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「とほ宿」への長い道 その14:関西に通う

営業活動で福井県ほぼ全域を訪問

2012年、23年ぶりに福井にUターンしてきたわけだが、仕事のほうはというと、父親がやっていた保険代理店の手伝いだ。

車で福井県の嶺北地域一帯を回った。(因みに福井県は嶺北地域と嶺南地域、旧国名でいえば越前国と若狭国に分かれるが、北陸トンネルで嶺北と隔てられている敦賀は嶺南地域でかつ旧越前国エリアである。
なお、嶺北地域と嶺南地域の人口比は約4:1)
本当にたくさんの家庭を訪問した。東京にいた時には「地方生活者」というのはステレオタイプなイメージしかなかったが、色々な人生があるものだと思った。大学では一応社会学を専攻していて少しだけ民俗学をかじったが、全国を旅して回りごくごく普通の人たちの話に耳を傾け、人びとの「暮らしぶり」を書き残した宮本常一のような気持ちで訪問先の人生語りや愚痴に耳を傾けた。
また、都会から見たら地方の姿というのはいっしょくたにされるものだが、同じ福井県内でも県都・福井市と他の市町村ではかなり状況が違う。国の出先機関はほぼ福井市の中心部にあるし、私立高校などは7校中5校が福井市に集中している。東京と地方の関係と同様だ。全国の知事たちは東京との格差解消を訴えて国からさまざまな投資が行われるが、その利便性を一番享受するのは地方の中核都市だ。会議やイベントがあると、県内各地から県都にやってくる。
また、県都である福井市内でも、平成の大合併で併合された旧美山町とか旧越廼村といった端の地域は昭和の終わりごろと比べても更に過疎化が進行している。
福井市中心部でも大規模ショッピングセンターのある大和田地区や森田地区などは若年人口が増えているが、自分の住んでいる市内南西部などは高齢化が進行している。人口が増えている地域でも自治会単位で交流の度合いが全然違うということを訪問先で聞いた。
最近「地方生活の現実」とか移住の失敗談がネットで出回っているが、まったく薄っぺらい話だと思う。例えば東京だって、どこの地域でも暮らしぶりはみな一様ではない。

福井を代表する低山「文殊山」

収入が頭打ちに、将来に危機感

そんな訳で、福井に戻ってきて1年くらいは順調に売り上げが伸びたのだが、伸び率が次第に鈍化し、2年経たないうちに将来に危機感を覚えるようになった。
原因はいくつかある。自分が販売していたのは「生命保険」といってもメインは医療保険とがん保険だったのだが、加入率が高くなれば伸びしろは当然小さくなる。当時、「死んだ後より生きているうちの保障」がトレンドだったこともあり市場が拡大していたのだが、成長率が高いと見れば競合他社や、同じ保険会社でも代理店同士の競争が激しくなる。客の奪い合いになる。
東京でサラリーマン生活していた頃にイヤというほど見て来た図式だ。今までと同じことをしていても消耗するだけ。そして市場環境が変わるような出来事があればあっという間にビジネスは終息する。
もちろん、更にスキル向上することで売り上げを増やせるのではないかと考えた。保険会社の研修だけでなく、県内の病院が主催している公開講座には欠かさず参加した。また、保険募集人の資格というのは「基本課程」「専門課程」「応用課程」の順にグレードが上がっていくのだが、次々と試験を受けいずれもほぼ満点でクリアした。
保険募集人はファイナンシャル・プランナー資格を有している人が多かったので、国家資格であるFP3級・2級と取得し、更に日本ファイナンシャル・プランナーズ協会のAFP資格も取得した。地元で行われる勉強会にも参加するようになった。
とはいってもすぐに売り上げ増に直結するわけではない。保険の仕事をやりながらできる他の仕事も模索した。
2014年の初め、色々な商材を一括して扱える会社の説明会が大阪であり日帰りで出張した。福井から大阪に行くと特急を使うと片道で8千円くらいかかる。他に行けるところは無いかと思い色々探したら、FPの全国組織化を目指す団体が神戸にあり行ってみた。

団体拠点は神戸・元町にあった

神戸に通う

その団体の代表は年下だったが、オーストラリアに留学経験があり、野心とフレンドリーさが同居しているような人だった。もともとは自分と同じく保険募集人をしていたのだが、日本人が幸せになるためには金融リテラシーを高めないといけないという信念を持ち、保険の仕事をやめて独立系FPとして活動していた。FPが1人ひとり活動するだけでなく、お互いノウハウを共有しブランド力を高めていけばFPのプレゼンスも上がるのだということを熱っぽく語っていた。
自分も思いは同じだった。今まで浮草のような人生を送ってきたが、FPの資格取得の課程で学ぶ、社会保障・税金・保険・相続・不動産・投資・ライフプランニングなどの知識を高校生くらいで習得していればもっと生活の質は上がっていただろうということをずっと考えていた。
この年の春から2か月に1度の頻度で神戸で行われる会合に参加した。各地から集まってきたFPと交流し刺激し合った。しかし結論から言うと、2年くらいで実質活動を休止した。理由を挙げるときりがないのだが、代表が「いいひと」だったのが最大の原因だったのではないかと思う。組織を束ねて結果を出すためにはリーダーのカリスマ性だけでなく、時には強引さも必要なのだと思う。
また、大きな夢を描くのも大事だが、小さな夢を一つひとつ叶えていかないと前には進めない。着実に出来ることから課題をクリアして実績を積んでいかないとビジネスは大きくならない。宿を運営している今、まさにそう考えている。超人的な労苦によって困難さを克服するよりも、出来ることを一つひとつ確実にこなしていくことが大事だし、良くない部分は地道に改善していかねばならない。
宿の運営については、自分が出来る範囲内でのオペレーションを心がけているし、イヤなこととややこしいことはやらないと決めている。「おもてなしはしない」とホームページで公言している。

「泊まれる飲み屋」月光荘京都

さて、福井と神戸を何度も往復したのだが、その行き帰りに京都・大阪にも立ち寄った。「その9」でも書いたが、学生時代・社会人時代に通算9年住んでいたころには見えなかった良さに気づくようになった。
大阪・京都については、自分自身のモノの見方が変わっただけでなく、町自体が進化したというのもあると思う。自分が住んでいた1990年代後半、日本経済自体も下降線を辿っていたが大阪は特に酷かった。大阪南港やフェスティバルゲートのような施設に巨額の投資をしたにも関わらず全然盛り上がらなかった。大阪ドームにしても最初は巨大なコンサート会場として設計されたにも関わらずほぼ野球以外には使われていない。商売上手な大阪人が何故こんな無駄なことをするのだろうかと思ったものだ。
2014年には活気を取り戻し、歩いていて楽しい街に変わっていた。人々の間にも自信が戻っているのを感じた。
京都も、来るたびに町家を活用したゲストハウスが増え、神社仏閣めぐりだけでなく、ただ歩くだけでも楽しい街になっていた。自分もいくつかゲストハウスを泊まり歩いたが、一番印象に残ったのは、市内の北東部・西陣にあるゲストハウス「月光荘京都」だ。ここは沖縄にある有名なゲストハウス「月光荘」の流れをくんでいる。

中心部からはやや外れているが、ほどよく喧騒から離れたロケーション。向かいには天然温泉の銭湯「船岡山温泉」がある。
京都には歴史のある建造物が非常に多い。しかしこの宿の建物は古くはあったが詫びさびな町家ふうというわけでもなく、文化財に指定されるような格式高さがあるわけでもなかった。しかし、1階に「八雲食堂」という居酒屋と、脇には「̚カドヤ」という立ち飲み屋があった。

宿というより、「居酒屋の二階」な感じだった

船岡山温泉につかり、宿の居酒屋で生ビールを飲み、気がついたら横にいた地元の人と話をしている。
翌朝は斜め向かいにあったパン屋で焼きたてのパンを買い、船岡山に登り京都の街並みをみながらの朝食。神社仏閣に行かなくとも京都の空気を楽しめた。京都というより、この宿で呑んで泊まるために京都を訪れるという感じだった。

彦根ゲストハウス無我

神戸には隔月で行っていたので、少しでも宿泊代を浮かすためにJRの各駅停車で行っていた。福井から敦賀に移動し、そこから米原経由もしくは湖西線経由で神戸まで行く。連休の場合など、帰りに彦根で途中下車することもあった。

今はインバウンドの外国人観光客でごった返す京都だが、当時もかなり人が多かった。彦根は歴史のある町だがそれほど混んでなくてゆっくりできた。彦根市の人口は11万と、福井の市町村と同じようなサイズで大きくはなかったが、しかし関西圏であり、都会でも田舎でもない(ある)独特の空気感があった。新快速に乗れば1時間で京都に着くというロケーションがそうさせるのかもしれない。
当時、新しくゲストハウスが出来たというので行ってみた。


居間ではいつも飲み会

母屋は築100年という古民家で、寝室スペースは新築でエアコン完備で快適だった。食事提供はなかったが、隣にスーパーの平和堂があり、夕食の直前くらいには惣菜に半額シールが貼られる。それを肴に呑んでると他のお客さんとも話が弾み夜が更ける。


建物だけでなく庭も趣があった

翌朝、縁側でコーヒーをすすってると、何という贅沢な時間を過ごしているんだろうと思った。金では買えないひと時。今どきは世界中のビジュアルをネットで目にすることができる。写真で見た風景をこの目でと旅行に行く人が大多数なのだろうが、予定調和でない愉しみがあるのがひとり旅の醍醐味というものだ。
ここの宿主の村田さんは京都出身で、自分と同年代の人だった。いろいろ紆余曲折はあったようだが、こうやって宿をやっていることを羨ましく思った。この時点では宿を開業したいと考えているわけではなかったのだが、心の奥底では「自分だっていつかは」と考えていたのかもしれない。

この数年後、この村田さんとの繋がりから「とほ宿」加入への扉が開く。世の中どこに縁が転がっているかわからない。(続く)




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