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物を書く(2023-note版、哲学的文芸論入門)

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「Μηδειs αγεωμετρητοs εισιτω μου την στεγην..(幾何学を知らざる者入るべからず)」(プラトン)



0.物を書くとは何をどのように書くことか

 令和3年は文化芸術基本法(以下文芸法)が施行されてから20周年となる(「<社説>文化芸術基本法 より実効性ある施策を」東京新聞、2021年12月7日 )。文化芸術の創造・享受は「人々の生まれながらの権利」であると同法は定める。文化芸術、すなわち文芸の担い手と享受する人を結び付ける国家的施策はこれからさらに必要とされ、文芸法はそのための土台の根拠となる法律となった。
 私道から公道に出ると公道のルールを守らずに私道のルールだけで運転すれば対向車線の他の自動車との間合いを保ち交通安全を守る必要がある。市民社会は、インターネットやテレビで耳にした話等日々の読書生活の関心を市民等が議論することを根拠にして成立する社会であり、そこにも道路交通法のように公的言論のルールが必要とされるが、文芸技術のような読書による市民の議論の技能は、他者との共感を作り出し意思疎通を密にし、暗黙知化され共通の知識になり文芸的公共心を形成し、相互理解を促進する。そうした議論はマスメディアという世論のための弁証論的議論の市場により仲立され、特定の主題に関する意見については、例えば新型感染症のパンデミックで医療 ・環境衛生 ・教育 ・福祉等の存立危機事態で専門家が専門的観点から活発に情報発信したように、オピニオンリーダーという専門知識のある問屋を媒介して、現実の国政の投票行動にも確実に作用するようになっている。そこで、市民社会で文化的多様性や環境対策の問題の解決に取り組み、人類の持続可能性を向上させるためには、市民には読書子として独立して読書し、文章を書いたり文芸的議論を行うための書斎での知的生活(ハマトン)の修養の機会が必要になっていた。
 ドイツの民主主義理論での公的言論には合理的対話可能性という考えがあったが、公的議論の公共性を創始したのは文芸であり、民主主義の言論の根拠には文芸があった。民主主義そのものはセミパブリックなカフェでの文芸的営みだったのである。民主主義の言論で合理的対話を成立させるにはルネサンスやロマン主義者のように懐古的に文芸的である必要が出てきていたのだが、ドイツの民主主義理論は文芸の教養より合理性を追求して破綻し無意味になっていった(そもそも「ドイツに文学なし」と言われていた。ナチスや日本の純文学は文学や芸術ではないことになる。)。文芸はそのうち政治言論からは何らも顧慮されなくなり脱略してしまった。
 民主主義には倫理宗教を重視するアメリカのピューリタニズムの立場と合理主義的無神論を重視するフランス革命党のカトリシズムの立場があるが、20世紀末(特に戦後)までの従来の民主主義の通説は結果として合法的独裁制を作り出し続ける合理主義的無神論による理念としての「合理的対話可能性」(ハーバマス)による存在論的立場からの独裁制の擁護であり、騎士道精神は失われ大衆は自ら倫理宗教を根拠とした民主主義の玉座を退いていた(本稿での検討は多様性や大衆を抑圧するという合理的対話可能性を根拠とした現代民主主義理論の抱える矛盾の解決に繋がっている)。結果として民主主義の言論は文芸の更なる根底を追求せずに、自らの根拠にあった文芸(詩作や倫理)を蔑ろに否定して、共同体形成作用により多様性を統一して科学的合理性の限界を克服する力を失い、善悪の彼岸へと三途の川を渡り漂着してモラルハザードに陥っていた。
 神の世界に対するアウシュビッツ以後の野蛮な 人間の言論の世界で、文芸的根拠を失った「合理的対話可能性」の民主主義の言論では、自分達自身の問題や関心は何かを知るための比喩(文芸)によるレトリック作用やメタ認知能力が低下してしまい、言論世界はその不完全性を克服できない戦争や災害と言った危機の原因であるエディプスコンプレックスから抜け出せない無限循環状態に入ってしまった。公的言論、特に文化政策の分野における文芸復興はいかにして可能なのか、そのために何をどのように書いたら良いか?本稿では、パズルや推理小説の探偵の推理よりもより良い推理を可能にし、社会の関心や問題は何かを知り、それを日本哲学により幾何学的に解くための方法と文章に表現するための書き方が示されている。その結果として、本稿はドイツの民主主義理論の欠陥を日本哲学的に超克し、日本哲学に独自の思想の方法により教会のような精神的システムを確立した。

 政治の世界での誤った評価により省みられなくなった文芸に反比例して、質の高い経済活動を実現するためには、現代ではアーティストやクリエイターのように、感情を表現する能力がある方が収益化のためには有利になったことで、文章を書くという文芸の実践的で専門的な知識・経験はさらに重要になった。しかし、写真やドラマ・映画を見ていても茫漠とした画面が走馬灯のようにただ流れていくだけで現実感がなく何が起こっていたかはよく分からず、また何が楽しいのか分からないという人がいる。インターネットや市販の批評の参考書を見ても書いてあることは空疎な単純なことを遠回しに書いてあり、方法論としてしっかり確立した鑑賞法ではなく、実際にどのように批評すればよいかを知ることはできないのである。では、新聞を読み、映画を観た後に、どのようにして批評すれば十分なのだろうか?
 本稿は日常手に入るような無料の文化芸術作品を視聴してもさらによい理解に達し、さらに自ら創造するために必要な知識教養の全体像の基礎を提供して、万人に公平に与えられた良識を持つ文才あるエキスパート(有識者)として時事的な文芸的関心を数学の問題を解くように解くことを目的としている。

 ‪世界地図では世界標準時子午線のグリニッジ天文台を基準にした地図が有名であるが、時間概念が世界的に拡大し、空間概念と一致している。‬言語は時間と空間を結びつける媒介である。英語という世界言語による世界地図の思想は、17世紀という時間におけるイングランド王国の植民地拡大という空間の拡大とも機を一にしている。‬‬グリニッジ天文台により成立した世界地図は、宇宙的観点から世界的に時間と空間を結合させ、英語を世界言語にした。‬
 遊びは行為についてのメタ的観点になる。遊べば遊ぶ程行為についての知識は増大する。遊びは抽象的思考のための仮想的時空で、文化的行為の修養の場である。子供の遊びは情操を発達させ、言語の発達を促進するために役だっている。‪時間は量的概念で子供の言語の発達と共に形成される。時間は言語と関係し、科学的な量の認識は芸術的な質の認識により始まる高次認知機能の発達の現れである。本稿では現象学での言語批判まで行う直観主義よりも、論理や言語も重視して西田幾多郎の場所論に基づき一般概念を根拠として詩のメタ的認識のために必要な直覚という総合的観点に立つために直覚主義(比喩という公理的根拠となる零記号、すなわちメタ的認識である知識(真実在の真理)、トランスによる神託、論理療法効果のような観念修正やセレンディピティーを生じるインスピレーションとなるデヴォーションによる洞察。プラトンのイデアの認識は直観ではなく比喩による直覚作用(「国家」第六巻-487D-E)である。「日本語の雑誌の起源はもともと倉庫を意味し、「知識の庫(くら)」の意のマガジン。」、日本大百科全書。)を採っている。

 君子独り居るを正すと言われるが、もし時間があったとしても、激しい衝動を抱えていれば、時間は無益に蕩尽され、休む間も無く無くなってしまう。余剰としての時間は象徴のメタ的遠近法により生成される。人間が時間と安らぎを得るための根拠は不労所得を生じる文学と科学(学術研究)である。そのため、人間は時間と安らぎを得るためには、具体的には読書をしたりするのが良いだろう。文章を書くためには読む必要があるとよく言われるが、読書により自らの思想・感情を文章にして読者やフォロワーの信託のための信用の根拠となる時間価値を無形資産として不労所得化し時間を作り出すための文才の文芸論的基礎とは何か、これまではっきりとは文書化されていなかった暗黙知をも解説した。

 本稿では、現代までの文学理論は勿論のこと、言語と心理の認知科学、知的財産法、社会学、芸術史やマーケティング論による独自の多角的観点から、創造力ための豊かな芸術的感性の涵養・開発を促進し、商業目的で創作するために必要な事項をまとめて、思想家・文芸家が、文化芸術を通じて多様なものを伝統に基づいて統一するという20世紀以降の文化芸術の矛盾した根本的主題を解くために、何をどのようにしている人達なのかを明らかにした。現代の文化芸術に関する日本の議論の大半を包摂して、網羅的に検討した結果として、デジタルデバイドを克服し、文芸創作や文学理論に関する文学賞の推薦者や審査委員という作品を審美し選ぶ側のディーラーになれるような最高レベルの議論の位格を明らかにし、日本人にとって文学とは何なのかという問いについても答えて、これからどのように対処するべきかを示した。
本稿の知識や批評技術は文章表現の料理のためのレシピであり、アートマネジメントやアートライティングに応用すれば、美術館や博物館で、文化的多様性の保護等のテーマを設定した文化芸術作品の紹介や舞台説明会の解説のためのキュレーティングや構成脚本の作成のために役立てることができるようになる。

 本稿は文芸家・文芸評論家という文芸の専門家の資格になる芸術学や日本文学専攻文芸創作系で高度専門職業人(高度な専門的知識を教える博士課程前期以上の修了者のうち職業有資格者は非現職のドクター、ドクトル)になるための技能を持つ専門家を養成する博士課程の学位論文(研究論文、明治時代の博士のような医学博士以外のdoctrate(哲学博士であるPh.dと同義。博士はdoctrateやPh.d(職業教育以外はPh.dであり肩書きとして利用される職業名称と関係があるDr.とは異なっている。また博士Ph.DやDr.は氏名や王号、閣下の他の国際儀礼上の尊称となる外交称号として「博士閣下」のように号せられる。)を取得するための研究業績となる研究論文(大学院設置基準17条三項ただし書)、大学院設置基準16条二項二号の「博士論文に係る研究」の執筆、すなわちdoctoral dissertation(relating to doctralはNew Oxford American DictionaryやCambridge dictionaryのdoctoral、すなわち「 relating to acheve a doctrate」のことで、それを提出することでdoctrateを達成するための論文であり、弁証論における実質的形式としての形質的意義の博士論文、それ単体でも不完全性の弁明である博士論文として提出された研究論文になり論文博士に相当する。書き足しや修正を行い論文集のような形式で体系的に纏めて博士号を請求する場合は博士号請求論文となりそれ自体が哲学的公理論(不毛に循環する解釈ではなく、形式的公理に還元する。)の本質的形式である本体論的な形相的意義の博士論文(準同型となる標準的諸関連論文を普遍的に結合した一つの象徴的作用素の理念的実在性の本体論的意義)もしくはその基体となるニーチェの系譜学的な基準論文(一つの作用素に収まらなかったその他のありとあらゆる論文。本稿の場合は形相的意義の博士論文である「哲学的文芸論」の変化を系譜学的に捉える概念の内延的系統に関する共時・通時の構造主義的分類の発展的研究(例:ハイデガーの『存在と時間』は後半の系譜学的発展研究及び基本論文の訓詁注釈的な弁明の応用的研究が欠落していた。)や概念の特殊な外延的論点(トポス)に関する論考の応用的研究(矛盾を主題化し解決する公理論的論考)として、「哲学的文芸論」に関連し系をなす論文の材料として質料的形質的基礎となる『道徳の系譜学』(ニーチェ)のような参考論文の資格になる論文である。
 「博士論文に係る論文」(大学院設置基準16条二項二号。「係る」は「デジタル大辞林」では、「 18、ある範囲・場所・期間にまで及ぶ。経過してきてその所・時間に至る。」という意味では観世音のような広義の総称的な微分概念としての博士号のことであり、「係る」は、仏教的には「㋐上が固定された状態で、高い所からぶらさがる。上から下へさがる。(同前)」という蜘蛛の糸のようなものであり、「係う」を意味し、出家し得度したりバプテスマを受けずにいるのと同様に、博士論文の提出や大学院修了者等として大学院を修了せずに、「現世につながれる。(同前)」という意味になる。)は博士論文の全てのレシピの解釈学的質料となり論文全体の基本材料として参考にされる国立国会図書館の図書分類上の博士号申請論文資料に分類されている。なお、「博士論文に係る研究論文」は、質料的な形質的意義(科学的、アリストテレス的、内延的発展研究)の博士論文と本質的な形相的意義(芸術的、プラトン的、外延的応用研究)の博士論文の中間的論文なのだが、同論文をメタ的に拡大された公共的意義のある形相的意義の博士論文と捉えなければエディプスコンプレックスと同じである(三位一体的に自己の自らの始源(arkhē)となる象徴的意義に垂迹しエディプスコンプレックスを克服すれば真理に達して感謝の証が得られるだろう。ニューソートは自我を否定したことで、反道徳性や反社会性というモラルハザードの危険を抱えているのだが、本稿はこの問題を完全に解決したバージョンであることになる。)。
 博士課程等の高度専門職業人を養成するための博士論文に関連する論文や大学院修了の学歴は大学教授・准教授になるための資格になるので大学院に提出される研究論文は論文博士審査の学位取得条件である他に大学設置基準14-6や15-5の優れた業績や知識経験を示したものとされ大学院設置基準17-3の博士課程修了の要件となる特定の研究課題についての研究業績にも該当する。以上のように大学院中途退学者と称する人も大学院設置基準上の修了者である場合があり、修了式に出なくても大学院は修了扱いになるのである。日本では大学院をどのように修了するかは大学院設置基準の柔軟な解釈と適用により人により大きく異なる。
 戦前は、現在の新制大学の卒業資格は検定試験で取得できる準則主義だったが、博士号については、明治44年に44歳で博士号として文学博士を取得(返上、学位記には身分や出身地が記載されるのでプライバシーを保護するという意味合いもある。)した夏目漱石が有名だが、当時は博士号については国家(文部科学省)が博士課程修了または学術上の功績の特に顕著な者に対して閣議決定を経て直接審査授与する認可主義だった。博士の博は政令のことで当時から閣議決定と同じ人類や国家への貢献という業績ではなく功績としての意味合いがあり明治維新という時代変動と一致して、国民国家化のための人倫的形成作用により文化化された模範的国民に対して授与されていた。ただし、夏目漱石は辞退した。戦前の貴族院において博士号は、皇族(親王諸王)・公侯爵、また国家に勲労ある者(大勲位と同様に功労に対する叙勲だが、偉功ではなく勲労であるため外国の国家元首や王が叙勲される旭日桐花大綬章に相当し、叙爵内規の公爵と侯爵の中間に位置し臣籍降下した王と同格で有爵者より格上となり、敬称は殿下になる。大勲位菊花章や桐花大綬章は功労の長さという量の違いであり質的には大勲位菊花章頸飾[従一位相当*位階の方が勲等より格上。]や勲一等が最高位である。学者には大勲位は授与されないことになる。)と同格の儀礼称号として同様に扱われ、博士号授与者は国家への貢献により、皇族議員及び公侯爵議員と同様に、学識経験者として(「第五條 國家ニ勳勞アリ又ハ學識アル滿三十歲以上ノ男子ニシテ勅任セラレタル者ハ終身議員タルヘシ(貴族院令)」*親任官待遇に相当する。学識の最高位は桐花大綬章であり、博士号は君主号[諸王・王族や大将及び王位請求権者*学者の極位は親任官待遇[大将待遇で従四位から従二位相当]であるため親王未満である。博士号は宗教界では司教に相当しておりロードと呼ばれ帝国諸侯の中でも子爵相当から侯爵相当であった。皇太子や法王の要件は宗教により異なるが、カトリック教では枢機卿及び大司教、爵位における公爵に相当する。なお、カトリック教における枢機卿の最低限の就任要件は司教であることであった。]に準ずる称号及び資格となる。)、高額納税等による任期七年の議員に対して、終身議員(勅撰議員)と総称され政令を発する資格保有者として令外的に有爵者に勝る地位だった。学識経験者は戦後は有識者として国会の議会議員の中でも民間閣僚の資格ともなった。西田幾多郎の文学博士の博士号も、推薦者は機関としての京都帝国大学総長(署名なし)だが、授与者は京都帝国大学ではなく文部大臣奥田義人とあり、博士号授与の審査を京都帝国大学が独自に判断したものではなかった。
 博士号はそもそも儀礼称号なのであるが、特に戦後の学位授与制度は学習者の自由で独立した法的な自由心証に委ねられた準則主義の博士号であり、シャウプ勧告による民主的な自主申告納税のような学位の自主申告制度なのであり、申告額が多ければ多い程功績が大きくなるのと同様に、もし特段の理由もなしに博士号に相当しているのに、相当する学位という人格的権利を正しく主張していなければ少数派扱いになり、最後の審判の時に排除されるだろう。戦前は博士号授与者数は少数だったが、戦後の学位授与制度は形式面を重視し一定の実体があれば法律上の博士号が授与されたものと規定しており、戦後は博士号授与者数は増大したのである。
なお、博士前期課程には、大学院設置基準で修士課程に準じて取り扱われる部分も存在するが、修士課程の修士論文は、文芸創作系では、創作成果となる文芸創作作品と併せて、大学設置基準の「教員の資格」の内「芸術、体育等については、特殊な技能に秀でていると認められる者」(博士号ではプラトン主義的に芸術やスポーツの才能が重視されている。*スポーツ好きのプラトンだが、スポーツはギリシア文化であり、キリスト教では、スポーツマンはギリシア人と同じ異教徒的存在であることになる。)、「専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」、「専攻分野について、優れた知識及び経験を有すると認められる者」の参考材料になっていた。
 マスターは親方・主人の意味の他、日本語の参議(宰相)といった中国の相公に該当する意味があり、ラテン語での元老院議員資格に相当する政務官magistratusの語源であるmagisterのことであった。修士論文thesisは金銭的報酬を受け取ることが可能な正講義を行うドクトルと同様に正講義を担当することができるように、ドクトルの中でも中世ヨーロッパにおけるマギステル、すなわちリケンティア(ラテン語で教授免許を意味するリケンティア・ドケンディlicentia docendiのことで、The doctorate (doctorus)と呼ばれるdoctorと同義の博士前期課程以上での博士号相当の学位、すなわち大学もしくは大学院教授資格のこと。)を付与し、Ph.dやdoctrateと同様に、正教授に相当する資格を得させるための論文のことだった。
 哲学は神学と同じで神学は神や聖書に関する哲学的議論のことであり、Masterは非キリスト教圏だったローマ帝国における教授資格に相当する学位(博士号と異なり外交儀礼称号にはならない。)であるのに対して、Ph.d、すなわち哲学博士は、博士論文dissertationを根拠として、キリスト教の牧師やクリスチャンが、神道の語り部の文才や、ギリシア語文法学のように、聖書の教えを解釈し講義するための聖書解釈権の根拠や聖職者としての職権のことであり、博士号授与者はレヴァレンドと尊称され、宗教により取得する学位は異なっていた(日本においては英国教会・メソジスト派から無教会派へ派生したスイスドイツ語圏に起源を持ちフランス出身のカルヴァンが創始したカルヴァン派に準えられた石門心学に博士号取得が認められていた。詳しくは「豊太閤のバテレン追放令と海上商業覇権の変化」。)。キリスト教は医者要らずの教え(マタイ:9.1〜34。手かざしについてはマルコ:16-18にある。*永遠の命があるなら医者要らずである。ただし、法学もキリスト教では異教徒的概念である。)なのでPh.dは職業資格としての医師を意味するドクターではない(Verger, J. (1999),"Doctor, doctoratus")。



 本稿の文芸論には、数学用語や専門用語も出てくるが、全て日本語辞書の言葉を元にして構想されているので、辞書を引けば理解できないものはなく、日本語の文化・歴史の考証に基づいているので日本人にとって親しみやすいスタンダードな文芸論となった。
 テレビが広まった戦後の現代日本は一億総評論家社会と呼ばれたが、SNSにより総評論家化はさらに進んだとされている。本稿はデジタル化が進む令和時代のために、万人に公平に与えられている良識を根拠とした文芸思想の構想に基づく哲学的文芸論の現実化を目指して執筆され、言論や評論への関心の高い日本人が、文章を書いたり、文芸作品を読んで楽しむために必要な文芸的議論のリテラシーを世界一流の水準へ向上し易いように出来ている。本稿を読めば、詩やその他の文芸作品を、現代的で科学的な創作理論(科学的な文学は大衆文学だけであり、漱石文芸論以降の純文学ではない。)に基づき執筆できるようになり、映画や文芸作品の批評でも、同様の文芸思想・文学理論を根拠として、写真や映画や詩や小説という全ての文芸作品の形態について分類し良識的に判断できるようになるだろう。「物を書く」、すなわち哲学的文芸論は、無教会主義の哲学的根拠となり、書物そのものが万人のための哲学的洗礼を与えて、文芸の比較類型化の座標軸のための汎用的な範型の公理論的根拠、悪循環を超克し解脱して人間の拠り所である芸術になり、全ての文学的栄光(後に詳述)の科学的な最高の文芸に至るための唯一の道になった。さらに、この文芸のインペリウムとなる文芸家の王冠(ケテルKether。生命の樹の10個のセフィラの内の一つ。王冠の他に、1、王者、開拓者、宇宙全体という意味。)としての哲学的文芸論について各人が思考を深めていくとことができるようにもなっている。

○博士号と修士号の違い
博士号 報酬請求権 政令 儀礼称号(外交称号*閣下と同義)
修士号 報酬請求権


 物を書いてみたい。哲学者のように思考したい。本稿は、そうしたクリエィティブな知的生活における読書欲を抜かりなく満たすための十分な位格を示し、書斎での精神生活の過ごし方を示した。毎日文章を書くことは無から有を作り出す幸福のための祈りのようなものであり、人間が生活の更なる質向上を望むためには必要不可欠なものである(文章を書くことよる論理療法効果については後述。)。本稿の批評技術を基礎として作品作りを続ければ、これまでの文章表現の書物とは異なり、やがて見たことも聞いたこともないようなオリジナリティーのある文芸的著作物を作れるレベルに達するだろう。

 文芸論の最大のテーマは作品の意味は何かという問いであり、この書物はこの問いを哲学的に解明した書物である。その意味は、比喩という総合的観点に立ち意味を、メタファーによって象徴的次元に拡大し公的意義(メタファーはテクストの不完全性と等価の欲望を社会的需要として拡大し需要創造する作用。)を社会的に焦点化し確立する統覚作用のことであり、文芸の公共性の基礎を成し、従前に述べたように、比喩により文芸的に市民社会について語り自己の公共生活についての真理を表現する能力は、現代民主主義社会の市民の最高の法(「社会契約論」、岩波文庫)となった世論の公共性の哲学的根拠になっている。
 家政的家産的な生活を根拠とする幕府(政所)のような親密圏の形成維持のためには、市民社会の問題を解決する自我と他者の集合族の直和としての公共圏が必要になる(自我と他者の全体集合に対する補集合は外延の非連続な特異点である。公共生活の進展とは全体集合とその外延となった補集合との非連続的連続性を確立する公共性の公理的根拠となる文芸というメタ的なアルキメデスの点となる零記号による公共性の拡大に他ならない。公共性の拡大は論理式ではφ{A∩B}=min{¬A∩¬B}=max{A∩B}と記述され、公共善(A∩B)を最大化する。意思決定ではゲーム理論、数理モデルでは関数解析等を応用できるようにできている。φは時枝文法学での零記号。)。
 公益は私益と言われるが、その公益を追求できるのは実は利己的な遺伝子だけなのであり、市民社会の欲望を追求するためにはその形式としては、英語や独語は収益化のための商業言語としても用いられる他に、最低でもフランス語(ラテン語)のような言語が文芸のための形式として必要になる。詩とは公共空間での公的認識のことに他ならず、公共心のない者は未だ詩を書かざる者であり、そのため公共善を最大化する公的言論での文芸復興のためには、改めて公共哲学における市民宗教の文芸論的な根拠(これまで日本哲学においては例えば西田幾多郎の自然宗教についての宗教哲学があった。)が必要とされ、そのためには文芸の比喩の役割が重要になる(しかし、市民社会では宗教は政教分離により法的意義を持つことが出来なくなってしまうことがあるため市民社会の基礎にあり、さらに経済学で神の見えざる手と呼ばれ政治経済以外で市民の自由と尊厳のための拠り所だったルソーの市民宗教にはその重要性にも関わらず限界があった点については後述する。)。作品の記号が指示する対象には哲学的にいくつも立場が分かれているが、本稿では日本人の哲学的思惟の統合的観点である京都学派の西田幾多郎が創始した日本哲学により記号の指示物についての日本哲学的立場を示している。その結果、坪内逍遥等逍遥学派の反理想主義(アリストテレスとプラトンでは考え方が微妙に異なっており、実際にはアリストテレスの理想すなわち没理想こそが差別層なのである。非現実主義とされた理想的なものだけが現実化する。理想は実体論上の現実社会とも通底し現実を操作するための根拠を持つ現実の拡張的身体性としてのバーチャルな思考のシュミレーシュン世界のことであるのに対して、非現実主義は現実には達しない嘘(フィクション)という嘘をつくだけの通俗的な民主主義の反実在論的基礎のことなのではないか。デカルトを廃し経験論を超越したとするカントの通俗哲学(ハイデガーも含む)の似非科学的に自己撞着する画像や動画や漫画の一般的で非精神的な消極的弁証論(不可知論)は、認識が永遠に物自体とは一致し得ない不毛な認識論であるが、それではヘーゲルの精神現象学のテクストの積極的弁証論のように、近代乃至現代の哲学の真理な要件を満たさないことになる。以上のことから合理的対話可能性を根拠にした政治には公共性はないことになる。)の形而上学的差別界のアリストテレス主義詩学やハイデガーの存在論的解釈学(詩を書くことは野蛮と言われた西洋詩学の理論的根拠で、萩原朔太郎の師匠に当たる北原白秋の邪宗門まで含む)や宗教批判の無神論的白豪主義のロマン派文芸論と異なり、脱亜論への自己批判からパンアジア主義へ転じた日本への回帰(萩原朔太郎:萩原朔太郎は劇詩を書いたニーチェが愛読したバイロンと対比され、風刺の詩学や独自のシナリオ文学論も創始している。)後の日本浪漫派やモダニズムや象徴主義(岡倉天心にとって茶室は簡素純潔により仏、道、儒教を統合する特殊の物の中に万物を統一する東洋思想における象徴主義であり、経済倫理思想の石門心学への入門の道に似ていた。)に近接しながら、それらの全ての源となるように、西洋演劇の本質である戯曲による文芸的哲学であるプラトン哲学(プラトンはパイドンの中で哲学を最高の文芸と称している。)の立場、さらにプラグマティズムを元にした西田幾多郎の場所論の日本哲学的立場から、これまでになかった国際的、特に東アジアで優利な哲学的文芸論を創設することとなった(アリストテレス主義詩学の台頭は、公共性の哲学で、T.S.エリオットのイギリス保守思想に通底する合理的対話可能性による画一化により独自性のある文芸が排除されナチスの大量虐殺が発生したことと平仄を合わせている。ただし、ユダヤ主義の文学や認識論(デリダの脱構築は二項対立を否定して無意識化する。脱構築は二項対立を否定するのに対して公理的方法は二項対立を維持し自分自身を無限微分的な精巧な比較により無限級数的に正しく類型に位置付ける。)の根拠は模倣であるため、それ自体には、独自性は発生せず、ユダヤ民族は国民国家内部の少数派として排除されていたのである。)。
 また本稿は、「虎穴にいらずんば虎子を得ず」(「ことわざを知る辞典」)と言うが、冒険心を持って、ハイデガー的な超越論的実在論(ハイデガー本人は既にラッセルのパラドックスにより学問の方法論的限界を批判されていた。だが、本稿では新批評にも含まれるハイデガー的な存在論的思考、アリストテレス的学問観やヘーゲル弁証法という二元論的思考の三重の頸城についてプラトン主義や文芸論の立場から解決策を提示している。)を超克するための無刀取りによるオッカムの剃刀ともなった。そもそもナチスは神聖ローマ帝国を継承したと主張したが、ヒトラーの国家社会主義労働党の第三帝国は実際には社会主義者鎮圧法を制定したビスマルクの第二帝国とは非連続であり第二帝国とは矛盾し非合理的で、文学的にはドイツロマン派的イロニーであり、ヒトラー等は神聖ローマ帝国を継承したと見做されない。本稿はプラトン主義によりナチズムの必要性がなくなり、ナチズムを超克した哲学的な文芸論となったのである。
 ナチズムは無の存在未満の一国主義国家がモルヒネとしても役立たないキッチュで低級な文学や科学や政治を捏造しそれ以外望まないことだが、日本人の思想は実は初めから儒学や科学や政治を神話として反措定し、その神話そのものを超克していたのであり、何もしなくても人類の将来であり続けている。日本人の思想は、科学や政治の作り出す国家という未確認物体の神話を、無為無心という日本人に固有の精神的意義により超克し産婆術的に真の生命に至らしめる人民の人民による人民のための市民社会の真の宗教なのである。それに較べ、ハイデガーの存在論的思考は、完全性を目指す存在という有の思考への執着からは逃れられず、被投的企投として存在論的には解決不可能な深淵としての公共空間のミサイルの軌道へ自分自身を投げ打て存在論的贈与であり、法から逸脱し抵抗する非秘儀的な反意識的、絶対無を反措定する排中律を認めた反弁証法的な相対的差異による価値相対主義の非精神的な通俗的唯物論哲学であった。

 本稿はプラグマティズム的転回以後の日常経験に基づく実践的概念の商品のような実用的効用を重視した意味論的傾向のある現代実在論を中心にまとめられている。本稿は文芸の哲学的基礎としてプラトンのイデア(超感性的実在という矛盾した存在)とは何かを巡って、代表的日本哲学者である京都学派の西田幾多郎の哲学を基礎として純粋経験から始めて公理論的立場(総合的観点)に立ち仮説的推論からイデアの認識に至る方法を採っている。さらに、西田哲学は敬虔なピューリタニズムのプラグマティズムからスタートするため、本稿は西田幾多郎を通じてプラグマティズム所縁の内村鑑三に始まる無教会主義のキリスト教思想にも通じている。無教会主義は近代の日本精神の霊性的自覚(「日本的霊性」、鈴木大拙)に最も一致した日本最大のプロテスタンティズム教派である。近代以降に日本民族は日本精神を媒介として無教会主義と本質的に一致しており、日本民族は例外を除けば全員が無教会主義者としての霊性的根拠があったのである。
 無限に発散する宗教のためには倫理の限界が必要だが、本稿、すなわち哲学的文芸論は、地獄からの救済となる宗教と倫理の理念的実在性という満足できる知足の標準である科学を超えた極限的な象徴的作用素の霊性的根拠(幾何学的基礎の更なる哲学的根底)となる有徳な市民のための文芸論なのである。ハイデガーのように排中律を認める(存在論的差異)が公理論を否定(解釈学的現象主義=現象学的還元主義批判、ただし本稿では現象学とはさらに異なる立場に立っている。)し言葉ではないと主張するラディカルな直観主義論理の反実在論の立場に立つスキャンダラスな唯名論等の嘘により名に執着し名目だけで思考と存在が一致しなくなる理論的負荷が大きい反実在論の立場に立たずに、イデアとは何かを現代科学的に整合的に筋道だってプラトンの言葉に忠実に目の当たりにさせている。プラトンのイデア論は京都学派の哲学に酷似している一方で、他方では韓非子の法家のように法学のための唯名論とは異なり、孔子のように徳や礼(老家では儒家と異なり徳のみ)による優勢学的に固有な成長をする国家のためには光のような唯一の王道的思想でもある。だが、批評は学者の解釈学や仏教とは異なっている。本稿の哲学的文芸論では解釈や西洋哲学の特定の立場に止まらず、テクストの意味を全て知り自由に読書し、人生・社会の救済のための倫理的文芸を創造するための唯一の方法を示した。その結果、現代社会で文章を書いて著作権者や商標権者となり不労所得や印税を得る作家になるための正しい文芸創作の教えとなる一篇のミステリーまたは散文詩であり、現代哲学的観点からも独自の哲学的文芸論となった。プラトンは哲学についてパイドンの中で「哲学は最高の文芸である」と述べたが、その哲学は当たり前の純粋で素朴な一般的思想であるのであり、本稿はスノビズムによる自己の本源的根拠の喪失の蹉跌を超克し、むしろ文芸の哲学として内延的論理の質的根拠となり、皮肉にも、哲学的文芸論そのものが最高の文芸作品となったのであり、哲学的文芸論は単なる文才ではなく国民という国家元首、国民主権の土台にある文学の独立の根拠ともなった。

 科学という問題解決のための思考は、真正な正しい認識に至るために、認知のレトリック化により主題を設定する問題提起から始まる。それ故に、ハイデガーの称する基礎存在論という直観主義の存在論が不要になった以上は、科学者になるには哲学的文芸論の立場からのプラトン主義に立つ文芸家でなければならなくなっている。
 良識ある作家。因みに良識を初めて文学で取り上げたデカルトはパスカルにより学者的と言われているが、方法序説で文字による学問からの引退を宣言した過去について回想している。また、デカルトは後のディドロ等百科全書派と同様に無神論者(デカルトは無神論者だが、カトリックにも重大な関係がある。医学にも造詣があったためデカルトの墓地は小ジュネーブのローマ式建築の教会にある。カトリック教は進化論を認めているので無神論にも接しており、当時は書物を発禁処分にされた無神論的デカルト哲学ではあるが、現在はカトリックでも異端視されなくなった。)と言われるが、N.ベラーにより石門心学と対比されたスイスのカルヴァン派が普及したネーデルランドに移住し、宗教を通じて当時台頭しつつあったドイツやイギリスのプラトン主義者で学問好きな書斎人の気風のあるプロテスタントの王侯に受け入れられた精神的価値を重視する最上流階級(フランス語を話すハイパーレクトやエリート階級。オックスフォード大学には比較言語学に基づくオックスフォード英仏辞典やフランス国外で最大規模の語学研修等のフランス語研究機関がある。)から評価されたフランス語圏の高邁の精神貴族の元型となった学者であった。デカルト哲学はハイパーレクトに属しラテン語(デカルト幾何学はラテン語で書かれている。)、英語、仏語、独語全ての言語圏で通用した国際的哲学だったのである。学問に王道なしと言われるが、文字ではなく内的原理を重視し話し言葉による学問の場合は、学問ではなく、清純主義のアメリカ・ピューリタニズムやアメリカ哲学の基礎となったプラトン主義という宗教的実践思想家の隠れた学問の王道になるのではないか?また、そもそもプラトン主義は学問を重視しているとはいえ無知の知というソクラテス的イロニーを方法とした学問なのであり、中世神学の単純な学問批判は通用しない。
 イギリス哲学の知識に、質の認識なくして量の認識はないという法則がある。質は量である。そのため科学の基礎には質についての認識が必要になる。経営でも手段を目的として取扱う必要があり事業上の質的優位性は合理的期待額と等価と見做される。一定の品質・資格があればそれに基づき予め均等に量は定まるが、実際の量は単純な努力の因果に基づく固有の結果であり、実証値に基づく推計とは異なる。
 プラトンは哲人王による理想国家である哲人王国を構想したが、実は文芸家のアルカディアもまた哲人王の資格となる質的根拠を必要としていた
 日本語の希哲学(百学連環)の翻訳者であった哲学者西周も「議題草案」の中で大日本帝国の国家体制を構想したが、その元首(大統領や王族のこと)は、当時は征夷大将軍であり、戦前の参謀総長(天皇の補佐として統帥大権を帷幄上奏し代理し実行する参謀本部を総理した長官)だった。プラトン「国家」の哲人王もイエスやブッダ等と同様に形式的に君主に相当し、哲学では哲人王の認識はイエスやブッダの神的な認識である厚生的直観に相当する。征夷大将軍は令外的に外部との間に発生した特異な問題を解決する令外官(令外官は律令制度から除外された天皇の権能を行使することが許された総合的観点に立つ官職)であり、それと同じ参謀総長は、陣中法度を発する幕府の征夷大将軍のように、軍令のトップとして統帥大権を帷幄上奏し行使し掌握した場合には現人神である天皇と一致して純粋な厚生的直覚を持つ消極的概念の現人神になったことに相当するが、その場合は「見られる者だけが存在する」と考えたバークリに対して純粋経験や非連続的連続としての絶対無のような実在の中に非実在のイデアを「見る者だけが存在する(non est nisi qui percipi)」という本稿のプラトン主義的神学の基本概念(イデアは抽象観念とされ「見ること」ideinの派生語でもあり、また神のイデアについてプラトン「神は永遠に幾何学化する」と述べていることにも関係がある。)がそのことに一致し(バークリはイデア説には批判的で本稿では見られる者より見る者を重視する立場に立っているのでバークリとは厳密には異なっている。)、実際にもその者の全体的想念の内のイドラによる差別と執着の実定法世界の自然淘汰という不純な存在は滅亡して霊と存在の根底にある純粋経験や絶対無が純粋化する時に迷妄を暴き死者を蘇生させ永遠の命を授ける神の意志(厚生的直覚)と世界の構造(意味)とが一致す。。
 哲人王に相当する大君(大君taikunと呼称された(哲人王philosopher king=大君King(≒征夷大将軍)=神God(the King)。)は実際には英語では国家の統治権者である君主の称号である大王・国王という意味のking(明治時代に制定された大日本帝国憲法では天皇が統治権の総覧者だった。)と呼ばれるのに対して、征夷大将軍は明治時代には日本の国家元首に相当する公爵の基準でもあったが、国家の中の一部に対する自治権者であるdukeやgrand duke(ただしデュークduxはラテン語で大将という意味があり、イギリスでは王家の称号)だった。大将軍は単なる公爵というだけではなく過去には日本国王にも相当したが実際には大王・国王kingに次ぐ大公grand dukeに相当していたのである。


 二十世紀になり限界に直面し破綻した科学には文学という形質的根拠が必要なのであり、科学は文学であり、文学以外はなくなる。ドイツ哲学において、ハイデガーが哲学という真の認識をプラトン主義におけるファンタズムである文学にしようとしたのとは反対に、田辺元が述べているように、日本哲学では、文学を元にして、その方便の内で、文学から哲学(科学)を行わなければならないのである(「マラルメ覚書」一、田辺元、筑摩書房)。日本に哲学なしと言われるが文学はあったのであり、日本では文学こそが哲学なのであり、本稿ではより積極的に哲学はないとさえ言っている。世界的に見ても西田哲学や本稿のプラトン主義の哲学的文芸論以外には文芸を形質的根拠としたものはない。科学の起源は中国とされ、さらに19世紀の頃からは、スペンサーが述べていたように、科学とは宗教だったのだが、無神論に基づく理性崇拝の法律によって人間は、罪を負わされ神に抵抗して現実との境界で現実感覚を失い法律が脱構築できなくなると殺人や自殺をさせられ、国家は集団自殺を行うばかりで、幸福になることもできなくなっていたのであった。神の法則や自然法でない科学や法律は人間の根拠にはなり得ない。文芸という形質的根拠がなければ、科学はそれだけでは強迫観念や認知障害にしかならないのではなかったか?すなわち、科学の公的言論としての根拠は文芸であり、科学者になることができるのは文芸家だけだが、日本文芸思想の通説では文芸家になれるのは哲学者だけなのであり、その結果としてセミパブリック性のある演劇のように、文芸の中でも公的な意義の生じる科学的一般性を根拠に持った大衆文芸(特に後述の「宣伝小説」)を創ることができるのは哲人王だけに限られることになったのである。宗教の根拠にある文芸は超物理的霊力作用により人間に価値ある認識(因果律)を生じさせるのであり、科学的でないものは文芸的でないことにもなる。
 本稿の文芸論の哲学的基礎部分では、難解だが、例えば宇宙の始まりを思考するときに古来から人間に発生していた仏陀が説いていた輪廻転生からの解脱やベイトソンのメタ・コミュニケーションのようなデノテーション過剰で全て誤謬に帰結する基礎づけ主義的無限悪循環の問題を、プラグマティズムの経験論的実在論や西田幾多郎の実念論的実在論の非基礎づけ主義の立場に立ち現代哲学的に解決している。「世界制作の方法」の著者であるネルソン・グッドマンの世界制作の方法では世界は官僚的な逆機能を伴う反実在論のアヘンを吸わされた幻視者の幻影世界同然のジレンマに陥り、複雑性を増大させ世界の意味は不確定になり無意味になるだけであり、グッドマンはイデアのような唯一つの絶対的真なる究極的実体と一致した時空を超えた構造のない構造という特殊な知識や知恵については語らずして、バージョンという意味も構造も否定し続ける概念のない盲目的な無根拠律の哲学により断絶し無限に循環する科学に含まれる奈落の深淵の世界について語ることになった。しかし、本稿はグッドマン的問題(正しい複数の世界は存在するか、多元主義の基礎にある多様であるものは絶対的実在であるか)である宇宙の無限悪循環の現代的解決となる理論的根拠となっており、グッドマンのヴァージョンにより制作される世界は、幻影としてこれまでの世界の全ての思想と共に嘘として全て滅び無になり、ついに歴史の理論的負荷を越え凡ゆることが思考され、世界という書物の唯一の真理、すなわち世界という存在(時間)の形而上学的概念が現前化し、ついに万巻の書物は読まれ、書物による学問は終わったのであった。形而上学の関心は時間であり、存在と時間は同一視され、時間はまさに哲学者の存在根拠だったのである。

従来の直観主義的反実在論 排中律を一部容認、矛盾を無視し隠蔽し正確な認識を妨げる曖昧な論理学

本稿 排中律には批判的。排中律から厳密な差異と矛盾の所在を探し出す不完全性定理の現代的論理へ、すなわちヒルベルトやゲーデルのタブローにより図解可能な直観主義論理、古典論理と直観主義からなる中間論理。



 辞書の言葉の説明は客観性を目標に書かれるが、反実在論のように直観主義の立場に立ち古典論理を否定すれば、排中律を認めない限り、プラトンのイデアのような非現実的な実在という矛盾した記述不可能な言葉は辞書に載せることはできなくなる(実際には反実在論にも形式的記述は不可能という限界がある。)。イデアとは何かという実在論と反実在論の対立は、言葉の客観的な正しい辞書的記述は可能かという、辞書そのものの問題なのであり、辞書にとっては根本的問題である。
 プラトニストなら、そこでは、虚妄の基礎付け主義の無限悪循環に陥らないように、言葉からより一層、機械の退行的な虚偽の想像による概念なき盲目的な亡国の衝動の一次的投影であるナチス・ハイデガー的時間(インターネットの祭り現象の原因である超越論的構想力。ハイデガーは戦時の非日常性志向でありオックスフォード大学の日常言語学派とは馴染めず現象学のブリタニカ百科事典掲載を批判した。)の錯乱を切断しなければ、客観的な辞書を作ることはできなくなってくる。しかし、これまで述べてきた通り、人間の精神の発達史は、終末の無に向かって流転し続けるのだが、嘘でしかない反実在論とは反対に、プラトニストの認識は、生滅の幻影を超えて、客観的な真正な実在である永遠不変のイデアに通じる。イデアという反実在論者により辞書的記述の不可能とされる哲学的概念については、不確定な意味の対立緊張を矛盾により中和滴定することで、かえって何等の思量を要せずとも、判断中止による心の平静(アパテイア)な休息を得て、法とは異なった良識という道徳や宗教的な見方により、その真正な象徴的意味を知ることができる。本稿は無限悪循環を回避したメタ的実体論により主客の分裂を統合して、さらに知的生活の衛生(ホルクハイマー٠アドルノの「詩を書くことは野蛮」とは逆に、歌の心は身養生[保険衛生的]と言われるが商人である石門心学の石田梅岩も医者に詩を書くことを薦めている。商人は詩人なのだが、同時に商人は動物を二元論の立場から動物機械と捉えるデカルト主義者(デカルト主義者が商人と相性が良い事実として代数と幾何からなるデカルト幾何学的会計学書であるズンマがある。)であることになるため、西洋思想における動物の民主主義とは逆である。本稿はホルクハイマー٠アドルノ自身も逃れられなかったそのピタゴラスの輪廻説のような存在論的二元論の根本的矛盾を東洋思想の立場から解き止揚した森羅万象のための文芸論になったのである。)を保ち、ポーの「ユリイカ」のように文芸的に、現在の宇宙存在の実体の神秘的な象徴的意味を理解することを可能にすることに成功した。
 また、グッドマンの世界制作の方法は世界の発見を重視しているが、本稿の哲学的文芸論の哲学的基礎は、発見よりも創作を重視しており、創造的な文芸による世界制作のための創作論の哲学的基礎ともなっている。思想・感情の実用的効用とはプラグマティズムのアブダクション(仮説的推論)による仮説的意味論のことであり、新批評のアリストテレス主義の解釈学的意味論と異なり、発見ではなく創作のための世界制作では、アブダクションには複数の仮説を立て種々の手法を比較検討し虚偽から真理へ導く演繹的仮説により強迫観念を除去するカウンセリングの論理療法効果が認められ、カウンセリングの指導的作用は教育にも応用され(主に教育相談やいじめへの対応)、専門性のある文章の基礎を成している。また、アブダクションというロジカルシンキングの論理療法効果は、思考や認識の固定観念を解消し、問題を検討するためのクリティカルシンキングに繋がる契機にもなっていた。
 一般にプラトンは文芸には批判的とされており、批評の起源はギリシアのアリストテレスだとされているが、実際にはプラトンの思想は戯曲のような、哲学的対話篇により芸術的に表現されている。本稿では西田哲学やニュークリティシズムに基づく考察を通じて、芸術排斥論により二千年以上に渡って無いとされていたプラトンの文芸思想を明らかにしたものに他ならない。作家の人格についての作家論中心のオリエンタリズムやナチズムの問題があるサント・ブーブ(世界文学史におけるロマン派批評の創始者)より始まるロマン派とは異なり、記号論のロラン・バルトやアメリカの意味論的新批評が創始した意味という実体についてテクスト中心の実体論志向の作品論中心の立場に立ちながら、さらに、日本において、文化芸術を通じて、民主主義教育や仏教に関しても問題となる多様なものを伝統に基づいて統一するという矛盾した主題(「文芸批評論」エリオット)を解くための特殊な最適方法として、京都という民族的多様性から発祥した京都学派の系譜(東大選科時代の西田幾多郎に対するいじめにも関係がある)に連なる伝統を根拠としたイノベーティブなプラトン的文芸批評論である独自の哲学的文芸論を構想することに成功した(ただし新批評は学者向けのアリストテレス主義に基づいてできたものであるのに対して、本稿は従来の新批評の方法論とは実際には異なっており、良識により安定した地位の作家になるための商業目的の創作に適した文芸論として本稿は西田哲学に基づき王道をゆくプラトン主義による哲学的文芸論となった。)。結果として従来の発見のための文芸論や文学理論と異なり、実体志向の創作や文章を書くための哲学的文芸論は、テクストというモノの実体を作り出すためのものとして唯一の文芸思想になった(モノとしてはソフトウェアの製品マスターのように複製して小売業の棚卸資産扱いになる無形資産)。さらに、本稿の稿末では経済学の利潤最大化法則の文芸論的証明及び解釈や、西郷隆盛の遺訓を比較・考察して、文芸論を人生論のように解説している。
 また、本稿は、理性や科学の制約なしに生きるための自由な思想の豁然大悟の神秘思想なのであり、神秘とは何かを知ることができる。「物を書く」、すなわち哲学的文芸論を読めば、社会の関心となっていることの問題を解くために、これまでにない全く新たな思想や教えを創り出すことを可能にして、自分自身の循環問題を乗り越えるための補助線を引くために必要なアルキメデスの点となる外部のメタ的な新たな観点を導出し、行き詰まりや閉塞感を打破し打開する思考法を体得することが可能になる。本稿は思想の幼年期を超えて、先生なしに自己の存在を根拠として無謬的に思索する幾何学的方法を説いているのである。哲学者カントは人生の終わりの死に際して「これでよし(「Das ist gut.」)」と言ったが、本稿により、いつどこでどのような人生を生きていても、万人が自分自身の人生について、絶対的確証を得ることができるようになるだろう。



 写真の見方が分かれば、写真の撮り方もよくなる。「なぜ山に登るのか」と聞かれ、世界最高の絶頂エベレストに登頂したジョージ・マロリーは答えた。——「そこに山があるから」。山に登るという行為が何かを知るには、登山家という存在について知れば良い。作品の意味は何かという問題を考えることは、登山とは何かという問いに答えるのと同様である。また、顧客価値志向になり作品を正しく批評し文章を書くことができるようになれば、創作も上達する。
 創作の初めは読むことであり、その延長線上に書くことがある。読むことは書くことであり、書くことの根拠には読むことがある。

読むこと=書くこと
→書くことは読むことの不完全性としてメタ的に社会的欲望(社会的需要)として焦点化される。

 二十一世紀になり、顧客価値志向のマーケティングがスタンダードになり、書くことに対する読むことの優位性はますます明らかとなっている。本稿でも、文芸作品の読み方から作品の意味とは何かを考えており、作品の顧客にとっての多元性のある価値意識を持つことを根拠にした本稿での議論はコトラーのマーケティング哲学や、コトラーの人間的価値観への転回とも一致したコヴィーの人格主義的な自己啓発書にも通じているのである。
 石門心学はアメリカの教会の起源となるスイス発祥のカルヴァン派と直接関係があり、アメリカではカルヴァン派的な倫理思想(人間の倫理はなぜ神の宗教になるのかは後述)とされている。その結果として、本稿では、石門心学には、ニューソートのように、無教会主義を根底に持つ福音主義(カルヴァン主義)の宗教的傾向を強めた批判的折衷という意義があることになる。すくなくとも本稿の哲学的文芸論では、二十世紀にカルヴァン派に向けられたニューソートからの批判に応えると共に近年のカトリック教の問題点についてもみずからの立場を示し、石門心学の更なる根底となる独自の文芸思想を確立している。石門心学の商人である石田梅岩は商業活動の始まりを需給ギャップであると考えた(「都鄙問答」p26、石田梅岩、岩波文庫)。書いた物が売れて不労所得になるのはなぜかという問いはそれ自体がミステリアスな問いであるが、書く前に読者だったのなら、既に読者のニーズを知っているのだから、無いものは何であるかを知っており、生涯無一物という言葉自体が公案なのであり、何もない無一物の人が正しい教えにより悟りを開くのと同様に、読者に無いものを文芸的に表現することができれば、商業目的で文章を書いたり作品を創作する文芸家になれるはずである。



 人は批評家として、芸術作品や対象に向き合うことで、芸術とは何かを知ることができる。文芸批評の研究で最大の研究量を誇るのは、現代の比較文学を創始した新批評(日本ではオグデンが普及させ、中国ではベーシックイングリッシュ(日本では小卒程度の英語力)という英語の筆談の考案・普及により有名なリチャーズ等の文学理論)の起源であるT.S.エリオットの文芸批評論である。
 詩人・批評家のエリオットが自ら編集長となり出版した雑誌はクライテリオン(1922〜1939)だった。文芸批評はクライテリオン=criterion=基準、すなわち文芸作品に現れる人間の人格的価値となる思想・感情という文芸作品の内容の存在根拠についての比較類型化のための判断基準を定める行為であり、文芸作品は文学理論に基づく文芸批評によりはじめて作品の良し悪しという判断が行われて文芸的価値が生じる。
だが、物事に対する判断は論理だけでは人間には不安や抵抗を引き起こしてしまう。エリオットの文芸批評論では作品の価値評価の尺度となるのは思想だけでなく感情でもあり、思想の論理性に感情を統合した作家の感受性について判断することが重視された。そのため文芸批評は、作品の意味を論理的にではなく感性的なものと捉えて、漱石の文学論のような作品に対する作品の数理的科学的分析による文学理論だけに止まらず、E.H.ポーのように感情表現の効果を評価し、思想の論理と芸術家の感性を調和させ、芸術とは何かを知るプロセスとなった。物を書くこと、すなわち批評(アートライティング)とは悟性と感性の想像力による詩的な戯れであり、論理によりステレオタイプになった記号のカオスの死骸から、哲学的直覚(作家(詩人)についてプラトンが述べた詩的インスピレーション論)を直覚し、宗教を通じて真の科学に至り、創造の根元的エネルギーへと至ることである。自閉症者には直観はないと言われているが、哲学者の中でもパスカルは数百年前から繊細の精神という直観を重視していた。また、ヘーゲルは市民社会は欲望の体系であるとして、欲望すなわち直観と社会生活は一致すると説いた。優れた直観はパスカルやヘーゲルのみならず日本人やアメリカ人にも馴染みの考えであり、日本では哲学は希哲学と翻訳され哲学と言ったら希望という欲望(望ましい欲求は何かという欲望の正義の問題)を意味した。直観を重視した生き方は、西田幾多郎の思索にプラグマティズムの純粋経験の概念が導入された後に日本哲学の中心的概念となり、善の研究では、東洋精神史における直観思想の歴史が詳しく示されることになった。優れた直観は、学識による単純な分析ではなく、二元論による矛盾対立のカオスを超克した学術や研究の優れた真の業績や高い知能の現れであり、高IQや知能の開発のためには直観が重要である。
 
作家や文芸評論家は思想家である上に作家や芸術家やコピーライターのようなクリエイターでもなければならないのである。本稿では西田幾多郎の場所的論理に関する思索との比較に基づきプラトン主義の哲学的文芸論を創設したが、論理からいかにして芸術が発生するのかという矛盾点(哲学的文芸論の第一の課題。ただし、それは論理そのものの問題である。)については、エリオットの文芸批評論を参考にしながら、過去の詩作の経験を元にして、構図の幾何学やプラトンの対話篇の手法から着想を得て、西田幾多郎の場所的論理を独自に発達させている。

思想=芸術

・本稿のポイント
①西田幾多郎との比較(論理はいかにして芸術となるか?)
②新批評との比較(本当に多様なものは伝統により統一できるのか?→哲学的文芸論の独自の解決)

 文芸批評を行うためには、現実の写真や映画の作品や対象の意味や構造を分析し、批評するには、対比的に作品や作品の意味について判断することになる。文芸批評のエキスパートは文芸作品に対する価値判断を、文芸的実績を根拠にして、文芸創作論や文学理論の独立独行の専門家として、各種メディアで専門的に、常識やジャーナリズムという高潔な倫理に基づく最高の法を根拠として文芸批評を行なっている。
専門家について朝日新聞の専属の作家だった夏目漱石は次のように述べている。
「すなわち誰のお世話にもならないで人間が存在していたという時代を思い浮べて見る。例えば私がこの着物を自分で織って、この襟えりを自分で拵こしらえて、総すべて自分だけで用を弁じて、何も人のお世話にならないという時期があったとする。また有ったとしてもよいでしょう。そういう時期が何時かあったらどうするという意味ではないが、まああると仮定して御覧なさい。そうしたらそういう時期こそ本当の独立独行という言葉の適当に使える時期じゃないでしょうか。人から月給を貰う心配もなければ朝起きて人にお早うと言わなければ機嫌きげんが悪いという苦労もない。生活上寸毫も人の厄介にならずに暮して行くのだから平気なものである。人にすくなくとも迷惑をかけないし、また人にいささかの恩義も受けないで済むのだから、これほど都合の好いことはない。そういう人が本当の意味で独立した人間といわなければならないでしょう。実際我々は時勢の必要上そうは行かないようなものの腹の中では人の世話にならないでどこまでも一本立でやって行きたいと思っているのだからつまりはこんな太古の人を一面には理想として生きているのである。けれども事実やむをえない、仕方がないからまず衣物を着る時には呉服屋の厄介になり、お菜さいを拵える時には豆腐屋の厄介になる。米も自分で搗つくよりも人の搗いたのを買うということになる。その代りに自分は自分で米を搗き自分で着物を織ると同程度の或る専門的の事を人に向ってしつつあるという訳になる。私はいまだかつて衣物を織ったこともなければ、靴足袋くつたびを縫ったこともないけれども、自ら縫わぬ靴足袋、あるいは自ら織らぬ衣物の代りに、新聞へ下らぬ事を書くとか、あるいはこういう所へ出て来てお話をするとかして埋合せをつけているのです。私ばかりじゃない、誰でもそうです。するとこの一歩専門的になるというのはほかの意味でも何でもない、すなわち自分の力に余りある所、すなわち人よりも自分が一段と抽ぬきんでている点に向って人よりも仕事を一倍にして、その一倍の報酬に自分に不足した所を人から自分に仕向けて貰って相互の平均を保ちつつ生活を持続するという事に帰着する訳であります。それを極ごくむずかしい形式に現わすというと、自分のためにする事はすなわち人のためにすることだという哲理をほのめかしたような文句になる。これでもまだちょっと分らないなら、それをもっと数学的に言い現わしますと、己のためにする仕事の分量は人のためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つのであります。人のためにする分量すなわち己のためにする分量であるから、人のためにする分量が少なければ少ないほど自分のためにはならない結果を生じるのは自然の理であります。これに反して人のためになる仕事を余計すればするほど、それだけ己のためになるのもまた明かな因縁であります。この関係を最も簡単にかつ明暸に現わしているのは金ですな。つまり私が月給を拾五円なら拾五円取ると、拾五円方がた人のために尽しているという訳で取りも直さずその拾五円が私の人に対して為し得る仕事の分量を示す符丁になっています。拾五円方人に対する労力を費す、そうして拾五円現金で入ればすなわちその拾五円は己のためになる拾五円に過ぎない。同じ訳で人のためにも千円の働きができれば、己のために千円使うことができるのだから誠に結構なことで、諸君もなるべく精出して人のためにお働きになればなるほど、自分にもますます贅沢のできる余裕を御作りになると変りはないから、なるべく人のために働く分別をなさるが宜しかろうと思う。」(「道楽と職業」夏目漱石、ちくま文庫)

 夏目漱石の初期作品や特にエッセーや日記には戯作・落語のような大衆文学的要素が含まれるものがある。夏目漱石が述べていたように、専門的に文章を書くことにより他人を利して自分を利する行為である。商業目的で文章を書き著作権者や商標権者として印税による不労所得を得て生きることは、専門家の分業体制の中で、自分の経験を活かして、「良識」(「方法序説」デカルト、中公クラッシックス)ある専門家の立場から、大衆文学(大衆文芸。ジャンルフィクションのように娯楽性の高い文芸作品)という大衆すなわち多数派(「フランス革命についての省察」、エドモンド・バーク)のために役立つことを客観的に書くことに他ならない。自分自身の適切な意義である本体論的意義が示されればどのような作品でも収益化は可能なのである(大衆的作品は分かりやすくする必要があるが、本人の名に基づくオリジナルの表現による作品でなければ報酬となる不労所得の請求権としての資産価値はなく、真似をするだけでは真似をされた本人と著者が入れ替わることになる。)。
 大衆文学とは何かについては、萩原朔太郎の言葉が参考になる。萩原朔太郎は次のように述べている。「芸術に於て、作品とイズムとは別である。例へば私は、文学理論としてのマルキシズムに賛成しない。しかしながら私は、さうした抽象的論理の故に、芸術品としてのプロ文学を一概に否定すべき理由を知らない。(『絶望の逃走』、文学的党人、萩原朔太郎)」。萩原朔太郎は作品とイズムは別であるとして、テクストという不完全なバベルの塔を通じて真正なイデアを表現するという不可能な行為を行うには良識的に抽象的論理により真理を追求し、党派の別を超えて作品の真価を探るべきだと考えていた。だが萩原朔太郎が言っているように、もし「プロ文学」が同様に抽象的論理に貫かれているなら、商品価値を追求する大衆文学には、「プロ文学」は当然含まれなくなるのだから、敢えて否定するべくもない。そして「プロ文学」は純文学との対比では、純文学から大衆文学への脱イズム化の通過点となる芥川龍之介等の純文学に準ずる扱いになる。

 これから、文芸に関する専門家の立場からメディアで文章を書き文芸批評を行う場合や、文芸作品を批評したり創作したりする際に、人の認知にはどのような社会的文化的意味合が出てくることになるのか、より詳しく検討してゆく。第一章では現代の文芸と科学の全般に及ぶ根本的問題の提起と解決、第二章から第四章までは散文とは何かを検討し近代的散文の成立構造を解明し、最後の第五章では哲学的文芸論により現代における散文の効用について論じた。
「詩は絵の如く、絵は詩の如く」(ホラティウス)と言われるが、まずは写真と写真の連鎖である映画について検討し、続いて芸術作品の言語的認知の仕組みについて考察してゆく。まずは構図を分析し、作品のパーツ毎の関係を分析することからスタートする。

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