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音楽史12『ロマン派音楽の誕生』


ケルビーニ
レイハ
クレメンティ
サリエリ

 ロマン主義の直前辺りからはイタリア出身でフランスで活躍し国際的な名声を獲得しハイドン、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスなどの大巨匠からの熱烈な支持を受けたルイジ・ケルビーニ、チェコ(当時ドイツ内)出身でその後登場するリスト・ショパン・シューマン・メンデルスゾーンなどの大巨匠のロマン派ピアノ曲の最重要の先駆となったヤン・ラディスラフ・ドゥシーク、先述したクレメンティやサリエリらが活躍した。

 ドイツではこの時期、世界で最も著名な人物の一人となっているピアニスト・作曲家のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが首都ウィーンを中心に活躍し、初期にはハイドンやモーツァルトに強い影響を受け、ピアノの「悲愴」などを作曲し、中期には「ハイリゲンシュタットの遺書」に書かれた難聴の絶望を経て、交響曲で「英雄」「田園」そして世界で最も著名な音楽といえる「運命」などを作曲、革新的な技法を数多く編み出していった。

 中期にはピアノで非常に著名な「月光」と「エリーゼのために」、その他、「熱情」や「皇帝」も作っていき、後期になると合唱や独唱を交響曲に入れた「第九(合唱付き)」を作曲、その他にもベートーヴェンは唯一のオペラ「フィデリオ」や歌曲集「遥かなる恋人に」、弦楽四重奏曲、ヴァイオリンやチェロの曲、劇付属の音楽、そしてここで紹介していない数多くの著名な曲を作った。

 ベートーヴェンは従来のような宮廷や貴族に仕えるやり方を拒否して大衆のための音楽を作りさらに音楽家は芸術家であると公言するなどその後の音楽の姿勢を決定付けたといえる。

 ベートーヴェンはオーケストラで多くを表現するために当時使われていなかった楽器を追加し、交響曲では穏やかなメヌエットの拍ではなくスケルツォの拍を組み込んで、有名な第九で楽器のみの交響曲に合唱をつけ、コーダを拡大、暗い曲調から明るい曲調に変わるという様式を確立、ルネサンス音楽の頃の複数の独立した旋律がある対位法を大々的に導入して作曲するなど、多く革新を起こして大きな影響を与え、以降、古典派からロマン派音楽に入るとされる。

 この時期、ソナタは複雑化、伴奏も様々な響きを出すために複雑になり、和音は自由かつ精巧となったといえ、モーツァルト、ハイドン、クレメンティなどの影響や技術の進歩でピアノが音楽の主役を担う楽器となっていった。

 ロマン派音楽とは19世紀あたりのヨーロッパの音楽の事をいい、この頃に起こっていたロマン主義と呼ばれる今までの啓蒙思想・古典主義のような合理的で理性的なものではなく、個人の感受性や主観など感情を重視するという思想運動が流行した時代の中で誕生した事でそう呼ばれ、特に本来、ロマン主義は文学の潮流という側面が強かった。

 ロマン主義のロマンとは古代ローマの時代に公用語だった古いラテン語に対し時代が進むにつれて書き言葉の古いラテン語とかけ離れてしまった喋り言葉の事を「ロマンス語」と呼んだ事に由来し、古ラテン語や古ギリシア語で書かれた厳かな古典文学に反対の概念として民衆の喋るロマンス語の名が使われた。

 ロマン主義芸術の源流は18世紀後期の古典主義や啓蒙主義に対しドイツで起こったシュトゥルム・ウント・ドラングというゲーテやシラーなどの文学者が参加した運動などで、ロマン文学は当時の古典派音楽にも間接的に影響を与えていた。

 モーツァルトなどが作ったジングシュピールという民謡の要素やロマンティックなストーリーを持つ大衆演劇など段々と古典主義思想から外れたようなものも古典派音楽全盛期には現れていたものの、「フィガロの結婚」が王族・貴族から反発を受けたようにそこに仕える音楽家が殆どだったた当時は本格的にロマン主義的な要素が行えなかった。

ウィーン体制

 18世紀末期には民衆によるフランス革命が発生しフランス王は処刑され、フランス共和国になるが恐怖独裁などで混乱、それを治めたナポレオンという人物がフランスからヨーロッパの殆どを支配下にするも結局敗北し、19世紀初期にヨーロッパ諸国の間でウィーン会議が行われて「ウィーン体制」と呼ばれる安定時代となっており、そこでは自由主義的な思想は弾圧されたがロマン主義思想は拡大していき、そんな時代に流行した音楽であることから「ロマン主義音楽」と呼ばれる。

 また、今まで単にドイツと呼んできた神聖ローマ帝国はナポレオンの侵攻で名目上すら消滅、プロイセンとオーストリアという二大勢力とその他の国々に分かれ、フランスでは王政が復活、ナポレオンがフランスの属国を建てまくったイタリアではフランス王家が支配するシチリアなどが復興、一部にはオーストリアの属国が建てられているという状況であった。

フンメル
フィールド

 ベートーヴェンと同年代ではリスト・ベルリオーズ・グノー・フラクらの師匠となるアントニーン・レイハ、ピアノではモーツァルトの弟子でウィーン会議で大きな名声を得た巨匠ヨハン・ネポムク・フンメル、アイルランド出身で「夜想曲」を確立しロシアに行き西欧音楽を伝えたジョン・フィールドらが活躍した。

シュポーア
ソル
スポンティーニ

 ヴァイオリンではルイ・シュポーアが名声を獲得、スペインの民族楽器であったギターでもその演奏を大きく進歩させたフェルナンド・ソルやウィーンで活躍したマウロ・ジュリアーニらが名声を獲得、モーツァルトの弟子ガスパーレ・スポンティーニはフランスでオペラで名声を得た。

 ロマン派時代、半音階技法や転調の多さ、不協和音や異なる方法での和音の利用、音楽を文学などと同様に構成立ててソナタ形式を規則化するなどし、「循環形式」を使う長い曲や歌曲で旋律がより重要となるなどの特徴が生まれ、ベートーヴェンの他にもクレメンティやシュポーアなどがこのような要素を盛んに取り入れていた。

 ただ、形式的な古典主義に半音階技法や激しい転調などを合わせるというのは矛盾を持ち、この反動で台本で構成を決めていけるオペラや、夜想曲などの「性格的小品」と呼ばれる短いピアノのみの曲などが多く作られた。



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