喜びの中に生きる?!OSHO「Joy 喜び」おまけ。アドヴァイタとネオ・アドヴァイタの違い。岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」
喜びの中に生きるとは?!OSHO「Joy 喜び」
ボクは、仏陀のこの詩を読んだとき、ハートを動かされた。
いい詩だねぇ・・・。
この詩の中でポイントとなるのが、「喜び」だ。
喜びって、なんだっけ?
幸せのレベルには四段階ある。1,快楽、2,幸せ、3,喜び、4,至福だ。
1,2は外部に依存し、3,4は外部に依存しない点で、同じグループだよね。
「喜び」は外部に依存しない!
通常の人が感じるのは、1,2のレベルだ。要するに、快楽と幸せだ。
快楽はわかるけれど、幸せはなんで外部に依存するの?
たとえば、愛するパートナーがいたとする。パートナーがいる内は幸せだが、パートナーがいなくなると不幸になる。
幸せは、たとえば、パートナーという外部に依存するんだね。
でも、喜びは、外部に依存しない点で、明らかに幸せとは断絶がある。ボクに言わせれば、一種の悟りに近いものだ。
たしか、至福はニルヴァーナ(涅槃)だったよね。
至福までいくと、超越的なものになる。喜びはそこまではいかないけれども、スピリチュアルなものだ。
OSHOによれば、喜びには原因がない!
OSHOによれば、喜びに原因はない。
要するに、ギフトとして与えられると解釈できるみたいだね?
ボクも喜びは、ギフトだと思う。だから、喜びとは、ボクに言わせれば、一種の悟りに近いんだ。
ギフトとして与えられる悟り・・・。ネオ・アドヴァイタ(昨今のスピリチュアルで言われるところののノンデュアリティ(非二元)=悟り)と一緒だね。
どうしても、ネオ・アドヴァイタを想起してしまう。
おまけ。アドヴァイタとネオ・アドヴァイタの違い。
まだまだ、不勉強なので、間違えているかもしれないけれど、アドヴァイタ(ウパニシャッド思想での非二元・ノンデュアリティ)は、ブラフマン(梵)とアートマン(我)が同一(一如)という、梵我一如が基本だから、「わたし(=アートマン)はある」ことが前提となる。
昨今の、ノンデュアリティである、ネオ・アドヴァイタでは逆に、「わたしはいない」と言っているよね。
要するにまとめると、アドヴァイタでは「わたしはある」、ネオ・アドヴァイタでは「わたしはいない」が前提になっているところが、大きな違いの一つ、ということになるよね?
うんうんそうだね。「わたしはある」ほうが、ハードルが低いような気がするけれども、気のせい??(笑)。
あと、アドヴァイタでは、知識を重んじる。ネオ・アドヴァイタでは、知識は害だ、みたいに言う。
知識がベースになってたほうが、ハードルが低いような気がするけれども、気のせい??(笑)。
という意味で、このことを書いている、岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」は非二元難民を救う書なんだろうね。
安いし、買ってもいいんじゃない??どう?(笑)
とりあえず、アドヴァイタをとるか、ネオ・アドヴァイタをとるか、それとも普通に楽しく幸せに生きるかは、アドヴァイタを、ちゃんと勉強してから決めるべきではあるよね。頑張って勉強しよう。
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