特殊な家族(ショートショート)
目の前にいる足の悪そうな老人は最初、「すべてを奪われて怖かったんだ」と私に言った。
「志麻さん。なんでこんな事をしてしまったんですか?」
取調室には、スタンドライトの白い光以外、明るさらしい明るさは何も無かった。目の前の椅子に沈む白髪の老人はうつむきながら、すっかり消沈している様子だ。目はうつろで、遠くを見て、今の状況が飲み込めていないように映っている。右腕を怪我していて、顔には大きな青アザがついていた。注意していないと、自然とそのアザに目を向けてしまうくらい、特徴的なアザだった。
老人は一言だけ喋ると、そこから先は言葉が出ないのか、敷居となっている机の中央をぼーっと見つめ、何か別の事を想起しているみたいに見えた。
「栄美(妹)は、おやじの住む場所を奪おうとしている。あいつは公正証書に明記してあるにも関わらず、この家を売ろうとしているんだ。誓約書にもサインしたんだぞ? それなのに約束を破ろうとしているんだ」
「・・・」
「あいつはな!俺が責任者になっているにも関わらず、お袋を施設から連れ出そうともしたんだ!詳しいことは分からないが、勝手に通帳を作ろうとしていた。もしかしたら、お袋の施設費として残していた財産を、勝手に自分のものにしようとしているのかもしれない!」
「そうなのか?」
「あぁ。お袋は別の施設に移したから、もうあいつの手に渡ることはないが、これだけははっきりしているだろ?あいつは親の財産が目当てなんだ。おやじやお袋の事なんて親ともなんとも思っていない!そういう奴なんだよ!」
俺は良英の言葉を聞いて、カッとなってしまった。冷静に考えれば、公正証書を手配したのも、生前贈与にしてくれと言ったのも良英だった。マンションも家も預貯金も、一切合切手放した。俺は全てをあいつに任せてしまった。その結果がこれなのである。
「全然話しませんね」
「そうだな」
一時取調室を出てから、私は先輩にそう言った。先輩は思うところがあるようで、ずっと考え込んだ様子だった。気になった私は、先輩に尋ねてみた。
「なにか気になる事があるんですか?」
「いや、ちょっとな。心境がよく分からないんだ。現場を見た感じ、突発的・偶発的な犯行であることは間違いない。志麻さんの性格について、志麻さんのヘルパーをしている女性は、「昔は家族に、かなり暴力も振るってしまったと言っていた」と供述していることから、もともとそういう性格なんだと思う。ただ、」
「ただ?」
「足が悪くなってから、動くのが億劫になっているわけだろう? ヘルパーも、買い物に行けなくなったから利用を始めたわけだし。仮に現場で、彼が激高するような出来事が起こったとして、階段の上で被害者をもみ合う事なんてあるか? 、被害者が外に逃げなかった理由はなんだろうか? 刃物を突き付けられたんだ。2階ではなく、外に逃げてもいいだろう」
「確かに、ということは?」
「実はこれ、もみ合っていないのではないか?という可能性もある」
「それって」
「状況だけで考えれば、不慮の事故、もしくは・・」
この時点で、先輩の言わんとしていることは理解した。これがもし当たっているとしたら・・・
私はガラス越しに志麻さんの方を見た。志麻さんは、両肘を机の上に立てて、頭を抱えていた。
私たちは取調室に戻り、尋問を再開したのだった。
「おやじ、、、いて、、、れ!栄美が、、、雇って、、、居場所を探、、、た。俺のくる、、、ジーピー、、、取り付け、、、、いた!、、、許さねーぞ、ぜった、、、に!」
良英は激しく高揚しながらそう言った。ところどころ聞き取れないのは、俺の耳が遠くなっているからだ。足が悪く買い物にも行けず、耳も遠くなってしまった俺は、めっぽう考えごとにうんざりしていた。
それが主なきっかけだった。良英はよくめんどうを見てくれた。栄美はといえば、しばらくは関わっちゃいない。あいつが子供の頃、俺はよく怒鳴り散らしていた。家内や栄美に暴力を振るった。刃物を持って、外を追いかけまわした事もあった。だからだろう、栄美は大人になってから、いや、正確には、家内が施設に入ってからだ。一向に顔を見せなくなった。
反省している。当時は自分が、こんなに衰えるなんて考えなかった。うまくいかない事を、周囲にあたり散らかせるだけのパワーがあった。それを良くない方向へ使ってしまった。今ならわかる。今ならば。
「志麻さん。そろそろお話してもらえませんか? 事件の事を。なんでこんな事をしたのかを?」
私も先輩も、志麻さんが話し出すのを待っていた。いつもなら、もう少し強めの圧をかけるのだが、目の前の痛々しい老人の姿を見ていると、どうもそんな気にはなれなかった。別に凶悪犯という雰囲気があるわけでもないし、暴れるだけの体力もない。唯一気になることと言えば、自首したにも関わらず、どうして状況を話さないのか?という点だけだ。それは先輩も同じのようで、どれだけ長い沈黙が続いても、顔色を変えずに待っていた。
志麻さんは肩に力が入っているのか、小さく細かく震えだした。歯を食いしばり、目を見開いて。まるでそれは、自分の中の何かと戦っているように見て取れた。彼の心の中には、激しさと絡みついた闇があるみたいで、あと一歩後ろに下がってしまえば、底が見えない暗い谷底まで落ちてしまうような気迫があった。
「ここは、ここは俺の家なんだぁぁ!!」
「お父さん!」
そこからの意識は断片的にある程度だ。覚えていることがあるとすれば、ガタゴトと階段を転げ落ちる音だけ。数秒後、意識を取り戻した時には、生々しい感触と、染み込む鮮血がそこにあった。
「あ・・・あ」
今でも体には、その感触がはっきりと残っている。思い出そうと思えば、あの昼の出来事を鮮明に思い出すことが出来る。
数日前、良英に言われたんだ。
「この家にあいつが来たら、口論になることは間違いない。身を守れるような準備をしておけ。おやじは身体が動かないんだから、出来るだけ強めの武器を用意するんだぞ?」
それで俺は、、俺は。
コンコン
続く沈黙の中、私はノックの音に導かれるように外に出た。取り調べ時のノックには2つの可能性がある。新事実が発覚したパターンか、聴取者にとって、よくない情報が報告されるパターンだ。今回はどうやら、後者だったみたいだ。弱り切った老人に、この事実を伝えるのはきつい。ただ、これも仕事だ。伝えなければならない。
私は覚悟を決めて、再び部屋に入った。
「志麻さん、たった今、奥様がお亡くなりになったそうです」
志麻さんは一瞬だけビックリした様子を見せたが、すぐに居直って、机の中央を見つめながら、小刻みに震えていた。また沈黙が始まった。だが今度、その沈黙を破ったのは志麻さんだった。
「あの日、栄美が久しぶりに、家にやってきたんです」
2年か3年ぶりだった。この家のドアは、ヘルパー以外に開けるものはいない。そんなヘルパーは、インターホンを鳴らし、明るい声で「こんにちは」と言う。私はその声を聞き、ドアを開けるのだ。だから、インターホンの音もなしに、ガチャリとドアが開く音を聞くのは、俺にとっては久しぶりの事だったはずだ。ただ不思議と、その感覚には新鮮さを覚えることがなかった。
リビングに通ずるドアが開かれると、そこには栄美が立っていた。俺はキッチン近くの椅子に腰かけていて、栄美の顔をまっすぐ見ることも無かった。少しの間を置き、栄美が歩く音を聞いたあと、突然の俺の視界にあいつが映った。
栄美は一枚の手紙を俺に差し出すと、いきなり固定電話の電源を抜いた。その行動に少しだけ腹が立った。俺はこの時、栄美の事を疑っていた。俺からすべてを奪い、当時の仕返しをしようとしていると思っていたからだ。
手紙には、主に3つの内容が書いてあった。お母さんの居場所を教えてほしい・この家の固定資産税について・つまらない嫌がらせは止めてほしいというものだ。
手紙を読んだ俺は怒り狂った。この家は、俺が死ぬまで住んでいいという話だったし、家内については、施設費として残っているはずのお金を、こいつが横取りするつもりだと思い込んでいたからだ。
俺は、ポケットに常備しておいたカッターナイフを取り出し、栄美に襲い掛かった。栄美はそれに驚いて、顔を手で覆い、半身を返した。その時、栄美の体が俺にあたり、その勢いのまま、尻もちをついた。俺は自分の足腰が弱っていることを変に実感したことで、さらに怒りが増していった。倒れたあと、視界と思考が定まると、部屋の中にあいつがいないことに気が付いた。
廊下に出て玄関を見ると靴が2足あった。栄美の靴があったから、あいつが2階にいることはすぐに分かった。階段を上るのは正直厳しい。2段か3段上がっただけで、足に痛みが走った。2階との距離が近づくと、遠くの方で、ガサガサと音がした。栄美が、2階を物色している音だと思った。あいつが、母親の情報を探しに来たことは明白だった。俺は、あいつが物色を終えて降りてくるまで、そこで待っていようと思った。ほんの威嚇のつもりだったんだ。
数分して栄美は降りてきたよ。だからこう言ったんだ。「お前のせいで転倒しちまったじゃねぇか!」ってね。あいつの顔はおびえていた。昔、俺に暴力を振るわれたことを思い出したのかもしれない。
俺はカッターナイフを取り出して、再度叫んだ。
「ここは、俺の家なんだぁぁ」
「お父さん!」
栄美はそう言うと、おびえた様子で2階に戻ろうとした。
その時だ。
急に栄美が階段から落ちてきた。
「え?」
一瞬だった。本当に一瞬だったんだ。
気づいたら、体中に鈍い痛みが走っていた。そして、俺の体の上に、何かが乗っかっていた。妙に生温かくて、妙に柔らかいものだった。それが栄美であることに気づくまでには、少し時間がかかった。気づいたのは、俺の腹のあたりに血が付いているのが分かった時だ。栄美の体には、威嚇のために手に持っていたカッターナイフが突き刺さっていた。
俺はなんとか体を起こし、数回ほど栄美の事をゆすってみた。でも、ダメだった。
「そこからは、警察の方が調べた通りです」
志麻さんの話を聞いた私と先輩は、ある種の納得と少しの驚きを覚えていた。
これは、、、、やっぱり
「志麻さん、話してくれてありがとうございます。ところで、もう1つだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」
少しの余韻のあと、先輩は低く落ち着いた声で質問した。
「・・・はい」
「栄美さんを階段から突き落としたのは、いったい誰ですか?」
男はまた口をつぐんでしまった。私たちは大至急、栄美さんの家の痕跡を洗いなおすことに決めた。
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