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ある新聞記者の歩み 30 経済部長の仕事は日々飲むことだ?!

元毎日新聞記者の佐々木宏人さんのオーラルヒストリーもなんと30回目に達しました。聞き手として私が特に意識しているのは、佐々木さんら記者のいる現場や行動を具体的に思い出してもらうことです。それで、たとえば甲府支局のときは、支局フロアの平面図を再現してもらいました。今回は経済部長になった佐々木さんが、日々どう動いていたのか、どういう人たちとかかわっていたのかなどをお聞きしました。その中で「交番会議」などというおもしろい言葉も出てきました。(聞き手=メディア研究者・校條諭)


◆経済部長の仕事は、大号令より部内融和

Q.佐々木さんは1991(平成3)年10月1日付けで経済部長になられたのですね。
 
経済部長になったのはちょうどバブル崩壊の1年前の頃です。具体的な数字を改めて調べると、東証株価89(平成元)年12月29日に付けた株価3万8,915円から半額の2万円を割るのが1990(平成2)年10月。時価総額が590兆円(これは世界一でした)から319兆円になりました。1993(平成5)年4月までの2年半のぼくの在任期間は、失われた10年の始まり―なんてその後言われたけど、事件的にはバブルの後処理の時代で、銀行の元頭取が自殺したり、証券会社、不動産会社の社長が逮捕されたりで、例えていうならば、経済部があおった結果、その後始末を社会部が担当かつ活躍した時代とでも言いましょうか。経済部はあまりデカイ顔をできなかった時代のような印象だな。
 

「マスコミ8社経済部長インタビュー」AERA1992年11月5日臨時増刊号

それよりぼくの経済部長就任の1年前には、東西ドイツが国家統一を成し遂げて、その1年後にはソ連邦が崩壊(1991年12月)しましたね。世界史的に見れば、本当に戦後の“東西対立の冷戦時代”から、“アメリカ一極集中”の、世界体制の大変化の時代が出現しました。外信部活躍の時代でもあったと思います。
 
日本では昭和天皇が崩御(1989年1月)し、今の上皇が即位、時代は「平成」になりました。戦後半世紀、経済成長の時代、バブルの時代をへて、所得も上がり国民も海外旅行に普通に行ける“一億総中流”の時代になっていました。このままで行けると、だれもが思っていたと思うんです。あの頃、その後の日本のグランドデザインを描く政治家、官僚、ジャ―ナリストがいれば、“失われた10年”が今に至るまでの“失われた30年”にはならなくてすんだのにと思います。ぼくらの責任も少しはあるんだろうな。
 
Q.まさに、佐々木さんが経済部長になられた時は、年表で社会動向を見ると、バブル経済崩壊の時期ですね。しかし10月に経済部長に就任された直後、11月に題字がCIによってインテリジェントブルーになったのですから、毎日新聞としては“新生毎日”っていう感じですよね。
 
そうですね。これ(CIの実施)も本当は2年くらい前だったらよかったんだと思うけど⋯⋯。でも前回(29回目「未完の『新聞革命』悔いなし ブルーの題字誕生秘話」)、話しているけど、自宅で朝起きて、旧来の題字からガラッと変わった題字を見た時は、なんか感動したことを今でも鮮明に覚えていますよ。
 

1991(平成3)年11月5日からのインテリジェントブルーの題字

Q.当時の毎日新聞経済部の体制って朝日、読売なんかと比べてどうだったんですか。
 
事実上の倒産の危機と言われる新旧分離(1977(昭和52)年)を経て、希望退職も募って、新規採用も減りましたから、編集局も要員は各社に比べてかなり少なかったと思います。社会部、政治部各部とも、朝刊の締め切り後の深夜、編集局長席の後ろで酒を飲んでいると、その嘆きを聞きましたね。
 
経済部も要員的にはぼくのイメージですが、まず読売の半分、朝日の3分の2という感じではなかったかな。例えば各社、デスクが6人いたとすると毎日新聞は4,5人しかいないとかね。具体的には記者の配置も経済産業省は従来3人だったのが2人、大蔵省もぼくが回っていた当時は4,5人、それが2,3人。民間のクラブでも兼務を増やしましたね。例えば商社担当と商工会議所担当が1人、経団連クラブでも各社1人ずつの鉄鋼担当と、化学業界担当がカケモチするとか、なんかそういうふうなことでやりくりをしてましたね。要員は少なかったですが、まあ、紙面的には他紙に負けてはいなかったと思いますよ。
 
やはり有名経済学者が健筆をふるう、出版局発行の経済週刊誌「週刊エコノミスト」編集部との人事交流を行っていたことが、「毎日新聞経済部」の評価を高めていたこともあると思いますね。
 
Q.佐々木さんが、歌川・佐治さんのグループと、これに反発するグループの一種の“派閥抗争”があったと言われていましたが、佐々木さんが部長になって、どうなったんですか?
 
まあ、ぼくが甲府の支局長、それから経営企画室にいて、経済部を5年近く留守にして、ぼく自身の“佐々木は佐治・歌川派”というイメージは薄れていたこともあるんでしょう。歌川さんは退職して、日本財団の常務理事になられていましたし、佐治さんは副社長でしたが、当時の政治部出身の渡辺襄社長と反りが合わず、社内的影響力も弱くなり、その後、セゾングループのSSコミュニケーションズ社長にリクルートされて、だんだん騒ぎは落ち着いてきたんじゃないかな。バブル崩壊後の経済事件も多く出てくるから、それの取材でみんな忙しくて、派閥争いみたいな馬鹿らしいことをやってられないですよ。
 
だからむしろ、論説室なんか喧嘩した当事者が集まっていたから、そっちのほうが大変だったのかもしれないです(笑)。ある先輩が論説室に行った時、アンチ佐治・歌川の論説委員から「お前らがバブルの時代に経済面に『マネー&ライフ』なんて投資をあおるページを作って・・・。バブル崩壊の責任の一端はお前らにもある!」と面と向かって言われた、という話を聞いたことがあります(笑)。
 
Q.経済部長が変わると、新しく部の方針と言いますか、あるいは、こういう企画を目玉にするぞとか、そういうものを打ち出すもんですか?
 
ぼくは少なくとも、いろいろな意味で、そんなことは外に向かっては言いませんでした。部内融和っていうのがすごく大切だったので、そんな大号令かけて、これをやれ、とかなんとかっていうことはなかったですね。ただそのためにも部員との“ノミニケーション”が大事で⋯⋯。よく飲んだなあ、2年前、肝臓がんの手術をやったけど、医者から手術中「大分若い時から、肝臓を酷使してきましたねえ」といわれました(笑)。それだけじゃなく、外部の経済人との飲み会も頻繁でしたからね。でも経済部自体、他社より少ない人数で経済ニュースを追っかけているわけで、社内抗争のような余計なことに神経を使わないで、のびのび取材が出来るような体制を取ることが大切と考えていたと思います。大きな特ダネを他者に抜かれ、編集局長に怒られることはありませんでした。
 
だけど今から見ると、ぼくが経済部長になったあの当時、その前後の数年間、岩波ブックレットの年表「昭和・平成史」(2012年刊)を見ると、世界、日本ともに激動期の時代。冷戦の終結と共に起きるイラン・イラク戦争(1980年)、1989(平成元)年の天安門事件後の中国の改革開放路線の進行、同じ年、日本ではリクルート事件、消費税の導入、自衛隊初のペルシャ湾への海外派兵、こういう中でのバブル崩壊、新聞紙面的にはニュースの一つっていう感じじゃなかったかな?
 

◆当時はバブルの崩壊過程

Q.経済部長に就任された時は、すでに崩壊過程だったのですね。
 
崩壊過程、そうそう。だけど、まだその時は、銀行の元頭取が自殺するとか、証券会社が倒産するなんていうような、バブルの膿(ウミ)が出る深刻さはなかったという感じがします。とにかく地価は1983(昭和58)年を100とすると、91年には350、3.5倍にもなった。「日本の地価全体でアメリカ全体の2つぐらい買える!」なんて今考えると、馬鹿な話が真顔でいわれていたんだから⋯⋯。それが一挙に6年後の1997(平成9)年には、もとの100に戻ってしまいます。『検証バブル 犯意なき過ち』という日経が2000(平成12)年に出した本なんかを見返すと出てます。そりゃ大変ですよ。あれだけ不動産価格が下がれば、土地を担保に金を貸していた銀行、証券は、そりゃ持たないよね。
 
四大証券の一つだった山一証券の野沢社長の「従業員は悪くない!」という涙の会見で記憶に残る、山一証券自主廃業は97(平成9)年11月ですね。同じ月に三洋証券倒産、北海道拓殖銀行が経営破綻して北海道銀行への吸収合併。考えてみるとぼくが経済部長をやったのは93(平成5)年までだから、まだ深刻な感じはそんなになかったような感じがします。

北海道拓殖銀行の破綻を報じる毎日新聞1997年11月17日夕刊

なにせ、ぼくたちの駆け出しの経済記者は都市銀行13行(第一銀行、三井銀行、富士銀行、三菱銀行、協和銀行、日本勧業銀行、三和銀行、住友銀行、大和銀行、東海銀行、北海道拓殖銀行、神戸銀行、東京銀行)と言っていたのが、今は、4行(三菱UFJ銀行、三井住友、みずほ銀行、りそな銀行)だけですからね。13行で名前が残っているのは、「三菱」、「三井・住友」だけだもんなあ。債券発行を主とした大蔵省と並んで就職人気の高かった日本興業銀行、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行なども消えてしまいました。まさか“銀行の銀行”と言われた興銀が、吸収合併に追い込まれるなんて、夢にも思わなかったなあ。

Q.1993(平成5)年までの状況はそんな感じだったのですね。

結局、97(平成9)年の山一証券の倒産のきっかけになる「飛ばし」っていうのは、お客の企業や個人の富裕層は、値上がりした土地を担保に銀行から金を借り、証券会社は「利益は保証します」と説明、株式や債券を買う。ところが地価が下落、株の値段が下がって、約束した利益を保証できなくなる。証券会社はこれを補填して、子会社などに損失を隠す・・・という展開でした。だけど、まだバブルに乗ってる頃は、それが表面化することにはならなかったんです。前の年の90(平成2)年度には大昭和(製紙)の齊藤了英会長がゴッホの絵を125億円で入札したなんて、年表には書いてるからそんなことできた時代なんですね。

世界的にみれば隣国の中国が、鄧小平の改革開放路線で中国マーケットも開けてきているというふうなこともあって、感じとしては将来的にはまだまだいける、「ジャパン・アズ・NO1」の時代は続く、という感じがありましたね。

ぼくのイメージとしては今から考えると、大口顧客への損失補填で、まず野村證券の田淵義久社長が引責辞任した1991(平成3)あたりから、本格的なバブルの崩壊につながっでいったんじゃないのかなあ、という感じがします。年表的には同じ年の10月に橋本蔵相が金融証券不祥事で引責して、11月に海部内閣に代わって宮沢内閣が成立しています。この辺のところが、バブルの潮目、そのツケである不祥事が噴出し始める時期ですね。
 

◆経済部長の役得?

 Q.経済部長というのは、財界、金融界などとのトップとの飲み会なんかも多いんでしょう。外部との関係は、どんな感じなんですか。どんなところで飲むんですか?  
 
ウーン痛いとこ突きますね(笑)。まあ各社の経済部長は、企業から見れば“日本株式会社の広報部長”という役回りなんでしょう。大手都市銀行、生損保会社、電力・ガス会社などの、頭取、社長などのトップが出て、毎日、朝日、読売、サンケイ、日本経済新聞なんかの有力紙の経済部長を、新橋なり赤坂の料亭で接待するんですよ。その本音は「いい記事書いてね!」という事でしょう。

このほか「この部長は将来、編集局長なりえらくなるぞ」と言われるような人物には、個別にサシで会うようなことあると思いますよ。本来ワリカンじゃなきゃいけないんですが、とても経済部長の交際費では無理ですよね。当時だって、帰りのハイヤー、お土産付きで新橋、赤坂の料亭はおひとり様“数万円”でしょ。とても無理、なんとなく自然にご馳走になる感じでしたね。話題としては大蔵省、通産省の人事予想とか経済見通しなどなど、お互いにかなり本音で話しますから、それなりに役に立ったんだと思います。
 
このほかに、その当時、博報堂の会長だった近藤道生(「どうせいさん」と呼んでいましたが=「みちたか」が本名)という人は、ぼくの先輩でもあるワシントン特派員だった寺村壮治さんを、博報堂に引っこ抜いた人でもあったんです(この連載19回目に「はちゃめちゃな記者」として登場)。元大蔵省の役人、国税庁長官だったかな。博報堂に不祥事があって近藤さんが招かれるんだけども、彼が新橋の、東京で一番格式が高いと言われた「吉兆」に招待してくれて、そこで各社経済部長と会食するんです。
 
そこで彼が人物の値踏みをするんでしょうね。なんか気に入られて、その後何回か「吉兆」でサシで会いました。あの当時でも「吉兆」に行けばお一人様10万円ぐらいなのかね。でも会う前に色々準備して、情報を担当記者から仕入れてから会いましたがね。まあ相手にしてみれば“インテリジェンス(情報収集活動)”の一つかもしれませんね。でも近藤さん、なかなかの風流人で茶人でもあったので女将に「今日の横山大観の富士山の掛け軸と生け花は会うね」と言ったりして、参っちゃうね(笑)。
 
Q.野村證券の大阪駐在の役員から、80年代か70年代に聞いた話ですが、大阪の吉兆だったかな、毎日、接待があって、その予算が1人10万円だって言ってました。
 
数十億円の取引が成立すれば、バルル期にはその見返りは十分あったんでしょうね。「吉兆」っていまはいくらぐらいするんだろう。おひとり様20万円くらいなのかな。確かに料理は季節感を出して、盛り付けの皿は北大路魯山人、掛け軸は前田青邨クラス、高くても文句のつけようがない。
 
でもその時の他社の経済部長と気が合ったせいか、部長を辞めてからもちょくちょく「四社会」(朝、読、毎、日経)と称して4ヶ月位に一度、割り勘でコロナ前は会っていました。みんな批判精神旺盛でガリガリの出世亡者じゃないんですよ。談論風発、実に気分よく飲めた会でした。
 
その時の仲間は、朝日新聞が君和田さん(君和田正夫)。編集局長をやられ、のちにテレビ朝日の社長になった人です。読売新聞は高田さん(高田孝治)で、大阪の読売テレビの社長になるんだけど、すい臓がんで亡くなってもう5、6年になるかな。ガッツのある一言居士の面白い人でした。あと一人は日経の堀川さん(堀川健次郎)と言って、編集局長、常務を経て、日経の子会社、株式情報会社の「Quick」の社長。ぼくだけ役員にならなかったのだけど(笑)、その4人でずっと3ヶ月か4ヶ月に一度ぐらい酒を飲んでいました。20年位続いたかな。今はコロナで中断しちゃったけど、そういう会合をやっているっていうのは珍しいですよね。
 

「マスコミ8社経済部長インタビュー」AERA1992年11月5日臨時増刊号
「マスコミ8社経済部長インタビュー」AERA1992年11月5日臨時増刊号

ただ、その間だいぶみんなロートルになってきたから、新しいやつを入れようと。官僚の若い女性陣なんかを入れて、7,8人ぐらいでやってました。女性の中には総理の秘書官に初めてなった総務省出身の山田真貴子さん。山田さんは総理秘書官当時、当時の菅首相の息子さんの会社に接待を受けたという事でリタイアされたけど、なんか接待額が10万円に満たないので、「吉兆」で接待を受けていた身としては(笑)、可愛そうな感じがしたしたことを覚えてます。もちろん山田さんは公務員、こちらは民間なんだけど・・・。
 
女優の中江有里なんかもいました。それから有名なカトリック系の女子校の校長先生とかね。そういう人たちが集まって話をしましたよ。これはこれで面白い会でした。でもここ2,3年コロナ渦でやっていない。どうされているかな。
 
Q.部長時代の接待の話に戻りますが、主催者は銀行協会とかじゃなくて、単独なんですか?特定の一行ってことですか?
 
そうですね。基本的には三菱、三井、住友、三和というそれぞれ個別でしたね。ただ、ぼくの時は、かなりバブル崩壊が予想され、リスキーな面があったから、銀行はあまりやらなくなっていました。昔は証券も、特に野村とか、そういうところはずっとやってたみたいですね。
 
Q.たとえば、席順というのはどういう風になるんですか?さっきのA,M,Y,S,N(朝日、毎日、読売、サンケイ、日経)の場合どういう席順になるんですか?
 
気にしたことないけど、来た順じゃないのかな?
 
Q.そうですか。気になるんですけど(笑)。当時だと朝毎読っていう感じで、そういう風に決まってたって感じではないんですか?
 
それはだけど、あまり関係ないです。つまり接待する側はそこのところは自由にしないと、それはへそ曲げますよ、来るやつが。「わが社は部数は少ないが、記事は一番!末席か!」と思うでしょうから(笑)。
 

◆経済部は日々こう動く 

Q.なるほど、むしろそうなんですね。ところで、経済部って、具体的には部隊としては何人くらいですか?
 
ぼくのときは35、6人くらいいたのかなあ。
 
Q.部長は本社の部長席にいるわけですよね?
 
そうそう。夜の接待など以外は(笑)。
 
Q.あと、経済部では本社にはどんな担当の人がいるんですか?
 
デスクは朝夕刊の官庁、外電関係のニュース担当の正規の1人と、新経面(新経済面、主に民間経済ニュースを掲載)のデスク1人の2人はいます。当時は、今みたいにネットでのやり取りはもちろん、携帯電話もないし、FAXも十分ではない。兜町の株式市場の朝のオープン、午後3時の終値とか、日銀クラブからの為替情報を電話で受け取ったり、時事通信のFAXで流れてくる海外の相場、経済情報をデスクに渡す大学生のアルバイトが当時いたんですよ。事務補助員の通称「坊や」が、 朝、夕、一人ずついました。この学生アルバイト君たちは、後年、かなりの数、毎日新聞の試験を受けて記者になってるから面白い。その一人が、前に話した甲府支局の松木健君で、今や社長だもんね。
 
電話だったから、出先の記者は補助員君に平気で「今日のデスクはだれ?」ときいて、「あいつか、そんなら今日は原稿出ないって、伝えてくれ」なんて言ったりする、新聞社独特の雰囲気にあこがれたんだろうね。その事務補助員君が庶務係で編集総務にタクシー代の請求書を出したりとか、そういう風なことをやっていました。ぼくが支局から経済部に上がったころは、兜町の数字を取るので、専門で雇ってた内勤の人が必ず1人いました。その補助をする女性が2人いました。
 
Q.デスク5人がローテーションとおっしゃった意味は、その5人いるうち1人が常時いるということですか?
 
毎日、朝夕刊で回すから、やっぱり1人で24時間勤務というわけにはいかないですね。それで夕刊のデスクは9時に来るのかな。9時に来て、それで夕方6時ぐらいに引き上げるという感じです。本番の朝刊版デスクは、夕刊デスクが引き上げる前の4時か5時ぐらいに来て、夕刊デスクから引き継いで夜中の1、2時ぐらいまではいます。1日を2人のデスクで回すわけです。これに新経面のデスク1人がいるわけ。デスクの人数が足りないので、よく民間経済担当の出先のキャップが上がって来て担当していました。
 
朝刊デスクは、午前1時頃、刷り上がった紙面を確認してホッと一息、そのあと各部のデスク、整理本部の経済部担当者なんかと、編集局長の席の後ろにあるソファーなんかに腰を下ろして、一緒に酒を飲むという感じです。社会部、外信部、政治部のデスク連中と意見交換、これ意外と重要なんだな。経済部だけの視点ではなく、他部の人が持っている見方なんかを聞くのはすごく参考になるわけです。
 
Q.時間帯というか、朝夕刊の担当で時間が分かれているので、5人いるけどもある時点を取ると、朝夕刊担当の人1人だけがいる状態ですか。
 
そうそう。ただ緊急事態になると、例えば、ずっと古い話だけど、ニクソンショック(1971(昭和46)年8月15日)なんかの時は、夏休み中のデスク、部員全員が緊急招集をかけられて、持ち場に張り付いて、デスクも全員駆けつけて、現場のクラブから電話で読み上げる原稿を、かたぱっしから取ったりする体制になります。デスクも2人か3人ぐらいいて、ワシントンからの原稿、それから大蔵省からの原稿、財界の反応とかなんかを整理して、整理本部に出すわけ。それから現場の人たちも、竹橋の本社4階の編集局に上がってきて経済部のまわりには4、5人の記者がいたと思います。なんかあればデスク1人だけではさばききれないから上がってくるというのは普通でしたよね。事件があればね。
 
Q.それは、忙しいときになると本社に上がって応援に行くということですか?
 
応援に行くんじゃなくて、とりあえず原稿を書く。事件というのは瞬間的にワーッと起きる事件と、継続する事件があるから、そういう事になってきます。例えば銀行の倒産とか、合併だとか、そういう風な話になってくればやっぱり日銀から1人上がってきて、原稿をチェックして、それをデスクに渡すという風なことがあったですね。長期的事件になると、ローテーションの中で処理するってことはあったけども、それでもやっぱり時々、担当者が上がってきたりすることはあったと思うなあ。
 
Q.部会のような感じでみんなが集まる会議っていうのが定期的にあるわけですか?
 
月1回経済部会っていうのはやってました。それと、週1回、民間部会っていうのとそれから官庁部会っていうのをやってました。民間部会っていうのは民間経済の新経面の担当セクションの人たちが、月曜日の10時から集まります。財界、機械クラブ、エネルギー、繊維、東商、兜町などの担当者が集まって今週何がある、こういう原稿が出そうだと。大事件がありそうだとすると取材体制どうするかとかね。
 
それから写真部に連絡をしなきゃいけない。アイフォンで写真が撮れる時代じゃないですからね。何月何日に日商会頭の記者会見をするとか、〇〇銀行の頭取が会見する、だから写真が必要だ―となると、デスクから写真部に頼んでもらうわけです。民間、官庁、それぞれのキャップがデスクに頼むわけ。民間のキャップっていうのは大体が、財界担当か、それから日銀のキャップがやるみたいな感じでやってたと思いますけどね。
 

◆女性記者と“オッサン”

Q.そういえば、経済部には女性記者はいなかったんですか?最近、女性の経済部長も出たようですが・・・。
 
今はどうなんだろう。経済部にも女性記者はかなりいると思いますが⋯⋯。僕の経済部生活は30年近いと思うけど、経済部の女性記者と出会ったのは2人だけでした。そんなに意識することもなかったように思うんですが⋯⋯。さっき経済部に電話で聞いたんだけど、今は30人近い人数で、デスク1人を含め女性記者は10人いるんだって!驚いたなあ。

女性で初めて政治部長をやった毎日新聞の佐藤千矢子さん(現論説委員)の「オッサンの壁」(講談社現代新書2022年刊)をこの前、読んだんだけど、ドキリとさせられましたよ。そのなかに「男性優位がデフォルト(あらかじめ設定された標準の状態)の社会で、こうした社会を現状維持したいという、意識的、無意識のうちに望むあまりに、創造力欠乏症に陥っている、そういう状態や人たちを私は『オッサン』と呼びたい。」と書いている。そういう意味では、確かにドップリ男性優位社会に浸かって仕事をしていたことは間違いないね。男性目線で経済、政治を見ていたのは間違いないな。政治部時代、平気で仲間内では女性議員のことを「なんだあのババア!」なんて言っていたからね。僕もオッサンの一人だとしみじみ思ったね。
 
確かに女性記者に対するハラスメントなどをやった覚えはないですが、相手がどう受け取っていたかなんて考えたこともなかったなあ。そう、女性記者で思い出すのは、部長時代、遅くなって帰りのタクシーが一緒になった経済部の女性記者と話していて、何かの拍子で、結婚していた彼女と浮気の話になったんですよ。そしたら彼女が「女は男が浮気して帰ってきた時、帰ってきた旦那のマンションを歩く足音でわかります」と語った時は、ゾッとしたな。
 
臆病なぼくはとても浮気なんて、できないなと思ったね。校條さんの「オッサン」度はどうですか?(笑)
 
Q.もちろんオッサンでしたよ(笑)。ひとつお聞きしたいのは、前の方のお話で、毎日のように部下を飲みに誘っていたと言っておられますが、数少ないにせよ、女性記者がいたのだったら、その点はどうだったのですか?
 
いやあ、一緒に行きましたよ。デスクの時、兜町兼務だった時、いっしょだった女性記者のIさんとは担当記者を入れてよく飲んだな。彼女の結婚式にも招かれたましたよ。後年、彼女が甲府の支局長になった時には、ぼくも付き合いのあった建設会社の女性社長と飲んだこともあります。でもやはり“オッサン”の雰囲気を出すことはセーブしていた気はするけど(笑)、相手はどう思っていたか⋯⋯⋯。

 ◆えっ、新聞社の中に交番?!

Q.佐々木さんのお話で経済部の体制のイメージが湧いてきました。ところで、経済部は何階にあったんですか?
 
4階に編集局があって、そのド真ん中の見下ろすと皇居が一望のもとに見える窓際に編集局長の席があって、毎日朝夕・交番会議ってのがあるんですよ。

 (注)交番の語源は、「交代の当番」とか「交番のおまわりさんのように紙面に目を光らせている」など諸説ある。

編集局次長4人が、いわば編集局のデスクで、その人たちが朝刊、夕刊の時に各部当日の担当デスクが、写真部も含めてかなりたくさん集まります。2,30人位かな、後ろの方にいると、背を伸ばして、耳をダンボにして聞いてたりするんです。当日紙面担当・交番の編集局次長が各部に聞くわけです。朝刊の公番会議だとこんな調子です。
 
交番「政治部、今日はどうだ?」、
A「政治部は今日は官邸で総理会見があります。内閣改造について言及すると思います。一面トップだと思います」
交番「次、経済部は?」
A「経済部は、今日は、公定歩合について、総裁会見があり、公定歩合の引き上げに言及すると思いますので、これで行きます。」
交番「次、社会部!」
 
―という感じです。それから外信部、運動部、学芸部、地方部、という取材部門が、その日のニュースの予定を説明するわけです。最後に整理本部から、たとえば「今日は事業部から、1面に、高校野球が〇月〇日から始まるという社告が載ります、これ〇段分入りますから、今日は1面は狭いですよ」みたいな説明をやるわけです。これらの情報をまとめて、整理本部デスクが「今日の一面トップはやはり総理会見だと思います」、交番の局次長が「そうだなそれで行こう!」と。
 
Q.何時頃ですか?
 
夕刊の交番会議は朝の9時半か、9時40分くらいかな。で、それをやって、じゃあ、そういうことで今日は頼むぞ、ということになって、夕刊の締め切りが、午後1時半か、そのくらいかな。それが終わると、まあ終わったな、ということで、みんなグダっとなって、それから、5時くらいかな、朝刊用の“交番会議”があります。まあ夕刊よりも人数が多くなりますね。広告局、販売局もオブザーバーでいたかなあ、発言はしないですが。特に広告局は当日載せる広告と、社会面、経済面のその会社の批判的記事がバッティングすると大変ですからね。
 
Q.もしバッティングしたらどういうことになるのですか?記事自体は影響なく、広告局が広告主をなだめるとかですか?佐々木さんが経済部長のときに、何かありましたか?
 
まあ編集局優先、広告局があわてて局に戻り、部長・局長に報告、広告代理店、その掲載会社にも通告、その日の広告掲載は見合わせ―ということになったと思います。僕の時は憶えていないけど、広告局長の時は苦労しました。基本的にはそのやり取りを第一線の取材部門にストレートに伝えることは無いですね。広告に配慮して、原稿の内容を歪めるなんてことがあっては、大変ですからね。この辺は徹底していましたね。
 
Q.交番会議の意義はどんなところにあるんだと思いますか?
 
やっぱり各部の記事出稿を、各部が報告をすると、それを受けて、みんなが、翌日の朝刊のイメージを作って、中途半端な特ダネは今日はやめよう、明日出そうという感じになります。だから各部のデスクは、交番会議の前に各クラブのキャップに電話をして、今日の出稿の予定は何だということを聞くわけですね。それで交番会議に臨む準備をして、メモを持って行きます。一面トップのトクダネを持っているときは、意気揚々、他部の特ダネとぶつかると、そこでケンカをしなくてはデスクとしての鼎(かなえ)の軽重を問われるわけです(笑)。そこをうまくさばくのがその日の当番の編集局次長なんです。大変ですよ。

いまはデジタル・ニュースとの関係でどうなっているのかな・・・。ただ週刊誌、特に週刊文春などが、ジャニーズ事務所の性加害問題とか、木原官房副長官の家庭内の不祥事など、新聞が書かないニュースをどんどん書くから、紙面の下の週刊誌の広告と紙面の整合性がとれていないですね。どういう議論がされているのか、聞いてみたい気がします。

交番会議の興味深い話がまだ続きますが、それは次回のお楽しみということで・・・。