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運命の求道者

波木星龍という実占家は、
運命と運命学の"誤差"に気づいているような節がある。

その実力や実績と裏腹に、である。

通常、自分の占術が的中すればするほど、それを信じる。

全ての出来事はそこに表出し、その占術に符号している。
そこに出ていない事は、起きないと信じて疑わなくなる。

的中しなかったり、どうしても該当しない事があっても、
勉強不足であり 読み取る側の実力次第なのだと思い込む。

宗教信仰のようなものだが、無論、もっと柔軟な人々もいる。
心理学や物理学に通じ、ある意味どれでも同じだと知る人々。

それが どれほど的中したにせよ、しないにせよ、
迷信であり娯楽の域を出ないと認める人々がいる。

それは占術に対する 一つの正しい結論と言える。

"占い"はそれでいい。

だが、運命というものを追求し、究明しようとする求道者もいる。

そのツールとしての運命学、その運命の定義とは何かと云えば、
変えられない器(先天)と、変えられる内容(後天)と言える。

しかし、運命学は、運命そのものではない。

波木星龍という人は、運命に随うが、運命学には必ずしも従わない。
それを磨き抜き、どれほど的中しても信じないようなところがある。

占術は道具であって、生きた事実の描写でしかない事を知っており、
運命の実際は、なるようにしかならないという達観に貫かれている。

極貧の境遇に育ち、カネもコネもなく、メディアとも談合とも無縁。

だが、札幌という大都市に理想的な風水の住居を購入するほど成功し、
かと思えばその住居を購入額以上で売却し、暗剣殺も怖れず転居する。

運命"学"より "運命"に随い、その兆しに身を任せて恐れない。

"時中"を地で行くようなところがある。

そして事実、自らを開運した成功者なのである。

波動が物質を透り抜けるように、運命のレプリカを運命は透り抜ける。

自己という"事実"が、運命学に意味を与えるのであって逆ではない。
レプリカである理論や哲学を、本物より重視すれば本末転倒になる。

運命とは硬直した理論や哲学ではなく、自然なる生命であると悟り、
生きた事実と矛盾しない事を、何よりも重視して最善の判断とする。

私は、こういう実占家を他に知らない。

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