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万葉旅団

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秋萩におきたる露の風吹きて落つる涙はとどめかねつも 山口女王

秋萩におきたる露の風吹きて落つる涙はとどめかねつも 山口女王

先週、大変遅ればせながら梨木神社へ萩を見に行った。見頃を過ぎていたからか、参道の両側に萩の生い茂る境内は人もまばらで、かえって一人、ゆっくりと万葉の歌に想いを馳せることができた。

秋萩におきたる露の風吹きて
落つる涙はとどめかねつも

いい歌だ。

前半は自然の描写、
後半はそこへ自らの心と身体を、重ね合わせている。
と、言ってしまえばそれまでなのだが、それが僕の心に、こんなにも美しい情景を描き

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君に恋ひ萎(しな)えうらぶれ我が居れば秋風吹きて月傾きぬ 詠み人知らず

君に恋ひ萎(しな)えうらぶれ我が居れば秋風吹きて月傾きぬ 詠み人知らず

以前、「さつき山」の歌を紹介したが、これもまた、特に説明のいらない歌かもしれない。そしてやはり、詠み人知らず。万葉にはこういう歌があって、ほんとうに素晴らしいなと思う。

君に恋ひ
萎え
うらぶれ
我が居れば

〜して、〜して…と言葉(音)の上ではやたら動きがあるように見えるが、実態は、「(私が)恋をして、いた」というだけのことであり、
実際、恋をすると人は悶々として心乱れ、しかし実際には何もしな

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笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思う別れ来ぬれば 柿本人麻呂

笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思う別れ来ぬれば 柿本人麻呂

さや、さや、と歌われる言葉は意味というよりも、音そのものが、的確な世界の描写になっている。それは物事をことばの意味で説明するよりも、いっそうの臨場感をもって、聴き手に伝わってくる。この万葉の歌はまさに、その格好の例と言えるのではないだろうか。

一方、内容はというと、周りの物音がうるさいにもかかわらず、心は揺れず、一人の人を思っているという、現代の人間が読んでも、どこかで心当たりがあるはずの、心の

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わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも 大伴家持

わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも 大伴家持

この男の身に、いったい何があったというのだろう。あるいは存外、何もなかったのかもしれない。ただ一つ確かに言えるのは、男には心細さがあったということだ。そういう心持ちであったと解してこそ、家の庭の少しの竹の間を通り過ぎる風の音が、かすかに、聞こえてくるのである。

心を吹き抜けていく風の来し方に思いを巡らせていると、この心細さは人間本来の孤独に由来するのではないかという気がしてくる。
人はみな孤独だ

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幸福(さいはひ)のいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が声をきく 詠み人知らず

幸福(さいはひ)のいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が声をきく 詠み人知らず

万葉集には相聞歌、挽歌、雑歌という三つの部立てがあり、この歌は挽歌に属している。

恋の歌、
死の歌、
その他の歌。

このような部立てがあること自体が、古来から人がどのような時に心を動かし、歌を詠もう、あるいは読もうとしてきたのかを物語っていて大変興味深いが、それは、ひとまずおいておこう。

黒髪が白くなるまで、妻の声をきく人は幸せだ。

この歌が、人の死を悼む挽歌であるということは、自分は、白

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夏の野のしげみに咲ける姫百合の知らえぬ恋はくるしきものそ 大伴坂上郎女

夏の野のしげみに咲ける姫百合の知らえぬ恋はくるしきものそ 大伴坂上郎女

知ら「え」ぬ、
苦しきもの「そ」、

端々の言葉遣いに古風な趣を感じるものの、
それ以外は今の私たちが読んでも、なんら違和感なく内容がスッと頭に入ってくるような、ストレートな歌だ。
前半の姫百合の描写が序となり、おそらくは詠み人本人のものであろう、「知らえぬ恋」へと繋がる流れも、断絶をまったく感じさせない自然さで、二つのイメージが渾然一体となっている。

夏の野の「繁み」。

それは夏の盛りを意味

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六月(みなづき)の地(つち)さへ裂けて照る日にもわが袖干(ひ)めや君に逢わずして 詠み人知らず

六月(みなづき)の地(つち)さへ裂けて照る日にもわが袖干(ひ)めや君に逢わずして 詠み人知らず

暑い。とにかく暑い。だから今回は熱い歌を取り上げてみた。
六月というと、現代の暦から夏の入り口や梅雨のイメージを持たれるかもしれない。
しかし、これは旧暦の六月なので、まさに夏、真っ盛りである。

私の袖が乾かないとか、袖が濡れている、という表現は和歌にはよくある。涙に暮れているということだ。(昔の人は、袖で涙を拭っていたのだろう。)
しかし、それを強烈な夏の日差しと対置させた、このような歌を見つ

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天の川水陰草の秋風になびくを見れば時は来にけり 柿本人麻呂

天の川水陰草の秋風になびくを見れば時は来にけり 柿本人麻呂

せっかくなので今日は七夕らしい歌を。

作者は前回同様、柿本人麻呂。

前回紹介した歌は、人麻呂が自分でつくり出した物語の中の人物が詠んだかのような、幻想的なイメージを帯びていた。

今回もまた、歌は幻想的なイメージを帯びているが、その背景にあるのはオリジナルの創作ではなく、かの有名な七夕の伝説である。

「天の川」の単語がはじめにあるから、
おしまいの「時は来にけり」の意味が分かる。

歌はそう

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雷神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ 柿本人麻呂

雷神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ 柿本人麻呂

今年も梅雨がやってきた。梅雨といえば、『言の葉の庭』(新海誠監督のアニメーション映画)。そして庭といえば、この歌である。

なるかみのすこしとよみてさしくもりーーーー

なんとたおやかな、美しい調べだろう。大人の、女性の歌だという気がする。
しかし、この歌は柿本人麻呂の歌集から取られている。つまりこれは、かつて存在した誰か(女性)が現実に詠んだ歌ではなく、人麻呂の創作なのだ。創作のインスピレーショ

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ひさかたの天ゆく月を網にさしわが大君はきぬがさにせり 柿本人麻呂

ひさかたの天ゆく月を網にさしわが大君はきぬがさにせり 柿本人麻呂

この歌にでてくる大君(おおきみ)とは、人麻呂が仕えた天武帝の皇子、長(ながの)皇子のこと。
というと、天皇の皇子の威光をたたえるような、この歌のひとつの側面があらわになってくるようだが、しかし、それはあくまで一つの側面でしかなく、もっとシンプルにこの歌一番の魅力は、と考えたら、やはり、月に網をさし、衣笠にしてしまう人麻呂の、自由自在な想像力だろう。
この表現はイマジネーションの壮大さと、現実とのギ

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多古の浦の底さへにほう藤波を挿頭して行かむ見ぬ人のため 内蔵縄麿

多古の浦の底さへにほう藤波を挿頭して行かむ見ぬ人のため 内蔵縄麿

750年4月12日。
越中守として赴任中の大伴家持は、部下や役人たちを引き連れて布勢の湖(現在の富山県氷見市にある湖)に遊覧し、多古の浦に船をとめて藤の花見をした。縄麿はそのうちのメンバーの一人で、今回の歌は、そのときに作られた。

ちなみにこれが、このとき家持が詠んだ歌。

なるほど、こちらの方が、実際の光景を思い浮かべやすいかもしれない。
そういう意味では、縄麿の歌の方は表現が明らかにオーバー

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多摩川にさらす手づくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛しき 詠み人知らず

多摩川にさらす手づくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛しき 詠み人知らず

帰省したときに多摩川の写真を撮ろうと思っていたのに、忘れた。
したがって、上の写真はスマホのカメラロールを遡って見つけた過去のものだ。
過去の多摩川といえば、思い出はいくつもあるはずだが、いま思い出すのは中学3年の夏、親しい友と過ごした時間のことだ。
高校見学に行った帰り道、
祭りの喧騒から逃れるように歩いた日、
そんな時間のそばにはいつも多摩川が流れていた。
ただ水面を眺めながら話をしたり、

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わが妻はいたく恋いらし飲む水に影さえ見えて世に忘られず 若倭部身麻呂

わが妻はいたく恋いらし飲む水に影さえ見えて世に忘られず 若倭部身麻呂

飲む水に影さえ見えて。この表現がとても斬新で印象に残った。
その印象からして、てっきり詠み人が恋をしているのかと思いきや、よく見ると「恋らし」の主語は「わが妻」で、またしても衝撃を受ける。ナルシストなのだろうか…。
いや、ナルシストなら水の鏡に写る影は自分のはず。やはり彼は、妻を愛していたのだ。現に、後半の「世に忘られず」の主語は彼だと読めるようになっている。

それにしても、水に写った影を見たと

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さつき山卯の花月夜ほととぎす聞けども飽かずまた鳴かぬかも 詠み人知らず

さつき山卯の花月夜ほととぎす聞けども飽かずまた鳴かぬかも 詠み人知らず

とくに説明も要らないような、素朴な歌。なのにこんなにも心が惹かれるのは、この歌に読まれている具体的な風物ひとつひとつへの憧れというより、それらが一体となって調和した風景の中に、自らもまた溶け込んでいくかのような、詠み人のこの上なくリラックスした心境そのものへの憧れが、大きいのだと思う。

そういう時間を過ごすこと、それ自体への憧れ。今のことばで言えば、「チル」ということになるだろう。羨ましいほどの

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