちゅ』とは、嘘であろう」

 九郎兵衛は、佐吉と同じことを小五郎に訊(き)いた。
 小五郎はもう三つの幼子の顔をしてはいない。気難し気な顔をして、胸を張った。

「六つだい」

 九郎兵衛は真顔に戻っていた。

「三つとは……すると、あの男に嘘をついたのか。男に連れて行かれたら、どうするつもりだ」

「あいつは、道を知っている。だからさ。ここを出たら、消えてやる。三つと思わせておけば楽さ。俺は足が速いんだ。それに、どこだって、潜り込んでやる」

 九郎兵衛は感に堪えぬと、思わず手を打った。

「面白い。本当に『みっちゅ』に見えたぞ。弥之助、人さらいがな、『お前は物の怪かあ』と叫んだ時の顔を見せたかったぞ」

 弥之助が懐から手拭きを出すと、小五郎の口の血糊を拭(ぬぐ)った。

「戦に間に合わなくて、申し訳ござりませぬ。この弥之助、次は必ず助太刀いたしまする」

 小五郎は弥之助に友藏の額を指さした。
 弥之助は友藏の額を大丈夫かと調べている。
 九郎兵衛はそんな小五郎を頼もしげに見つめていた。

「江戸では、つまらぬことばかりであったが、旅の疲れがふっとんだ。こんなところで、土産話ができようとは。帰ったら、お良に話してやろう」

 お良とは九郎兵衛の妻である。
 九郎兵衛が、小五郎の乱れた髪を撫でて、整えてくれた。

「ほら、りりしい顔になったぞ。頭の中に悪知恵が、いっぱい詰まっておるのであろう。のぞいてみたいぞ」

 夜遅く小五郎たち一行が江戸屋横丁に入ると、和田家の前に家族だけでなく隣の佐伯家の家人たちも横丁に出ていた。
 和田家の門前から、小五郎に気付いた人影が裾を押さえて小股で走って来る。

 小五郎は叫んだ。

「母上、母上」

 小五郎は友藏の手を振りほどいた。
 一気に駆け出すと、お清の腰に飛び込んだ。
 お清の涙が小五郎の頬を濡らした。
 小五郎はお清の左腕の袖をめくりあげると、楠の枝を撃ち込んだ傷口を舐(な)め始めた。
 お清はそんな小五郎に顔を寄せた。

「何をするのです。まるで子犬のよう。痛いけど、なんだかくすぐったい」

 小五郎はお清の傷口を、いたわるように繰り返し舐(な)め続ける。

「唾(つば)をつければ治る。いつも俺は怪我をすると、舐めるんだ。母上もきっと治してみせる」

 小五郎が母にできることは、他にはなかった。
 お清の腫れあがった擦り傷が、小五郎の唾で濡れていく。お清は小五郎の耳元で囁いた。

「さあ治しておくれ。気が済むまでね」

 二人のまわりを家族たちが囲んだ。
 小五郎が急にお清の懐から昌景を見上げた。

「父上、あの顔は嫌じゃ。見たくない」

 昌景はしばし首を傾げた。ふと思い出したらしく、大きく頷いた。

「両手に赤子を抱えて、飯を食ったときのことか。あいわかった。約束しよう」

 小五郎は、昌景の膝の上を叩いた。

「父上の膝は、卯一郎とお治にあげる。もう飽きた」

次の章のリンクを貼りましたので、お楽しみください。

以下の目次に、各章全体22章のリンクを貼ってありますので、ご利用ください。

 

 

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