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鹿児島県与論町を踏破 その4<日本全市町村踏破(制覇)>

2018年2月13日。与論島の「星砂荘」からのスタート。
まずは宿に近い、島南東部の赤崎海岸から。

砂浜も岩場もあって、おばあさんがアオサ採りに精を出していた。


赤崎海岸の近くに、アマンジョウという古井戸がある。

何と、与論島に人類が初めて渡って来て、この水を発見して住みついたという、「創世神話」の一種が伝えらている。あまりにも素朴であるがゆえに、かえってリアリティを感じる伝承である。

「アマン」は「奄美」や、琉球開闢の神・アマミキヨと関係がありそうだ。奄美大島には「アマンデー」という、奄美開闢の神・アマミコが降臨した聖地がある。

以前の投稿に書いたように、奄美諸島から沖縄にかけて、鎮西八郎源為朝が逃れて来たという伝承があり、琉球王朝の正史は、始祖は為朝だと伝えている。奄美のアマもアマミキヨのアマも、「海人」の事であって、古代に海人が本土から南下してきたという説もある。

あるいは、朝廷に従わなかったり、一部は近畿に移ったという南九州の先住民・隼人の末裔だろうか。隼人は「海幸彦」の子孫であると、記紀神話は伝えており、隼人は居住圏からしても海洋民的要素が濃厚だ。隼人は文化が異なるという古代の記録もある。そもそもが隼人の居住圏が南九州から南西諸島一帯にかけてだったのかもしれない。

そうしたことを思い起こさせる伝承地だった。

次に向かったのは、島の南部の高台に鎮座する地主(とこぬし)神社だ。

地主神社は、その名の通り、与論の地主である神様を祭る。島内にあった拝所(ウガン)を合祀しており、神社といっても、非常に土着色、琉球色の濃いものになっている。神社と呼ばれるようになったのがいつからかは分からないが、地主神として信仰されているからには、相当古いものに違いない。

龍を神紋としていおり、龍神信仰の強いところであることがうかがえる。

社殿の右奥に拝所がある。辺後地(ピグチ)というが、「陽口」の意だと補足されており、太陽神を祀る。

隣にある王舅墓(オーシャンはか)は、琉球北山王の王族の墓。北山王国滅亡後、辺後地拝所に密葬されていたものが、拝所の合祀により一緒に移って来たものらしい。

境内には琴平神社も鎮座する。琴平神社とは四国の金刀比羅宮、いわゆる「こんぴらさん」であり、各地で海の守護神として祀られている。こちらは本土の影響が強いものだろう。薩摩支配下の江戸時代に建てられたのかもしれない。

この高台は、城(グスク)の跡でもあり、城壁の外へ通ずる穴が残っている。王舅墓に見られるように、琉球三山統一以前、与論島は北山王国の支配下にあった。以前の投稿にも書いたように、与論の北隣の沖永良部島には北山王国の王族たる島主の立派な墓、世之主の墓がある。沖永良部島までが、北山の勢力圏だった。

沖永良部島の北隣の徳之島が琉球の支配下に入ったのは、三山統一後であり、両島の間に方言の境界線もあって、奄美群島内でも文化圏の違いがある。実際に旅をしてみると、やはり沖永良部島から南は、こうして北山の遺跡や伝承があるなど、より琉球色が濃く感じられる。

与論島ともなると、海を挟んで沖縄本島がはっきり見えるくらいだから、沖縄県に属する先島(宮古や石垣)よりも、元々琉球色が濃いのだろう。ただ、江戸時代には与論までは薩摩の直轄領となったので、そこに文化圏境界が生まれたのも確かである。現在与論島までが鹿児島県に属するのも、それが理由だ。

ここからは、沖縄本島や麓の集落がよく見え、見通しが利く。霞んでいなければ、本島の北西に浮かぶ沖縄県の伊平屋島や伊是名島も見えることだろう。城を築くには最適な場所である。

与論城の形跡は、境内やその周辺に、結構しっかり残っている。

石垣は200mに及ぶらしい。ただ、築城中に北山王国が滅亡してしまったので、未完成に終わったとのことだ。

市町村踏破数は前回投稿から変わらず。
鹿児島県全43市町村のうち、42市町村踏破、残り1村、達成率97.7%。
九州・沖縄全274市町村のうち、258市町村踏破、残り16市町村、達成率94.2%。
日本全国1741市町村のうち、1718市町村踏破、残り23市町村、達成率98.7%。

サポート頂けると、全市町村踏破の旅行資金になります!また、旅先のどこかの神社で、サポート頂いた方に幸多からんことをお祈り致します!