可能なるコモンウェルス〈61〉

 人民自身による統治の運動そのもの=全てが、当の「全ての人民に見られていること」によって、その統治運動に参加する全人民の活動そのもの=全てが、人民自身による政治体、すなわち「共和国」として見出されることとなる。
 この「共和国」は、けっして人民による「政治的運動=活動の結果」などではなく、むしろ「現在もなお続く運動=活動そのもの=全て」であることから、「その結果が、ある特定の世代のみに独占される」ということにはならずに、過去・現在・未来にわたってその統治の運動=活動に参加する「全ての世代に共有されるもの」となりうるわけである。
 ここではそれが「日常的に現に行われていることとして、その日常において現実的に運動=活動すること」自体が何よりもまず重要なこととなる。言い換えるとそれは、「何らかの規定の下」で、あるいは「何らかの原則に従う」ようなものとして、人が「敢えてしなければならないように」考えられているものではない、ということなのだ。そうではなく、むしろ人はそれを「敢えて意識しなくても」現にしているということが重要なのである。

 「日常」とは、そもそも一体何だろうか?それは、「何らかの結果」なのだろうか?いやそれこそ、「運動そのもの」なのではないだろうか?私たちは「この日常」を、「日常として意識する」こともなく、こうして現に生きているのではないだろうか?そしてその「日常」において私たちは、現に互いに関係し交流し交渉しているのだ、まさしく「日常的に行われていること」として。ゆえに、こういった日常的な関係・交流・交渉こそが、すなわちこのように日常的に行われていることそれ自体=その全てが、いわゆる共和的政治体の「原理」となりうるものなのではないだろうか。
 また、このような私たちの日常的な関係・交流・交渉が、私たちの運動=活動そのものとして、私たちの間にある限りは、当の私たち相互間の「そのどちらか一方がそれを独占する」ことはできないし、もしそうなればそれはもはや、「運動=関係としては成立しえない」ところのものとなるだろう。逆に言えば、それが私たちの「間にある限り」においては、それをもって「私たちの一方を、もう一方が支配することも拘束することもできない」ということになるわけなのである。
 このような「私たちの運動そのもの」が、日常的に行われていることである限りにおいて、それは「普遍的」なものなのであり、それを「全ての人々が日常的に行うものである限り」において、その運動=活動は「全ての人々にそのもの=全てが見られていることになる」のである。ゆえにそれはすなわち、「公的な運動=活動」であるというように見なしうるものとなるわけなのだ。このような、「普遍性」および「公共性」こそが、共和政治体の原理として一つの核をなすのである。
 また、そういった共和政治体の「原理」とは、「ある一定の《一時的な》結果を《不変のもの》と見なして、それを《恒久的に独占》し、あるいはその結果にもとづいて《一方的に他方を支配・拘束》しようとする」ような、いわゆる「専制政体」とは本質的に異なるものであるということは、ここですでに明らかなところとなっているはずである。
 「専制」なるものは、けっして「日常にもとづくもの」ではない。むしろそれは、「日常的にはその姿を隠している」ものなのであり、つまり「日常」においてそれは、「誰にも見られないもの」としてあるのだ。そしてそれがいよいよ「日常の中に姿を現わす」ときには、そのときこそまさしく「日常が危機にさらされるとき」にすでに至っている、ということなのである。

〈つづく〉

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