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ニューヨーク・タイムズ1000万会員は“上げ底”か?
◇1000万の数字が一人歩き
ニューヨーク・タイムズ(以下NYT)は有料デジタル購読数が1000万を超えていると発表していますが本当でしょうか?
もちろんウソではありません。しかし、その3割(約300万)はニュース以外のサービスのCookingやGames、Wirecutter(商品レビュー、推薦情報など)とThe atlantic(買収したスポーツメディア)のどれかだけを契約している会員なの
ある新聞記者の歩み 35 中日新聞の牙城で毎日新聞をとる読者とは?(中部本社の巻)
元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー35回目です。記者稼業から一転、広告局で”紙面を売る“立場を味わった佐々木さん、こんどは中日新聞が圧倒的に“支配”している名古屋圏を担当する総帥として赴任しました。救急車で運ばれることもあった名古屋時代を振り返っていただきます。(聞き手:メディア研究者校條諭)
Q.広告局の次は、名古屋のお話ですね。佐々木さんは中部本社代表(役員待遇)ということで、
ある新聞記者の歩み 30 経済部長の仕事は日々飲むことだ?!
元毎日新聞記者の佐々木宏人さんのオーラルヒストリーもなんと30回目に達しました。聞き手として私が特に意識しているのは、佐々木さんら記者のいる現場や行動を具体的に思い出してもらうことです。それで、たとえば甲府支局のときは、支局フロアの平面図を再現してもらいました。今回は経済部長になった佐々木さんが、日々どう動いていたのか、どういう人たちとかかわっていたのかなどをお聞きしました。その中で「交番会議」な
もっとみるある新聞記者の歩み 28 記者から不動産業へ?! 大阪本社ビル建設計画に取り組みながら、大阪の食文化を堪能
元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー第28回です。今回は、佐々木さんが47歳のときの1989(平成元)年に、記者職を離れ編集局とは異質な経営中枢の経営企画室に配属になります。かつて2年ほど組合委員長を務めたことがあるので、2度目の記者以外の職です。そこでは、大阪本社ビルなどの建設計画を担当、また「新聞革命」をめざした、題字変更、紙面デザインの改革を行うCI(コーポレートアイデンティティ
もっとみるある新聞記者の歩み 26 支局のもうひとりの若手、のちのオウム事件での激烈な取材の原点?!
元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー第26回は、甲府支局時代の若手3人のお話の3人目です。クマちゃんの愛称で呼ばれる隈元浩彦さんは難しい取材にも積極果敢に当たっていく人でした。それでいて、特ダネをモノにしても自慢したりしない隈元さんは、今も生涯一記者としての道を歩んでいます。
三者三様の若手にのびのびと仕事をさせた佐々木さんにとって、甲府支局長時代は、新聞記者人生の中でも格別の思い出と
ある新聞記者の歩み 24 「日本一の支局!?」を支えた若手3人
元毎日新聞記者佐々木宏人さんからの聞き書き第24回です。今回は、甲府支局長時代の2回目として、当時の若手記者の中の3人についてのお話です。
いちばん先輩は1983(昭和58)年入社の滝野隆浩さんで、防衛大学校出身の異色の記者。最近は社会部専門編集委員として防衛問題に加えて、人生最終盤のケア、葬儀、墓問題など「周死期」の終活問題を柱に健筆を振るっています。毎週日曜日の朝刊に連載しているコラム「掃苔記
ある新聞記者の歩み 23 甲府支局長に赴任。家族6人そろって転居、地域とつながる。
元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、44歳の春、山梨県の甲府市局長として赴任しました。中央から行く支局長はたいてい単身赴任でしたが、佐々木さんが異色だったのは、家族(妻と子供4人)もいっしょに引っ越して家まで買ってしまったことです。支局では、地元に明るく指導力あるデスクや、成長途上ながら優秀な若手といった人材に恵まれました。おもに経済部で官庁や大企業取材してきた佐々木さんにとって、新人で配属された水戸
もっとみるある新聞記者の歩み 22 記者から労組委員長へ 2年間の得がたい経験
元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、勤続18年、42歳のときに、いったん記者生活を離れて労働組合の委員長になります。目をかけてくれていた2人の先輩から背中を押されてのことです。夜討ち朝駆けにも行かなくなり、生活は一変しました。それまで接触のなかった現業の人たちと付き合いができたり、地方を回ったり、スピーチの草稿を練ったりといった貴重な2年間だったと言います。(聞き手=メディア研究者校條諭)
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