労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈19〉

 「高すぎる商品」というものは、当然そうはたやすく買われはしないものだ。もしもすぐその隣に「それよりも安い商品」が並べられたら、それはなおさらのことである。市場に出回る商品とは、常に「他の商品とのかねあい」でその販売価格が決定されているものである。そして基本的には「より安い商品の方が好まれる」というのも、購買者の心理としては当然のことなのだ。
 商品を生産し売る資本の立場としては、「安い価格で売られている他の商品」に対抗するということにも絶えず気を配っていなくてはならない。自らの生産する商品の生産コストを可能な限り切り詰めながら、自分たちの買い取った生産手段としての労働力の、その消費者としての購買力も併せて増進しなくてはならない。いやはや大変なジレンマである。何かと世間のお叱りも厳しい資本とて、実にこのような「涙ぐましい努力」を日夜重ねながら、いじましくも何とかやりくりして自身を維持しているわけだ。
 しかしこのような健気な努力も、やはりいつかは限界がおとずれることになる。一度来た道は容易に引き返せず、走り出した車は急に止まれない。市場において消費者たちの購買力とその意欲が活性化されればされるほど、その矛盾の解消はますます困難になっていくことになる。肥大した購買力・購買意欲に比べて、その生産性がもはや「コスト上において見合わないもの」にまでになり、やがて労働力市場に出回る、「相対的に高すぎる段階にまで達した、国内の労働力商品」は、資本にとってはもはやただただ扱いに困る厄介な代物となる。買うに買えず、しかし買わないわけにもいかず。ジレンマはますます深まるばかりである。
 やがてはそういった日々の努力もジレンマも深まる一方となり、もはや行き詰まりのどん詰まり、いよいよもって背に腹は代えられなくなってしまい、それまで定番のように買っていたおなじみの品物のすぐ隣に陳列されている、「より安い労働力商品」に、資本の触手は当然のごとく吸い寄せられるように伸びていくことになる。

 経済活動のグローバル化によって、世界中のさまざまな商品が手に入れやすくなるのと同様に、「労働力という商品」もまた、その価格に応じて世界中から使用者の思うままに選ぶことができるようになり、生産手段としてよりいっそう導入しやすくなる。そして、あえて言えば「その価値に比べて相対的に値の張る段階にまで達した、国内の労働力商品」は、それを購入する資本にとってもはや「コスト」であるどころか、生産上では回収不可能なほどの「リスク」となるのである。それを冒してまで買いたいと思うような「付加価値」でもなければ、わざわざ「そんな商品」をよほどでない限り買う気にはなれやしない。その市場で売られる「他のさまざまな商品が、それぞれ同程度の仕様で売られている」というのであれば、それはなおさらのことなのだ。
 かつては「他の国の労働力に比べてより安い労働力であった、自国内の労働力」を使用することで、当の他国の労働力を使用し生産された、その当の他国の生産物よりも「安い商品」を生産することができ、その商品を当の他国の市場において安く売ることによって、それに比べ割高な当の他国の商品との競争を勝ち抜いてきたのが「後発国の産業資本」であったが、やがて自国の国内経済および国内市場の発展とともに、国内の消費者たちの購買能力もしだいに増進・活性化されていき、その消費購買力に見合った形で「労働力商品の価格」も相対的に高く見積もられ、それに見合うよう相対的に「高い賃金」が、国内の労働者には支払われるようになる。
 すると今度はその、それまでに比べて高くなった労働力によってでは、それまでのような安い商品を作ることが困難になってくるのである。産業競争力の維持のために、それまでと同様「より安い商品の生産を維持していくため」には、それまで以上に「より安い労働力の導入」が必要になる。もし、その調達が国内では難しいというのなら、当然その活路は国外に見出されることとなる。もし、それが可能だというなら、資本は絶対に「その機会を逃さない」ものなのである。

〈つづく〉

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