二人、滑っていく星の下で

 目が合えば、スーツを着た女の人は足早に去っていった。雨足が強くなっていく。公園の芝は水を吸い、街灯の白い光で淡くきらめいていた。ベンチに腰掛けたまま上げていた顔を下ろしたら、胸がひざにくっついて。重たい頭。こみ上げてくる胃液。また吐いた。吐いて、雨に濡れた手の甲で口元を拭えば、肌がぬるり。口からアルコールが蒸発していくような気がした。

 ちらつく。こずえの下に溶けていった黒い背中が。彼女の手にしていたビニール傘が。雨に打たれる音が聞こえてくる。やかましい。関わり合いたくなかったから、女の人は歩調を速めたんだろう。きっとそうなんだろう。

 それでいいと思った。半端に手を差し伸べられるのは、なによりも気に入らないことだ。中途半端なら必要ない。優しい人だ。自分を放っておいてくれる。安易に関わろうとしてこない。安堵している自分がいる。生半可な同情や心配なら、最初からいらないんだ。そんなもの、受け取っても余計、苦しくなるだけなんだから。

 汚れた手が洗い流されていく。足元に目玉を落としたら、後ろのほうで足音がした。近い。また誰か、公園を通り抜けようとしているんだろうか。芯の抜けた上体をえいやと起こし、振り返ってみたら、だらりと垂れた手が缶に当たって。ビールがしゅわしゅわこぼれていく。

 どうでもよくなって、前を見つめた。そうしたら、横で気配がした。一瞥すれば、若い女の人がいた。傘は持っていなかった。短い髪が、おでこやほっぺたに張りついている。薄着だった。水を含んで重たそうな、丈の短いグレーのパンツ。白いTシャツが透けて、黄緑の下着がうっすら見えた。姿勢がいい。切れ長の目に、ほんの一瞬、顔を触られた。

 女の人は無言だった。真っ黒い髪から水滴がぽたぽた垂れていく。薄い唇は少し開いていた。肌は青白い。指は痩せ、ほおはこけていた。こちらも、なにも言わなかった。足に力を入れたら、靴の底が沈んでいくようだった。背中を丸めたまま座っていたら、女の人の息遣いが耳に触れて。

 どうして隣に腰掛けたんだろう。ベンチならほかにいくらでもある。こんな夜中に、一人でなにをしているんだろう。傘も差さず、ずぶ濡れになって、この人は。ぐらつく視界を女の人で満たしたら、女の人も自分をじっと見つめてきた。言葉はなかった。互いのあいだには微笑さえなかった。二人、目と目を重ねた。唇はかすかに開いたまま。そろった前歯の角が見えた。

 足元のビニール袋からチューハイを取り出して、プルタブを鳴らし、飲んだ。飲んで、飲んで、半分くらい一気に流し込んだら、全部出た。汚らしい音がのどからあふれていく。酸っぱい臭味に鼻を噛まれて。それから何度もえずいた。ようやく落ち着いたとき、隣に目を向けたら、女の人はただじっとそこに座っていた。臭いだろうに、不快だろうに、女の人は立とうとしない。ただ背中をまっすぐ伸ばして、そこにいる。

 水がほしくて立ち上がったら、転んでしまった。手に小石が食い込んだ。掴んだ芝は滑り、手からこぼれていく。女の人はこちらを見つめていた。まったく動かない。その黒い瞳に溜まった街灯の白い光を、静かに垂らしてくるだけだった。声さえかけてこなかった。

 公園の水道で水をがぶがぶ飲み、戻ってくれば、女の人はやっぱり座っていた。さっきのようにお尻を下ろす。女の人が息をするたび、薄い胸元がゆっくり動いて。空を仰げば、粒がきらきら輝いていた。二人、肩を並べたまま、夜は深まっていく。雨はやんだ。辺りが青白くなっていく。向こうのほうで、犬を連れた老人が糞を拾っていた。

 痛む頭を押さえながら立ち上がれば、女の人も腰を上げた。何度も振り返った。遠のいていく小さな背中。セミが鳴きはじめる。太陽が地平線にその手をかけた。まだ湿っているであろう白いシャツがまぶしかった。

 それから三日後の夜は、雲一つなかった。星月夜。星座の輪郭がよく見えた。何度も転びそうになりながら、お酒の入った袋を提げて公園へいき、ベンチに座った。蚊の羽音がやかましかった。その日も戻した。戻して、てらてらする右の手のひらを見つめていたら、影が覆いかぶさってきて。顔を上げたら、あの痩せた女の人がいた。無言のまま隣に腰掛け、姿勢よく、その目玉を転がしてきた。その目をそっと、拾い上げた。

 横滑りする星々が映っていた。

                               (了)

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