子どもを産んではいけない
一
出産というものに初めて違和感を覚えたのは、私が中学生の頃でした。あなたが産まれたときです。
風が吹けば田んぼに緑の波が立ち、昼間は蝉の声が、夜はクビキリギスの声がする、そんな夏のことです。当時二十代後半だった叔母が、元気な赤ちゃんを、あなたを産み、私の家にやってきたんです。
あなたを抱く叔母と、その隣に立つ旦那さん、叔母より一回り年上の私の父、そして母。大人たちはみんな破顔していました。赤ちゃん言葉で話しかけたり、小さな手を人差し指でツンツンしたりと、幼子であるあなたをとにかく愛でていて。私の三つ下の妹も、あなたに興味津々でした。
妹は目をキラキラさせながら叔母に訊きました。
「名前はなんていうの?」
「奈々恵(ななえ)よ」
髪の少ない頭を妹がそっと撫でれば、あなたは大声を上げました。鼻水やよだれでいっぱいのしわくちゃな顔。叔母がティッシュに手を伸ばせば、母は目を細めながら言いました。
「奈々恵ちゃん、よく泣くでしょ?」
「夜中なんか眠れなくて大変です」
母たちの会話を聞いていた父が、私を見ながら言いました。
「そういえば、晴子(はるこ)もいっぱい泣いてたな。産まれたときなんか、このままずっと泣き止まないんじゃないかって思ったぐらいだ」
そんな父の言葉に叔父が、あなたのお父さんが、私に向かって微笑みながら言いました。
「生まれてくることができて嬉しかったんだね」
首を傾げずにはいられませんでした。大声で泣いているのに嬉しいだなんて、そんなのおかしい。私は内心そう思ったんです。誰かが涙を流していれば、「なにかあったの?」って、「つらいの?」って、みんな尋ねるでしょう? それなのに、生まれたばかりの赤ちゃんが叫ぶように涙すれば、体をねじるように咽べば、生を受けて喜んでいると解釈するんです。
そんなの変。
私はこのとき、大人たちの言動に矛盾を感じたんです。嬉しさのあまり泣き喚いている人間なんているはずがないのにって。どうして決めつけるのって。
それに生まれてくる前ですら、大人は子どもの気持ちを決めてかかります。母胎の赤ちゃんがお腹を蹴れば、みんなこう言うんです。言葉に反応しているよって。自分たちと会いたがっているんだねって。本当にそうでしょうか? 胎動はもしかしたら産まないでくれというメッセージかもしれないじゃないですか。
昔、親友が教えてくれました。人間は芥川の描き出した河童ではありません。生まれてきたいかと問われても、子どもには答える術がないんです。もっとも、術があったところでどうせ尋ねてなんてもらえないでしょうけど。出てきたがっているなんて妄想に過ぎません。人は誰かの気持ちを決めつけずにはいられないようです。もちろん私だってそうなんでしょうね。
まだ高校生のあなただって、たくさん体験してきたでしょう? 悪天候だと気が滅入るねって言われたことはありませんか? 君はあれのことをこういうふうに思うでしょって言われたことはありませんか? この二十九年間、私は何度もありました。
高校時代、物静かな友人が、親友が一人いたけれど、周りは私に対してよくこう言っていました。
あんな無口で根暗な女と一緒にいてもつまらないでしょって。
そんなことはありませんでした。私は彼女と一緒にいることが楽しかったし、心地よかったんです。彼女は学校を休みがちだったけれど、登校したときにはこちらから挨拶をして、目が合えば微笑みあって、二人で静かにお昼を食べて、ほとんど無言のまま一緒に帰って。たまに声を交換するたび、彼女の考え方が自分と似ていることに安堵して。あの子と過ごす時間がつまらないと思ったことなんて、一度もなかったんです。
「あんな子の相手をさせられて大変だね」
こんな具合で同情の言葉をかけられたこともあったけれど、私には他の人たちの話を聞いているほうがよっぽど苦痛でした。きゃあきゃあはしゃいでいる女の子たちに混ざって笑声を出しているほうが、よっぽど疲れるんです。
その親友は高校を卒業後上京し、しばらくしてから地元に戻ってきて、最後は自らの意志で死んでしまったけれど、その話はまたあとですることにします。私は彼女のことを回顧すると、未だに指先が震えてしまうから。
少し話が逸れたので戻しましょう。冷房の効いたリビングで大人たちがソファーに腰掛けながら談笑しているあいだ、違和感という不快な臭いが部屋中に漂っていました。赤ちゃんは本当は悲しんでいるのかもしれない、生まれてきたくなかったと叫んでいるのかしれない。一人としてそう言わないことが、甚だ疑問だったんです。
「きっと元気に育って、幸せになって、楽しい人生を送ってくれる」
「そうだね、そうに違いない。なんせ俺たちの子なんだから」
叔母たちの言葉を耳にした瞬間、鼻が曲がりました。あなたに笑いかけている叔父と叔母、うんうんと頷いている父と母。この人たちの唇から放たれる強烈な臭気のせいで、じっと座っていられなくなったんです。貧乏揺すりというものをこのとき初めて覚えました。
きっと幸せになれる、そうに違いない。どうしてそんなふうに言えるんでしょうか。しんどいしんどいと口癖のように呟きながら、自分たち大人は日々過ごしているというのに。社会は厳しいところだから今のうちからきちんと勉強しなさいって、口を酸っぱくさせているのに。この子は心躍るような一生を送るだろう。幸福をその腕に抱いて穏やかに暮らしていけるはず。根拠のない自信は、一体どこからやってくるんでしょう。
嘘。この人たちは嘘をついているんじゃないか。人からなにかを騙し取るときのそれや、浮気を隠そうとするときのそれ、あるいは人を傷付けるためのそれ。そうしたあらゆる虚偽よりも、はるかに陰湿な嘘を口からこぼしているんじゃないか。我が子だけは大丈夫。この人たちはそう思い込みたいがために、自分自身に対して虚言を弄しているんじゃないか。そして何度も何度も繰り返されるうちに、嘘は嘘でなくなるようでした。
自分たちの子は将来きっと幸せになる。この台詞は私にとって、童話に出てくる醜い魔女が口にした呪文のようでした。底気味悪いんです。どうして不気味かといえば、自分の子どもだけは幸福になれると、大人が本気で信じているからです。一片の疑いも持ってはいないんです。我が子だけは百パーセント幸せになれると確信しているようなんです。
私にはそれがどうにも理解できず、なんだか末恐ろしくて。自分も結婚して妊娠すれば、いいえ、大人になったら納得できるようになるんじゃないかって、そう思っていました。だけどそれは間違いでした。私は三十を目前にしてもなお、子どもに対する周囲の考え方に頭がついていかないんです。合点がいかないんです。
これでもかというくらい大きな声で泣くあなたを眺めながら、私はぽつりと呟きました。
「幸せになれるかどうかなんて分かんないでしょ」
あなたに夢中の大人たちには、私の独り言は聞こえなかったようでした。だけど近くにいた妹は、しおりだけはこちらをじっと見つめてきて。私はこのとき、まさか将来、しおりと出産のことで激しく言い争うことになるだなんて、想像もしていませんでした。
ところで、幸せとはなんだと思いますか? 健康で、周囲の人たちと同じことが自分にもできて、それこそ成績は平均より少し上で、運動も人並み以上にでき、性格は明るく、人に好かれ、友人や恋人がいる。それが幸せなんだろうって、中学生の私は思っていました。
ぼんやりとでも周りを見渡してみれば、勉強が苦手で運動音痴、人と喋ることが得意でなくいつだってモジモジしてしまい、異性に好かれたこともない、そんな人は大勢いて。生まれたばかりの赤ん坊が幸せになれる保証なんて、どこを探しても見当たらない。幸せになれる人もいれば、なれない人もいる。それが当時の私の見方でした。
けれどそんなものは大した幸せではなく、それどころか人間は結局不幸になるんだって、私は後々になって気付かされました。
苦痛や不幸は植物みたいにあらゆるところで根を張っています。生まれてきたからには逃れられないことがあるんです。学校だろうが世間だろうが、あるいは家のなかだろうが、会いたくもない人と顔を合わせなければならないのは、そのうちの一つです。とりわけ中学や高校は閉じた環境ですから、絶対に避けることができません。馬が合わない相手と一緒に出掛けなければならないんです。
交友関係は重要です。なんせ人は、とりわけ女は、陰口をむしゃむしゃ食べながら生きているんですから。少しでも気に入らないところがあれば悪口悪口。あるカップルが身近にいれば、当人たちから見えないところで陰言陰言。あの子の彼氏はマジでキモい、あんな不細工な男のなにがいいのか分からない。あなたも聞かされたはずです。こうした唾罵がエスカレートし、上級生のクラスでいじめがあったという噂も耳にしたことがありました。
生きている限り、いえ、穏やかに生きていくためには、たとえ嫌な気持ちを飲み込んででも、他人と笑顔で付き合わなければならないんです。あなたも十分承知しているでしょう? あなたも女の子ですから、陰から口撃される痛さを、怖さを、いっぱい体験してきたでしょう? そして仮にあなたが男の子だったとしても、結局は同じことです。引きちぎっても引きちぎっても、他人という蔓は巻き付いてくるんですから。
また、ほとんどの人が欲したものを満足に得ることができません。学歴などは顕著で、いくら勉強に励もうとも、志望校に落ちることが往々にしてあるんです。金銭的な理由から買いたいものに手が出せないこともあるでしょう。貧しい家庭で育った男の子が同級生にいたけれど、彼のお昼ご飯はいつだって小さなパン一つでした。それに自分で切っているのが一目で分かるほど、髪型も不格好で。持ち物には痛みが目立ち、リュックの肩紐なんかは片方ちぎれていました。
好きな人と恋人関係になれないというのも、分かりやすい例かもしれません。失恋なんて道端の石ころより転がっているでしょう? 蹴っ飛ばしたところで虚しいだけの悲恋が至るところに。
仮になにかを手中に収めたとしても、今度はそれに満足できなくなるんです。あるいは失うんです。進学校に合格しても、今度はよりよい大学を目指そうとする。今あるスマートフォンは買ったばかりだけど、新型の端末がほしい。恋仲になれても数週間から数ヶ月で別れてしまう。多くは滑り落ちていくんです。だから、失くしちゃうかもしれないとびくびくしてしまって。
とりわけ異性関係で不安になる人は多いようですね。いわゆる甘酸っぱい恋なんてものは私には無縁だったけれど、それでも、愛しい人が消えてしまう、あるいは消えてしまうかもしれないという恐ろしさは、痛いほどよく分かります。私の親友はもう、どこにもいないから。
そして、老いていくこと。私は父方の祖母に見せつけられました。昔はとても元気で、旅行をするのが大好きだった私の祖母、あなたにとっての祖母。祖母は、おばあちゃんは、年齢を重ねていくにつれて、足腰がどんどん弱くなっていきました。おばあちゃんが死んだとき、あなたはまだ物心がついていなかったので、あまり覚えていないでしょうね。
だけど私は忘れることができません。思うように動かなくなった足を恨めしそうに見つめていた、おばあちゃんの白っぽい瞳を。水分がなくなり干からびてしまった、汚れた肌を。曲がった腰をつらそうに撫でていたしわくちゃな手を。歯が抜け落ち空洞になってしまった口内を。痛みに痛んだ白くて長い髪の毛を。変形し、黄ばんでしまった手足の爪を。
今でもありありと目に浮かびます。私は鏡を見るたび、肌が粟立つんです。自分の黒くて艶のある短めの髪が、薄い唇が、弾力のある肌が、白い歯が、いずれおばあちゃんのようになっていく。この事実に、左の乳房を舐められるんです。
私は鏡が嫌いです。ほとんど化粧をしていないでしょう? できないんです。なるべく自分の姿を映したくないから。老いを実感したくないから。だから私はいつまで経ってもメイクが下手くそなままで。高校生になったあなたにオシャレを教えてあげられなくて、最近残念に思っています。あなたにペディキュアを塗ってあげるくらいなら、してあげられるかもしれません。今度会ったときにでもどうですか?
急激に老いていったおばあちゃんは、最後は介護施設に送られて、周囲に馴染めないまま一人死んでいきました。おばあちゃんは元気だった頃によく言っていました。おじいちゃんとは結婚したくなかったって、あの人の人生を支えるのはもう嫌だ、生まれ変わったら違う相手がいいって。
人はやりたくもないことをやり続け、そうしているうちに老けていき、最後には必ず死んでいく。だったらどうして、私たちは生きているんでしょう? おばあちゃんの死後、私は考えるようになりました。なにをしても無駄なんじゃないかって。
そして、なんで無意味なことをしているんだろうと自分に問えば、たどり着く答えはそう、親が私を産んだからです。現実という名の植物には鋭いトゲや葉があって、それで心を切ってしまう。その原因は、親が出産することを選んだから。出産こそがあらゆる出来事の根本的な原因なんだと、私は中学生のときから思っていました。
二
高校生の頃です。私は母に料理を仕込まれました。母はことあるごとに言っていました。家事もできないような女は幸せになれないんだよって。結婚できずに行き遅れ、もらい手がなくなること。それが母の言う、女としての不幸でした。
包丁でジャガイモの芽を取りながら、私は食器を洗っている母に訊きました。
「女の幸せってなに?」
「結婚して、妊娠して、子どもを産んで、育てることよ」
「だったらお母さんは今幸せ?」
微笑みながら首肯する母の姿に、私は中学生のときに感じた嘘の臭気を思い出しました。私には母が現状に満足しているようには見えなかったんです。父とはしょっちゅう言い争いをしていたし、どれだけ家事をしたところで感謝もされません。近所で暮らしている自分の親の世話もしなければならず、毎日ため息ばかり。
そのうえ、私はできの悪い娘でした。母が望むような聡明な女の子でも、父が好むような活発な女の子でもなくて。一方、妹のしおりはやんちゃな子で、母はいつも手を焼いていました。
もし仮に女としての幸せがこんなものだというのなら、幸福な女なんて一人としていないんじゃないでしょうか。そう考えたとき、私はあなたを思い出しました。あなたも女です。清福なんて得られないかもしれない。
不幸。女は不幸なんでしょうか。じゃあ男は? 男は幸せなんでしょうか。学校で悪ふざけをしていた男子を眺めながら、町を走り回っていた小学生の男の子を目で追いかけながら、最も身近な父の姿をじっと見つめながら、私はよく、男と女を比べていました。
父は朝から晩まで働き、たまの休みには寝てばかり。自由に使えるお金は少ないようで、母とのあいだでよくいさかいが起こっていました。娘である私や妹と話すこともあまりなくて。趣味という趣味もないらしく、楽しみといえば、せいぜい誰かと飲みに行くか、家でお酒を片手にテレビを観るか、いずれにせよ飲酒くらいのようでした。
父は幸せなんでしょうか。毎日が楽しいって心の底から言えるんでしょうか。幸福ですかと問われたとき、本心から肯定できる人なんているんでしょうか。もしいたとしても、本当は無意識のうちにそう思い込もうとしているだけなんじゃないんでしょうか。誰も幸福そうには見えません。性差はないんです。誰もが不幸に重しをつけて胸底に沈めようとしている。私にはそう思えてならなかったんです。
三
そして高校生だったこの頃、一つの疑問が芽を吹きました。母が私を産んだのは母自身のためだったんじゃないか、と。いえ、母だけじゃなくて父も、叔父や叔母だって。誰もが自分の、自分たちのために子どもを作り、産んでいるんじゃないか。二葉は大きくなるばかりでした。
将来子どもがほしいかどうか、私は同級生に尋ねてみました。ほしいと答える子がそれなりにいて、その理由を訊いてみて驚きました。
なんとなくほしいじゃん。産んだら幸せになれそう。好きな人の子どもだったらほしいに決まってる。産むのが普通だから。産まないと周りにうるさく言われるから。いっぺん子どもを育ててみたいから。
どれもこれも全部自分のため。さすがに男の子に訊くことはできなかったけれど、私は首を捻らずにはいられなくて。
私は実際に子どもを産んだ人から話を聞いてみたくなりました。だけど、「どうして産んだの?」と親に尋ねるのはなんだか気が引けて。どんな答えが返ってくるかな、どんな理由なのかな。そう考えると、口から言葉が出てこなくて。
知ってはいけない、訊いてはいけない。そんなふうに感じていたんです。いざ母を前にすると、入ってはいけない場所に足を踏み入れたときのような、そんな気持ちになってしまって。父に訊くなんてなおさらできませんでした。
だから私は、親の次に身近な大人だった叔母に訊いてみることにしたんです。あなたのお母さんがなぜあなたを産もうと思ったのか、とても気になって。
明るい色のスカートとカーディガンを着こなす綺麗な叔母が、あなたを連れてうちへ遊びにきたときです。母がいないタイミングを見計らい、リビングのソファーに腰掛けていた叔母に話しかけました。最初は叔母が身に着けていた大きめのイヤリングを褒め、続いてピアスの穴の開け方を教えてもらい、それから本題に入りました。
「奈々ちゃんを妊娠したって分かったとき、どう思った?」
「それはもう、とっても嬉しかったなぁ」
そのとき、独りお人形さんで遊んでいた幼いあなたが、私の足にしがみついてきたのをよく覚えています。一緒におままごとをしようって、笑顔で言ってきましたね。あなたは忘れているかもしれません。だけどあなたは昔から、私とだけ遊びたがって。私はあなたの柔らかな癖っ毛に指を絡ませながら、叔母に対して言いました。
「不安とかはなかったの?」
「もちろんあったよ。元気に生まれてきてくれるかなって、自分の体は大丈夫かなって、いつも思ってたしね。それに母親学級に行くための手続きとか、やることもたくさんあったから」
「やっぱり産むのはやめようって思ったことはなかった?」
「妊娠中は体のバランスが崩れちゃうから、いろいろ悩んだこともあったよ。でも産みたいって気持ちのほうが強かったなぁ」
長い横髪を耳にかけながら、叔母はにこりと笑いました。
「どうして?」
「昔から子どもがほしかったの。ほら、出産って女にしかできないでしょ? 産んで、育てて、好きな人と幸せな家庭を作りたいなって、そう思ってたのよ。大好きな相手と、その分身と、一緒に暮らしていきたかったしね」
やっぱり、やっぱり自分のためでした。ほしかったから、願いを叶えたかったから、叔母はあなたを産んだんです。それ以外の理由なんてありません。叔母は子どもを、あなたを、自らの欲求を満たすためにこの世へ産み落としたんです。いえ、あなただけではありません。私も、私の本当の友達だったあの子も、親の勝手で生まれてきたんです。
「自分のことは考えたのに、奈々ちゃんのことは考えなかったの?」
「どういう意味?」
叔母の声色が変わりました。ほんの少しだけ低くなったんです。化粧の濃い顔は綻ばせたまま。
「奈々ちゃんはもしかしたら不幸になるかもしれない。だったら産まないほうがいいのかもしれない。そんなふうには思わなかった?」
今でも忘れません。なにこの子、という怪訝の色に染まった叔母の瞳を。中央に寄った偽物の眉を。なにかを問いたげな目顔を。
ジャージ姿の私の太ももにほっぺたを擦りつけてくるあなた。そんなあなたを叔母は強引に引き寄せ、作り物だとはっきり分かるような笑顔を添えながら、言いました。
「そんなふうには思わなかったかな」
叔母は私をおかしな子だとみなしたんでしょう。この日を境に、私があなたの相手をしていると、微妙に眉を曇らせながチラチラ視線を送ってくるようになって。いい顔をしなくなったんです。こっちにきなさいってたまに言われていたでしょう? 覚えていませんか?
こうして少しずつ、けれども確実に、私は身近な人から距離を置かれるようになりました。それを決定づけたのが、台所で母と大喧嘩をしたときです。些細なことから激しい口論になり、これまで母には訊くまいと思っていたことを、勢い任せに口にしてしまったんです。
「だったらどうして私なんかを産んだのさ!」
そのときの母の答えは、叔母のそれと大差はなくて。
私は自分の太ももにこぶしを叩きつけながら、大声で言いました。
「なんで私のことをもっとちゃんと考えてくれなかったの!」
私の言葉を、母は理解できなかったようでした。母は涙を流しながら、近くにあった調味料の小瓶やらボウルやらを投げつけてきて。そして絶叫したんです。
「別にあんたを産みたくて産んだわけじゃない!」
そう、母は私がほしかったんじゃないんです。母がほしかったのは子どもという存在だったんです。痛みに耐えた理由は、ただただそれだけ。
この言い争いは父にも伝わり、あまり酷いことを言うなと頬をぶたれました。こうして私は家族から徐々に腫れ物扱いされていって。妹も空気を読んで私とあまり関わらなくなりました。
人は自分のために子を持ちたがる。生を受ける子どものことなんてこれっぽちも考えていない。高校生の時点で私はそう確信したんです。
悪魔的、ただただ悪魔的な行為だと、私は出産を忌むようになっていって。子を産むことの素晴らしさや尊さを聞かされるたび、歯を食い縛りました。それこそが人の一番の幸せなんだ、そんな風潮に触れるたび、足の指を丸めました。綺麗な装飾品で飾られた言葉。純白の布に包まれた発言。聞こえのいい全てを取り払ってみれば、残ったのは自分のためという、おどろおどろしい蛇蝎だったんです。
だけど子どものことを考えていないのは、出産を望んだ人たちだけではありませんでした。自ら産まないと選択している人ですら、その理由は自分のためなんです。
自分のために使える時間が少なくなる。子育てには気力と体力が必要で、精神的にも肉体的にも相当きつい。趣味に使えるお金がなくなる。もっとたくさん仕事に打ち込みたい。
多くの人は子どものことなんか考えていないんです。産めば子どもが苦しむかもしれない。いえ、そもそも人生は苦楚だらけ。もしも分娩に挑めばそれをなかったことには絶対にできない。
だったら産まないほうがいい、ほしがらないほうがいい、それが子どものためなんだ。誰もそんなふうに沈思しないんです。自分のことしか頭にないんです。人のことを考えて行動しなさいって口では何度も言いながら。
私が、私がおかしいんじゃないか。周囲は正しくて、自分が間違っているんじゃないか。妊婦さんを見て小気味悪さを覚える自分。赤ちゃんを連れている母親の笑顔に違和感を覚える自分。私は疎外感にケタケタ笑われていました。お前は異邦人だって。
四
そんなときでした。自分と似たような意見を持っていた同級生と、クラスが同じになったんです。その人こそ、自ら死んでしまった私の親友でした。私が大好きだった女の子。
眼鏡が似合う子でした。レンズの向こうにある切れ長の目は、黒目がとても大きくて。目玉と目玉が触れ合えば、すぐに顔を伏せてしまう、そんな仕草が可愛らしくて。
そうそう、烏の濡羽色をした髪はとっても綺麗だったんですよ。あなたと同じく癖っ毛で、触り心地がとてもよくて。彼女の短めの髪に手ぐしをするのが、私は好きでした。
彼女は休みがちで、たまに学校にきたかと思えば、ブツブツと独り言ばかり言っていました。教室でも浮いていて、私も最初は変わった子だなって思っていました。
そんな彼女と、光(ひかる)ちゃんと仲良くなったきっかけは、私が彼女の独り言を聞いたことでした。お昼休み何人かの女子たちが、男性アイドルの話で盛り上がっていて。私は窓際の席に座りながら、ぼんやりとその会話を盗み聞きしていました。
「マジでカッコいいよね!」
「結婚したいわー。アイドルと結婚できたら勝ち組でしょ」
「きっと子どもも美形なんだろうなぁ。産むならやっぱイケメンの子だよね」
「アイドルと結婚して子どもを産めば絶対幸せになれるよね」
「出会ってデキ婚狙えば?」
「ホント、狙っちゃおうかな。イケメンの遺伝子ほしいし」
内容が内容だっただけに、貧乏揺すりをしながら制服のスカートをぎゅっと握り締めていました。
そんなとき、ちょうど正面の席に座っていた光ちゃんの頭が、徐ろに動いたんです。綺麗な横顔が視界に入ってきて。そして、きゃあきゃあ騒いでいる女子たちを凝視しながら、光ちゃんがぽつりと言いました。言ったんです。
「子どもは自分が幸せになるための道具なんだね」
前髪の隙間からちらりと見えた光ちゃんの鋭い目つきに、私は胸を刺されました。気付けば私は、彼女のなで肩をトントンと叩いていて。びくりと体を揺らしながら、こわごわといった様子で振り向いてきた光ちゃん。ちょうどそのとき、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴りました。
「そんなのおかしいよね」
私の言葉に、光ちゃんは目を剥いていました。けれどすぐ、小さく頷いてくれて。
その日から、私は光ちゃんと行動するようになりました。もっとも、光ちゃんは普段は無口で、会話は基本的にありません。私も自分からはほとんど話しかけませんでした。それでも登下校を一緒にするのが、お昼を二人で食べるのがとても楽しくて。声と声を交換しなくても、彼女が隣にいるだけで、なんだかホッとしたんです。
だけどある日、彼女のほうからこんな話をしてくれました。
「芥川龍之介の『河童』って読んだことある?」
「ううん、ないけど」
梅雨どきのその日、駅のホームの隅っこで電車がやってくるのを待っていました。雨風が強い日でした。遠くのほうにある山は、雲のせいでぼやけていて。光ちゃんは近くにある波紋だらけの水田を、目を細くしながら眺めていました。まだ幼い稲はねっとりとした風に絡みつかれていて。私たちから見てうんと右側に傾いていました。
光ちゃんは横髪を手で押さえながら、小さな声で言いました。
「その作品に出てくる河童はね、お腹のなかにいるときに自分で選べるんだよ」
「なにを選べるの?」
「生まれたいか生まれたくないか。親にね、お前は生まれてきたいかって訊かれるの」
「生まれてきたくないって言ったらどうなるの?」
「生まれずに済むよう処置されるの」
近くにある踏切が甲高い声を上げました。
「子どもを産むのって人さらいと同じだよね」
光ちゃんは呟くように言いました。
「子どもは同意なく親元に連れてこられる」
光ちゃんの手の甲が一瞬、私の手の甲に触れました。その肌は酷くひんやりしていて。光ちゃんはこちらを見てはいなかったけれど、私は首を縦に振りました。
電車の座席で肩を並べ、ごとりごとりと二人揺られて。
彼女の長いまつ毛を見つめながら私は考えました。そう、生まれてくることは拉致と同じなんだって。自分の意思とは無関係に人生という部屋に閉じ込められて、ルールに従って行動しなければならない。決まりを破れば痛い目に遭う。あれをやれ、これをやれと強要され、しなければ、あるいはできなければ、これでもかと心を傷付けられて。絶えず人の気持ちを考えさせられ、自分の感情は無視される。部屋から逃げようにも、恐怖のせいで逃げられない。
「わたしたちは芥川の描き出した河童じゃない」
光ちゃんは消え入りそうな声で言いました。
「生まれてくるかどうか、自分で決められたらよかったのにね」
光ちゃんの話を聞いてから、出産とは子どもを無理矢理連れ去ってくることなんだって、私はそう思うようになりました。自分の気持ちとは関係なくこの世に産み落とされて、気付いたときにはもう遅い。四苦八苦の鎖で手足を繋がれ、人間という名前の刻まれた首輪をさせられて。
しかも、こんなのは嫌だと声を出すことさえ許されません。この湿っぽくて光のない室内から出たいと叫ぼうものなら、ここは本当はとてもいい場所だって、あるいは周りにいる人が悲しむぞって、徹底的に諭されるんです。
私たちに発言権なんてありません。この場へ連れてきてもらったことに対する感謝の言葉、それ以外を口にしてはいけない決まりなんです。見かけだけの美しさや素晴らしさを否定してはいけません。本当は至るところが傷んでいるだなんて、腐っているだなんて言おうものなら、それこそ病気扱いです。
光ちゃんの言う通り、分娩とは人さらい。全てが親の勝手です。産んでくれと頼んだ子どもは一人もいません。にもかかわらず、育ててやっているとか、養ってやっているとか、そういうふうに叱る親は山のようにいて。仮に誘拐犯が被害者に対して、「お前をさらってやったんだから感謝しろ」と叫ぼうものなら、誰もが非難するでしょうに。
私は光ちゃんといるときだけ、自分はやっぱりおかしくないんだと安心できました。私は同級生の男の子よりも、光ちゃんの小さな背中ばかりを、この目で追っていたんです。
五
秋口だったでしょうか、光ちゃんとコンビニに行きました。そこで、幼稚園児らしき男の子が棚と棚のあいだで泣いていて。どうしたんだろうと流し目で見ていると、真っ黒なジャージを着た母親らしき若い女の人がツカツカと近寄っていって。次の瞬間、女性はその子の頬を思い切りぶちました。男の子はよろめき、転んでしまって。
「ぎゃあぎゃあうるさい! 静かにしてよね!」
思わず息を呑めば、隣で光ちゃんが言いました。
「やっぱり芥川は正しい」
光ちゃんはいつもそうでした。悲しい事件や事故が起こるたび、見るに耐えない場面に遭遇するたび、寂しそうな目をしながら呟くんです。人生は地獄よりも地獄的だって。高校近くの国道で下級生がバイクに轢かれたときは、こうも言っていました。
「轢いた人も轢かれた人も、生まれてきたせいでこんなことに」
クラスの男の子が不登校になったときは、空っぽになった席を見つめながら、こう呟いていました。
「生まれてきちゃったせいで、現実に押しつぶされちゃった」
光ちゃんは普段から携帯でニュースの記事を読んでいたけれど、虐待や殺人といった暗い出来事がどこかであったと知るたびに、その少し荒れた唇から、ぽとりぽとりと言葉をこぼしていました。
「この人たちの親がこの人たちを産まなかったらよかったのに」
私は光ちゃんの声を聞くたびに、後ろからそっと抱き締められたような気持ちになりました。彼女が、彼女だけが、私のばらばらで、けれども確かな想いを、一つの言葉にしてくれたんです。生まれてさえこなければ。親が子を産まなければ。光ちゃんが私に教えてくれたんです。自分はおかしくない、まともなんだって。
「どうしてこんな悲惨なことが起こってしまったのでしょうか」
情報番組のキャスターやコメンテーターがこうした台詞を口にするたび、私は今でも心のなかで思います。それぞれの親が、被害者と加害者を産んだからだよって。そして親が子を産む理由は、例外なく親自身の勝手なんだよって。親が出産さえ望まなければ、誰も苦しまずに済む。それが私にとっての、そして今はもういない光ちゃんにとっての、真実でした。
六
高校を卒業すると同時に、私たちは離れ離れになりました。光ちゃんは親の希望により、東京都内にある偏差値の高い大学へと進学したんです。一方私は、県内の国立大学へ。光ちゃんが引っ越しをする前日、私たちは一日中一緒にいました。ほとんど無言のままあちこちをぶらぶらして、最後は小さな川原で橙黄色に染まった水の流れを眺めました。二人、手を握りながら。時折、目と目で抱き合いながら。メールするねと約束して。
大学生になってから、私は人とあまり関わらなくなりました。友人もいるにはいたけれど、付き合いは所詮上辺だけ。父や母、親族からの扱いは相変わらずで。三つ下の妹も、私のことを露骨に避けるようになりました。恐らく、私のこんな独語でも耳にしたんでしょう。
「親が被害者を産みさえしなければ、怖い思いをすることも、死ぬこともなかったのに」
私は光ちゃんみたいに独り言を言うようになっていたんです。
ちょうどこのとき、あなたは小学校に上がりましたね。人見知りさんのあなたは普段は人とあんまり喋らないのに、どういうわけか私の前ではにこにこ笑ってくれました。あなたが私と遊びたがるのを、叔母は快く思っていなかったでしょうね。だけど私と会うたびに嬉々とした表情を浮かべるあなた。当時の叔母も、
「晴子お姉ちゃんと遊んだら駄目よ」
とは言えなかったみたいですね。もっとも、あなたが中学生になってからは、私が変なやつだと吹き込んでいたようですけど。
まだまだ幼いあなたと七並べをするたびに、あるいは携帯ゲーム機で遊ぶたびに、私はこう思っていました。この先、この子にもつらいことが山ほど待ち構えているんだなって。いくら迂回路を探しても、どれだけ慎重に歩を進めても、躓き、転び、膝や手を擦り剥いて、だけど引き起こしてくれる誰かはいない。目的地にたどり着けるとは限らない、そんな道途を歩き続けなければならない。
歯が生え変わる途中のあなたが笑うたび、私は同情せずにはいられませんでした。こんなにも愛くるしいあなたですら、いずれは大人の仲間入りをし、見た目も心も醜くなっていく。いくつもの壁にぶち当たり、欲したものは手にできず、病や生理痛に苦しめられ、親を始めとした周囲の人間を死別や離別で失っていく。顔も見たくない人間と喋ることを強いられ、やりたくもないことにまとわりつかれ、肝心な場面で自分の心身に振り回される。
あなたに降りかかるであろうあらゆる現実を想像したとき、私はあなたの可愛らしい手をぎゅっと握らずにはいられませんでした。告白しましょう。私はあなたを哀れんでいたんです。そしてそれは、今もそう。
私があなたを可愛がったのは、せめて子どものうちくらいなにも知らないまま楽しい思いをしてほしかったから。あなたは友達のところへ遊びに行かない。そんな話をちらと聞いていたから。あなたが私と一緒にいたいと望むなら、気が済むまで相手をしてあげたかったんです。
人間の不幸という鎖を手首足首に、人間というネームプレートを首に、そして、寿命というゼンマイを巻かれているあなた。
笑声に破顔、悪ふざけに可愛らしい嘘、そして、一生懸命描いてくれた、似顔絵という贈り物。温かくて柔らかい、そんなあなたに触れるたび、私は背中を丸めずにはいられませんでした。
七
こんなふうに人生を悪く捉えていると、決まって投げつけられる台詞があるんです。
お前は悲観的に考え過ぎている。未来は自分で変えていくものだ。幸せなのか不幸なのか、それはそれぞれが決めることなんだ。
どれも聞いたことがあるでしょう? だけど自分の意志とは関係なく命というものを与えられる事実に、老いていくという現実。心身は病苦に噛み付かれ、最終的に行き着くのは死という暗闇。人として生まれた以上、誰にも避けられないことがあるんです。視線を逸らしさえしなければ誰の目にも映るはずです。変えられない未来があり、避けられない苦痛がある。それだけでもう、人は不幸せ。
もちろん、こうしたことに目をつぶれば、それこそ手で目元を覆ってしまえば、耳を塞いでしまえば、仮に知ってしまっても黙ってさえいれば、考えないようにすれば、多くの苦楚から隠れられるのかもしれません。つきまとってくる恐ろしさから解放されるのかもしれません。だけどそれでいいんでしょうか。ましてや子どもを産むような人間がこうしたことを脇に置いておくなんて。
ちゃんと現実を見ろって、みんなそう言うじゃないですか。社会は厳しい、世間は甘くないって、壊れたレコードみたいに言っているじゃないですか。人間を襲うあらゆる苦痛を、不幸を、恐怖を直視せず、深く考えない、そんな親の元に生まれてしまったら子どもが不憫なだけです。
いえ、たとえ親がどれだけ思い悩んだとしても、生まれてきた子どもは等しく気の毒です。あなたもまた、私にとっては憐れな存在です。あなたは親のわがままで生まれてきて、その結果冷たい苦辛の雨に打たれ続けるんですから。濡れネズミになるんですから。
私は自分が思っていることを包み隠さず話したいと思っています。私の言動が一般的にはおかしいと理解しているはずなのに、それでもなお、あなたはこう訊いてきたから。
「わたしが子どもを産みたいって言ったら、晴ちゃんはどうする?」
そう、訊いてくれたから。
八
大学三年生の夏でした。光ちゃんが数ヶ月ぶりに連絡をくれたんです。東京での生活は大変だったようで、高校卒業後はメールのやり取りも随分と減っていました。彼女が帰郷するたびに会ってはいたけれど。
光ちゃんから届いたメッセージは、とても短い内容でした。たった一言だったんです。
大学、中退しちゃった。
私はすぐさま彼女に会いに行きました。待ち合わせ場所は、国道沿いの郵便局の裏手にある喫茶店。あなたとも何度か訪れたことがありますね。あそこで、私たちは久しぶりに顔を合わせました。その年の春以来です。
光ちゃんは上京してからというもの、少しずつ痩せていて、だけどその何ヶ月で特に体重が落ちたようでした。頬はすっかり痩せこけ、唇は荒れに荒れ、首の筋が浮き出ていたんです。あの夏は大変な猛暑だったけれど、彼女は真っ黒な長袖のシャツを着ていました。にもかかわらず、服の上からでも腕の細さが分かったくらいです。
それに光ちゃんの肌は、普段から外で遊ばないあなた以上に青白くて。店内の薄暗い雰囲気と相まって、その色はなんだか不気味でした。細い首や今にも折れそうな指、それに顔が、肌だけが、ぼうっと浮かんでいるみたいだったんです。それこそまるでおばけのように。
お客さんは私たちしかいませんでした。頼んだアイスティーが運ばれてくると、光ちゃんは隈が目立つ目を落としながら、言いました。どこか自嘲ぎみの掠れ声で。
「学校、やめちゃった」
私は体を乗り出して、机の上の置かれていた光ちゃんの冷っこいこぶしに、自分の手を重ねました。
「おかえり」
私の言葉に、彼女は目を見開いていました。初めて話しかけたときみたいに。
ほんの少しのあいだ見つめ合っていたら、コップのなかの氷がカランと音を立てました。光ちゃんは顔を伏せ、会話はそれきり。互いに言葉を発することはありませんでした。
思えばこのとき、私がもっと話を聞いてあげればよかったのかもしれません。なにがつらくて、どんなことで苦しんでいるのか。あるいは、なにか言ってあげられたならそれが一番だったのかもしれません。
だけど私は、高校時代と同じように光ちゃんに接したんです。それしかできなかったんです。楽観的で前向きな言葉を安易にかけるなんて、とてもじゃないけど無理だったんです。
私たちは知っていましたから。苦しさという植物はあらゆる場所から生えてくることを。どれだけ引きちぎってもなくなることはありません。ただ土で手が汚れ、その葉で指が切れ、血がポタポタと垂れるだけ。あるいは茎にいたアブラムシが指先から腕へと這い上がってきて、思わず声を出さずにはいられない。ただそれだけなんです。
光ちゃんは飲み物にはほとんど口をつけませんでした。二時間ほど聞いていた彼女の息遣い。今でも耳に残っています。
お店を出たとき、光ちゃんは小さな声で言いました。
「晴子ちゃん」
「うん?」
「ごめんね」
ありがとう。それが光ちゃんが面と向かって渡してくれた、最後の言葉でした。えくぼがそっと、添えられた。
その日以降、毎日のようにメールでやり取りをしていたけれど、次第に光ちゃんからの返信が滞るようになりました。何日も連絡がつかないことすら、ままあったんです。
そしてその年の冬、初雪が降った朝のことです。起きてみると、携帯電話の着信ランプが点滅していました。深夜のうちに電話がかかってきていて、留守番電話にメッセージが残されていました。
相手は光ちゃん。
私は目を擦りながら携帯を耳に当てました。そうしたら、ベロベロに酔った光ちゃんの声が吹き込まれていて。内容を聞き取ろうと意識を集中させれば、体が激しく震えました。それは寒さからではなく、光ちゃんのメッセージがあまりにも冷たかったからでした。もう無理だという、絶望の言葉だったんです。
九
「生まれてこなければよかった」
吐き出す息は真っ白だというのに、携帯を握る手は汗でいっぱいになりました。
「人のできることができないの」
私は今でも、光ちゃんの声を鮮明に思い出すことができます。誰かが死んだとき、真っ先に忘れるのはその人の声である。そんな話をどこかで聞いたことがあるけれど、そんなのは嘘っぱちです。私はあの掠れに掠れた声を、ありありと回顧することができるんですから。
「ごめんね晴子ちゃん」
光ちゃんは鼻をすすっていました。
「生きていけないんだ」
時折、しゃっくりをしていました。
「先のことを思うと、怖くて駄目なの」
ふふふ、と笑っていました。
「傷付きたくない」
ガチガチという歯と歯の当たる音が聞こえてきます。
「誰も理解してくれないけど、晴子ちゃんだけは分かってくれる」
人と思うように話せないこと。他人の表情の変化が恐ろしいこと。周囲の目が怖いこと。大きな音を聞かされるたびに心臓が止まりそうになること。誰かの話し声が自分の悪口に聞こえること。挨拶ができず、お礼も言えず、気持ちを言葉にできず、知人と顔を合わせることを想像するだけで息が苦しくなること。
考えれば考えるほどに未来は暗いこと。なにか一つ失敗するだけで、夜も眠れなくなること。弱い自分が憎くてしかたがないこと。大学を卒業したらすぐにでも相手を見つけて結婚し、早く孫を見せてくれと親に言われること。産みたくないという気持ちを決して口にできないこと。子どもを産む人間が、ほしがる他人が、怖くてならないこと。バケモノのように見えること。
光ちゃんは矢継ぎ早に心のなかをさらけ出し、死んでいきました。近所にある小さな川に入ったんです。溺死でした。お酒を浴びるように飲んだあと、心療内科で処方された睡眠導入剤を大量に飲んでから、冷たい水に体を浸したそうです。最後の言葉は、とても短いものでした。
「産まないで、ほしかった」
十
私が光ちゃんの実家まで走っていったとき、ちょうど玄関の扉が開きました。出てきたのは彼女の母親。寝間着のままの母親がよろめいて転べば、あとからやってきた光ちゃんの父親が、そのだらりとした体を後ろから抱えて。
分厚い唇をきつく噛んでいた父親に、濁った目をした母親が言いました。
「なんで、なんであの子が! 光が!」
絶叫に耳を突き刺されました。顔を背けずにはいられませんでした。
けれど同時に、私は眼前の光景から、大人たちが発するあの悪臭を感じ取っていました。光ちゃんが痩せ細るほど苦しみ、自死を選んでしまったのは、産んだ両親のせいでもあるんです。あの人たちが光ちゃんを産みさえしなければ、彼女は悩まずに済んだし、睡眠導入剤に頼る必要も、自分を殺すこともなかったんですから。
そもそも光ちゃんがつらい思いや悲しい体験をすることなんて、最初から分かっていたはずです。親もまた人間として生まれてきて、これまで暮らし続けてきたんですから。自らの経験を思い返すだけで、簡単に気付けるはずなんです。子は必ずしんどい気持ちを抱えるんだってことに。
にもかかわらず、「なぜうちの子がこんなことに」なんて、どうして言えるんでしょうか。私には少しも理解できません。人間は誰もが平等だって、みんな日頃から言っているじゃないですか。確かに差なんてありません。みんな等しく辛酸をなめるんですから。事件や事故に巻き込まれる可能性は、誰にでも。もちろん、自殺するほどもがくことだって、十分にありえて。
私は許せませんでした。自分の子どもだけは苦楚とは無縁に生きていけるという、極めて楽観的な考えを。見るべきものから目を逸らしている、その態度を。心底憎くてなりません。光ちゃんが痛苦に溺れて死んでいったのは、彼女を産んだ親のせいでもあると、私は激しく歯噛みしました。
十一
光ちゃんの両親が車で去っていったあと、私はそばの石垣を殴りつけました。不思議と痛みはありませんでした。手から赤い雫が、あごから透明な雫が、雪化粧の上に落ちていきました。
光ちゃんの最後の連絡相手だったこともあり、私は警察の人に事情を聞かれました。それからすぐ、光ちゃんの両親とも話をしました。私は忘れません。留守番電話の内容を知った警官の、そんなことで、という伏せられた目を。光ちゃんの母親の、そんなことで、という見開かれた目を。光ちゃんの父親の、嘘だろう、という閉じられた目を。なにに幸せを感じるかは人それぞれなんて言いながら、不幸の範囲については一定の制限をかけようとする、世間の人々。
つらい。
この言葉に対し、多くの人が口を揃えて言うんです。世の中にはもっとつらい人がいるんだよって。苦しいのは今だけだよって。きっと幸せになれるよって。昔の人は大変だったんだよって。外国の人はもっと生きにくいんだよって。楽観的で、あるいは都合がよくて、そう、大人の、人間の醜さが詰まっている言葉。耳にするたび、私は頬の裏側を噛まずにはいられません。自分より下を見てみろと、柔らかい笑顔で、あるいは真剣な表情で、平然と言っているんですから。光ちゃんは殺されたんです。卑怯な世間に、そして、彼女の両親に。
「あなたが電話に出てくれてさえいれば……」
去り際、ぽとりと落ちた母親の言葉に、私は胸底で言い返しました。
あなたたちが産みさえしなければ、と。
それが全てでした。光ちゃんが教えてくれた真実でした。私は光ちゃんと出逢えてよかったと思っているし、今でも光ちゃんのことが大好きです。だけど、それでも、光ちゃんの自殺という現実が、私に考えさせるんです。光ちゃんは生まれてこないほうがよかったんじゃないかって。
いえ、断言します。光ちゃんは生まれてこないほうがよかった。ううん、光ちゃんだけじゃない。あなただって。
私は光ちゃんのお葬式には顔を出しませんでした。正確には、会場に入ってすぐ、きびすを返したんです。すすり泣く声や、沈痛な面持ちから発せられる台詞に耐えられなかったんです。
なんで、どうして。みんな一様に、そう口にしていたから。
以来、光ちゃんの家を一度も訪ねていません。お墓参りには毎年行っています。ただ、誰にも会わないように命日を過ぎてから。なにかを供えることや、手を合わせることはしません。だって、光ちゃんはもういないんですから。どこにもいないんです。だから墓地へ行っても、ただじっと墓石を見つめる、それだけです。忘れたくないから。子どもを産めばその子は必ず苦しむということを。
いつかあなたも一緒に行きませんか? 光ちゃんは優しい子でした。綺麗な女の子でした。
もし、もし光ちゃんがあなたと出逢っていたら、あの子はきっと驚いたと思います。
あなたは彼女に似ているから。
面影が、ちょっぴり。
十二
光ちゃんが死んでから、私は眠れなくなりました。お酒を覚え、酔いに身を任せることもしばしばあって。少しでも光ちゃんのことを思い出そうと、彼女の真似をして眼鏡をかけてみたり。だけど、眼鏡一つで心が落ち着くはずもなくて。
自分のことを理解してくれる人はもういない。それはとても恐ろしいことでした。私だけがおかしな人間で、いえ、人間ですらないのかもしれないと、再び考えるようになったんです。光ちゃんもこんなふうに悩乱していたんでしょうか。
私はなにかにすがりたくて、自分を受け入れてくれる人を探し求めるようになりました。選んだのは、大学にいた男の人でした。一瞬でもいい。とにかく自分が気狂いではないと思いたかったんです。みんなと変わらないって信じたかったんです。
私は抱かれました。ほんの少しでいい、なにもかもを忘れたかった。
だけど体を重ねるごとに、相手が変わるごとに、私は異性に触れられるのが怖くなりました。避妊しているとはいえ、自分の行為は出産に繋がるものです。抱かれていた自分を回顧するたび、吐き気さえ覚えました。
あらゆる子どもは親が感じた一瞬の快楽のために生まれてくる。おぞましい。おどろおどろしい。
私は性行為を避けるようになりました。考えるだけで肌が粟立ち、汗が吹き出て、心臓の鼓動が指先にまで伝わってくるんです。子どもをさらおうとする、まさに第一歩。性行為こそ、親と呼ばれる人たちが犯した最も大きな間違い。
こうした行為が平然とできなければ人じゃない。もしそうだというのなら、人でないほうがよっぽどマシなんだ。私は自分にそう言い聞かせるようになりました。
十三
大学を卒業後、私は地元で事務の仕事に就きました。あなたも知っている通り、今でも実家から通っています。大学を出てからこれまで、随分長いこと働いたような、そんな気がします。
誰かと親睦を深めることもなければ恋人ができることもなく、自分自身があの不気味な大人の一員になってからの遊び相手といえば、せいぜいあなたくらい。といっても、あなたには普段学校があるから、会えるのは長期休暇のときだけで。だけどあなたが中学校に上がってからは、ちょくちょく電話をするようになりましたね。私はあなたと通話するのを、日頃からとても楽しみにしているんですよ。
大きくなるにつれて、あなたも他の人たちと同じように私のことを変人扱いして、距離を置くようになるんだろうな。私はあなたと話すたびに、会うたびにそう考えていたけれど、結局高校生になった今でも頻繁に連絡をくれていますね。内心不思議に思っています。私について叔母からいろいろ言われたでしょう? なんせ私のものの見方はおかしいみたいですから。それこそ狂っているそうです。
ところで、仕事場には年上の女性が多く、私はよくこんなことを言われていました。
「早く結婚して子どもを産まないと将来困るわよ」
あなたも女ですし、また私と同じように田舎で育ってきたから、見て聞いて、知っていると思います。結婚はまだなのかという周囲の圧力を。産んで当然だという刷り込みを。孫が見たいという願望を。
「なにがどう困るんですか?」
私が俯き加減で訊けば、返ってくる言葉は大抵同じでした。
「子どもを持たないと幸せになれないからね。それに世間の目もあるし、年を取るとなにかと大変よ。やっぱり介護をしてくれる人がいないとねぇ」
ゾッとしました。自分が老いたときに備えて子どもを持つべきだって、はっきりそう言ったんですから。道具。多くの人たちにとって、子どもとは目的を果たすための手段なんでしょうか。子どもを欲する理由のなかに、いずれは自分の世話をさせたいという醜い動機が含まれている。胃酸が食道を逆流してきたときのような気持ち悪さ。私は世間を代表する社会人の言葉に、激しい嘔気を覚えたんです。
自分のため。
あらゆる人は自分の利益のために子どもを産むんです。結局、誰もが自分の願望や希望を叶えるために子を求めるんです。高校生の頃から持っていた考えは、やっぱり間違っていなかったんです。
子どものことを思うなら産まないほうがいい、いえ、産むべきじゃない。子どもを持ちたいと思っている人たちに対し、はっきりこう言ってやりたい。私は社会というものに触れながら、世間というものに接しながら、少しずつそんな欲求に背中を押されるようになりました。もちろん、周囲からどういう目で見られるかは重々承知で。それでも次第に我慢できなくなっていったんです。独り言がトコトコ他人に向かうようになったんです。
同僚が破顔しながら妊娠の報告をしてくるたび、育児休暇を取るたび、私は気の毒でなりませんでした。彼ら、彼女らの子どもたちのことが。
「先輩は将来何人くらい子どもがほしいですか?」
ある日、後輩の女の子にそう訊かれ、私はこう返しました。
「私は子どものために子どもを産まないの。子どもが好きだから」
彼女は怪訝な表情を浮かべながら頷いていました。
口を閉じていれば、黙っていれば、思っているだけなら、疎まれることもなかったんでしょうね。のちに結婚した妹と出産について言い争うことや、「病院行けば」と吐き捨てられることだって。それでも私は自分を抑えられなかったんです。誰かが出産を話題にするたび、光ちゃんの声が聞こえてくるような気がして。
産まないで、ほしかった。
周囲の人たちの言動をじっと見続けていくうちに、私の、そしてまた光ちゃんの考えは、心にしっかりとした根を張りました。現実という植物に紛れながら、どんどん茎を伸ばして葉を広げ、次第に花を咲かせていって。それは傍から見れば彼岸花のように毒のある花なのかもしれません。それでも私にとってはその花だけが本物で、子どもについて語っているあらゆる大人の態度は、考え方は、造花でした。
十四
いろいろなことが起こる季節、それが夏のようです。あなたが生まれたのも、光ちゃんが大学を中退して帰ってきたのも、そして一緒に暮らしていた妹が、しおりが婚約者を家に連れてきたのも、うんと蒸し暑い時期でした。あせもがたくさんできちゃったって、あなたが私に相談してきたあの夏です。あなたは中学生でしたね。
しおりは婚約者に私を会わせたくはなかったみたいです。私が顔合わせの場に同席すると知って、しおりは母に食い下がっていましたから。
「子どものためを思うなら産まないほうがいい」
こんな口癖を持った身内を紹介したくはなかったんでしょうね。
私のほうも本当は婚約者の顔を拝むつもりはありませんでした。会ったところで変に思われるだけだし、しおりは婚約者に私の悪口を言っているんだろうなって、大体想像がついたから。だけど挨拶くらいはしなければいけないと母に促され、私も顔を出すことになったんです。ベージュを基調とした、小奇麗な格好をさせられて。
しおりと共にスーツ姿でやってきた短髪の婚約者は、顔の彫りが深く、中肉中背でした。毛虫みたいな太い眉が特徴的で、私は彼のことを心のなかで毛虫君と呼んでいました。
「笹谷(ささや)宗一(そういち)です」
玄関先で名乗った毛虫君の声は、うんと低いものでした。
リビングのソファーに腰掛け、みんなで四角い机を囲みました。毛虫君以外は最初、こちらにチラチラと視線を送りながら話をしていて。だけど次第に、和気あいあいとした雰囲気に変わっていきました。私はカステラをフォークで縦に切りながら、雑談をぼんやりと聞いていました。毛虫君の上がった口角を時折見つめながら。
「宗一君の家は父子家庭なんだって?」
父が訊けば、毛虫君は頷きました。
「きっとお父さんもいろいろ大変だったんだろうな」
「そう、だと思います」
「ここまで育ててもらったことに感謝しなくちゃいけないな」
「そう、ですよね」
小さく笑っている毛虫君の返事は、なんだか歯切れが悪いものでした。だけどそれよりも気になったのは父の言葉で。子どもは親に感謝しなければならない。なぜですか? 親は自分の意志で子を産んだはずです。それに出産と子育てはセットです。産みたかったから産んで、育てたかったから育てているんでしょう? だったらどうして、子どもが親に対してありがとうと言わなければならないんですか? 私たちがある日突然親の家の扉を叩いて、「今日から育ててください」と頼んだわけではないんです。
大人特有の異臭がする理屈に、私は貧乏揺すりをせずにはいられませんでした。早く終わってほしいと、時計にばかり目をやって。とにかく居心地が悪かったんです。
カステラを食べ切ってしまい、手持ち無沙汰になったときでした。
「子どもは二人くらいほしいかな。男の子と女の子、一人ずつ」
しおりがこう言ったとき、それまでずっと微笑んでいた毛虫君の表情が強張ったんです。「ね?」としおりが毛虫君に同意を求めれば、そのうんと太い眉が僅かに寄って。だけどすぐ、真っ黒な毛虫と毛虫は離れていきました。
「そうだね」
毛虫君は柔らかな目顔で首肯していたけれど、子どもの話をされたくないような素振りに、私は少し惹かれました。
「ねぇ宗一、名前はなにがいいかな?」
「まだ妊娠もしていないのに、しおりは本当せっかちね」
母に笑われているしおりを、産みたいと口にし続けるしおりを見ていると、湯呑みを持つ手に力が入りました。なんで、どうして。そんな思いが喉の奥を駆けずり回って。飲み下そうとしても駄目でした。言葉が唇をこじ開け、這い出ていったんです。
「どうして産もうとするの?」
案外大きな声だったようで、リビングがしんとなりました。しおりの、両親の、そして毛虫君の目玉が、私のところへ転がってきて。
「なにか言った?」
最初に口を開いたのはしおりでした。母が小声で「やめなさい」と制していたけれど、妹はもう一度同じように訊いてきて。だから私は言いました。はっきりと声にしたんです。
「どうして子どもを産みたがるのか、私には理解できない」
スカートの上に落ちていたカステラのかけらを手で払えば、しおりの小さな瞳が私に飛び掛かってきました。真正面からそれを受け止めれば、小ぶりな唇が噛み付いてきて。
「あたしにはお姉ちゃんの考えてることのほうが理解できないけど」
「どうして?」
「女のくせに子どもがいらないなんておかしいでしょ」
鼻で笑う妹に対し、反論せずにはいられませんでした。
「子どもがほしいなんて、本当自分勝手」
「どこが?」
「子どものことなんてちっとも考えてないから」
「考えてないのはお姉ちゃんのほうでしょ! 未だに独り身でさ!」
「私は子どもを愛しているから、だから産まないって決めてるの」
「そうやっていっつも意味不明なことばっかり言ってさ!」
「いい加減にしないか!」
睨み合う私たちに、父が唾を飛ばしました。
「晴子は出ていきなさい!」
舌打ちをするしおりと、ため息をつく母、トントントンと指で机を叩く父。三人ともほうきです。私というほこりを、別の場所というちりとりに追いやろうとして。妹たちにとって、私はおかしなことばかり言う奇人変人。私はただ、子どものことを思うのなら産まないほうがいいんだって、一貫して主張しているだけなのに。生まれてさえこなければ子どもは不幸にならないし、苦痛を味わうこともなく、幸福を求める必要もない。ただそう言っているだけなのに。
誰も分かってくれない。理解しようとも、考えようとさえしない。
部屋を出てドアノブを握り直したとき、たくさんの目玉が体当たりしてきました。光ちゃんの残した言葉通りです。人の視線は恐ろしい。ぶつかってきた途端、その黒玉からドロドロとした手が伸びてきて、私の喉を締め上げようとするんですから。全身が熱くなって、左の胸がひりひりするんですから。毛虫君もこちらを凝視していて。
私は勢いよくドアを閉め、逃げました。
十五
私はウッドデッキのある庭先へ。どうにもならなくなったとき、いつもここで日向ぼっこをするんです。あなたがまだ小学生の頃、芝生の上でよく縄跳びをしましたね。
歯噛みしていた私を出迎えてくれたのは、私が鉢植えに植えた淡いピンク色のペチュニアでした。ウッドデッキで日陰になっているところに腰を下ろし、後ろに手をつきながら、粘っこい風に揺られている花を眺めました。熱のせいで手のひらが少しかゆくなり、イライラして。
ジリジリと照りつけてくる日差しのせいで、芝生の黄緑は眩しいくらいに光っていました。私は目を細めながら、首筋や頬の汗を手の甲で拭って。そうしていたら、ふと、背後から廊下の軋む音がして。振り返ってみれば、スーツ姿の毛虫君が立っていました。私を見下ろしてくる大きな瞳は、右へ左へ動いていて。
「トイレならあっち」
適当に廊下の奥を指差せば、低い声が耳に触れてきました。
「お姉さんは、晴子さんは、子どもがほしくないんですか?」
「わざわざ言いにきたの?」
熱した茶色い板に爪が食い込みました。
「お前は意味不明なことしか喋らない、気が触れた人間だって」
「そんなことは……」
言葉を濁す毛虫君。
「あなたはほしいの?」
同じことを訊き返せば、彼は黙ってしまいました。
「そもそもほしいとか作るとかって言い方がおかしいのかもね」
蚊の羽音が聞こえてきたので、横髪を手ではたきました。
「子どもはモノじゃない」
それまで静かだった蝉が鳴き始めました。
「どういう、意味だったんですか?」
「なにが?」
「愛しているから産まないって」
「そのままの意味だけど」
手をついたまま首と背中を後ろに倒せば、毛虫君が上下逆さまになりました。着込んでいるせいか、その額は水の玉でいっぱいで。それでも彼は手で顔をあおいだり、ネクタイを緩めたり、上着を脱いだりはせず、ただじっとこちらを見返してきて。私の言葉を待っているようでした。だから言いました。理解なんてされないと分かっていながら。
「私は子どものために子どもを産まないって決めてるの」
「子どもの、ために……」
「産みさえしなければ子どもは苦しまずに済む。そうでしょ?」
私は口角を上げてみせました。毛虫君は目を剥いていて、彼の下まつ毛がうんと長いことに、そのとき気付きました。
引いているんだろうな。なんだこの女はって、こいつは病んでるって、そう思っているんだろうな。私はそんなふうに考えていました。だけどそれは間違っていたんです。
想像もしていませんでした。毛虫君がこくりと頷いたんです。その瞬間、辺りがとても静かになりました。蝉の叫びも、風の口笛も、車やバイクの唸り声も、全部どこかに消えていって。滴り落ちて弾けた汗の音だけが、聞こえた気がしました。
「ねぇ」
「はい」
「もっと聞いてくれる?」
「聞きたいです」
私は毛虫君と話をするようになりました。毛虫君は私に気持ち悪いとは言わなかったんです。渋面を向けてはこなかったんです。
私の言葉を聞こうとしてくれたのは、聞いてくれたのは、彼と光ちゃんと、そしてあなただけでした。
十六
籍を入れると同時にしおりは家を出て、近くのアパートで彼と二人暮らしを始めました。私はそんな毛虫君と連絡先を交換したんです。ほとんど使ったことのないコミュニケーションアプリを介して、文字だけで喋るようになったんです。通話はしませんでした。
私はここまで書いてきたようなことを、毛虫君にも一から話しました。少しずつ、長い時間をかけて。とにかく、子どものことを想うなら産まないほうがいい、そんな自分の考えをはっきりと伝えたんです。毛虫君は私の言葉に耳を傾けてくれました。ブロックされたり、無視されたりすることはなかったんです。
彼は子どもを持つことに不安を覚えているようでした。
「運動が苦手で、頭が悪くて、容姿も微妙。かといってなにか特別な才能があるわけでもない。なにかに当たってしまうことも多い。そんな自分のような人間の遺伝子を受け継げば、子どもは大変な思いをしますよね」
「宗一君がどんな人間かなんて関係ない。生まれてくれば子どもは必ず四苦八苦に悩まされるの」
「将来の話をするたびに、特に子どもについての話をするたびに、言われるんです。二人で幸せにしてあげたらいいんだよって。一緒に守ってあげたらいいんだよって」
「そんなの無理よ。親は子どもより先に死ぬんだから。それに親ができることなんて限られてる。子のためなら親はなんだってできるんだって言う人もいるけど、だったら子どもが友達を失ったとき、その悲しみを完全に癒やすことができるの? それをなかったことにできるの? 不治の病にかかったら治してあげられる? スポーツや芸術で挫折したとき、足りない才能を補ってあげられる? そんなの無理でしょ? それが現実なの。子どもが苦しんでも親は責任を取らないし、取れない。しかも子どもが社会的に成功すれば親のおかげになって、失敗すれば自己責任。そんなのおかしいって思わない?」
「そう、ですね。うちも責任を取ってはくれなかったです」
毛虫君は自分のことについては多くを語りませんでした。話してくれたことといえば、せいぜい父子家庭だったことと、父親がよくお酒を飲んでいたことぐらいで。ただ、恐らく虐待を受けていたんじゃないでしょうか。彼が送ってきたメッセージのなかに、こんな内容のものがありましたから。
「親父にされたことを子どもにしてしまいそうで不安なんです」
毛虫君が父親からなにをされたのか、それは今でも分かりません。全ては推測です。それでも確かなのは、毛虫君は出産についてきちんと考えていたということです。子作りが、出産が、子どもにとってどんな意味を持つのか、彼は三思していたんです。それが嬉しくて、私は文章を打ち込むとき、よく笑っていました。気付けば口元が緩んでいたんです。
「自分たちのことじゃなくて、生まれてくる子どものことを考えて」
毛虫君と語り合うたび、私は最後に必ずこう言っていました。
十七
毛虫君と初めて顔を合わせてから、ちょうど一年後の夏のことです。私が彼と連絡を取り合っている。それを知ったしおりが、二階にある私の部屋に乗り込んできたんです。
昼間、私は下着姿のままベッドに寝転がっていました。その日は特に用事もなくて、真っ白い雲が浮かんでいた紺碧の空を、窓越しにぼんやりと眺めていたんです。聞こえてくるのは冷房の唸りと蝉の声。そんなとき、扉が勢いよく開いたかと思えば、廊下の生暖かい風が下半身に絡みついてきて。しおりは大きな足音を立てながら白く短いスカートを波打たせ、開口一番言いました。
「あたしに隠れて宗一に変なことを吹き込んだでしょ!」
「変なこと?」
体を起こせば、しおりは甲高い声で言いました。
「宗一が子どもは持たないほうがいいって言い出したんだけど!」
「持たないほうがいいんじゃなくて、持つべきじゃないの」
しおりは手にしていたピンクのカバンを床に叩きつけました。
「なんで、なんでそんなこと言うの?」
「生まれてきた子どもに待っているのが不幸だけだからよ」
「幸か不幸かを決めるのはその人自身でしょ」
「そうね、人それぞれ。だけど避けられないことがあるの。病気、老化、死、死別。他にも苦しいことはいくらだって」
「でも、でも、そうした経験を通して人は強くなっていくんだよ。しんどい思いをして、大変な思いをして、そうして幸せを掴むんだから」
「幸せになんてなれない。仮になれるとしても、それは百パーセントじゃない。ほしいもののほとんどは手に入らない。願い事の大半は叶わない。せいぜい神様や流れ星が聞いてくれるだけ。可能性なんていう薄いシャツ一枚で、子どもを極寒の地に放り出すの?」
「この世に生を受けなきゃ幸せになれないでしょ!」
「生まれてこなければ幸せになる必要がないし、幸せになりたいっていう欲求に苛まれることもない。そもそも生まれてきても幸せになれるかどうかなんて分からないんだから、出産なんて子どもにとってはギャンブルみたいなものでしょ」
しおりの目顔は、私に対する嫌悪感で汚れていました。
「それでも産まないなんておかしい!」
「どうして?」
「子孫を残すことは本能なの! 当たり前のことなの!」
「自分たちは畜生と変わらないってこと? それに本能だったらなにをしてもいいの? 当たり前だったらなにをしてもいいの?」
しおりは握りこぶしを作っていました。
「子どもを持たなきゃ一人前の大人になれないでしょ!」
「未熟な人間が子どもを育てるの?」
「子どもと一緒に成長していくのが親なの!」
「人間なんていくつになっても、なにを経験しても同じままじゃない。第一しおりは虐待される子どもの数を知ってるの? 自殺する人の数は? 病気で死ぬ人、事故に遭う人、事件に巻き込まれる人は? 毎年どれだけいるかちゃんと分かってる? 夢破れる人の数はどう? 想像がつく?」
「不幸なことばっかり見る必要がどこにあるのさ! 前向きに考えれば困難だって、不幸だって、なんだって乗り越えられる!」
「じゃあ子どもが早くに病死しても、なんらかの理由で自殺しても、誰かに刺されても、轢き殺されても、逆に犯罪を犯しても、お金をせびってきても、しおりはじっと前だけ向いて進んでいくのね?」
返ってきたのは平手打ちでした。かけていた眼鏡がズレ、頬の内側に歯が当たり、じわりと熱が広がって。
「頭、おかしいんじゃない……?」
「しおりはいつもそう。私の人格否定ばっかり」
「お姉ちゃんが実際狂ってるからでしょ!」
「私は子どものことを考えてるだけよ」
「あたしだって考えてる! 子どもの幸せをちゃんと考えてる!」
「都合の悪いことは見ないふりして、なにが幸せよ。そんなのはないの。あったとしても偶然だから。たまたま不幸がなかっただけ。それか、しおりみたいに現実から目を逸らしてるだけ。結局しおりの子どもだってあらゆる痛みを味わって、不幸を感じて、最後には死んでいくんだから」
もう一発、平手が飛んできました。
「病院、行けば……?」
蔑むような目が私に歯噛みさせました。
しおりには分からないんです。近いうちに産声を上げるかもしれないしおりの子ども。その子を思うと、体が重たくなることなんて。同意なく産み落とされ、世間は厳しいからと努力を強いられ、その頑張りが実るとは限らず、運や才能、心身の健康状態に振り回され、歩みを止めればクズだ親泣かせだと罵られる。同時に少しずつ、加齢という重しを背中に乗せられて、最後には得たもの全てを失ってしまう。大抵はある日突然に、様々な種類の苦楚を伴って。
どこに幸せがあるんですか? 人を好きになっても、相手が自分を好きになってくれるとは限りません。互いに好きになったとしても、人は自分のことさえ満足に理解できないんです。分かり合えるはずもない。
そのうえ人間のあらゆる行為には、自分のために、という括弧書きがついていて。なにかを得れば、今度はそれを失うかもしれないという恐怖が迫ってくる。そして最後には例外なく、全てが手のひらから滑り落ちていくんです。
生まれてくる環境なんて関係ありません。人である限り逃れられない重苦がある以上、子どもに人生なんて与えるべきじゃないんです。
嘘をつくよりも、誰かを殴るよりも、お金を奪うよりも、殺人を犯すよりも、最も卑劣で、傲慢で、誰も真剣に考えず、無条件にいいことだと思われている行為、それが出産です。生まれてさえこなければ、その子が痛みに喘ぐことも、その子が誰かを苦しめることだって、決してないんですから。あるのはただ、眠っているときと同じ、なにもないという安らかさ。
「どうせ自分が不幸だからそんなことばっかり言うんでしょ?」
「しおりが綺麗なものしか見てないだけよ」
「どうせお姉ちゃんだって自分が幸せだったら産むくせに! お金があって、周囲の環境に恵まれていて、相手がいて、綺麗で、取り柄があれば、お姉ちゃんだって結局は子どもを産むんでしょ!」
「生まれも育ちも、なにかがあるもないも、そんなのは関係ない。誰もが味わう苦しさを愛しい子どもに与えたくない。ただそれだけよ」
「そんなに、そんなに人生が苦しいことばっかりなら、お姉ちゃんはなんで生きてるの? さっさと死ねばいいのに」
手に力が入りました。薄ら笑いを浮かべながら死ねなんて言葉を口にする、そんな人間が子どもの親になろうとしている。暴言を吐くような人間がはびこっている社会へ、愛する我が子を送り出そうとしている。もはや狂気の沙汰、鬼畜です。心臓の鼓動が大きくなり、唇が乾いていきました。私はもう、しおりに対してなに一つ言葉を発することができませんでした。ただ、涙がこぼれました。
以来、しおりとはろくに話していません。毛虫君には連絡手段を絶たれました。しおりはときどき彼を連れて実家に帰ってきたけれど、私のことを意図的に避けているんでしょう、二人と顔を合わせることは、偶然以外にはもうなくて。そのたまたまのときでさえ、しおりは私の目を見ようともしません。毛虫君も同じでした。彼はちらと視線を送ってきては、深く深く俯いて。
私は二人に、いえ、誰かに自分の考えを伝えることは無意味だと、出産に関しては口を閉じるようになりました。そうした話題を避けるようになったんです。誰かが子どもがほしいと笑っていれば、その場から立ち去るようになったんです。だからこんな話をするのは随分と久しぶりです。出産について訊いてきたのがあなたじゃなかったら、きっとこんな手紙、書いてはいないでしょうね。
十八
喧嘩から一年後、今年の夏のことです。しおりが赤ん坊を産みました。私はそれを自分の部屋で知りました。階下から笑声と泣き声が聞こえてきたんです。あなたもしおりの赤ちゃんと会ったでしょう? どんなことを思いましたか? 可愛かったですか? それともあの子の赤ちゃんを見て、あなたは私に尋ねてきたんですか?
「わたしが子どもを産みたいって言ったら、晴ちゃんはどうする?」
もしもあなたが、奈々ちゃんが出産したいと望むのなら、私にそれを止めることはできません。私は自分の考えを誰かに押しつけるつもりなんて毛頭ないんです。それだけは言わせてください。産むべきじゃないってこれまで主張し続けてきたけれど、それは所詮、私の考えに過ぎないんです。自ら思案して決めたことでないのなら、意味なんてありません。
だけど一度でいいから、子どもを産むということがどういうことなのか、じっくり考えてみて下さい。未来は無限に広がっているだなんて、明るい将来が待っているだなんて、私にはとても言えません。奈々ちゃんの人生の行き先だって、水火の嵐で大荒れです。生きている限り、辺りは痛苦で水浸しです。濡れないための傘や長靴なんて売ってはいません。奈々ちゃんだって両親が、周囲の人間が、つらそうにしているところを幾度となく見てきたでしょう? 苦しい、しんどい。そんな言葉を数え切れないほど耳にしてきたでしょう?
一度でいいから眠る前にでもじっくり想像してみて下さい。生まれてくる子どもがどんな体験をして、どういう思いをし、生きて、最後には死んでいくのかを。自他の経験から思量してみて下さい。産みたいと願うのはそれからでも遅くはないはずです。
何度も言うけれど、産むか産まないかを最終的に決めるのは奈々ちゃんと奈々ちゃんのパートナーです。世間や周囲が決めることではありません。だけど、産めよ産めよという空気は延々と送られてきます。私も、私のことをよく知らない人たちから未だに言われています。早く結婚して子どもを産まないのって。いつかゴム風船のように耐えられなくなって、多くの人は出産に流されていくんでしょう。それこそ毛虫君みたいに。子どもを持ち、育てなければ、ちゃんとした大人じゃない。この言葉から逃れることはできないんです。
私が言えることは一つだけ。私は子どもを愛しているからこそ、子どものことをこの上なく考えたからこそ、生涯に渡って産まないでおこうと決意したんです。まだ見ぬ我が子を苦辛の雨風にさらすなんて、とてもできません。私は子どもが大好きですから。もし光ちゃんが生きていたら、彼女も私と同じことを言ったでしょう。
ここまで読んでみて、奈々ちゃんはどう思いましたか?
やっぱり子どもを産んでみたいですか?
それとも、子どもは産まないほうがいいと感じましたか?
また今度聞かせてください。
あなたの言葉で。
(了)
あとがき
この文章は、反出生主義がテーマの小説です。
参考文献:芥川龍之介(1968)『河童・或阿呆の一生』新潮社.
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