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未婚化・少子高齢化との戦争に敗戦する日本について壺井栄・著「二十四の瞳」を読みながら考える

泥沼のような疲労感と止めどない虚無感に苛まれる日々を過ごす中で、ふとした瞬間に生き方の正誤について自身に問う機会が増えている。答えの出る問いではないが、選択はしなければならない。人生とはなんとままならないものかと思わずに居られない。


「二十四の瞳」を読み、少子高齢化で滅び行く現代の日本に思いを馳せる

nine one と「二十四の瞳」

さて、読書記録もとうとう10回目であり、10冊目である。取り立ててアニバーサリーのような企画を行うつもりはなく、いつも通り粛々と感想を書いていこうと思っている。尚、Amazonのリンクは広告である。気が向いたら買って読んで欲しい。

折しも昨今は戦争というものが身近な時代である。ウクライナ-ロシア間の争いに中東、それに台湾有事の懸念、北朝鮮情勢と日本の近くでも話題が尽きない。また、日本国内においても戦争を念頭に置いた準備は着実に進められており、戦争は遠い昔の出来事でなく、身に迫る話となっている。

こと戦争について日本は過去の失敗から多くの学びを得ている一方で、国会議員の度重なる汚職に加え、戦争など起きずとも自然消滅しそうな程に衰退を続ける有り様を見れば、学習能力の低い国であるのは、誰もが容易に想像でき、過去の過ちを繰り返さないと言えない。

「二十四の瞳」では、どこか間接的に戦争がもたらした悲惨な国の有り様について描かれており、それは他国によってもたらされたものというよりは、日本という国(それは往々にして政治家を指す)が日本で暮らす人々にもたらした厄災とでも言おうものである。

戦争の恐ろしさよりも戦争を続ける人々の愚かさに焦点が置かれている印象は否めず、それ自体は作者の思想・信条を反映させた点なのだろうと思われた。尤も、その考えには大きく頷ける。

だが、我々が享受している現代の平和が、国の愚かさによって犠牲になった人々が勝ち取ったものである可能性はあり、だからこそ戦争を語るのは、極めて難しいもののように思えてならない。

つまり、本noteは「二十四の瞳」を読んだ感想を書くものの、あまり戦争には触れない。というより戦争それ自体にあまり視点を注がずに感想を書こうと思う。何せ「二十四の瞳」は度々映像化され、多くの人々が考察を重ねた作品である。今更、そんな「二十四の瞳」の主題めいた要素について語ったところで仕方あるまい。

ちなみに、画像中の場所は先日記事にしたnine oneである。「二十四の瞳」に寄せるのであれば、陸前高田市の一本松付近、気仙沼市ならば大島辺りがマッチしているように思えるが、そうした粋な計らいをしようとは思わなかった。

「二十四の瞳」で描かれる戦前・戦時より幸福な現代が、戦前・戦時に劣っている点

「二十四の瞳」は、現代を生きる我々が読むと違和感を覚える点が多い作品だと思われる。それだけ戦前の日本と戦後から70年以上が経過した現代とで人々の価値観が変わったと言える。

そして、その価値観の変化によって、恐らく多くの人々は戦前・戦時と比べて生きやすさを獲得できている。それだけ社会は個人にとって良い方向に変化したと言え、時代を築き上げてきた先人に対する感謝の念が湧いてくるというものだ。

一方で、現代と本作で描かれる戦前・戦時の景色とを比べたとき、明らかに現代の方が劣っている要素がある。子供の数だ。本作で描かれる小豆島の寒村では、多くの家が当たり前のように複数人の子供を抱えている。

また、本作の主人公の一人である大石先生も、当然のように結婚し、当然のように3人の子供を授かっている。尤も本作で描かれている時代は、誰もが貧しく、多くの家が日々忙しなく働き続けなければ食っていけなかった時代である。

子供の身売りも平然と行われ、それが良くないことだと誰もが理解していても、現実を受け入れるほどに、生活苦が同居しているような時代なのだ。ある意味で子供は人的資本であり、家族が食っていくには必要な労働力であり、家計の担い手だった。

まして戦時である。『産めや殖やせよ国の為』『子宝報国』が堂々と叫ばれる世の中において、ある種子供を産むのが女性の仕事とされた一面もあったのであろう。現代であればポリティカル・コレクトネス違反で炎上必至のスローガンであるが、当時は反論が許されない空気があったに違いない。

とはいえ、そのお陰で昨今叫ばれる少子高齢化や少母化、未婚率・非婚率の上昇といった社会課題を抱えずに済んだ。恐らく戦後の復興期を支えたのも、子供を産み、育てるのがある種の社会的要請であり、大人の役割の一つとして意識されていたがために少子化が生じなかったためであろう。

片や現代はどうだろうか。個人の自由が確保され、結婚し子供を産み育てるのが大人の役割でなくなった。大人であっても少年のように好きなことに邁進し、自身のやりたいことを終生追い続けても、誰に咎められるでもなく、社会的に否定されるでもない世の中になっている。

また、ポリティカル・コレクトネスに対する意識の高まりから、性差への意識も薄れつつある。差別や偏見が薄れていっているのは好ましいことだが、同時に社会を支える一員として、男性として成すべきこと、女性として成すべきことといった、役割の意識も消えていっている。

結果的に、社会は少子高齢化が深刻化し、地方の多くは存続が不可能になり、地方に引き摺られる形で日本という国全体が消滅の一途を辿る国家心中状態に陥っている。一人一人が個人としての自由を獲得し、生きやすさを享受できるようになった一方で、誰もが沈み行くタイタニック号の乗員になったわけである。

「二十四の瞳」時代より幸福になった日本は、未婚化・少子高齢化との戦争に敗戦している

少子高齢化が国全体の大きな課題になる中、政府・行政ともに少子化対策を掲げて様々な施策を打っている。しかしながら、『産めや殖やせよ国の為』『子宝報国』などといった言葉を用いることはない。やっていること、言っていることは、実質として大差ないが、やり方や言葉を選んでいる印象を受ける。

それは戦時を彷彿とさせない意図があるのかもしれないし、当然ながら結婚するのも子供を産み育てるのも個々人の自由なので、そうした思想・信条の自由には立ち入らないように注意しているのかもしれない。何よりポリティカル・コレクトネス違反を注意している面もあるのだろう。

だが、誰もが理解しているように、そうした少子化対策は何ら成果を上げていない。多種多様な政策を展開し、それなりに国費を投じているが、目立った成果は出ず、日々刻々と日本という国は滅びの道を歩んでいる。

現在の日本は戦時下ではない。しかし少子高齢化という国を滅ぼしかねない敵に抗しなければならない現状は、形が違うだけで紛うことなき戦時下である。国民一人一人がその意識を持っていない。

また「二十四の瞳」で描かれているような、戦時下の思想強制・思想統一めいたことをやれない手前、個々人にとって結婚や子を産み育てることはあくまで人生の選択肢の一つに過ぎず、プライオリティもない。寧ろプライオリティに関しては低くなる一方である。

何せ、現代を生きる我々は、子供が労働力として必要なほど困窮していないし、周囲を見渡したところで子供がいる生活は当たり前でない。家事を任せようものならばヤングケアラーと言われる時代であり、子供は単純に手をかけ、金をかけて育てる存在でしかないのである。

子供が労働力として必要でない一方で、子供を養えるほどには余裕のない現代の若者にとって、子供を持つことがポジティブに映るわけもない。まして現代は、一人一人の自由を肯定しており、何才になってもやりたいことや夢を追って良い時代だ。わざわざ家族を持つ必要もない。

そんなわけで、少子高齢化という敵との戦争は敗色濃厚であり、国は滅びの道を歩むよりないのである。我々の人生は、「二十四の瞳」で描かれる時代に比べて飛躍的に裕福になった。幸福にもなった。しかしながら、それには当然ながら代償が必要になる。その代償こそが、国の滅亡なのだろう。

我々は、一体いくつの瞳を犠牲にし、刹那的な幸福を得ているのだろうか。考えずにはいられない。尤も、そんな話を語る筆者もまた結婚せず、子を持たない人間の一人ではあるのだが。


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