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言の葉

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これまでに投稿した作品のなかから、一部を抜粋してまとめています。ときどき更新するので、よかったらのぞいてみてください。
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子どもを産んではいけない


一 出産というものに初めて違和感を覚えたのは、私が中学生の頃でした。あなたが産まれたときです。

 風が吹けば田んぼに緑の波が立ち、昼間は蝉の声が、夜はクビキリギスの声がする、そんな夏のことです。当時二十代後半だった叔母が、元気な赤ちゃんを、あなたを産み、私の家にやってきたんです。

 あなたを抱く叔母と、その隣に立つ旦那さん、叔母より一回り年上の私の父、そして母。大人たちはみんな破顔していまし

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初めての友達は半世紀以上前からやってきた

 青春とはなんなのか、よく分かりませんでした。ずっと。

「甘いのどれ買う?」

 昨日、学校のそばのコンビニの前の、交差点にある赤い目と見つめ合っていたら、後ろから高い声が二つ三つ聞こえてきました。うつむいて、足のすっかり隠れている制服の長いスカートを見つめながら、心のなかでつぶやきました。どらやきがいいなって。その声がひどく低く感じて、地面がゆれているような気さえして、私はリュックから一冊の本

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二人、滑っていく星の下で

 目が合えば、スーツを着た女の人は足早に去っていった。雨足が強くなっていく。公園の芝は水を吸い、街灯の白い光で淡くきらめいていた。ベンチに腰掛けたまま上げていた顔を下ろしたら、胸がひざにくっついて。重たい頭。こみ上げてくる胃液。また吐いた。吐いて、雨に濡れた手の甲で口元を拭えば、肌がぬるり。口からアルコールが蒸発していくような気がした。

 ちらつく。こずえの下に溶けていった黒い背中が。彼女の手に

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あじさい

 枯れたあじさいたちの前で、女が一人、しゃがんでいた。丸い背中。カーキ色のシャツや藍色のスカートは、しわだらけで。顔をのぞけば、女の青い手が目についた。やせた十本の指が、花弁を包み込んでいる。

 ねっとりとした風が、広場を這って。シャツの襟元でたゆたう黒髪が、陽光で真白に濡れている。女の正面で、朽ちかけたあじさいたちが、さらさら鳴って。紫、水色、白、ピンク。澄んだ色など、一つもなくて。あるのはた

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神様の原稿用紙

 くもり空の下で裸足になって、波打ち際に立ち、一歩踏み出そうとしたときでした。紙が何枚も飛んできたんです。舞って、舞って、潮に落ちて。色が、形が、変わっていきます。

 灰色の水がしゃぶっていたのは、原稿用紙でした。赤い格子が、暗い水面を淡く彩って。捕らわれていた黒い文字が、じんわりとにじんで。溶けていきます。腰を曲げ、足首に絡まった一枚を拾い上げたら、水に噛みつかれて。破れて、ちぎれて。白波に呑

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黒い髪

 初めて男の子の髪をきれいだと思ったのは、物心がついたころでした。女子よりもさらさらした髪の子が一人、同学年にいたんです。登校班も同じで、あたしはその子の後ろを歩きながら、いつもうっとりしていました。それこそ、下級生に話しかけられても気が付かないくらい。あたしはその真っ黒い毛先に、目玉を突かれていたんです。串刺しにされていたんです。

 触れてみたい。

 だけどその子は男であたしは女。触りたいか

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しばいてやりたい

一 恭介《きょうすけ》のほっぺたをぶったとき、かじかんだ手がしびれました。青白いほっぺたは、ほんのりと赤みを帯びて。

 神社へと続く石段に座っていたわたしたちの頭上から、杉木立の、葉ずれの音が降ってきます。白い息に隠れるように、幼い瞳がわたしを見上げてきて。木漏れ日が、骨張った手や、色の悪い唇の上でちらついて。セーラー服の上に羽織っていた灰色のコートの裾を、わたしはぎゅっと握り締めました。

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命という名の病をうつされて

 命という名の病を意図的にうつされて、いったいどれほどの時間が流れたでしょう。老いという症状は悪化する一方です。水面が鏡が、それを気まずそうに教えてくれます。ほかの命を貪りどうにかそれを遅らせようと、抑え込もうとしても、私はその病状から逃れられない。

 よく熱を出します。皮膚が荒れたり赤くなったり、できものに間借りされたり。咳が止まらなくなったり目がかすんだり。お腹が暴れたり関節が喚いたり。息が

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美しい景色の残酷さ

 この前、机に突っ伏してぼんやりしていたら、窓から夕暮れに呼ばれました。外に出てみたら公園の大きな木の、黄緑の呼吸が金色に燃えていました。

 ゴミ捨て場のそばに立ってじっと見上げました。その日は最近にしては少し涼しくて、日を頭からかぶっていても汗はそんなに出てきませんでした。鳥の鳴き声なんかも聞こえたりして、子どもたちの遊ぶ声も、木を後ろから抱き締めている深い空によく溶け込んでいました。

 こ

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「なんで産んだの」と従妹が言った話

「なんで産んだの」

 従妹が家でそう呟きながら泣いてしまったと、叔母が私の母に相談していたのをこの前見かけた。正確には、仕事から帰ってきたときにリビングで電話しているのを盗み聞いてしまった。

 叔母とうちの母はとても仲が良くて、家も近いほうだった。そういうこともあって、従妹が幼い頃からよく遊んでいた。従妹とは結構年齢が離れていて、私は就職してそれなり、従妹のほうは高校一年生。どちらかといえば昔

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平気で嘘をつく

 今日も平気で嘘をついた。顔を覗き込まれても大丈夫だよって笑ってみせた。「平気?」って聞かれたら平気だよってやまびこになった。

 にこにこ嘘をついていた。いいなって、何も感じていないのに言った。ほしいって、思ってもいないのに言った。なにあの人って、無感情で同調もした。

 嘘はいけないことだってひどく怒られているところを、帰りのショッピングモールで見かけた。小さな子どもで、親らしい人に叱られてい

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生まれてきてしまったと感じるあなたへ

 生まれてきてしまった。この「しまった」という隣人から決して逃れられないあなたへ、僕はこの文章を書くつもりです。
 
 命というのは押しつけられたものです。くれと頼んだ覚えも、くださいと懇願した記憶もなければ、自らの意志でここまで歩いてきたわけでもありません。気付けばここにいた。そうして、様々な形で生の肯定を強制されている。僕たちは生きることを賛美しなければならないという現実に突き落とされてしまっ

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言葉を書くということはひとりになるということ

 言葉を書くたびに私は孤独になっていきます。孤立していきます。

 人の言葉を読むと、みんな生きているように見えます。そうして私だけが生きていないような気がしてきます。馬鹿みたいと思われるかもしれませんが、中二かよと嗤われてしまうかもしれませんが、この実感からは逃れられないです。

 私にできることは何もないので、生活さえろくにできないので、唯一できることである言葉を書いて日々ひっそりと呼吸してい

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ワンマン列車の下

 ふっくら高い線路、そこをゆっくりと歩いていくワンマン列車を、たくさんの足音が這うように追っていた。地面を見たらぬかるんでいて、足の群れ、その言葉の残響が、水っぽく残っていた。

「追わないの?」

 振り返ったら、その長い前髪がゆったりと息をしていた。首を傾けたら、その人の後ろから、にゅっと影が現れた。そうして僕の横を通っていった。目が合うことはなかった。ただ、肩がどすんとぶつかった。

「怒ら

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