「とほ宿」への長い道 その11:混迷の時期
会社を辞め、沖縄へ
2010年4月、2社目の会社を辞めた。理由を書き出すと長々しくなるので省略する。4年半の在籍だった。当時の同僚はほぼ全員会社を去り、今は残っていない。
最終出社日が3月12日、既に計画を立てていたこともありあちこちに旅をした。最終出社日の夜白馬にスキーに行き、そのまま福井に帰省し、東京に戻り八丈島に行った。
4月いっぱいまでは有休消化だったのでそれまでの間は遊ぶと割り切った。北海道にはこの時点で20回以上行っていたが、沖縄は未踏の地だった。エアチケットと初日の宿だけ予約して那覇に飛んだ。沖縄には「とほ宿」は無かったし、「とほネットワーク旅人宿の会」のような旅宿の集まりも無い。沖縄のゲストハウスのガイドブックが1冊だけ刊行されていて、その情報だけが頼りだった。
空港に降りたとたん東南アジアのようなねっとりとした空気が漂う。ゆいレールで市内へ。宿は知り合いから聞いていたドミトリーだったが、1泊1500円。これで商売になるのだろうかと思った。トイレがシャワールームを兼ねているというもので、昔バリに行ったときのことを思い出した。
翌日は首里城、名護まで移動して美ら海水族館へ。本土と空気は違うが「観光」だった。
更に太平洋戦争で島民の半数が亡くなられたという伊江島へ。船で10分。そのまま島のゲストハウスに泊まった。
この時点までは濃密な沖縄らしさはいまいち感じられなかった。こうやってひとり旅でゲストハウスを巡るのは数年ぶり、自分はもう若くないからか、とその時は思った。
毎晩が「ゆんたく」、ゲストハウス「結家」
しかし、伊江島から沖縄本島に戻り、ゲストハウスのガイドブックでも特に評価が高かった「ゲストハウス結家」では、ひさびさに濃厚な旅気分を味わった。
宿のテラスから、海に沈む夕日を見ながらオリオンビールを飲む。俺はこの一瞬のために沖縄に来たのだと思った。(現在は当時の場所から移転しているそうです。)
そして夕食は、一人一品惣菜を持ち込むか作るかというルールで持ち寄り宴会。これが「ゆんたく」(おしゃべり)というやつかと思った。あちこちから来た旅人たちと酔っぱらいながら語り合う。
そして22時くらいになったら卓球大会開始。こんな毎日が夏休みな宿なんて最高すぎる。
翌日はシュノーケルでサンゴの海を泳いだり、オリオンビール飲んでハンモックで昼寝したりとリゾートな時間を過ごした。名所旧跡を巡る必要などないのだ。
次の日は雨。ドミトリーで「ハチミツとクローバー」を全巻読んだ。もともと切ない物語だったがさらに滲みる。
この日の夕食は近くの居酒屋にみんなで行った。確かさんざん飲み食いして3000円いかなかったと思う。東京や大阪の沖縄居酒屋のように沖縄情緒を盛り上げるような演出は一切無く、プレハブ作りで地元の草野球の写真がベタベタ貼ってあったが、かえって地の沖縄らしさを醸していたと思う。
泊まった時にも思ったのだが、同じような場所で同じことをやっても「結家」のような雰囲気は作れないだろう。大阪芸術大学出身、サーカスで空中ブランコをやっていたという宿主の「結ねえ」さんのパーソナリティによる所が大きいと思う。人を惹きつけて、一緒にいたら自然とハイになってしまうような人柄。
あくまでも個人的見解だが、自分のやりたいことをやり抜いた人でないとそのようなオーラというのは纏えないのではないかと思う。人からどう見られるかよりも自分の信じるワクワクを大事にする。そしてそのワクワクに共鳴した人が宿に集まる。20年近くひたすら周囲の視線を気にするサラリーマン生活をしていた自分とは別世界の生き方。
全国にはそのような宿主がやっているゲストハウスがいくつかある。そこに行った人の話を聞くと、宿よりも宿主さんのことを多く語る。
自分が宿を始めるとき、自分にはそのようなカリスマ性は無い、50過ぎたオッサンで、世界一周をしたとか、常人では見ることのできない領域を見て来た・・訳でもない自分のような人間が人を楽しませるなどというのは幻想だ、だからお客さんたち同士で交流して楽しむこと、大野という土地の魅力を伝えることを第一に考えようと思い、「おもてなしをしない」という方針を立てた。
開業から1年半経った今でもそれは正しいと思う。
沖縄に行ったのはこの1回きりだったが、宿が落ち着いたら是非また行きたいと思う。宿にもよるが、北海道とはまた違った良さがある。
転職を機に中野に引っ越し、そして3月11日
沖縄から浦和に戻り、その翌日には白馬に旅立ちGWも満喫した。
その後有休消化期間も終わり、就職活動を開始するのだが、なかなか決まらない。もう少し待てば失業給付が出るんだから焦る必要は無い、と思いのんびり構えていたせいもあるし、そもそも自分が本当にやりたい仕事を探しているわけではなかった。それまで情報通信業界で営業マンをやっていたから、次の仕事も同じものを探す。惰性だった。心の奥底で「宿をやれたら楽しいだろうな」という思いは確かにあったのだが、「自分には無理だ」とブレーキをかけていた。今回このような記事を書いているのは、同じような状況にいる人に、少しでも宿開業の後押しになればという思いもある。
就職活動といっても、新卒のように次から次へとエントリーできるわけではない。日々焦りが生じている。中小企業診断士の資格取得の勉強をした。一次試験7科目中4科目は合格したがそのままになっている。夏が過ぎ秋が深まり、気温の低下とともに自分の気持ちも落ち込んでいく。でも12月中旬、失業給付期間終了の10数日前に就職先が決まった。当時普及しつつあったスマホアプリの会社だ。
オフィスは日本橋にあった。社長の知人のオフィスを間借りする形だった。社長から、浦和では遠すぎる、これから立ち上げで激務になるのだから都内に引っ越してはどうかと言われた。新卒で最初に入った会社で江戸川区の西葛西に住んでいたことがあるが、次は東京の西側に住みたいと思った。年明け早々、以前何度か来て気になっていた中野の不動産屋に入ったのだが、気に入った物件がありそのまま決めてしまった。
中野といっても、JR中野駅からは徒歩20分、西武新宿線の沼袋駅から5分のところだった。中野駅の北側には「中野ブロードウェイ」というビルがあり、アニメグッズなどサブカル関係の店が多数入居してプチ秋葉原の様相を呈していた。中野駅から北に延びる「中野通り」には桜の木が立ち並び、通勤しながら歩き花見を楽しめる。中野ブロードウェイから新井薬師に続く「薬師あいロード」には昭和の風情が残る商店と若者が経営する小洒落た店が混在し見ているだけも楽しく、この道を歩いても良い。
中野通りをそのまま進むと、都内ではかなり広めの公園である「哲学堂公園」がある。そこで花見をしたことがありその記憶があった。その界隈には漫画家のこうの史代さんが住んでいて、著作である「夕凪の街 桜の国」の「桜の国」の舞台だった。
それまで浦和にずっと住んでいて、東京は住むには良い街とは言えないとずっと思っていたのだが、中野には惹かれるものを感じていたし、実際住んでみたら期待を裏切らなかった。西武新宿線を越えて露天風呂付きの銭湯に行く、帰りに沼袋駅前の焼き鳥屋「四文屋」で一杯ひっかけて帰る。中野通り・哲学堂公園の周辺をジョギングする。中野ブロードウェイで西友・魚屋・肉屋をハシゴして買い物する。日々街ぐらしを楽しんだ。
そして前の会社を辞めてからちょうど1年、3月11日を迎える。
その時、東京駅の八重洲口にいた。お台場で見本市があるというので正に向かおうとしていたところだった。あのままお台場に行っていたらその日は戻れなかった。
オフィスに戻ろうとするが誰もいないし、携帯電話はつながらない。まだ昼を食べてなかったのだが、近くの立ち食いソバ屋で「電気が止まっているのでゴハンものしかない」と言われ天丼を食べた。埒が明かないので歩いて中野の自宅まで帰ることにした。
道中、公衆電話に長蛇の列が出来ていたが、オフィスワーカーと思しき外国人も同様に黙って歩いていた。民族性と行動様式というのはそれほど相関性は無いと思う。皇居・飯田橋を経由して新大久保に着いたところで韓国食材店でエゴマのキムチなどを買った。韓国人と思しき店員は普通に客対応していた。21時過ぎに中野の自室に着いた。疲れ切ってはいたがガスが止まっていたので風呂にも入らずコタツで寝た。
その後、少しずつ普通の生活に戻っていったが、悪いことは重なるもので会社の社長がガンになり事業はストップした。給料は支払われない。6月に入って転職活動を再開したが、採用を軒並み見合わせていて昨年よりも遥かに厳しかった。
日々の飲み水を新井薬師に汲みに行くなど、中野での生活は楽しいものではあったが、貯金を切り崩して生きていたので気軽にランチしたり飲みにいったりできる状況ではない。素晴らしい世界が目の前に広がっているのに自分は傍観するしかないのは寂しかった。
失業手当はもう出ないこともあり、8月になりコールセンターの派遣バイトを始めた。時給950円で交通費は自腹。しかしこの頃景気は最悪だったので首尾よく見つかったほうだと思う。年下のスーパーバイザーに叱られながら日々の業務をこなす。しかし、顔を見れない相手と意思疎通するというのは良い経験になった。他人の話に傾聴し、適切な間をとって返答する。
コミュニケーション能力というのは生まれ持った性格と学校教育時の経験で決まるように考えている人が多いように思うのだが、中年以降でもトレーニング次第で伸ばせる。
福井にUターンを決意
11月になっても仕事は決まらない。貯金をなるべく減らさないため、それまで以上にというかほぼ自炊した。たまに開催される「代々木公園でビールを飲む会」だけが楽しみだった。
一方で父親が生命保険の代理店業をやっていて、その前の年くらいからコールセンターと共同募集してかなりの成果を上げていた。電話で話をすると人が足りないという。12月に入り、年内には仕事は決まらないと悟った時点で郷里の福井に戻り父親の仕事を手伝うことにした。1989年に大学進学で関西に出て以来、福井に住むのは22年ぶりだ。たぶん東京で夢破れて都落ちしてきた40過ぎ独身男性ということで嘲りを受けるだろう。サラリーマンをしていた頃のように週休2日で遊ぶこともできないだろう。飲み会もほぼ行けなくなるだろう。しかし、今置かれている状況から良くなる見込みが全く見えない。中野での切ない日々を思えば何を言われようと大したことはない。
2011年12月21日、深夜バスに乗り福井に戻ってきた。
(続く)