都農の漁船の歴史
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都農の漁船の歴史

この原稿は、平成8年3月に山本健治「都農の漁船の歴史」と題して『宮崎県総合博物館紀要 24』に掲載した原稿です。引用の際には、原本をご確認下さい。 【山本健治さんについて】 本資料は、都農町下浜在住の元漁師の山本健治氏が、都農町史編さん室の古川忠氏のすすめで、これまでの漁師の経験談や都農町の漁村の歴史について記録してはとの呼びかけに応え、記録したものである。現在編さん中の『都農町史』には資料として利用されているが、原稿そのものは未発表の予定であるという。そこで古川氏の同意の

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姫田忠義

姫田忠義

『旅する巨人』(宮本常一)関連。 NHK TV. ETV特集。 『姫田忠義・果てしない記録の旅』 1994年11月1日・2日、放送の録画ビデオをみた。 姫田忠義。 昭和三年、兵庫県出身。 26歳に民族学者、宮本常一に出会い、以後、1961年(昭和36年)から、日本列島に伝えられているものをひたすら記録して歩こうとして、映像を撮り続けてきている。 『私たち、日本列島には想像を絶するとさえいっていい、深い文化が伝えられていると思う。』 『人には他人に言えない深い思い、内面があ

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細島漁民の歴史

細島漁民の歴史

1、細島漁民の移住★移住のはじまり 『本藩実録』には、細島の漁船の都農沖での密漁のことが記されている。■同年十二月、都農沖で密漁をしている細島漁船を発見し、地元漁船が近づき中止を求めたが、幕府代官所の許可印をもらっていると拒絶し、なおも漁を続けようとしたので、さらに、許可印を見せることを迫ると、持参していないことが判り、追い返した。ところが、翌日も密漁している。今度は釣具など箱一二個を取り上げて、追い返す。だが、細島には帰らず美々津に乗り入れて、道具を取り上げた証明をくれるよ

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創作民話「の山」について
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創作民話「の山」について

30年ほど前に、宮崎県史編纂室に勤務していた頃、故山口保明先生から聞いたことをなかなか思い出せずにいました。それが宮崎の方言を使った民話で、マイナスな宮崎弁をプラスの標準語に変えるというものでした。昨年、20年ぶりに宮崎に帰り、検索などをして、この話を探していましたが、なかなか出典にたどり着けませんでした。物語自体は、断片的に紹介されているのですが、出典は明示されていません。以下に目に付くサイトを紹介してみます。 ①の山(のさん) 宮崎市の漢方薬局のブログで「今日は、宮崎の

巫女についてのコラム(巫女の神話、巫女の種類、巫女の現在)

巫女についてのコラム(巫女の神話、巫女の種類、巫女の現在)

 以下のコラムは、私が現在執筆中の幻想生物辞典『幻想綱目チェリーピック(仮)』における、巫女の項目の草稿となります。  現時点では考証が曖昧な部分や、蛇足と思われる記述が含まれるため、書籍化の際には文章が訂正されている可能性があります。ご了承ください。 1 神代の巫女 原初の日本人が信仰していたのは、巫女教だった。  風が安寧ではなく、身を刺し崩す死の鋭さを孕んでいた時代、人々は巫女の言葉に生き方を委ねた。  だが日本神話と呼ばれる古い古い物語の、その中でも最も尊い神代に、

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宮崎県人の県民性

宮崎県人の県民性

『宮崎県史 別編 民俗』に引用された文献を紹介する。 日向 当国の風俗は、無躰無法の事のみ多く、只気の尖なるに任せて、己が理とみる時は、非と云ふ人ありといへども、曽て用ひず。只その理非は第二にして、その談ずる人と口論に及び、終に討ち果すの類なる風なり。誠に偏卑の浅ましき事、人倫の道理を知らざること、歎くべき所なり。唯死するを以て善とする事、危ふき風俗恐るべし。 按ずるに、当国の風土、海浜多く、又山中深き大国なり。尤も暖気多し。              浅野建二校注『人国記

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泉毅一郎「愛吉少年河童を釣る」

泉毅一郎「愛吉少年河童を釣る」

泉毅一郎『延岡雑談』延岡新聞社、昭和6年(1931) 延岡市内恒富、中條と三ツ瀬の間に昔の五ヶ瀬川の川跡の池があつた。長池と云ふて東西三百メートル、南北百二十メートル位いであつたとの話です。その他の東に権現さまの社があり、可なり深い池で、水神がゐるというて付近の人達は恐れて居つた。三四百年も前の話であるが、恒富中條の豪家とだけが埋立てゝ、その中程に長さも幅も、約十七八メートルの四角い池が水神の住所として残して置いた、角池と改名する事も出来ず、さりとて長池とも書き得ず、その昔

泉毅一郎「神谷豪傑河童の夜襲に会ふ」

泉毅一郎「神谷豪傑河童の夜襲に会ふ」

泉毅一郎『延岡雑談』延岡新聞社、昭和6年(1931) 滞政の終り頃に、新小路出口に神谷と云ふ豪傑がゐた、茄や瓜の初物を水神様に供へる習慣であつたのに、ある年の夏の初めに、この豪傑は何かご機嫌をそこねて、『ナーニ河童やひよすぼに、茄子や瓜の初物などやる輩■はいらぬ、秋になつたら末なりをやるわ』と大声で云ふて、初なりは自分で食ふてしまつた、その夜の事である、裏の畑で小供の騒ぐ声がする『何事ぞ』と、刀を取つて出て見ると目には見えぬが多数の小供の足音がして逃げて行つたので、帰つてゐ

泉毅一郎「綱切神楽を見る」

泉毅一郎「綱切神楽を見る」

泉毅一郎『延岡雑談』延岡新聞社、昭和6年(1931) 綱切は龍切である、素戔嗚尊が八岐大蛇を切られし故事に依るもので龍は藁で作る。耳枇杷のひげは蘇鉄の葉などを用ひ、胴体の切る所は長さ約一メートル毎に、切るに適当に作つてある。 その綱の直径は、八サンチ(ママ)位で二疋作る、それで神主が、五十人集まるとすると、半分の二十五人で一疋を切るから、一疋の長さは頭と尾と余分を加へるから二十八メートル以上に作、長いのは別に差支へはない。神楽堂は南面又は東面にしてその左右に龍を置き、前日よ

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泉毅一郎「春日神社の龍切」

泉毅一郎「春日神社の龍切」

泉毅一郎『延岡雑談』延岡新聞社、昭和6年(1931) 恒冨の氏神春日神社は天児屋根命、武甕槌命。齊主命。姫大神の四神を祀る太古からの社でありますが、春日大明神として祭つた旧記は養老年代からのものが、わづかにあるばかりであるとのことです。聞く所に依れば余程以前にその大事な旧記は鼠の巣になって消えたとの話で、誠に惜しいことをしたものです。 しかしあの大きな楠の木、それは二代目か三代目か知らぬが、あの楠の木が太古を物語つてゐる。受取りにくい云ひ伝へであるが、祭神の内に蛇体の方があ

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