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「とほ宿」への長い道 その9

浦和レッズの応援にのめり込む

2001年6月に関西から東京に異動になり、埼玉県の浦和という町に部屋を借りた。最初のころは前回書いた通り信州にはよく行ったし、東北や上越にも山登りやスキーしに行っていたが、次第に週末はサッカーの応援のためにスタジアムに足を運ぶようになった。
1993年にJリーグが開幕し、1998年には初めて日本がワールドカップに出場、2000年にはシドニー五輪で中田英寿らを擁し決勝トーナメントまで駒を進めた。2002年には日韓ワールドカップの開催も決まっていて、世間的にもサッカーが盛り上がっていた中で、静岡と並んでサッカーが盛んな浦和という土地に移り住んだのだから無理もない。

最初に浦和レッズの試合を見に行ったのは2001年末。
その前年のGWに、信州・美麻村(現・大町市)の旅宿「しずかの里」に泊まっていた東京のグループが翌日糸魚川の「吉川鮮魚店」に行くというので一緒に行き刺身を食べたのだが、その後も交遊が続き、浦和に来てからもドライブに行ったり飲みにいったりしていたのだが、仙台での天皇杯準々決勝に行かないかと誘われたのだ。

糸魚川「吉川鮮魚店」の刺身盛り。これで2人前。2013年に閉店。

噂には聞いていたが、それ以上に強烈な応援だった。試合前の選手紹介、相手のジェフ市原の選手の名前がコールされるたびにブーイングの嵐(笑)そして浦和側の選手紹介の時には大拍手。
試合が始まってからも、応援というよりは一緒に戦っているかのごとき感情移入。「キャプテン翼」のテーマの歌詞「ボールひとつにキリキリ舞いさ」を地で行く。レッズの選手が点を取ったら選手が憑依したかの如く叫び、相手がボールを持ったらブーイングの嵐、シュートしたら「外せ!」と叫ぶ。そしてレッズが点を決めたら周りのサポーターたちとハイタッチ。
因みに、北海道の礼文島に「桃岩荘ユースホステル」という宿があり、酒も飲まずに踊り明かすという習わしがあるらしいのだが、ここに行ったことがあるという女の子がレッズの応援にハマっていた。全然違う分野だが似たような人を惹きつける要素があるのではないかと思う。

レッズのサクセス・ストーリーを共有した

翌年から徐々にではあるがサッカーの応援にハマりだし、週末はサッカースタジアムに行く比率が高くなるようになった。自分の住んでいた部屋はさいたま市の外れでちょっと歩けば川口市という場所だったが、それでも南浦和駅までの道沿いにはレッズのタペストリーが並んでいた。クリーニング屋や飲食店にはだいたい浦和レッズのフラッグやユニフォームが飾ってある。あの町にいてサッカーと無縁でいられるほうが珍しいだろう。
ちょうど自分がレッズの試合を見出したすぐ後に、さいたま市の辺境の原野ともいえる場所に巨大な「埼玉スタジアム2〇〇2」が開場し、それまで如何にもな公営の運動公園のサッカー場である「駒場スタジアム」で開催されていた時と比べて収容人員が3倍になり、チケットが格段に手に入りやすくなった。そしてフランスの時には三戦全敗だったのが、日韓ワールドカップでは決勝トーナメントまで駒を進め、Jリーグ人気は更に盛り上がる。
とはいえ、浦和レッズというチームは決して「常勝軍団」ではなかった。2002年春、今度はレギュラーシーズンの試合を見に東京スタジアム(現・味の素スタジアム)に行った。相手は東京ヴェルディ。「ヴェルディ川崎」時代にはJリーグの初代チャンピオンになった強豪だったが、この頃は色々あって人気も強さも失われていた。こちらがアウェーなのにサポーターの数は5倍以上。試合は延長になり、決勝ゴールを永井秀樹に決められた。その夜はみんなでスタジアム近くの居酒屋でヤケ酒を飲んだ。
その年の秋には「ヤマザキナビスコカップ」(現・ルヴァンカップ)で決勝にまで駒を進め、改築する前の国立競技場まで行った。相手は何度もタイトルを獲得していた鹿島アントラーズ。当時の定員は5万5千人くらいだったと思うが、どう考えても6万人以上は入れているだろうというくらいサポーターで溢れかえっていた。これに勝てば初タイトル。スタジアム中が勝って歴史の目撃者になるのだと信じ切っていたというか異様な雰囲気。しかし試合は一進一退の後にアントラーズのMF小笠原満男が放ったシュートがレッズのDF井原正巳に当たってゴールに吸い込まれるという最悪の展開で敗戦。その後メンバーは口惜しさを押し殺して新宿南口の「さくら水産」まで歩き、4時間以上ヤケ酒を飲みヤケ食いした。レシートが50㎝くらいになった。
翌2003年、因縁の鹿島アントラーズの開幕戦を見にカシマスタジアムまで行った。試合には負けたが、永井雄一郎、鈴木啓太、坪井慶介、田中達也、そして長谷部誠ら若い生え抜き選手たちが躍動し期待を持たずにはいられなかった。そしてこの年のヤマザキナビスコカップでは雪辱を果たし初のタイトルを獲得する。
2004年にはチームの英雄であるギド・ブッフバルトが監督に就任し、レギュラーシーズンのセカンドステージを制し、駒場スタジアム近くの居酒屋で思い切り祝杯をあおった。(その後横浜マリノスとの年間王者決定戦にはPK戦の末負けたが)
翌2005年は優勝のかかった最終戦を見に新潟まで行ったが、最後の最後にガンバ大阪に優勝を攫われる。しかし直後2006年の元日の天皇杯決勝には清水エスパルスに競り勝った。そしてその年、遂にレギュラーシーズンを制する。
翌2007年にはアジア・チャンピオン・シリーズで優勝。クラブワールドカップでメッシ擁するACミランと対戦した。今思えばいい時期を見続けられたと思う。

最高の町おこしコンテンツ

Jリーグの試合は2月末のプレシーズンマッチに始まり、レギュラーシーズンは12月初めまで、天皇杯に勝ち進めば元日まであった。その間、ほぼ隔週でホームゲームがあった。J1は土曜日が多かった。
6万人収容の埼玉スタジアムといえど、熱狂的なサポーターが集い立っての応援が出来た北側ゴール裏の席取りは容易ではなかった。当日の朝、並び順の抽選が行われ、各サポーターグループの代表が籤を引く。その後自分のグループのメンバーが集い、列並びをしながらキッチンカーで買った飯を食い歓談する。スタジアムの前では地元の中学生のブラスバンドの演奏などがあったりして雰囲気を盛り上げる。
キックオフ2時間前に開場すると場内になだれこみ席を確保。サッカーの試合前にも別の戦いがあるのだ。そしてキックオフまで集中力を高め、キックオフと同時に90分間(とハーフタイムとアディショナルタイム)はひたすら興奮。勝てば勝利の歌を歌い浦和の街で祝杯、負けたらヤケ酒。
翌日は精魂使い果たし自室で朝飯食って二度寝して、部屋の近くにあった貯水池や浦和競馬場に散歩しに行った。首都圏で東京まで電車で15分という場所ではあったが牧歌的だった。
埼玉県といえば映画「跳んで埼玉」ほどではないが、イナカ扱いされ垢抜けないイメージがあると思う。実際Jリーグ開幕までは地元民もそう思っていたかもしれないが、Jリーグが市民の意識を変えたと思う。浦和レッズの応援歌の中には「Pride of URAWA」というフレーズがある。もともとサッカーが盛んな土地で「赤き血のイレブン」のモデルになった浦和南高校などが鎬を削り、「浦和を制するものは全国を制す」とまで言われた下地と、Jリーグ開幕直後の低迷期、そして1999年のJ2降格という試練があったからこそなのだが。
町おこしの成功例というのは数多あるが、浦和は最もたるものなのではないかと思う。仕掛けたというよりは、市民の意識を呼び起こしたというほうが正しいと思うが。

遠征で試合以外にも楽しんだ

サッカーの試合の半分はアウェーゲーム、首都圏のチームなら日帰りできるが遠隔地も多かった。
大学社会人と通算9年関西に住んでいたが、営業で客先に行くくらいだった京都には町屋風のゲストハウスに泊まったり神社仏閣巡りをしたり一乗寺にラーメン食べに行ったりして観光も満喫した。近隣県に住んでいたころにはこのような素敵な場所に何故足を運ばなかったのだろうかと思ったものだ。
人間、他の土地に行くとその土地の見どころを探すものだが、自分が住んでいる見慣れた風景というのはそれが当たりまえになってしまう。いま宿を運営しながら、他の土地から来た人たちの視点というものを常に意識している。
名古屋や大阪には何度も行った。味噌カツ味噌おでん手羽先、色んな土地でご当地の料理を食べた。それぞれ「ウェルビー今池店」「梅田大東洋」といったカプセルホテルが定宿だった。

大東洋の天然温泉露天風呂(大東洋のHPより)

法律的には旅館・ホテルではなく「簡易宿所」というカテゴリーになるのだが、いずれも露天風呂とサウナを備えた大浴場が素晴らしい。当時3000円少しの宿泊料金でリゾート気分を味わえた。都市部のゲストハウスや民泊というのはこういった施設も競合の対象になる。今ならネットカフェも選択肢の1つになるだろうし、これからもロープライスな宿泊施設は次々と出てくるだろう。民泊のノウハウ本には「儲かる」というフレーズが枕詞につくものばかりだが、儲かる所にはプレーヤーが次々参入し、あっという間に血みどろの戦いになる。そういう所では資本力と経験の蓄積がある所がほぼ勝つ。それを凌ぐためのノウハウというのは定型化できない。
個人経営の民泊やゲストハウスをするのなら、客層や価格設定、そして何よりも立地を緻密に分析しないと経営は難しい。因みに「とほ宿」は政令都市クラスの土地には無い。価格競争とは別の魅力を生み出せる立地を考えると必然的にそうなるのだろう。
新幹線や飛行機も使ったが、サポーター仲間が鉄道好きだったこともあり、学生時代以来で「青春18きっぷ」を使って各駅停車を乗り継いで旅したりもした。

学生の頃は5枚綴りだったが、今はこの形態の青春18きっぷ


それまでは社会人の休日という貴重な時間で移動時間は極力短縮すべきだと考えていたが、学生の頃と違ってSNSなどで旅の状況を他人とシェアできるし、ネットでその土地その土地の見どころやグルメを知って途中下車する。そして地元の人たちと同じ車両に同乗し車窓の景色を味わうことでその土地の空気がわかる。鉄道というのは単純な移動手段ではないのだ。

サッカーにのめり込んだ30代、特に後半はほぼ旅宿と縁のない時期だったが、いま思えば旅宿を運営する上で糧となる要素が数多くあったと思う。


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