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桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠―     第五章 関ケ原を忘れるな

                                                                                                                  火山 竜一  

第五章 関ケ原を忘れるな

 二年後の夏。昼過ぎのこと。
 菊ケ浜の松林に、八歳になる小五郎と仲間たちが、集まっていた。
 松林の左手に、萩城の五重五階の天守が見える。海に突き出た指月山が、お城を守るようにそびえていた。

 お殿様がそこにいる。

 でも、小五郎たちは、用もないのに入ることはできない。総門の門番に追い返されるだけだ。

 ならば菊ケ浜で合戦だ。皆で家臣になったり足軽の真似をして、殿様の足元で戦うのみ。

 松の木陰に身を寄せ合って、仲間たちは、小五郎の手にぶら下げている大きな布袋を覗こうとした。

「開けて見せろや。中に何が入っとる。芋か」

 相撲の得意な体の大きい林乙熊が、重いのかなと袋を両手で掴んだ。
 体の小さい山縣武之進や、口は負けず嫌いでちょっとずるい河野右衛門、一つ年上の何事も用心深い財満新三郎、すばしこい佐久間卯吉、大人しいけど意外と器用な永田健吉と、ここの子供たちは皆着ているものは薄汚れていた。
 乙熊がためしに小五郎の袋を持った。
 袋の重さが意外だったらしく、驚いている。
 子供たちは、袋の周りに輪になった。
 一番幼いお治は、小五郎の斜め後ろについて離れない。小五郎の単衣の袖を引っぱるようにして掴んでいる。お治は右手の親指をしゃぶりながら、皆の様子を見ている。
 小五郎は、おもむろに、袋の口を開いた。

「柘榴(ざくろ)の実じゃ。大きいだろう。もうすっかり熟しちまった」

 小五郎は玄関と木戸門の間の柘榴の木から、実を全部もぎ取ってきた。柘榴の木は裸になってしまった。
 もう布袋はふくれて、一杯である。
 乙熊が袋の中に、手を突っ込もうとした。

「かたじけない。では、一つ、いただこうか。どんな味かな」

 小五郎は慌てて袋を閉じた。

「待てったら。食べるなんて、とんでもない。食べるだけなら、担いでなんか来るもんか。では、皆の者、ちこう寄れ」

 急に、小五郎はお殿様のような口ぶりになった。

「この柘榴の実の使い方を、とくと教えて進ぜよう」

 小五郎は足元から長い一本の枝を拾った。袋から柘榴の実を、一つだけ取り出した。
 皆の顔が寄り集まった。
 小五郎は実をぐいっと割っては、枝に実の中の粒をしつこく擦りつけた。 枝は汁で擦りつけた面が赤くなっていく。
 薄い色だった。
 小五郎が、その枝で自分の腕を軽く打つと、単衣の袖の上に赤い汁の線が走った。

「ほら、よく見よ」

 小五郎は、筒の袖を皆の前に突き出した。

「ちょっとものたらないけど、いちおう血のつもりじゃ。右衛門、こうだ」

 小五郎は、この枝で脇から覗き込む右衛門の肩を打った。
 右衛門はびっくりして肩をすくめた。
 袈裟に切りつけたので、皆でよく見ると、赤い汁がざっと斜めについている。
 一同は一斉に歓声をあげた。
 新三郎が右衛門の肩を見ながら、「なるほど妙案なり」と感心した。

「小五郎、うまいこと考えたのお。右衛門、どうだ、痛いか」

 それほどじゃないと、右衛門が首を振った。
 小五郎が地面を指さした。

「右衛門、切られたら、さっさと倒れろ。死ね。これは大切な約束事じゃ」

 右衛門が唸って、膝から崩れて倒れこんだ。
 せっかちな卯吉が、俺にもやらせろと、小五郎から枝を奪いとった。

「よし滅多切りじゃあ」

 卯吉は枝を頭上に掲げて、周りを叩こうと追いかけた。
 皆、蜘蛛の子が散るように逃げ回った。
 小五郎が卯吉を抑えると、皆を集めた。

「よいか。一人、一本、枝を集めてまいれ。戦の時は近いぞ。皆の者、仕度をせい」

 小五郎が小さな胸をそらして叫ぶと、おうっと、松林に皆の掛け声が上がった。
 皆して適当な枝を松林の外まで探しに行った。
 それぞれ枝を見つけては戻ってくると、地面に置いた袋の口を開けて両手でお治が持っている。小五郎に言われて、袋の口をもって皆を待っていたのだ。
 皆は袋に手を突っ込んで、実を取り出した。
 乙熊が柘榴の皮をむしり、中身を枝に力まかせに擦(す)りつける。
 新三郎は丁寧に小さな粒を潰(つぶ)しては、指に汁をつけて筆のように汁を枝に塗りつける。
 赤く濡れた枝を構えては、それぞれ勝手に切り合う真似だ。

 お互いに黒松の間を、逃げ、躱(かわ)し、走り回る。笑ったり、叫んだり、悲鳴を上げたり、松林の中はにぎやかだ。
 騒ぎの渦の真ん中で、小五郎が手を上げた。

「待てい。戦はまだ早い。よいか、皆の者、西軍と東軍に、分かれろ。早く」

 小五郎は数を合わせては、子供たちを左右に別けた。
 漁師や百姓の子供たちも紛れ込んでいた。周りで赤子を背負ったまま羨ましそうに眺めている子もいる。

「ひと合戦したら入れ替わる。よいな」

 二手に分かれた子供たちは、大きな黒松を挟んで対峙した。にらみ合っては、枝を構えた。上段、中断、下段。勝手に好きな構えをしている。

「決戦の時は今ぞ。法螺貝を吹けえ。者ども、いざ、出陣じゃあ。決戦、関ヶ原じゃあ」

 右衛門が法螺貝の真似をして、雄叫びを上げた。
 ヤァとかオウとか、掛け声が上がる。

 『関ケ原』が始まった。

 お治は真ん中で、袋をもったまま、右を見たり左を見たりしている。怖がっている。
 小五郎がお治に走り寄り、命じる。

「お治、よいか、切られて倒れた者を、父上みたいに手当てをしろ」

 互いに黒松の間を駆けては叩き合う。
 追いかけては背中を、肩を、胸を、腹を切りつけた。
 袈裟切りにしたり、逆袈裟にしたり、横に払ったり。でも、顔を突くものはいない。痛いのがわかっている。
 東軍のほうが先に枝が折れて、単衣が赤く染まった。
 東軍の右衛門が、役者のように胸を押さえて倒れた。

「やられた。無念じゃ」

 なおも抵抗する東軍を、小五郎は止めた。西軍と東軍の間に立った。
 かん高い声をあげた。

「東軍の負けえ」

 皆の動きが止まった。構えたままの、にらみあいは続いている。
 すると、西軍の健吉が「東軍、けじめをつけよ」と、迫った。

「負けたほうは切腹だ。誰がやる」

 これには、東軍は顔を見合わせた。どうしようという顔をした。
 東軍の奥から乙熊が、仲間をかき分けて、進み出てきた。
 東軍の大将のつもりらしい。
 乙熊は、西軍の前に、おもむろに座った。
 厳(おごそ)かに前に枝を置く。
 単衣の襟を開き、腹を出した。

 一つ一つの所作は大げさで、忠臣蔵の大石内蔵助みたいだった。

「わかった。覚悟はできておる。腹を切る。だれか、介錯をせい」

 役者のような、いいっぷりだった。
 お互いに顔を見合わせた。
 誰も出てこない。
 乙熊が困った顔で周りを見回した。

「これじゃ、きまらねえや。だれか、たのむよお」

 皆眺めているだけだ。
 財満新三郎が肩をすくめた。

「介錯は、さすがに父上から習っとらんなあ。いままで、介錯なんて考えたこともなかったよ」

 皆同じらしく、後ずさりしてしまった。
 乙熊が舌打ちした。

「付き合いが悪いぞ。俺も、確かに父上からは介錯までは教わっておらん。仕方がないな。じゃあ、とりあえず、やるぜ」

 乙熊は口をへの字にして、左手で脇差用の枝を鷲掴(わしづか)みに手に取った。
 父上に教えられたとおりに、脇差を右手に持ち両手で替えなおした。
 小五郎をはじめ、皆、周りで口を閉ざして見守っている。

「おりゃ」

 乙熊は相撲の時と同じ掛け声を発して、枝を左の腹に突きたてた。
 枝は折れて、先が飛んでしまった。
 皆はどっと笑い転げた。

 真ん中で、乙熊は真っ赤な顔になった。

「ひでえや、ひでえや、無礼であろうが。許せねえる。いてて、腹が痛えよ」

 格好だけでよかったのに、乙熊は本当に突き立てたみたいだ。
 皆の動きは止まり、神妙に頭を下げた。
 小五郎が、すかさず褒(ほ)めた。

「乙熊、見事なり。しかと見届けた」

 お治が走り寄って、「熊さんかわいそう」と、松ぼっくりでこすって、乙熊のお腹の治療をしようとした。
 新三郎が慌ててお治を止めた。

「お治ちゃん。これは、別なんだ」

 夕方、菊ケ浜から、小五郎は空の布袋をぶら下げて、お治と手を繋(つな)いで帰っていく。
 御成道に出ると、小五郎とお治は、人さらいと出会った時と同じ羽織袴の桂九郎兵衛と小箱を抱えた尻ぱっしょりの弥之助に出会った。
 九郎兵衛は、いつも、この夕刻に下城する。
 小五郎は九郎兵衛の顔色が悪いように見えた。
 九郎兵衛は小五郎とお治に気が付いて、おやっと立ち止まった。

「これはどうしたことだ。ひどい恰好ではないか」

 四人は一緒になると、御成道を江戸屋横丁の入り口に向けて歩き始めた。
 小五郎の木綿の単衣は、体が大きくなっても着られるように、四つ身に縫い込んである。
 小五郎は気にしていないのだが、藍色の単衣はすっかり赤い汁で染まっていた。

「一大事ではないか。何があったのか、さっ、申してみよ。喧嘩でもしたか。それとも、誰かに悪さされたんか」

 九郎兵衛は、小五郎の話を聞いているうちに、たまらず、腹をかかえて笑い出した。

「菊ケ浜で合戦か。『決戦関ケ原』とは、勇ましいぞ。小五郎、東軍、西軍、どちらになった」

 小五郎の声が大きくなった。

「両方。何回もやったよ」

 九郎兵衛は、報告を聞く殿様のように、ゆったりと大きく頷いた。

「それでこそ、武士(もののふ)というものぞ。小五郎は勝ちも負けも知ったか。なあ、弥之助、大したものではないか」

 後ろで弥之助が「へい、ほんに」と、大きく頷いた。
 九郎兵衛は、小五郎の襟から胸や背中を覗いた。

「怪我はないか。擦り傷だけか。大事ないな」

 四人が江戸屋横丁に入ると、九郎兵衛は急に立ち止まって小声で耳打ちした。

「よいか。母上にきつく叱られるであろうが、下を向いて逆らってはならんぞ。汚れ物を洗ってくださる母の気持ちもあるからの。よし、わしが手本をみせよう」

 九郎兵衛はこうするのだよと、泣きべそをかく真似をして、背中を丸めてうつむき、肩を落としてうなだれてみせた。
 まるで子供の頃の仕草を、九郎兵衛は思い出したようだった。
 羽織袴の老武士が、小五郎に成り代わって母の怒りをやり過ごす見事な演技であった。
 小五郎もお治も口を半開きにして、つい見とれてしまった。
 弥之助が噴き出して、箱を危うく取り落としそうになった。箱の中身がコトンと音を立てた。

 九郎兵衛が思わず箱を支えた。

「頼むぞ、殿からの賜りものだ。桂家の宝じゃ」

 和田家の木戸門まで来ると、九郎兵衛は小五郎の背中をやさしく押した。

「小五郎。今度うちに遊びにおいで。鎧(よろい)や兜(かぶと)を見せてあげよう。関ヶ原で使った本物だぞ」

 九郎兵衛に頷きながら木戸門をくぐる小五郎を、勝手口に使用する内玄関で、お清の悲鳴が出迎えた。
 小五郎と汚れていないお治まで、二人して九郎兵衛の真似をして、ただもう内玄関でうなだれていた。

 翌日、桂家の表玄関は、時ならぬ幼い賓客(ひんきゃく)に、急ににぎやかになった。
 和田家では躾(しつけ)られていない小五郎とお治は、武家のしきたりも礼儀も知らない。
 二人の草履は、玄関で散らかり、裏返ったりして、ばらばらになった。

 弥之助は家の奥に声をかけながら、草履を並べなおしている。

「旦那様、若君と姫君が、到着しましたあ」

 弥之助は九郎兵衛とちがい血色が良く、胸も厚く手足は丸太のようだ。顔には疱瘡(ほうそう)の跡がある。頑丈そうな顎と太い首が、顔に威厳を与えていた。
 小五郎はまるで漬物石のような顔だと思った。
 弥之助の声は低く嗄(しゃが)れて重々しいが実際には愛想がよい。

「さあさあ、九郎兵衛様もお待ちかねですよ」

 弥之助は小さな目をさらに細める。笑顔を浮かべているつもりのようだった。
 奥から着流しの九郎兵衛と妻のお良が出てきた。
 ふだんは、お良はめったに外に出ない。和田家の者が、お良と言葉を交わすのは、正月の挨拶だけだった。
 九郎兵衛の後ろに立つお良の顔は青白かった。
 小五郎とお治は、玄関から、許しもないのに勝手に上がってしまった。
 小五郎は天井を見上げて「槍だ」と指さした。
 玄関の上の桟(さん)に、槍(やり)掛(か)けが取りつけられ、二筋の古い槍が掛けてあった。

 家の中は、和田家とちがった趣(おもむき)で、掛け軸も立派だった。
 床の間に飾られた大小の刀は威厳があり、脇には重々しい箪笥がある。

「刀箪笥だよ」

 九郎兵衛は小五郎の目線の先を察して教えてくれた。
 部屋は隅々までよく整っていて塵一つない。子のいない家の清潔さと寂しさがあった。
 小五郎とお治は、九郎兵衛に導かれて、家の裏手に案内された。

 裏には大きな蔵があった。
 和田家の小屋蔵は漬物用だが、桂家の白漆喰の立派な蔵は大きかった。まったく違うものが収められているのだろう。
 分厚い重々しい扉を、弥之助が開けた。
 軋(きし)むような音がして、扉が開いた。

「さあ、さあ」と弥之助に促されるままに、小五郎とお治は中に入った。

 蔵の中に陽光が差し込んだ。
 明かりの中で、小五郎には何もかもが光って見えた。
 壁際に刀が二十振りも飾られている。蔵の奥には玄関の槍より長い槍と、なんと火縄銃まで並んでいる。甲冑(かっちゅう)の入った鎧(よろい)櫃(びつ)もいくつかあった。

 蔵には桂家の歴史がつまっていた。

 小五郎の後から、九郎兵衛も入ってきた。

「この刀はな、関ヶ原のときに差して、出陣したものだよ。甲冑(かっちゅう)はこれだ。兜はここに、入っている。いまでも使えるものぞ」

 九郎兵衛は饒舌になっていく。
 小五郎は見回しながら『関ヶ原』の扉が開いたと思った。

「毛利家は西軍の大将だ。徳川方と渡り合えるのは、天下広しといえども毛利家だけじゃ」

 九郎兵衛は刀をそっと手にとり、頭上に礼拝するよう掲げて小五郎に持たせた。
 ずしりとした手応えに、小五郎は落とすまいとしっかりと持った。

 小五郎に合戦の鬨(とき)の声が聞こえた。

 九郎兵衛は槍を小五郎に触らせ、その次には兜を小五郎の頭に被(かぶ)せた。
 小五郎の小さな顔が、半分隠れてしまった。
 弥之助がしゃがんで、左から覗き込んだ。

「前が見えますかな。さすがに、兜は重いでございましょう」

 お治も屈(かが)んで、右から小五郎を覗き込む。
 小五郎は思った。いったい菊ケ浜で遊んだ仲間の何人が、合戦で使った本物の武具を手にしたであろうか。ひょっとすると、自分だけかもしれない。

――関ヶ原じゃ。関ヶ原じゃ。

 桂家の関ヶ原以来の歴史を九郎兵衛は語った。
 九郎兵衛の年は、小五郎が聞いたお清の話では、昌景より二つ年上だという。
 はげていることもあり、月代も広く髷も白髪が多くて、小五郎にはお爺さんのように思える。

 小五郎が九郎兵衛の一言一言に、うんうんと大きく頷くので、九郎兵衛はうれしくて仕方がないようだ。

「我らは中国の覇者であったが、天下取りの野心はなかった。だから二万近い兵を出しながら、関ヶ原では動かなかった。天下の騒乱を望まなかったのだよ。石田光成とは違う」

 九郎兵衛の声が高揚し、目が鋭くなった。

「我らには我らの考えがある。けっして、石田光成に、かつがれたのではない。まあ、裏で徳川方と領地安堵の約束があったというがな。駆け引きのやり取りが、あったわけだ」

 小五郎が九郎兵衛を見上げた。

「皆で戦えば、勝ったの」

 九郎兵衛は無念な顔をした。

「そりゃあ、勝ったさ。西軍は数で勝(まさ)っておったからな。我らは徳川方に勝たせてやったのよ。しばし、天下をゆずってやったのじゃ」

 いつもの優しい九郎兵衛の顔が、戦人(いくさびと)の顔になった。

「なのに戦のあとで、徳川方は領地安堵の約束を破り、毛利の八ヶ国、ざっと百十二万石を、周防、長門のたった二ケ国、三十七万石に押し込めよった。しかも萩に行けと。それはな、毛利の力を恐れたからじゃ。我らの本当の力をな」

 九郎兵衛が急に咳(せ)き込んだ。
 咳を飲み込むようにして、一息ついた。

「誰もが殿とともに家を手放し、住み慣れた国を離れて、この地に移り住んだ。桂家もいっしょにね。桂家は、けっして殿と離れることはないのだよ。わかるかな」

 小五郎は勢いよく首を横に振った。
 九郎兵衛の声は止まらない。

「わがご先祖様にはな、大江広元様という源頼朝公に仕えて、鎌倉幕府の礎を築いた方がいらっしゃる。実は毛利の殿様も同じご先祖様なのじゃ」

 小五郎は目を輝かせた。
 九郎兵衛の声が力強くなる。

「毛利家ある限り、われらは一つ。忠義の道を貫くのみ。桂家はな」

 まわりに誰もいないので、九郎兵衛は大きな声で胸のうちをありのままに話してくれた。

「皆、徳川方のこの仕打ちを忘れた者はおらん。これからもだ」

 血が頭にのぼるのだろう。
 九郎兵衛は息を吐いて、気持ちを鎮めた。

「正月にはな、大広間で殿に形ばかりのご挨拶をした後、われら関ヶ原以来の家臣は、狭い座敷にこもる。小さな座敷で殿と膝を交えて本当のご挨拶をする。毎年、同じ合言葉だ」

 九郎兵衛は壁に向かい、慇懃(いんぎん)に頭をさげた。

「殿に、『今年はいかがなされますか』と尋ねるのだ。すると、殿は『まだ早い』と、お答えなさる。これがわれらの正月の挨拶だ。御小座敷の儀と呼んでおる」

 九郎兵衛の話は、小五郎には謎かけのようだった。
 毛利家では新年の挨拶を遠回しに『徳川を討ってはいかが』で始める。すると殿は『まだ戦うには、時期尚早なり』と答えるという。
 二百年を超えて続いている合言葉であるらしい。

 小五郎には、九郎兵衛の厳しい顔が眩(まぶ)しかった。
 ここは医者と違う世界だ。
 九郎兵衛の顔は、小五郎たちを可愛がる時とは別の顔だった。
 人さらいから救ってくれた顔だ。

 武士である。

 小五郎の脳裏に、九郎兵衛が刀の柄頭の一撃で、人さらいを倒した光景が蘇(よみがえ)った。
 九郎兵衛が棚の一角を指さした。

「そうだ。弥之助、例の箱をこれへ。わが桂家の家宝を見せてあげよう。小五郎、御成道で見た木箱を覚えているかな」

 弥之助は棚の上の大きな木箱を慎重に取り出して、足元に音もたてずにゆっくりと置いた。
 蓋(ふた)を取ると、中にもう一つ箱が入っている。
 九郎兵衛がその内蓋を取り上げると、絹に包まれた茶器が顔を出した。

「これは、殿から賜(たまわ)ったものでね。中国は唐の時代に作られた茶器だ」

 小五郎は菊ケ浜の合戦の後、御成道で九郎兵衛に出会った時のことを思いだした。

――そういえば、九郎兵衛の後ろで、弥之助がこの木箱を抱えていたっけ。

 九郎兵衛は茶器を小五郎の掌に、そっと乗せた。
 小五郎には、このくすんだ色の古ぼけた茶器がなんなのか、和田家で使っている茶器と何か違うのかはよくわからない。
 小五郎の頭の中は、蔵の中の武具でいっぱいだった。
 蔵の隅の鉄砲が小五郎の目に入った。

――まだ、あれは手に持っていなかったな。きっと槍より重いぞ。耳が遠くなるほど、大きな音がするんだろう。ちょっと、火薬の匂(にお)いを嗅いでみたいな。

 小五郎は手元の茶器を忘れて、鉄砲を指さした。

「あれも、持ちたい」

 激しい音と九郎兵衛の悲鳴が、蔵の中に響いた。 

 しばらくして、弥之助が昌景を連れて、早足で桂家の庭に入ってきた。
 蔵の前でお治が泣いていた。両手の甲を目に当てて、しゃくりあげている。

 小五郎は蔵の薄暗闇の中に、呆然として立ち尽くしていた。

 昌景は小五郎の足元を見た。
 九郎兵衛が小五郎の横にしゃがんで、茶器の破片を一つずつ拾っている。
 昌景の顔色が変わった。

「九郎兵衛殿。それは……先日、殿から拝領した茶器ではありませぬか」

 寂しそうに九郎兵衛が昌景を見上げた。

「上様から賜った茶器を、やってしまいました」

 病に臥(ふ)せりがちになり出仕がかなわなくなった九郎兵衛に、毛利慶親が長年の御奉公の労をねぎらい直々に授けたものだった。
 その記念の品が足元の地面に砕け散っていた。
 小五郎は唇を噛んだまま固まっている。
 小五郎に茶器の価値などわかるはずもない。ただ俯(うつむ)いているばかりだった。
 昌景が慌てて九郎兵衛に深く頭を下げた。

「小五郎、なんということをした。これは、申し訳ござりませぬ」

 九郎兵衛が、腰をいたわりながら、袴をはたいて立ち上がった。

「拙者が悪いのです。この蔵で小五郎殿に昔の武具などを見せていたのですが、つい茶器を自慢しとうなりましてな。箱から出して渡そうとしたら、拙者の手元がすべった次第で」

 九郎兵衛の嘘を小五郎は見上げながら聞いた。
 小五郎には、昌景に本当のことを伝える言葉が見つからなかった。
 それにしても、茶器が砕けた時の九郎兵衛の顔は尋常ではなかった。言葉にならぬ声で叫び、破片をつかみ取り、とっさに繋(つな)ぎ合わせようとした。そのまま深く頭を垂れて「上様に申し訳ない」と呻(うめ)いた。

 小五郎は九郎兵衛の有様から、仕出かしたことの大きさを知った。

 九郎兵衛は深く咳(せ)き込み、ぐったりしている。
 小五郎の頭の中から『関ヶ原』は消えた。
 お治が昌景の腰に抱きついて、隠れるようにしている。
 昌景の声が庭に響いた。

「小五郎、何を黙っている。これは、御殿が桂殿にと、自らお渡ししたかけがえのないものぞ。わしも末席で拝見させていただいた」

 小五郎は頭を垂れたまま唇を噛んだ。

「ごめんなさい」

 やっと、小五郎はか細い声を絞り出した。
 昌景は小五郎の胸倉を掴んだ。

「小五郎、顔をあげよ」

 昌景の顔が真っ赤になっている。

「ただの茶器ではないぞ。どうするのだ」

 今日という今日は許さぬと、昌景は小五郎を激しく責めた。
 九郎兵衛が昌景の手をおさえ、放すように促した。
 小五郎の半ば宙刷りになっていた踵(かかと)が落ちた。
 九郎兵衛は苦し気に溜息をついた。
 もういいのだと、何度も首を振った。

「昌景殿、落ち着いてくだされ」

 小五郎は菊ケ浜で、乙熊が腹を出したときのことを思いだした。
 小五郎がぼそっと口走った。
 昌景が小五郎を覗き込む。

「なんじゃ、聞こえぬぞ。はっきりいえ」

 小五郎の唇が震えた。

「腹を、切りまする」
「馬鹿者」

 殴ろうとする昌景を、九郎兵衛が体で制止した。
 二人は揉み合う。
 昌景が九郎兵衛の背中越しに、小五郎に怒鳴った。

「腹を切っても茶器はもどらん。わしは殿に顔向けができん」

 小五郎の頬を溢れる涙が濡らした。
 弥之助は破片を取り上げると、泥を落として、そっと箱に収めていく。
 弥之助はすべてを箱に収めて蓋(ふた)をすると、小五郎の涙を袖でぬぐった。
 小五郎は小さな手を白くなるほどきつく握り続ける。
 九郎兵衛は小五郎に向き合い、小五郎の両肩をやさしく包んだ。

「茶器は、買えばよいのだ」

 小五郎はうつむいたまま、九郎兵衛を上目で見た。

「でも、殿様の」

 やっと声が出た。
 小五郎には、これが精いっぱいだった。
 九郎兵衛は軽く首を振った。口元に笑みを浮かべた。

「また、御褒(おほ)めにあずかるような、ご奉公をすればよいのじゃ」

 声は弱々しかった。
 九郎兵衛は小五郎を引き寄せる。

「それより小五郎殿の命が大切じゃ。腹を切っては、それこそ取り返しがつかぬ。武士が腹を切るのは、よくよくのこと。命を粗末にしてはならぬ。たかが茶器じゃ」

 昌景が神妙な顔をした。

「されど、茶器ではありませぬか。それこそ腹を切りたいのは私の方で」

 九郎兵衛は笑った。

「医者では、自分の腹の切り方はわかるまい」

 いつもの九郎兵衛にもどっていた。

「茶器など、あの世にまで、持っていくわけにはいかぬ。拙者と違って、小五郎殿はこれからだ。こんなことで、つまずいてはならぬ。家の本当の宝は命なのだよ」

 小五郎は九郎兵衛を見上げた。
 涙はとまった。
 でも、小五郎には、九郎兵衛にどう詫(わ)びればいいのかわからなかった。

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