少しで良い、この世界に「私」を覚えていて欲しかった。という話。
息をするために書いているような、そんな時期があった。
自分が今生きているのかどうか、感触すらも掴めない夜を越えるために。
全身を突き刺すような孤独を、終わりのない奈落に落下し続けるような絶望を、無理矢理に噛み砕いて飲み込んで、排泄するかのようにひたすらに文字を書き続けていた。
その頃吸っていた煙草は、ベヴェル・ライト。
金欠の癖に毎日二箱以上も灰にし続け、コタツテーブルの灰皿にはいつも吸い殻が山積みになっていた。デカビタCとココナッツサブレ、ノートパソコンのモニターの光。6畳のワンルームにそれだけあれば、何日でも生きられると思っていた。
でも、何故、何のために生きねばならないのか。
何故、他人も自分も傷付けずに、生きていくことが出来ないのか。
他人と関われば傷付くし、傷付ける。なのに、一人で生きる事すらも出来ない自分を嫌悪した。愚かで、卑怯で、無力で、濁って腐りきった自分が、自分よりも綺麗で価値がある他人を求め、そして傷つける。そんな罪を重ね続けなければ生きていくことも出来ないなら、今すぐに自分の体が消えて無くなれば良いと、夜が来るたびに思い続けた。
自分から死のうとしなかったのは、一人暮らしを始める際、母に「何があっても死ぬことは許さない」と言い渡されていたからだ。
当時の母は単純に、一般論としての「青少年の自殺予防」の観点で、念のため発言しておいただけだろうと思う。だが「死んだぐらいで私から逃げられると思うな」と言い切った母の呪いは、実際に私の体を私自身から守った。
二十歳前後の頃の私は、ただの怯えた子供だった。死んでも母から逃れられないならば、母の言いつけを破って死ぬなど恐ろしくてできない。
自分が死んだ後の母からの罰を恐れるなど、今考えれば荒唐無稽な話だが、当時の私は本気で、母ならそれをやれるに違いないとまで信じていた。「どうやって」の部分を考えようともしないままで。
――死ぬことが許されないなら、生き続けるしかない。
膨大な自己嫌悪を、あらゆるものを塗り潰す罪悪感を、ひたすらに文字に代えて吐き出すと、その分だけ少し呼吸ができる。書いて書いて、書き続けている間だけは、絶望に吞まれるのではなく、「絶望を書き留める」自分でいられる。
そんな風にして、ただ自分がその日その日を生き延びるためだけに書き続けながら、それでも私は随分と大それた望みを持っていた。
――この世界に、自分を残したい。
自分の言葉をひとかけらで良い、この世界に残したい。
自分がいなくなった後、ネット上のどこかの場所に、誰かの記憶の片隅に、少しだけ引っかかって残る、ただそれだけでいい。自分の言葉を、文字を、この世界に残したい。
その強烈な感情はつい数年前まで、私が「書く」時の原動力となっていた。私の傷を、痛みを、苦しみを、私という存在がこの世界にいた証明を、この世界のどこかに残したい――誰かに覚えておいて欲しい。
飢えのように原始的なその欲望が、嘘のようにいつの間にかなくなっていたことに気が付いたのは、実は私がnoteを書き始めるほんの少し前のことだ。
そう。今の私は、そうは思っていない。残らなくて良いと本気で思っているのだ。私が書いたものも、私自身の存在も。
私の寿命が尽きる前だと色々不便があるけれど、その後ならば誰の記憶からも、「私」に属する全てのものが、この世界からひとかけらも残らず消えてくれて全く構わない。
どんなに大切な相手の記憶にも――実際には無理だろうけれど、それでも例えば私が死んだあと、息子が私について何一つ覚えていなくても、私自身としては全く問題ないと、心の底から思っている。
息子のためには、そうでない方が恐らく良いだろうとも思うけれど。
十代後半からアラフォーになるまであんなに渇望し続けていたのに、あまりに急激な変化である。
一体何故だろう?と自問して、気付いた。
私はきっと本当は、誰かに「覚えて」おいて欲しかったのではない。
この世界に「残して」おきたかったわけでもない。
本当は「愛して」欲しかったのだ、と。
「愛してくれないなら、その代わりに」この世界に、自分を残したい。
「愛してくれないなら、その代わりに」誰かに自分を、ひとかけらでも覚えておいて欲しい――私はずっとそう願っていたのだ、と。
ここ数年で私は、母に正しく愛されていなかったことを知り、自分が本当は愛されたかったことを知り、正しく愛を与えてくれる人の愛を受け取って、愛とは何かを知った。
そしてようやく「十分に愛してもらえた」と感じられた私は、別に自分が死んだ後に何も残らなくて構わないと、そう思えるようになったのだろう。
では今、私は何故わざわざnoteを書いているのか?というと、単純に書くのが好きだからというのと、書くのが過去の振り返りや、自己分析に非常に便利だからである。
結局やっていることは大して変わらないのだけれど、今の私は、生きるために書いていたあの頃より、ずっと肩の力が抜けている。何が何でも誰かに覚えておいて欲しい!みたいな事を全く考えていないのだから、当然でもある。
例えば私がこうして書く事で、誰かの暇つぶしになったり、誰かが何かを考えるヒントになったりすると良いなとは少し思っているけれど、用が済んだら綺麗さっぱり忘れてもらって全然構わないし、それで十分だと思っている。
何しろ、私自身にとってすら、書き終わった時点で用事が済んでいるような記事ばかりだ。読んで下さる方がいれば嬉しいし、スキや感想を貰えるとニヤニヤするし、誉めてもらうと有頂天になるけれど。
幼稚園児が折り紙を真剣に折って、しばらく飾ったり見せびらかしたりして、その内ヨレてきたらゴミ箱に捨てる。今の私は本当に、そういう感じで書いている。
物書きとしては退化と呼ぶしかないだろうこの変化だが、私の人生の生き方としては、きっとこれで良いのだとも思う。
「ひとかけらで良い、この世界に自分を残したい」と強く強く願っていた頃よりも、今の私の方が時間経過で書く能力が上がっていて、noteというプラットフォームのお陰もあって、実際に読んだ方が覚えていて下さる可能性が高くなっているというのは、ちょっと皮肉なような、笑って良いのかどうかよく分からない所でもあるけれど。
でもまぁ、過去の私が書いたものは、今の私も多分何となく覚えている。
だからきっと、過去の私だってそう報われていないわけでもないだろう。きっと。
この世界に、自分の生きた証を残したい――という願いは、本来それ自体は尊いものだ。世のクリエイターの多くが、きっとそれを原動力にしている。
ただ、過去の私のその願いは、自分は永遠に愛されないと決めつけて、でも諦めきれなくて、その痛みから来ているものだった。だからきっと、満ち足りてしまった今の私がその願いも失くしてしまったのは、別に悪くない変化なのだと思う。
この世界は、別に私を愛してくれていなかったわけではなかった。
むしろ多分、前からみんなと同じぐらいには、愛してもらっていたのだ。私がそう思えなかっただけで。
だから、良い。私が死んだ後になど、何一つ残らなくて問題ない。別に残っても構わないけれど。
私の世界は、私が死んだら終わりだ。だから私はなるべく長く生きて、生きている間になるべく楽しいことをして、なるべく満ち足りていられれば、その後は――言い方が悪いけれど、正直「どうでもいい」と、そう思う。
愛してくれて、ありがとう。だから、もう忘れて良いよ。
――と、いつか自分の人生が終わる時、世界や周りの人にそう思えるだろうことを、それって結構幸福だよなぁとのんきに思いながら、今日の私はこの文章を書いている。