広島郷土史:幕末編(2)勝海舟、宮島に上陸す!
第2次長州征伐
勝海舟が宮島を訪れたのは、慶応2年(1866)9月の事でした。第2次長州征伐を終わらせるべく、長州藩と談判するためです。
慶応2年(1866)6月に戦端が開かれた第2次長州征伐は、以下の4方面で戦闘が繰り広げられました。
1 大島口:周防大島を幕府艦隊が砲撃。高杉晋作が丙寅丸で艦隊を駆逐。
2 芸州口:長州遊撃隊等1,000と、幕府歩兵隊・紀州藩兵等50,000との激戦で膠着状態に。
3 石州口:大村益次郎(村田蔵六)の指揮で、浜田城を陥落させる。
4 小倉口:高杉晋作の小倉上陸作戦(坂本龍馬の海援隊の援護あり)で、小倉城陥落。
上記の如く、芸州口以外は長州の勝利で、しかも将軍家茂が7月20日に大坂城で薨去した為、幕府はこれ以上戦争を継続できなくなります。
また動員された諸藩が兵糧米を買い占めたため米価が高騰し、各地で世直し一揆が頻発する等、国内は不安な情勢でした。
そこで、政事総裁、徳川慶喜は、長州とパイプのある勝海舟に白羽の矢をたて、長州との停戦交渉を命じます。
勝の「氷川清話」によれば、慶喜と勝のやり取りは以下の通りでした。
ここで勝の言う「かくかくの次第で長州と談判致すつもり」とは、いったい何だったのでしょうか。それは、勝の日記にある以下の記述を見ると推測できます。
勝は、「一新の御趣旨」を長州藩の代表者、広沢真臣らに演達(口頭で伝える事)したところ、皆、承服した、と言っているのです。
「一新の御趣旨」とは、諸侯会議を開催し「天下公論」により時局を収拾するという勝の持論の救国策の事で、「大政奉還論」とほぼ同じです。
実際の「大政奉還」は慶応3年10月ですから、1年以上も前の事です。
徳川慶喜は、本当にこの停戦条件を長州側に提示することを勝に許したのでしょうか?
答えはNoです。
つまり、将軍家茂薨去の後、慶喜は、第15代将軍を継ぐまでの間の時間稼ぎに勝を利用しただけで、この時点で慶喜に「大政奉還」の意思があったとは思えません。
事実、勝が停戦交渉に行っている間に、徳川慶喜は朝廷に工作して、8月20日に長州に対して止戦を命ずる勅命を出してもらっています。
勝は、幕府全権として談判に赴いたにも関わらず、梯子を外されて長州に嘘をついた形になってしまったのです。
広島領内の戦火と苦悩する辻将曹
第1次長州征伐に続き、第2次長州征伐でも中立の立場を貫いた広島藩は、長州兵によって岩国方面の藩境(玖波・大竹付近)から領内に侵入され、甚大な被害を受けています。
西国街道沿いの「玖波本陣」や、広島藩家老の「上田屋敷」が焼失、大竹村、玖波村、小方村等では、総計すると、焼失家屋が約1,600棟、罹災した者が約8,000名、という領民を巻き込んだ悲惨な状況となったのです。
しかも、前線を視察に行った、佐伯郡代官の配下の広島藩士たちが、中立であったのにも関わらず、幕兵と誤認されて長州兵の銃撃に遭い、死亡するという悲劇も起こっています。
この惨状に心を痛めた広島藩執政、辻将曹は、広島に赴いた勝に全面的に協力し、長州藩との仲介に奔走、約一か月後に宮島での「停戦会談」を設定することに成功します。
辻将曹も、勝の信念をよく理解していたはずです。
芸州口の戦闘で、領民に多大の犠牲を出してしまった自責の念を胸に秘めつつ、彼は粉骨砕身して仲介の労をとったのでした。
勝は、以下のように辻の功績を称賛しています。
長州藩と勝の交渉の舞台となったのは、宮島の大願寺の本堂裏手にある書院(大悲院)でした。勝は、辻の用意してくれた広島藩士の護衛をふたりだけ連れて、宮島に上陸します。
長州藩の代表団は、広沢真臣ら八名です。この中には井上聞多もいました。
勝は、広沢真臣の度量の大きさを褒めています。
維新後、華族に列せられた元勲は、木戸、大久保、広沢家の三家のみであり、広沢は、明治4年に39歳の若さで暗殺されていなければ、総理大臣の職を担ったはずの大器でした。
勝は、談判が首尾よく終わったお礼にと、護良親王の御品と伝えられる短刀を、厳島神社に奉納して帰途につきました。
まとめ(第2次長州征伐の意義)
第2次長州征伐は、どのような意義があったのでしょうか。
以下の3点があげられると思います。
1 徳川幕府に政権担当能力がないことが露呈
2 諸藩の、幕府に対する離反を招く(佐幕ではなく、中立の道をとる藩が増える)
3 広島藩が倒幕に方針転換した(武力による討幕ではなく、平和裡に倒幕)
このため、薩長主導の武力による討幕派か、諸侯会議による合議体の新政体を目指す(大政奉還)か、という二者択一が、その後の政局の焦点になったのです。
長州征伐は、徳川幕府の終焉を早めた愚策だったことは間違いありません。
その後、広島藩は、第2次長州征伐での多大な犠牲を忍びつつ、「薩長芸の盟約」を結び、倒幕を推進します。
しかし、幕末の最終局面で土佐藩と連携して「大政奉還路線」を採ったことで、薩長に不信感を抱かれ、結果的に「苦悩の道」を歩むことになってしまったのでした。
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