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働かせてもらっているだけありがたい

先日行われた、サイボウズデイズでの、女性社員のトークセッションの実況がまとめられていて、読むと思うところがいろいろとある。

・先輩ママ社員が新人より給与が低い
・働かせてもらっているだけでありがたい
・この先10年間ずっと時短勤務かと思うと不安

わたしも、たぶん同じ感覚をもっている。時短でも正社員という身分で働かせてもらっているだけで本当にありがたい。男性の時短勤務をどれだけ認めてくれる(許可の意味で)会社があるかわからないし、時短社員をしている男性を認めてくれる(評価の意味で)上司がどれくらいいるかもわからない。わたしは、別にサイボウズで働いてないけれど、時短でも給与は上がる。裁量のある仕事ができる。
だから、働かせてもらっているだけでありがたい、と心から思っている。正直、給与は気にしていない。

その気持ちに嘘は全くないのに、もやっとしてしまうのは、たぶんその姿を見ている後輩の不安の視線なのかもしれない。いや、時短勤務を希望する男性の後輩がどれだけいるかは知らないけれど。でもどこまでいっても、その感覚は付きまとうだろう。男女問わず、時短・フレックス・リモート勤務、そういう働き方が珍しくて、特別なもののようで、あたかも会社がそれを与えてくれているようにみえる社会である限り。

サイボウズもきっと、恵まれた職場環境にあるのだろうな、と思っている。「働かせてもらっているだけでありがたい」はどこかに負い目を感じているということだから、恵まれているその環境が負い目を感じさせているのかもしれない。

あるいは、この言葉は、家庭に対してなんだろうか、会社に対してなんだろうか。どちらにしろ、そこには対等ではない力関係があって、本当に自由な選択はできないのではないかと疑ってしまう。どこかに不自由さを抱えながら、働いているのはつらい。

同時に、自由でいるためには、たぶん強さが必要になる。Googleでは、業務の2割は担当以外のことに時間が使えるという。Hubspotでは有給休暇の取得に制限が無い。とても怖くて働ける気がしない。その待遇に見合う強さがなければ、「働かせてもらってる」感じは払拭できない。

「いつでも私は転職できる」という強さを持って働いていたほうが、自由に強気な施策を打ち続けながら成果を出して働ける、という趣旨のことを同じく数年前のサイボウズデイズのセッションで話されていて、私はよく覚えている。一応、その時のスピーカーの著書も貼り付けておくけれど、内容は上記の趣旨がほぼすべてである。

「働かせてもらっているだけでありがたい」けれど、「私はいつでも転職できる」。矛盾するようだけれど、そういう強さがないと、うまく働けないのだろうか。でも、誰もがそんな強さを持てるはずもない。みんながカッコよく世の中を渡っていくことはできない。それでも、なにかにしがみつかなくても、生きていきたいと思う。

私の大学の恩師は「飼い慣らす」という言葉を教えてくれた。都市の周辺に追い出され周縁地域に暮らす貧しい民族が、出稼ぎに出る都市との往復の中で、都市をうまく飼い慣らす様子を著書にしている(Amazonの価格は高騰しているので買ってはいけない)。それは「かわいそうな貧しい人々」という都市側の視点、勝手に都市の人が決めたルールやイメージからは決して描かれない世界であって、都市をうまく自分達なりに活用し、生き抜いていくたくましさ、強さがあり、そして都市で働く人にはない自由さがある。都市と村を行き来するアフリカの人々と、会社と家庭を行き来する私たち育児世代は、どこか似ている。
「働かせてもらっているだけでありがたい」私たちは、うまく会社を飼い慣らしていくすべを身につけて、うまく活用して、うまく渡り歩いていけるだろうか。それは働くための能力ではなくて、生き抜くための知恵のようなものだ。ずる賢さでもいい、生き抜くために必要な覚悟のようなものを持っている人は強い。社会や会社は待っていてもすぐには変われないから、みんなが後ろめたいなんて吹き飛ばして堂々と働いていればいいと思う。遠慮や申し訳無さは、口先だけの所作でもいいから、ずる賢く生き抜いていきたい。





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