記事一覧
「とほ宿」への長い道 その17:大野との縁
その1 営業・活動でたびたび大野を訪問筆者は福井県の県庁所在地である福井市の出身で、いま宿を構えている大野市に住んだことがあるわけでも、血縁者がいるわけでもない。しかし、全くつながりが無かったわけではなく、今思えば思い当たるところはいくつかあった。
因みに大野市というのはこんな場所である。
・福井県ではいちばん東に位置し、岐阜県高山市・郡上市・関市・本巣市・揖斐川町と接している。面積は福井県で最大
「とほ宿」への長い道 その16:福井の変化
福井駅前に賑わいが戻ってきた「その13」で、2011年末に福井にUターンしてきた時の状況を書いた。
浜田省吾歌うところの「Money」の一節、「この街のメインストリート 僅か数百メートル」のような状況だった。自分が小学生の頃・1980年に唯一の百貨店である「だるまや西武」(現・西武百貨店福井店)がオープンして以来つくりがほぼ変わっていない、むしろ車社会で人の流れが郊外のショッピングセンターに移って
「とほ宿」への長い道 その15:隣の県・石川
石川県と福井県の関係福井県は4つの県と接しているが、このうち岐阜県と滋賀県と京都府は東海・近畿と地方区分が異なるため、「隣の県」といえば同じ北陸地方の石川県と言える。そもそも古代は越前国の一部だった。
”県域は飛鳥時代には越国あるいは三越分割後の越前国に含まれていた。奈良時代に入り、718年に羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立てられた。
能登国は741年越中国に併合され、このころ大伴
「とほ宿」への長い道 その13‐福井へUターン
23年ぶりに郷里・福井に住むことに2011年の暮れ、高速バスに乗って郷里の福井に戻ってきた。大学入学で関西に出て以来、福井に住むのはほぼ23年ぶりだった。この時点で41だったから、人生の半分以上は県外で生活していたことになる。
この時点では福井にはほぼ知り合いはいなかった・・・というか、大学進学で県外に出た若者が新卒で福井県に戻ってくるのは約3割だという。
「幸福度日本一」を標榜していることも
「とほ宿」への長い道 その12: ここまでのまとめとこれから
この記事を書いている理由12記事目まで来たので、このあたりで少し整理したい。
あらためて自己紹介すると、筆者は「空き家を活用した大野の民泊宿 ねこばやし」を運営している宿主。2022年12月に開業し、この記事を書いている時点で1年半が経過している。
だいたい「民泊」について書かれたものといえば、大体は「儲かる」「インバウンド」という言葉が必ずついてくる。一棟貸切方式で、管理人は不在、宿泊者はスマホ
「とほ宿」への長い道 その11
会社を辞め、沖縄へ2010年4月、2社目の会社を辞めた。理由を書き出すと長々しくなるので省略する。4年半の在籍だった。当時の同僚はほぼ全員会社を去り、今は残っていない。
最終出社日が3月12日、既に計画を立てていたこともありあちこちに旅をした。最終出社日の夜白馬にスキーに行き、そのまま福井に帰省し、東京に戻り八丈島に行った。
4月いっぱいまでは有休消化だったのでそれまでの間は遊ぶと割り切った。北
「とほ宿」への長い道 その10
仕事のほうは冴えない日々サラリーマンとしての筆者のことを再び書く。前回はこちら。
新卒で国際電話会社に入り、大阪に転勤し、2001年に再び東京に戻ってきたわけだが、パッとしない日々が続いた。
もともとは伊藤忠商事とトヨタ自動車の合弁会社「国際デジタル通信」に入社したのだが、インターネットが普及し、国際電話市場そのものが大幅に縮小してしまった。
競合であるKDD(国際電信電話)はDDI(第二電電)
「とほ宿」への長い道 その8
長野県には100回以上行った1989年7月、大学のワンダーフォーゲル部の夏合宿でJR大糸線の信濃常盤という駅に(今でもはっきりと覚えている)降り立ち、北アルプスを縦走して上高地まで歩いた。以来長野県には多い時には年に5~7回、通算で100回以上は行った。最近では昨年「とほネットワーク」の本州ブロック会議で野辺山高原の宿「こっつあんち」に泊まった。
長野県は日本を代表する山岳地帯である北・中央・南ア
「とほ宿」への長い道 その7
宿主の新入社員時代北海道大学を落ちた筆者が、ワンダーフォーゲル部で戸隠の山小屋に入り浸り、北海道を自転車旅して、当初はライダーハウスだったのが「とほ宿」を泊まり歩くようになったことを書いてきたが、少し時間を戻して、社会人になりたての頃の事を書いていきたい。
1992年、バブル景気は既に去りつつあった(当時は「失われた30年」が来るなんて夢にも思っていなかった)頃に就活した。前年とは比べ物にならない
「とほ宿」への長い道 その6
1999年正月の年越し、まずはニセコ「旅物語」へ1998年の夏、小樽・船見坂を登り切った場所にあったとほ宿「ぽんぽん船」にすっかり魅了され、そこで年越しをしようと決めた。
しかし大晦日までの間はニセコでスキーをやろうと思い、他の宿でも評判を聞いていた「ニセコ旅物語」に宿をとった。いつもはフェリーだが冬はキツいし休みも短いので飛行機だ。大学受験の時以来で千歳空港に降り立ち、雪の札幌市内を散策しジンギ
「とほ宿」への長い道 その4
1996年9月、初めてのとほ宿「ニセコ遊牧民」北海道を自転車で旅して、安価な宿「ライダーハウス」に泊まり、ライダー達と酒を飲みながら北海道の情報を語り合う中で「とほ宿」という言葉が多く出てきた。1泊500円程度であった「ライダーハウス」に比べると激安というほどではないが、それでも1990年代当時は1泊2食付きで3,000円台の宿が多かった。せいぜい1週間程度なので大したことはない。
そして、寝袋持
「とほ宿」への長い道 その3
1991年夏、北海道へ自転車旅関西学院大学体育会ワンダーフォーゲル部で、山登りと信州戸隠の山小屋に入り浸る日々が続いた。
春に新人錬成合宿、夏は日本アルプスを9日間程度かけて縦走し、11月の下旬には立山・雷鳥平で雪上訓練、年末に雪山を縦走。3月にもう一度縦走し、その後一年の集大成となる春合宿を10日程度かけて行うという流れだ。
部の公式な合宿だけでなく、部員が企画する「パート・ワンデリング」とい
「とほ宿」への長い道 その2
(※この一連の投稿は、「空き家を活用した大野の民泊宿 ねこばやし」宿主が旅宿を開業し、「とほネットワーク旅人宿の会」に入会するまでの紆余曲折を書き記したものであって、決して「とほネットワーク」への入会のハードルが高いというわけではありません。ご了承ください。)
大学でワンダーフォーゲル部に入部(前回の投稿)
入学試験当日に大宴会をした北海道大学に落ち、滑り止めに受けていた西宮市の関西学院大学に入