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心のソネット

夏も前半が終わり、中盤にさしかかる。暗がりの夏風が青春とはなんぞやと、私に語りかけているようだった。そして、そんなことなんて考える暇もなかったくらい、この1ヶ月は仕事に勤しんでいたのだ。夏って、何でこんなにも「青春の風物詩」を無責任に押し付けてくるのだろう。

学生生活を終えると夏休みの感覚を忘れてしまうため、街中の人混みの凄まじさに合点がいかなくなってしまう時がある。そして、否が応でも至る所で「青春の風物詩」を目にしてしまうのだ。駅前を行き交う浴衣を着た男女や、観光エリアで屯する夏休みの旅行中と思わしき集団。そのような人々を見かける度に心が「うっ…」となる。まるで、高圧力のハイパワーポンプで「青春の風物詩」のお惚けな空気を胸に送り込まれているような感覚になるのだ。

そう思ってしまう理由はただ1つ。いわゆる、自分が「リア充」ではないからである。リア充ではないと認めたくない気持ちもある故、「青春の風物詩を謳歌できる心の余裕が無い。」とでも言いたい。

かの有名な大作家のシェイクスピア大先生の詩集「ソネット」に、こんな一節がある。

君を夏の日に例えようか。
いや、君の方がずっと美しく、穏やかだ。
荒々しい風は五月のいじらしい蕾をいじめるし、
何よりも夏はあまりにあっけなく去っていく。
時に天なる瞳はあまりに暑く輝き、
かと思うと、その黄金の顔はしばしば曇る。
どんなに美しいものも、
いつかその美をはぎ取られるのが宿命。
偶然によるか、自然の摂理によるかの
違いはあっても。
でも、君の永遠の夏を色褪せたりはさせない。
もちろん、君の美しさはいつまでも君のものだ。
まして、死神に君がその影の中で彷徨っている
なんて自慢話をさせてたまるか。
永遠の詩の中で、君は時そのものへと
熟しているのだから。
人が息をし、目がものを見る限り、
この詩は生き、君に命を与え続ける。

『ソネット第18番』 ヴィリアム・シェイクスピア

このように、夏×青春のコンビネーションは大いに人の心を揺さぶり、ザワつかせるのである。まるで、夏が青春を追いかけ、青春が美を追いかけているようである。すると、その美は何を追いかけているのであろうか?それは、もしかしたら周りの青春を追いかけてるのかもしれない。青春に対する審美眼は各々によって違うが、自分と他人の青春のペースを比較し、一喜一憂してしまうことがよくある。それもある意味、夏の青春の醍醐味とも言えようか。

そして、それは時にハイレーションにもなる。他人のSNSを深夜に覗いては、心の奥底がウズウズして眠れなくなるのだ。それを嫉妬していると認めたくないし、羨ましいとも思いたくもない。しかし、他人の青春を不意に覗いた時に、自分に負の烙印を押されたようで遣る瀬無くなる。夏の青春の渦が、遂に悪循環になってしまう瞬間でもあるのだ。

しかし、他人の青春を不意に覗き見したところで、必ずしもそれが自分に合うとは限らない。自分もこうなりたいのかと考えてみても、しっくりこない時もある。地元の同級生たちが結婚・出産を経て家庭を築き、夏の家族旅行を楽しんでいるのは、私にとっては物凄くファンタジーなのである。なぜなら、私は結婚願望はあっても子供を欲しいとは思わないからだ。同じ妙齢の人たちが、そのようなライフスタイルを送っていることを想像しただけでも目が廻りそうになる。それと同時に、彼らにとっては間違いなく私のライフスタイルは異様であろう。20代後半になっても結婚・出産をせずに、世間ではアンダーグラウンドと言われるような職業に就き、欲しい物は何でも買うというような生活をしているのだから。

そんなことを言いつつも、もしかしたら何が正しいとか間違いとかは無いのかもしれない。青春というのは各々の心の中に秘められているのだ。いや、秘められるべきである。真実は、各々が相反する個体の生活をトリミングして覗いているだけで、そこには必ず人生の明暗が存在する。みんな、幸せそうに魅せるのに必死なんだな。いつから幸せを他人の杓子定規で測るようになったんだろう。1番大事なのは己のモノサシであり、それはどんなレングスであってもいいのだ。

そして、「青春の風物詩」を楽しむ者の力量次第で誰かを感嘆させられることはあっても、決して憎しみや妬みに近い感情を与えてはならない。己の明け透けな青春は、己の心のソネットに書き綴るのが1番なのだ。何が正しいかそうじゃないかはさておき、今年の夏も私たちの心に、甘酸っぱい青春のソネットが書き綴られていくことだろう。