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桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠―    第十三章 殿がはたと膝を打つ

                            火山 竜一  

第十三章   殿がはた膝を打つ

 弘化三年六月七日(一八四五年)。
 小五郎はあと十九日で、十五歳になる。
 早朝、桂家の玄関で明倫館の小使いの伝言を聞いた。佐々木源吾の生徒は、すぐに明倫館の教場に集まれとのことだ。
 小五郎が教場に入ると、乙熊たちが座り込んでいる。
 小五郎は乙熊の横に腰を下ろした。
 乙熊が顔を寄せてきた。

「小五郎、また、叱られるのかなあ」
「わからん。どうせろくなことじゃないさ」

 小五郎は、いつもの説教だろうと思った。「日頃の行いを正せ」とか、「もっと勉学に励め」くらいしか思いつかなかった。
 ただ、そんなことで急に呼び出すだろうか。生徒が、何か不届きな事件でも、起こしたのかもしれぬ。
 せっかちな佐々木先生なら、すぐに生徒を集めて指導を入れるだろう。
 教場に生徒が全員そろうと、上気した佐々木が勢いよく戸を開けて、速足で入ってきた。
 佐々木は座らない。生徒を見下ろしている。
 小五郎たちの頭上に、佐々木の声が響き渡った。

「皆(みな)が知ってのとおり、上様の六月十日に行われる親試まで、あと三日しかない」

 小五郎たちは、佐々木の丸っこい顔を見上げた。

――今更なんだろう。宇津木誠之助がやるだけじゃないか。

 小五郎は、首を傾げた。
 佐々木は立ったまま、声を張り上げながら、生徒の顔を一人ずつ確認している。

「しかるにだ、宇津木誠之助は倒れた」

 生徒たちは押し黙った。瞬きを忘れて、佐々木を見つめている。口を半開きにしている者もいた。
 佐々木は続けた。

「先ほど宇津木の家に寄ってきた。宇津木は風邪をこじらせ発熱して寝込んだままだ」

 佐々木の声は大きくなる一方であった。無念の響きがあった。

「やっと、親試のために、すべての準備が終わったばかりなのじゃ」

 佐々木の悔しそうな言葉に、教場が大きく揺れた。
 生徒たちは、いったいどうするのだと顔を見合わせた。
 小五郎も、親試というものが、選ばれた教授や生徒によって、殿様に御前講義をする場であることは知っている。 
 小五郎たち生徒は、佐々木の講義の中で何度も聞かされてきた。
 今回の親試は生徒の番で、佐々木先生の門弟の中から選抜する予定だった。
 なんといっても、二十八歳になる殿(藩主毛利慶親)が、直接声をかけてくれる晴れがましい場だ。
 ただし、小五郎には関心がなかった。
   小五郎は生徒たちの中では、成績は真ん中程度であろう。成績優秀であれば学寮に入れる。  佐々木の講義を受けている者の中で、もし学寮に入るとしたら宇津木であろう。
 宇津木が選ばれた時点で、小五郎も含め生徒たちには、親試は終わったも同然である。
 宇津木は、日頃、遊びに付き合わず、ひたすら勉学に勤しんできた。小五郎たちに異存がある者はいない。
 親試に出ることが決まり、秀才の宇津木は、ここ一カ月の間、佐々木から猛烈な稽古を受けている。
 小五郎をはじめとする生徒たちは、大変だなあと思いつつ他人事であった。
 佐々木は、宇津木がどのような稽古をしてきたのかを説明し始めた。
 宇津木は、佐々木の前で、繰り返し漢詩を吟じる稽古をした。まるで即興のように、殿の御前で、よどみなく漢詩を吟じる予定だった。
 漢詩を吟じた後で、殿が質問することも想定していた。宇津木は、佐々木が用意した慶親の過去の問答を、徹底的に頭に叩き込んだ。
 佐々木の話では、連日の猛稽古で宇津木は重圧で眠れなくなり食も喉を通らず、結局風邪をこじらせてしまったらしい。
 宇津木は、佐々木が太鼓判を押したときに高熱を発して倒れた。
 佐々木は、生徒の前を忙しく行ったり来たりしている。手を振り回しては、声は甲高くなり演説調になっていく。
 佐々木の頬は紅潮していた。

「お前たち、わかるか。まさか直前に、親試をやめるわけにはいかぬ。せっかくここまできて、生徒を出せなければ、わしは切腹じゃ。切腹」

――切腹するほどのことか。

 小五郎と乙熊は、お互いの顔を盗み見た。
 佐々木は生徒を睥睨(へいげい)する。
 小五郎には、佐々木が大軍ほどではないけれど、なんとなく戦の大将のように見えた。

「そこでだ、お前たちの中から代わりの者を出すことにした。こんなことで、わしも切腹するわけには、いかぬからな」

 生徒は皆(みな)、顔を一斉に伏せた。
 小五郎も佐々木と目が合わぬように俯(うつむ)いた。

「誰か、我と思わん者は手を上げよ」

 佐々木は生徒たちを『さあどうだ』と促した。
 誰も手を上げる者はいなかった。

「どうした。なぜ手を上げぬ。お前たち、それでも武士か。こんな名誉が、他にあろうか」

 今のところ名誉はいらない。
 小五郎は横目づかいで、周りの皆をそれとなく見た。皆同じことを考えているようだ。
 生徒は佐々木のために、親試を受けるわけではない。小五郎は佐々木の操り人形にはなりたくなかった。

「欲がないのう。情けないぞ。志を持たんかい志を。よく聞けい。上様はな、お前たち一人一人の将来の活躍を期待して、わざわざ、お前たちの下手くそな詩を聞いて下さるのだ。こんなありがたい話は、他にはないぞ。一生の誉れぞ」

 小五郎には、どこがありがたいのかわからない。

――どうやっても、どうせ後で、佐々木先生に、こっぴどく叱られるだけさ。

 小五郎は、乙熊の背中に下がり、さらに隠れるように小さくなった。
 佐々木は、ぶ厚い胸の前で、腕組みをした。俯(うつむ)く生徒の頭を一瞥(いちべつ)した。

「皆、面(おもて)を上げい。何をいじけておる。もっと自信を持て。己を信じろ、己を」

 教場は中は通夜の時のように静かだった。
 佐々木の押し殺した低い声が生徒を威圧した。

「ならば指名する。覚悟をせよ。よいな。諦めが肝心ぞ」

 確かに切腹するほどの覚悟が必要だ。小五郎には、今のところそんな覚悟は全然ない。

「ではと、財満新三郎、どうだ。しっかり者のお前なら、なんとかなるであろう。最近、のお前は、誠に心境著しいではないか」

 急に優しくなった佐々木の声に、新三郎が、えっと意外そうに顔をして見上げた。
 財満はすぐに目を伏せた。小声で言い訳をした。

「も、申し訳ありませぬ。は、母上が危篤でして。もう年なもんですから」「なにい、まことか」

 佐々木が睨んだ。
 小五郎は、新三郎が前にも、そんな言い訳をしたことがあったのを思いだした。漢学の授業に遅れた時のことだ。本当は寝坊だった。
 小五郎は笑いを堪えた。

――いくら何でも、佐々木先生には、この手は通用しないだろう。何度も母上を死なす気か。

 佐々木も、すぐに反応した。

「財満、こないだも、そんなことを申していたではないか」

 新三郎は必死だ。

「はい。ここのところ、生死の境を彷徨(さまよ)っておりまして」
「では、後で見舞いに伺おう。わしが行けば、生き返ったように、元気になるかもしれぬ」

 新三郎は『しまった』という顔をしたが、もう遅い。
 佐々木は隣の佐久間卯吉に目を移した。だんだん小五郎に近づいてくる。

「次、佐久間卯吉。どこを見ておる。よそ見をするな。一生に一度の大切な話だ。お前は丸暗記だけなら得意であろう。教えたことをやれはせよい。漢詩のできは心配せんでもよいぞ。わしがついておる。どんな漢詩でも、なんとかしてやる」

 卯吉の眼は落ち着きがなくなり、外の廊下を何度も見ている。
 小五郎には卯吉の気持ちはよくわかる。逃げ出したいのだろう。
 卯吉は佐々木を見れずに、畳に目を落としたまま小声で声を振り絞る。

「いや、ええと、私も、実は父上が、日に日に具合が悪くなってまいりまして」

 佐々木が、卯吉の声を遮った。

「もう、いい。どいつもこいつも、意気地がないぞ」

 こういうときの佐々木の顔は茹(ゆで)蛸(だこ)の様になる。
 小五郎は佐々木の丸顔が真っ赤になって、膨(ふく)れてくるのを知っている。困ったときの佐々木の癖だった。
 小五郎はそんな佐々木の真似をして、仲間をよく笑わせてきた。
 小五郎は佐々木の困りきった顔を、少しだけ覗きたくなった。誘惑に逆らえず、乙熊の背中越しにそっと顔をあげた。
 佐々木の目が待っていた。佐々木の目尻に、深い皺が寄っていた。目を細めて笑っている。

――しまった。

 小五郎はとっさに腹を押さえた。
 大袈裟に呻いて、「ちょっと失礼」と乙熊や周りの生徒を押しのけるようにして、立ち上がった。

「いてて、先生、ちょっと厠(かわや)へ行かせてください。朝餉が当たったようです。参ったなあ、急に。きつう。じゃ、お先に失礼します。どうも腹が弱いもんで」

 佐々木は鼻で笑った。

「待て待て。その手は古い」

 佐々木は笑みを浮かべながら、生徒の前に一歩踏み出した。佐々木は、小五郎に近づき、優しく声をかけた。

「厠は後にせよ。わしの話が先だ。こっちは急ぎの用事ぞ。小五郎、まあ座れ。じっくり話し合おうではないか」

 財満も佐久間も、口に手を当てて噴き出しそうだった。
 小五郎は笑いの渦の中で、腹を抱えて腰を宙に浮かしたまま固まった。
 佐々木は大きく頷(うなず)いた。

「お前だよ、お前。困った時には、困った奴の出番じゃ。のお、みんな」

 どっと、教場が沸き立った。口々に「お前しかない、お前ならやれる、任せたぞ」と、まあ勝手に騒いでいる。

「ちょっと待て」

 小五郎の声は、押し潰(つぶ)されて掻(か)き消えた。

「座れ座れ」

 小五郎はみんなに腰を引っ張られて、座らされた。
 佐々木は、まるで厠から戻ってきたように、晴れ晴れとしている。

「小五郎、よいか、三日じゃ。終わってから倒れろ。親試の翌日は、休むことを許す」

 佐々木は急に不安になったのか、小五郎に哀願するように声をかけた。

「小五郎、わしの教えた通りにやれよ。上様の前で勝手なことをするな。お前の場合は、それが一番怖い。思い付きで上様に答えてはならん。わかったな。頼むぞ」

 小五郎は急に咳(せき)込み始めた。

「はあ、思い付くほどの頭はありませぬ。宇津木に、しつこい風邪をうつされまして」

 生徒たちが口々に冷やかした。

「宇津木に会ってねえだろ。もう腹痛(はらいた)は治ったのかい」

 やる気のない小五郎に、佐々木は何か思いだしたらしい。不気味な含み笑いを浮かべた。

「一カ月ほど前に、お前の書いた漢詩があったな。あれを使おう。仕方があるまい」

 小五郎は両手を広げて肩をすくめた。にっと笑った。

「あれは、もう捨てました。ありませぬ」

 佐々木は、笑みを浮かべて首を振った。
 小五郎にとって、佐々木は生易しい先生ではない。

「心配するな。ちゃんと書き写してあるさ。下手な詩をな。岡本先生が『漢詩の才あり』とおっしゃっておった。わしには出来が気に入らぬが、二、三、手直しすれば、なんとか使えるであろう。上様の前で、まるで今思い付いたように、厳(おごそ)かに吟じるのじゃぞ。よいな、変な気をおこすなよ」

 佐々木は、小五郎を元気づけようとした。

「親試まで、三日間だけ辛抱せよ。終われば詩は忘れてよい。さ、厠へ行け。待たせたな」

 小五郎は、厠ではなく家に帰りたかった。
 さっそく小五郎の特訓が始まった。 

 六月十日早朝。
 小五郎は萩城の天守曲輪にある本丸御殿の大広間にいた。
 大広間は、大玄関を入って南側にある。本丸御殿の東側には、殿様の住まいや大判所などの藩の役所が集まっていた。
 小五郎は大広間の御前に端座していた。
 横手に床の間と付書院がある。
 小五郎の後ろに、佐々木源吾が間を詰めて控えていた。
 左右には御家老も並び殿様を待っている。小五郎の後ろに、粛然として家臣たちが勢ぞろいしていた。
 小五郎は初めて萩城に入り、見たこともない大広間にいる。どうにもじっとしていることができない。後ろを振り返ったり、周りを見回したりしていた。

「もそっと、落ち着かんかい。わしがついておるではないか」

 佐々木が小五郎にだけ聞こえる小声で、気持ちを静めるように促した。
 振り返ると、家臣たちの後ろに、昌景の姿があった。小五郎には、昌景は心なしか蒼ざめているように見えた。
 昌景と目が合った。ため息をついている。
 佐々木源吾が、また低く囁いた。

「小五郎、前を向かんかい、前を」

 小五郎は昌景に背を向けて、いわれるままに前を向いた。
 大広間に、衣擦れの音が近づいて来る。静まり返った大広間に、さざ波のように響いた。

「上様の、おなぁりい」

 一斉に、家臣たちと小五郎は平伏した。
 前方に、殿の座る気配がした。
 小五郎はつばを飲み込んだ。

「面を上げい」

 背筋を伸ばした小五郎の正面に、毛利慶親がいた。
 小五郎は、二十八歳になる藩主毛利慶親が、明倫館の行事に臨席したときのことを思いだした。
 明倫館で聞いた慶親の声は、穏やかでどこか朴訥であった。
 体は骨太でがっちりしていながら目は優しく、時に微笑みを浮かべながら話をされた。
 誰よりもゆったりとして、噛んで含めるように、一言一言語る姿が目に焼き付いていた。
 小五郎の脳裏に、宇津木の顔が浮かんだ。

――宇津木は、今頃、きっと泣いているな。お前の穴は、俺には埋められぬ。

 慶親は小五郎を見てから、家臣団の後方に目を向けた。口元がほころぶ。頬に微笑みが浮かんだ。
 小五郎は気が付いた。

――殿は父上を見ている。

 慶親の目線の先に、昌景がいる。
 慶親は家臣団の後ろに控える昌景に、軽く頷いた。
 小五郎は不思議な気持ちだった。殿様は自分のことを知っている。きっと殿様の侍医である父昌景が、自分のことを話したにちがいない。
 小五郎は殿様に、急に親しみがわいてきた。
 胸が温かくなるような慶親の微笑みだった。

「桂小五郎とは、お主か」

 小五郎は再び慶親の前に平伏した。

「はっ、桂小五郎にございまする」

 小五郎の声は、上ずっている。つい甲高くなった。恥ずかしかった。

「待たせたな。では、始めよう」

 慶親の一声で、小五郎は身を起こした。威儀を正した。

――やるしかない。

 小五郎は開き直った。たった三日間しか稽古をしていないことを、殿様は知らないだろう。
 小五郎は、佐々木に叩き込まれた詩を吟じ始めた。
 自分の詩とはいえ、徹底的に佐々木が手を入れてしまった詩は、小五郎には違和感があった。

――こりゃあ、佐々木先生の詩じゃな。

 小五郎は大広間のすべての人に聞こえるように、声を張り上げた。細部の難しい言い回しは、まさに大人の詩だった。
 慶親は耳を傾けていた。ときに目を閉じて、味わっているようだった。手元の扇子を軽く握り返し、小さく広げては音をたてぬようにゆっくりと閉じた。
 小五郎は反り返るように背筋を伸ばし、一言一言詩を吟じて、ようやく終わった。
 急に肩の力が抜けた。つらい三日間だったが、なんとか宇津木の穴は埋められた。
 慶親を見ると、目を閉じたままだった。何か、考え込んでいるようだ。
 小五郎の胸に不安がよぎった。

――何かへまをしたのだろうか。いや、そんなことはない。三日間の稽古で、今日が最高の出来だ。

「ふうむ。なかなかよいぞ。大したものだ」

 小五郎は事前に「殿は必ず褒めてくださる」と佐々木から聞いていた。
 慶親は目を開けると、小五郎を正視した。

「よくできた詩じゃな。非の打ちどころがない」

 小五郎は自分ではなく、佐々木を褒めたと思った。
 詩の中に、小五郎の気に入った言葉はなかった。明日には忘れている詩だ。
 急に慶親の目が光ったように思った。小五郎は自分の胸のうちを見抜かれたと思った。小五郎の背に緊張が走る。

――佐々木先生は「殿は簡単には終わらしてくれない」と、おっしゃっていた。

 予想質問への回答は、詩を暗唱する稽古に劣らない。膨大な質問と答えを稽古して、さらに殿の二の矢に備えるため、別の詩を覚えさせられた。

「もう少し、別の詩を聴きたくなった。どうだ、今思い付いた詩を聞かせてくれ」

――やっぱり、二の矢が飛んで来た。

 小五郎の頭の中に、様々な質問と回答の記憶が溢れた。洪水のような記憶の奥から佐々木の作った詩を引っ張り出そうとした。吟じた詩よりも、さらにつまらない詩だった。
 はじめの節が、どうしても口に出て来ない。
 小五郎の手は、汗でべっとりとなった。

――どうしたんだ。あんなに稽古したのに。

 なぜか思い出せない。
 ようやく小五郎にはわかった。佐々木の詩が嫌いなのだ。つまらない歌は印象が薄く、小五郎は理解もしていなかった。
 あまりに稽古の時間が足らなかった。味わう余裕もなく、字面を繰り返し復唱しただけだ。
 小五郎はそっと溜息をついた。
 慶親は頬笑み、小五郎を軽く促した。

「難しく考えるな。日ごろのことを思うままでよい。俳句、川柳、なんでもよいぞ。出来、不出来など気にするな。お主の有りのままを出してみよ」

 小五郎は天井を見上げた。
 佐々木が後ろで咳をしている。
 振り返ると、佐々木は顎を突き出し「用意した詩をやれ」と、眉間にしわを寄せて目配せしている。
 小五郎は前を向いた。

「拙いものでは、ございますが」

 小五郎が決まり文句の前口上を述べた。とりあえず、ここまではいえる。
 小五郎はあきらめて、後ろの佐々木に視線を送り、囁いた。

「先生、忘れちゃいました」

 佐々木が「馬鹿、何とかしろ」と、小五郎をつついた。
 家臣たちが、笑いを堪え口を押さえている。
 慶親は、やはりそうかという顔をした。
 小五郎には分かった。殿様は小五郎が先生に仕込まれてから出てきたことを知っている。
 周りの家臣が顔を見合わせ、大広間はざわつき始めた。
 小五郎は腹を決めた。
 真っ白になった頭の中に浮かんできたのは、明倫館の日々ではなかった。向南塾だった。
 小五郎は慶親をまっすぐに見て、深く息を吸いこんだ。

「向南塾で、作った詩ではございますが」

 小五郎は厳かに一句、読みはじめた。

「では……、風そよぐ、いつもの線香、瞬(またた)いた」

 佐々木の「あー」っという声が聞こえた。
 後ろの家臣たちが噴き出した。
 慶親は困ったような顔をして、首を傾(かし)げている。

「線香とは、何のことか」

 慶親が身を乗り出した。

「風は、どこから吹くのじゃ。教えてくれ」

 小五郎は自分の口を指さした。

「向南塾で不始末をして、線香をもって立たされたときの思い出でございます。明倫館に入る前に、岡本先生の向南塾で書と素読を習っておりました。線香を短くして終わらせる技でございまする」

 どっと家臣たちは笑い転げた。
 小五郎はびっくりして後ろを振り返った。
 家臣の中には、お前もだろというように、横の者をつついたりしている。
 小五郎は妙に自信がわいてきた。皆、経験があるようだ。
 大広間がにぎやかになった。
 佐々木の嘆く声が聞こえた。

「やってしまったなあ」

 だが、慶親だけは扇子を顎に軽く当て、考え込んでいる。慶親はどうも胸に落ちないようだった。

「それは難儀であったな」

 慶親は軽く相槌を打つと、ふと、右手に持った扇子を軽く振った。何かを思い出したようだった。

「そういえば幼いころ、余(よ)は八町邸(萩河添(こうぞえ)の八町(はっちょう)御殿)を抜け出したことがあったな」

 慶親は懐かしそうだった。ゆったりした声だ。

「萩の町を徘徊(はいかい)して、寺子屋を覗き込んだことがあった。似たようなことを見かけたぞ。小僧が立たされておった。線香を自分の息で燃やせば、そうか、早く自席にもどれるというわけか」

 慶親はようやく合点して、扇子で軽く額を叩いた。

「立たされた小僧の秘伝の技か。お前たちも覚えがあろう」

 家臣たちが顔を見合わせて、どっと沸き立った。
 慶親は、よしっと扇子を小五郎に向けた。

「次も聞きたい。思い付くままでよいぞ」

 小五郎の頭に句が舞い降りた。すぐに次の句が口をついて出てきた。

「筆さばき、半紙の上は、ウナギかな」

 小五郎は恥ずかしくなった。
 家老たちは、またしても笑いだした。
 慶親は微笑んだ。

「ウナギのような字とは、苦労しとるな。お主の気持ちはよくわかるぞ」

 慶親は笑っただけではなかった。すぐに真顔に戻った。

「親試で余の前に座る者は、明倫館で学業抜群であるか、漢詩の才だけでなく書も相当にできるはず。なのに己が未熟を詩にするとは殊勝である」

 佐々木源吾の溜息が聞こえた。小五郎には佐々木が息苦しそうに思えた。
 慶親は止まらない。

「いいぞ、さらに聞かせてくれ」

 小五郎は馬関に旅立った早苗の涙を思い出した。小五郎は乙熊と二人で早苗を見送ったときの想いに胸が塞がれた。

――いや、別れより、早苗との出合いだ。

 小五郎は慶親をまっすぐに見た。

「目のまよい、早苗を見ては、文字忘れ」
「何。早苗とは何者だ」
「向南塾に来ていた万吉屋の娘でございます。すでに許嫁の元に旅立ち、今馬関におりまする」

 慶親は、はたと扇子で膝を打った。

「それは、初恋じゃ。余にも覚えがあるぞ。親試で初恋の詩か。初めてではないか」

 慶親の声が大広間に響き渡った。
 慶親は胸に感ずるものがあったのか、前方の畳に目を落とした。一人、頷いている。
 小五郎は嬉しくなった。
 慶親から急に笑顔が消えて、しばらく畳を凝視している。
 大広間が、波が過ぎたように静まりかえった。
 慶親はゆっくりと顔を上げた。
 小五郎を悲しげに見ている。

「お主の養父は、桂九郎兵衛であったな」

 小五郎の頬に鳥肌が走った。

――殿さまは家臣のことを、何でも知っている。

 慶親は沈鬱な顔になった。静かな声で小五郎に語りかけた。

「お主は桂家の跡継ぎになりながら、父がすぐに亡くなって、つらかったであろうなあ」

 小五郎の浮ついた気持ちは消えた。
 八歳の時、九郎兵衛が亡くなり、次にはお良が半年後に亡くなった。
 あの頃のことは、小五郎には現実感がなかった。大人の命ずるままに葬儀で振る舞い、養父母の死を受け止めてはいなかった。
 慶親はさらに続ける。

「桂が病で奉公ができなくなったとき、余はせめてもと茶器を授けた。知っておるか」

 小五郎の耳元で、茶器の割れた音が蘇った。あの時の九郎兵衛の顔と怒る昌景は忘れようもない。
 突然、小五郎は九郎兵衛が脇に控えているように思えた。羽織袴で端座して、小五郎に微笑みを浮かべている。
 九郎兵衛が頷いたように小五郎は思った。こんな気持ちは初めてだった。

――父上がそこにいる。あの茶器こそ、父上の形見だ。

 茶器は蔵の奥の棚に、割れたまま箱に収めて大切に保管している。
 今の小五郎は、割った瞬間を冷静に振り返ることが出来た。いつも九郎兵衛の心は、あの茶器のところにいる。自分を見守ってくれている。
 小五郎は慶親を見つめた。小五郎は再び腰を折り、畳に両手をついた。
 慶親の楽し気な声が聞こえた。

「あの茶器は、どうしておるかな」

 まるで我が子の様子を尋ねるような言い方だった。
 小五郎は慶親の言葉をかみしめた。さらに深く頭を下げた。
 畳に額をつけるように平伏し、腹に力をこめた答えた。

「はっ、父上が亡くなる前に、賜(たまわ)りまして、ございまする」

 ほかに答えようもなかった。
 小五郎の声は、詩を吟じたときの声ではなかった。家臣のごとく、低く力強く、腹の底から気迫をこめた声だった。
 初めて小五郎は、心の底から父を失った悲しみが込み上げてきた。同時にお良の姿も浮かんでくる。
 小五郎は殿の御前で、ようやく桂家の人間になったと思った。
 姿勢を戻した小五郎を、慶親の細めた目が迎えた。
 小五郎の胸に、大組士の家を継いだ喜びがこみ上げてきた。
 慶親は頷いた。

「早く大きくなれ。日々励めよ。余はお主が出仕する日を待っておるぞ」

 慶親は扇子を握りしめ、再度、よしと膝を打ち立ち上がった。
 御家老や家臣たちも続いた。
 小五郎が後ろを振り返ると、佐々木と昌景だけは平伏したままだった。
 佐々木が深くため息をつき、昌景は平伏したまま額の脂汗を拭っていた。

 

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