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Track#05 "Crash&Burn" (from "Affirmation" by Savage Garden) Guitar1209&0114

"Crash & Burn"はSavage Gardenの2ndアルバム"Affirmation"の5曲目に位置付けられた曲。1999年3月にシングルカットされ、Billboardのチャートにも乗っていたので私がon timeで聴いて覚えていたSavage Garden最後の曲。

(※記事投稿時に添付を忘れていた音声ファイルを追加しました。しばらくポストしないとファイル添付すら忘れるよ、、鳥だから、、)

前回歌ったのは8月27日。動画でベース進行の確認をしている時にダレンのBBC出演インタビューを見つけ、聞いてみて、彼が父親がアル中で暴力をふるう機能不全家庭内で育ったということを知り、「だからか、、」と色々腑に落ちた時期だった。しかしまだ彼も鳥になっていたというところにまでは気付いていなくて(この曲の中にも"fly"は入っているんだけど)、一曲を通しで歌うこともしていなかったし、私のエレジーレクイエムとしてアルバム"Affirmation"を全て歌うということも決めていなかった。
背後では鈴虫が元気にリンリン鳴いていた。まだまだ暑い盛りの時期だったけど、もう蝉ではなくなっていたんだね。

この曲はギターがあまり難しくないから、ギターの変化はそれほど見られないんだけれども、一方で声のほうにはだいぶ表情をつけられるようになったことがわかる。適性は低くても弾き続けたことで多少は慣れて、指に割かれるコストが下がったからその分を声に使えるようになったんだろうね。

野鳥版日本語↓(そう言えば野鳥版日本語をつけたのはこの曲が初だった、はず。)
ーーーーー
もし自分がこの世に独りきりで
世界中敵ばかり どこにも味方なんかいないと感じるような時には
少しだけ僕に時間を分けてほしい
そのあまりに傷ついた心をなだめるために
壁がどんどん押し迫ってくるように感じるんでしょう?
気が休まることなんかないよね
人間はとても残酷だ
深い闇が君に襲いかかってきて
もうどうしてもだめだという時には

僕に受け止めさせてほしい
君が飛び降りるなら僕はそれも受け止める
そして君を抱え上げて一緒に夜空を飛び回るよ
もしバラバラになってしまったとしても
僕が壊れてしまった心を癒すよ
衝突が必要ならそうして 燃やしてしまおう
君は独りではないんだ(僕がいるから)

もし自分がこの世に独りきりだと感じられて
わかりあえる同士がなかなか見つかりにくいような時
袋小路に陥ってしまうかもしれないね
頭の中に潜むモンスターに怯えながら
夢も希望も遥か別の世界に消し飛んでしまって
もうその日一日を堪えることもできないというような時には

僕に受け止めさせてほしい
君が飛び降りるなら僕はそれも受け止める
そして君を抱え上げて一緒に夜空を飛び回るよ
もしバラバラになってしまったとしても
僕が壊れてしまった心を癒すよ
衝突が必要ならそうして 燃やしてしまおう
君は独りではないんだ(僕がいるから)

心が痛むことや苦しみばかりだよね
でもそれが過ぎ去れば、君はまた息をできるようになる
君はまた息をできるようになるんだよ

もし自分がこの世に独りきりで
世界中敵ばかり どこにも味方なんかいないと感じるような時には
少しだけ僕に時間を分けてほしい
そのあまりに傷ついた心をなだめるために

僕に受け止めさせてほしい
君が飛び降りるなら僕はそれも受け止める
そして君を抱え上げて一緒に夜空を飛び回るよ
もしバラバラになってしまったとしても
僕が壊れてしまった心を癒すよ
衝突が必要ならそうして 燃やしてしまおう
君は独りではないんだ(僕がいるから)

僕に受け止めさせてほしい
君が飛び降りるなら僕はそれも受け止める
そして君を抱え上げて一緒に夜空を飛び回るよ
もしバラバラになってしまったとしても
僕が壊れてしまった心を癒すよ
衝突が必要ならそうして 燃やしてしまおう
君は独りではないんだよ(僕がいるから)
ーーーーー

ダレンはやはり「息ができない」状態を知っている("Hold me"にも"It's getting hard to breathe."とあるし、この時期のダレンは本当に息ができなかったのだろう)。そしてだからこそのメッセージを、同じように苦しむ人々に送っている。それが薄っぺらな言葉だけ形だけのものではないことが随所から見てとれる。諸々あまりにリアルで的を得ているから。

「モンスター」については"Gunning down romance"にも言及があるんだけど、ダレンは自身の中に潜む狂気や暴力性に怯え(アル中暴力の父親の子どもでもあるからね)、必死にそれを抑え逃れようとしていたんだと思う。この曲の中では自身ではなく相手の脳内精神状態を慮っての形になっているけど、それは彼がそうなる状態をvividに「知っている」から。
ダレンには"To the moon&back""Two beds and a coffee machine"のように、"I"を"You"や"She"に仮託して歌っているように思える曲があるんだけれども、"Crash & Burn"もきっとそうなんだろうな。つまり、ダレンは曲内で自分がそうなるよと歌っている「どうしてもきつい時に呼べる、飛んだら受け止めてくれ、そのまま夜空を一緒に飛び回れる、心が壊れてバラバラになってしまったら繋ぎ止めて癒してくれる、あるいは何かを壊す必要があるなら、それでいい、そうしてしまおう、僕がついているから、あなたは独りじゃないんだよと言ってくれる」ような存在を切望していたんだろうと思う。
この曲はメッセージソングとして、苦しんでいる人々に向けて歌っているからというのも大きいと思うんだけれども、自分の気持ちとして希望をストレートに表現できないのは、やはり彼が重度のアダルトチルドレンだったから、自分の感情や思考を表出できることが許されない避けられない環境下で長期間過ごし、それに適応した結果ではと思う。婉曲や逆説表現が多いのも同じ。
私がダレンや彼の書く曲に(英語もよくわからない段階で)惹かれたのは、生きることと引き換えに自分を殺さなければならなかった者の纏う空気を、謎感覚がどこかで捉えて共鳴したんだろうなと、今では思っている。
そして、無責任に「誰かに話すことで楽になるから」なんて言わないところに、やっぱりこの人は「知っている」んだとなる。曲内でダレンが言っている内容は、この私であっても「そうそうこれこれ」と思える絶妙な距離やアプローチで流石だと思う。

退職前後、同僚の先生など周りの人に「話してほしい」「話をしよう」、そうすることで楽になることもあるから等と言われた。勿論、それが純粋に善意からだということはわかっているし、そのお気持ちをありがたいとは思ったけれども、「話すことで楽になる」なんて思えるのは、その程度の軽さの事象についてのみ、かつ、話して他からの共感を得ることによって安らぐ性質を持つ場合のみであって、私の場合はいずれにも該当しない。
話をしたところで問題は何も解決せず、予め想定できる「生きてほしい」とか「できることはあるのだから」等という、こちらにとっては苦痛で不快で無益でしかないことを投げかけられても、発言者の意図とは真逆に苦痛と不信感が嵩むだけで極めて不毛。この状態において絶望を知らない「生きる」が是の相手となど到底かみ合うことは無いのだし、せっかくの善意を踏み躙ることになるのは心苦しいし、無駄な労力や時間を使わないほうが互いにとって明らかにbetterである。
話をして意味があるのは気休めとして機能しうる軽微な場合のみ。例えば、お菓子の内容量が少なくなったとか値段が上がった、お店の料理人さんが変わったら味が変わってしまった、なんてことだったら、話や共感にまだ意味もあるかもしれないけど、絶望に対しては一切無効だしむしろ失望や絶望を強化する結果になる。
私は安易に「話そう」とか「(その気持ちが)わかるよ」なんて言わない。それがどれだけ苦痛であり、「やっぱり」「わかりあえない」「自分は違う」という失望を深めるかを知っているから。全くわかってなどいないのに「わかった気になられても」不信が嵩むだけだし、もし本当に私の絶望を本当にわかる人がいたのなら、私は逆にその人のことを心配する。ひとりでふっと死んでしまう。

"all alone"は"The lover after me"にも出てくる表現。"Affirmation"制作期のほとんどはダレンの最初のパートナーとの別居後に当たるので、彼は自身の欠乏を埋めてくれると思えた運命的な相手を「得た後、失った」ことによる、ますますの「どこにも、誰も、いない感」や絶望を抱えていたのではと思われる。そしてこの状況心境こそが楽曲制作の原動力になっていたものの、身を削る結果にもなっていて相当に苦しんだのだと思う。「壁が迫ってくるように感じる」とか「自身に潜むモンスターと共に袋小路に陥る」等というのも非常にリアルに響く。そういえば、私はこの曲のPV内のダレンの目つきがちょっと気になっていて、撮影時、おそらくわりと強めの向精神薬を飲んでいたのではと思っている。

「壁」について言えば、編集投稿を飛ばしてしまったMatchbox twentyの"Unwell"にも"All day staring at the ceiling and making friends with shadows on my wall(一日中天井を凝視したり壁にいる自身の影と交流したりしている)"と言及がある。加えて、同じくMatchbox Twentyの"Push"やBlurの"Song2"にはPV内でフロントマンが物理的に壁に衝突していくシーンが盛り込まれている。
なんとなく、追い詰められ切迫していたり圧迫感があったりする時の状況なんだろうなと推測はできるんだけど、個人的には似たような状況においても同じ感覚が起きたことが無いので、その差異がどこから生じるのだろうかと気になっている。
そういった「壁」の感覚で浮かぶのはほぼ洋楽の男性アーティストの曲だから、可能性の一つは文化差(西洋/東洋)や言語(英語/日本語)差。私は流通している曲を広く聴いているわけではないしサンプルが偏っているとも思うんだけど、邦楽・日本語で「壁」が同じように描かれた曲はあまり浮かんでこない(フジファブリックの「眠れぬ夜」に「部屋の壁の色褪せ方が気になる今日この頃」っていうのがあるのくらいかな。でもこれも自身と壁との境界は明確で距離も遠い気がする)。もしかして"wall"の中に語義的に何か含まれるものがあるのかな、と、一応確認はしてみたんだけど、辞書レベルではそれらしき根拠は見つけられなかった。コーパスを見てみると面白いかもとも思ったけど、そこまではしていない。
もう一つ浮かんだ可能性は性差で(勿論ジェンダー的にはどうかと思うし個人差も大きいとは思うんだけど)女性アーティストの歌詞や映像で同じようなものは浮かんでこない(単なる知識不足かもしれないけど)。女性自身が(物理的に)壁に強く衝突していくという像が生じにくいのは、身体的な頑丈さや体力の差なのかな、と(勿論、強くて丈夫な女性、鍛えている女性もいるよ)。そういえば私、真っ白な壁にペンキ等強い着色剤が入った(すぐ割れる)ボールのようなものを何度も何度も投げつけている夢を見たことはあったな(書きながら思い出した)。夢であっても自分ではなく、代替物をぶつける形だね。私は頑丈ではないし痛いことは嫌いだしマゾヒストでもない。

余計なことは言わせない、言わない、到底解決することなどない無理難題をどうにかできるとか、話せば楽になる、分かり合えるなんて傲慢を押し付けない、それでいて傍にいて共にある、受け止める、自分は味方であると優しく伝え続ける、こんな風にできる人はそうそういない。
たいていの場合は相手の状況を理解できていない上に自分の存在や力を過信して、「よかれと思って」みすみすさらなる荒廃を招くことになる。「あなたのため」、「あなたのことを思って」がその実「自分のため」でしかないのと同じ。それこそ「壁」を感じるし、むしろ「壁」ができる。

相手の話を聞いて何かを「してあげた」と思うことで一方的に満足を得ようとする、到底「わかる」に程遠い状態であるのに「わかった気」になって無配慮にそれを向ける傲慢。そりゃあ、自分は何の被害も責任も生じないところからなら、何とでも思えるし言えるでしょう。一切ノーダメージなわけだし。でも当事者は違う。全て自分に起きていることだし降りかかることになる。それらを被ることなど無い外野にいったい何が言えようか。極めて無責任ではないか。
そもそもの立ち位置も背景も別なのだから、それを弁えて、自らがそのキャパシティの中で責任を持って扱える、できることを真摯にしていく、「援助や助言の皮をかぶった侵略や自己満足」に陥らない、そういう姿勢の人からは逃げずに済む。ダレンもそう。Coccoもそう。いずれもとても誠実だよ。だからことばに重みがある。響く。

世には内実の伴わない「やってる感」の「演出」だけの無意味で薄っぺらな支援「もどき」と単なる「自己満足」に溢れている。しかし/そしてそれを評価してしまう風潮もある。検証が無い。「やっている」と言うだけで「やっていることになって」しまうマジック。それがまかり通るんだからチョロいよね。高台から根拠のない主張だけしていればいい既得権益者に最高の優しい世界。

「である」の世界では「本質」ではなく「雰囲気」、「根拠」ではなく「気持ち」が大事。下々は政治メディア広告業界お偉い様方に形作っていただいた価値に乗って、何も考えずに流れていればいい。
「やっている」を「本当にやっているのか?」と問うことも、「やっていないじゃないか」と異議を唱えることも場を乱すタブー。そんなことをする異端は「集団の敵」なのだからとして粛清が正当化され、攻撃が「正義」「正しいこと」になる。
プロパガンダとヒロポンで思考停止させ若者を美しく自爆させ続けた、到底勝ち目などないのに勝利を主張し続けた、愚かな戦前からの体制が、脈々と続き、見事にしっかり根付いているよなあ。
皆麻薬が大好物。現実を見ずに、都合の悪いものは無きことにして、見たいもの見せたいものだけを選び主張行動する。気持ちいいね。今ここ自分が全て。未来も持続性も、自分以外の損害も、「考えない」。「無い」と言えば「無くなってしまう」ミラクル。最高だね。そうできてしまう人間にとっては。

私はきっと時も場所も間違ったところに手違いで落とされてしまったのだろう。
次がどうなるのか、というか、そもそも次があるのかもわからないけれども、理不尽や暴力に煩わされることのない、そういう人間のいないところに行ければと思う。
誰も入ってこない谷中や山間で人知れず咲いているお花とかがいいな。植物って思考するんだろうか?感じることはあると思うけれども。

"Je pense, donc je suis."
いなくなれば煩わされずに済む、可能性がある。

そうそう、久しぶりにギターを弾いたらなんといきなり負傷?した。サボるとあからさまに衰える野鳥である。技術だけでなく物理?も見事に退化した模様。
おそらく厳寒&高音の細い弦の連続使用と定期的な練習が途絶えたことが複合的に絡んでいるんだけど、弦に触れる指先が痛くなり弾けなくなってしまった。しばらく経って今見たら豆?タコ?状態になっている。なんと右だけでなく左まで(左は痛くはないんだけど)。

練習していたのはSavage Gardenの"Tears of pearls"8月18日に歌ったものの歌い直し。たとえ適性が低くとも、諦めずに取り組むことで、全然思い通りに満足にはいかないけれどそれなりに、できるようになったりすることもあるよ、ということの例として。
程度の差こそあれ、皆それぞれに至るところに様々なバリアがあると思うんだけど、そういうものに面した時に私が重要だと思うのは、バリアや自身の状態を適切に考察し、負荷と取れ高(実現可能性?)をコントロールしながら中長期の持続的な展望を持つこと。
すぐに目に見える結果が出なくても焦らない、完璧を求めないで、ベストではなくベターを探っていくといい。

イントロの高音部を連続して練習していたら指が痛くなったので質の向上は諦めてそのまま通しで歌った。低音から高音へ飛ぶ際にスムーズにできないのは、おそらく空間認識の関係で私は大きな弦飛び&フレットの位置飛びが極めて困難だから。できないことがあっても原因がわかっていたら必要以上に嫌になることはないよ。対策だってできる。「知らない」「できない」等自分に都合の悪くこともフラットに見て受け止めて認めることとある程度の諦めは肝心。これができない人間が多過ぎる。よりによって教員にもね。超笑える。
さて、"Affirmation"歌い直しの投稿が終わるまで新規は明確に間違ったところだけやり直すラフ録音スタイルでいこうと思っている。行ったり帰ったりで何度も聞き直してトリミングするのが面倒すぎるから。

指が弦の刺激に耐えられなくなり早い時間で練習を切り上げなければならなくなったため放浪していたところ、なんと人気が無い中、弾けるピアノを発見した。まさに棚ぼたである。

勉強を含めての抑圧強制(昨今の言葉だといわゆる教育虐待)への怒りを持って断ち切って以降、もう〇〇年もピアノは全く弾いていない。指が動く気もしない、弾いたら絶対ムカつくことになる。

一瞬躊躇した。
でも誰もいないこんなチャンスなんて滅多に無い。今しか無い。そうだ。

カバーを上げ蓋を開けてみる。昔使っていたものより軽い気がする。鍵盤の上を見るとそれはYAMAHA製のピアノだった。ヤマハかあ、、

さてどうしようか。楽譜も何の準備も無い。
とりあえず、思い出せるハノンを弾いてみる。も、あまりにひどい。笑えた。

しかし当然である。無理矢理練習させられていた時期より4倍も、弾かなかった時期のほうが長いのだから。
うん、そうだ。だから開き直ることにした。そしてある程度思い出せそうな曲を弾いてみることにした。

ハノン(おそらく一番有名な"ドミファソラソファミ〜"と、おそらくあったような気がする"ドミレファミソファミ〜"、"ドミラソファソミファ〜")を何度か弾いてみた後に無謀にも突撃したドビュッシーのアラベスク1番もどき。確か小3だったかな、発表会で弾いた、気がする(そして私はドビュッシー好きになった)。
楽譜も無く鳥頭の記憶から引っ張りだしてきているので正確ではないと思うし途中で展開がわからなくなったのと人が来てやめてしまった(録音が切れている前も"#レーミー#ソシ"からの部分の左手がわからなくなって何度かやり直した)。野鳥は逃げ足は速い。

力み具合とボソボソボコボコ感、指の転び方、八分と三連符噛ませ合いでおろおろしているところが見事にブランクを物語っている。でもいいんだ。「下手を残す」ことに価値がある。私は下手だよ、ギターもピアノも。ギターは適性が低い。ピアノは人生の3分の2はブランクだ。それで突然弾いたんだから。
ピアノはギターみたいに自分で自由に練習機会を作れないから、リハビリ回復は録れないだろうな。でも使う予定の無かったデータが思わぬところで活きることもままある。分析素材は多いほうがいい。

帰宅して気づいたんだけど、脳がアラベスク1番を引っ張りだしてきたのは、和音よりも圧倒的に単音進行が多いからだったのかもしれない。私は絶対音感も単音特化型だし、和音だと記憶の負荷が高くなる。実際、進行がわからなくなった部分は右も左も階段状に上がっていくところなんだけど、その間定期的に右手が二音を使うんだよね。
ペダルはどこで入れればいいのかを全く思い出せなかったので使っていない。やっぱり私の記憶は「音階(特に単音」最優先であるっぽいな(私がそうしたいわけではないんだけど、脳が勝手にそうしているのだから仕方ない)。

つらくてもまだ光を失っていない人が、その光を繋げるよう、シェアできることはしていくよ。私は芽が出るのか実がつくのかわからなくても土を作り種を撒くのが好きだから。
理論的ベースがある場合もあるけど、そこに個人の視点や経験も乗っているし、そもそも「全ての人に完璧に当てはまることなんて無い(上に私は色々相当に規格外な)」のだから、適宜取捨選択していただければと思う。


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